宰相家長男が地味系女子と恋に落ちていく5日間(➕アルファ)

相鵜 絵緒

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第1章 イナギ

第2日目

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 (何故、これがこんなところに…)

 イナギの手には、今拾ったばかりの手帳が一冊。それは、昨日、ヴィンス先生の元で見せてもらった、あのが入っている手帳であった。

 学校の廊下の真ん中にわかりやすく落ちていたのだが、暗くなっている今、気付いたのは奇跡に近いのかもしれない。

(写真ってだけで高価だし…)

 エイギ王国のおいて、写真はとても高額なもので、王侯貴族でさえ、大きな自画像は未だに絵画で表されている。そして、何より、昨日のヴィンス先生の言葉からすると、とてもとても大事な写真のようだ。

 今日は、さまざまなことが重なって、帰宅時刻が遅くなってしまったから、まっすぐ宿舎に帰ろうと思っていたのだが…

 イナギは暗くなった窓の外に目をやってから、手元の手帳にもう一度目を落とす。

(きっと、手帳が無いことに気が付いたら、ヴィンス先生はとても気落ちするんだろうな…。)

 あの、気の優しくて弱々しいヴィンス先生が、いっそう気落ちしてしまう様子を思い浮かべると、とてもじゃないが、このまま無視して帰宅する気持ちにはなれなかった。

(まぁ、これも人助けと思えば…)

 そうと決めると、イナギは昨日行った教員住宅に向かって歩き出した。



※※※※


「イ…イナギくん!?」

 ドアを開けたヴィンス先生は、イナギの存在だけではなく、その格好にとても驚いていた。

「…こんばんは。」

 イナギは苦笑しながら、前髪から滴り落ちる水滴を拭う。

 今のイナギは、濡れ鼠の方がまだマシだと言えるほど、グッショグショに濡れていた。
 それもそのはずで、今さっきパラパラと降り出した雨は、すぐにバケツをひっくり返したような激しい大雨に変わっていた。

 学校に引き返すのも、教員住宅に向かうのも、もうどちらも同じくらいの距離まで来ていたイナギは、このまま濡れてただ帰るよりは、本来の目的を果たしてからでも結果は変わらない気がして、ヴィンス先生へ手帳を届けることを選択した。

「…こんな夜分に申し訳ありません。」

 そう言いながら、制服の下のワイシャツの胸ポケットに大事に入れていた手帳を、そっと取り出す。
 分厚い制服のおかげで、手帳はほとんど濡れていなかったことに、イナギは心からホッとする。

「これを先ほど廊下で拾いまして。」

 手に持った手帳を、ヴィンス先生の方へ差し出すと、ヴィンス先生は、ハッとした顔をしながら、ドアに縋り付いた。

「…は…はわわわわ…!」

 あまりに驚きすぎて、腰が抜