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第1章 イナギ
第3日目〜前半〜
しおりを挟むヴィンス先生がお風呂に入れて温めてくれたおかげか、イナギは風邪を引かずに翌日も登校できた。
しかし…風邪はひかなかったものの、いかんせん、実はイナギは寝不足だった。
昨夜の帰宅が遅かったことは、あまり関係がなく、いろいろと考えを巡らせていたら、いつの間にか朝になってしまっていたのである。
というのも、昨日ヴィンス先生の部屋のお風呂場で、体をシャワーで軽く洗ってから、ゆったりと湯船に浸かった時だ。イナギは、湯船に長い黒髪が1本浮いていたのを捕まえた。
ヴィンス先生の髪の毛は、色は黒いが、天然パーマでゆるやかなウェーブがかかっている。
となれば、今つかんでいるこの直毛の黒髪の主は、あの時部屋にいた女性=『ヴィンス先生の奥さん』のものだろう。
そういえば、奥さんが、『自分が入った後のお湯にイナギを入れること』に関して、ヴィンス先生に文句を言っていたのを思い出す。
とたんに、奥さん=『若い女性』が入った後の湯に、自分が入っていることを意識してしまう。
(うわぁぁぁ…)
慌てて頭からお湯に浸かってみるが、『このお湯に彼女が裸で入ったのか』とか『おっぱいに触ったお湯に俺が触っている』とか『彼女のお尻が…』などと不埒な考えが止まらない。
なんなら、彼女特有の甘い香りさえ匂ってくるようだ。
イナギは、優等生だが、身体は間違いなく15歳の少年で、もちろんイロイロなことに興味が無いわけがないのだ。
(ヤバイヤバイヤバイヤバイ…)
元気になりだしそうな、イナギのイナギを大人しくさせるためには、このお湯から出たほうがいい。
そう決心すると、ザバァっと勢いよく湯船から飛び出した。
そして、まだ温まりきれていなかったため、もう一度シャワーを浴びる。
湯船に浸かった時間は短かったが、シャワーも温かいお湯が出たので、それなりにイナギの身体は温まった。
そんなことがあったので、なんとか平静を装って、宿舎までは帰ってきたものの、お風呂での衝撃はなかなかおさまるものではなかった。
ベッドに横になってから、自分の腕などをこすってみては、『彼女と同じお湯を使った』ことが、恥ずかしくて、でもその感触を思い出したくて…。
腕に鼻を近付けて、そっと匂いを嗅いでみる。
あの、花のように甘く、かつ爽やかな独特な香りが自分の体からしないものかと期待したが、全くいつもの自分の腕である。
温まるためとはいえ、シャワーを最後に浴びたことが、とてももったいなかったようにも感じた。
そして、そんなことに悶々としながら、眠ったのか眠っていないのか、自分ではわからないままに、いつの間にか朝を迎えていたのだ。
※※※※
「…はふぁぁ~」
今日何度目になるかわからないあくびを、噛み殺しきれずに、声に出してしまう。
ちょうど3時間目の授業が終わり、これから昼食の時間になるところだった。
教科書や文房具を、廊下に出たところにある自分の縦長のロッカーへ入れて、さて食堂へ行こう、と思った。
その時だ。
ふわ
と、イナギは昨日から悩まされ続けている香りを嗅いだような気がした。
(…っ!…まさかなぁ…)
自分の重症度に呆れる。
たかだか、一緒のお湯に入っただけの、しかも時間差で入ったわけで、全くと言って良いほど接点のない女性の香りに、何をそんなに特別視しているのか。
(ばかばかしい…)
右手で自分のおでこをおさえて一度深呼吸すると、その場を離れようとした。
(……!?)
深呼吸のために、深く息を吸ったせいか、あの甘い香りが、また鼻腔をくぐっていった。
今度は思い違いなどではなく、本当にその香りが香っているのだと思ったイナギは、バッと周りを見回した。
3時間目が終わると、ほぼみんな同じ行動をするため、ロッカーの周りは混み合っている。この近くに、彼女がいるのかもしれない。
(居たからどうしたって言うんだ…)
そう、自分に自問するも、この心惹かれる香りを、無視することがどうしてもできなかった。
(彼女を見つけたい…。)
キョロキョロとするイナギを見て、友人が興味深そうに近づいてきた。宿舎で同室のクロハだ。
「おい、イナギどうした?」
「あっ…いや…」
キョロキョロしているうちに、あの香りも遠ざかっていってしまった。
それを残念に思いながら、イナギはあいまいな返事をする。
「…なんでもないよ。食堂へ行こう。」
「ん。」
少し元気の無さそうなイナギの様子に、クロハは怪訝な顔をしたが、ただ返事をするだけにとどめたようだ。
クロハは周りの友人達にも声をかけると、自身も食堂へと向かい始めた。
何も聞かれずにホッとしたイナギも、彼らの1番後ろから、のんびりとついていくことにする。
(……ん?)
食堂に近付くと、美味しそうな匂いが漂ってきたのだが、そこはかとなく、先ほどの甘い匂いも感じるようになった。
勘違いかと思ったが、どうしても、やっぱり、あの花のような甘い匂いが感じられる。
自分でも不思議に思うほど、彼女の香りに敏感になっていた。
(きっと近くにいるはずだ。)
イナギはそう確信すると、食堂の券売機の列に並びながらも、周りをゆっくりと見回した。
彼女は黒い髪を持つ。
この国の人間が、比較的金や茶色の髪の色をしている中で、きっと黒くて長いストレートな美しい髪は、目立つはずだ。
そう思って黒髪の女性を探していると、イナギから3人ほど前に並んでいる少女が、黒い髪をしていることに気が付いた。
もしかして…という淡い期待をもってよくよく観察してみると、彼女は髪の毛をきっちりとまとめておだんご状にしており、長さなどがよくわからない。
昨日の彼女は背中までの、かなり長い髪だったので、あんなに小さなおだんごに纏まるわけがないのではないか。と
思う。
とはいえ、自分の後ろの列を見ても、おだんごの彼女以外に黒髪の女性は見当たらない。
できれば、もう少し近くにいって、匂いを嗅いでみたい。
たまたま、前に並んでいる3人が友人であったため、イナギは
「ちょっと前に入れてもらえないかな。」
と3人にお願いすることにした。
珍しく順番抜かしをし始めたイナギに、友人達はみな驚いた顔をしていたが、特にごねることもなく、スッと横にどいて、イナギを通してくれる。
こうして、イナギは、黒髪の女性の真後ろまで行くことに成功した。
真後ろに立つと、花の匂いは強くなる。やっぱり昨日の彼女だと思って、イナギは、肩に手をかけ、女性を振り向かせる。
「あの~…」
イナギの突然の声かけと肩に置かれた手に、女性はとても驚いて、ビクッとすると、パッと後ろを振り返った。
昨日のイナギが見た女性は、目鼻立ちがパッチリとしていて、とても可愛らしい感じだったのに、振り向いた女性は、眼鏡をかけており、どちらかというと、冴えなくて、地味で暗い感じがした。
(あれ…?)
イナギが違和感を覚えると同時に、女性が、とても嫌そうな表情でイナギを見上げてきた。
「………。」
拒絶の様子を見せる女性に、何と言って良いのかわからなくなったイナギは、そのまま数秒固まってしまう。
そして、昨日ヴィンス先生に言われた言葉を突然に思い出したのだ。
『ここで会った女性のことは、誰にも言わないでほしい!』
(そうだった!彼女のことは、内緒なんだった!)
イナギは突然のことに、それこそどうしようかと焦ったが、すぐに言葉を紡ぐ。
「すみません。間違えました!」
突然の謝罪に、女性は訝かしげにイナギを一度見上げてから、またスッと前に向き直った。
そして、ちょうど彼女の順番になったため、彼女はたった今起こったことを忘れたかのように、食券を購入し始める。
イナギは、昨日の印象とは全く違う外見をしつつ、昨日と全く同じ香りを醸し出す彼女の後ろで、首を捻り続けた。
※※※※
イナギ達も、それぞれに好きなものを購入してから、いつものように固まってテーブルに座る。
すると、イナギの左隣に座った友人が
「おいおいおい!どうしたんだよ、『口なしちゃん』に声かけるなんて!」
と話しかけてきた。
「『口なしちゃん』…?」
イナギは左側の友人に体を向けると、彼の発言の中で、聞いたことのない単語を聞き返す。
「イナギは知らないのか?あの子、入学から一度も口をきいたことがないらしいぞ。」
「なにやら幼い頃の病気か何かで、喋ることができないらしいよ。」
「…一度も…喋らない…」
彼の言葉を繰り返しながら、イナギは、昨日ヴィンス先生を『ヴィー』と呼び、自分にもタオルを渡してくれた彼女が、流暢に喋っていたことを思い出す。
(やっぱりアレは、違う女性だったのかな…?)
イナギは混乱して、考え込む姿勢を取った。そんなイナギを見て、正面に座ったクロハが苦笑する。
「まぁ、とりあえず食べろよ。考えるのはそれからにしたら。」
たしかに、クロハが言うとおり、昼休みは有限だ。
「…そうだな。」
悩むのは後にして、目の前のご飯を美味しくいただくことにする。
そして、食後、たまたま食べ終わったタイミングが重なったらしい。食器を返却するために彼女の後ろに並ぶことになってしまった。
すると、やっぱりあの、花の香りが香ってくるではないか。
(外見は少し異なるが、香りは同じで、喋っていたのに、『口なしちゃん』と呼ばれている…。なんだこれ。すごく気になるぞ。)
イナギは『妙なことに首を突っ込むのはやめた方がいいぞ』という声を、頭の片隅に聞きながら、それでもヴィンス先生の秘密や、彼女の香りが気になりすぎた。
謎を謎のまま置いておけるのは、きっとだいぶ大人になってからだろう。
15歳の好奇心旺盛な自分には難しい。
そして、何より、純粋にもう一度彼女に会いたいと思うのだ。
(ヴィンス先生の奥さんだけど…)
それがわかっていて、なぜかチクッとする胸の痛みは知らないふりをする。
目の前の彼女と、昨日会った奥さんが同一人物かはわからない。でも、ここまで同じ香り、同じ髪色なのは、偶然ではないはずだ。
そこで、イナギはわざと大きな声を出してクロハに話しかける。
「今日も、ヴィンス先生のところへ寄ってから帰ろうと思う。どうしても明らかにしたいことがあるんだ。」
突然の大声に、クロハは少し怪訝な顔をしたのだが、
「わかった。」
とすぐに答えてくれた。
こんなことで、奥さんが今日もヴィンス先生の部屋に居てくれるかはわからない。
だが、イナギの声に、目の前の彼女が少し肩を揺らしたのを見た。
少なくとも、目の前の彼女とはきっと、ヴィンス先生の部屋で会えるだろうと感じた。
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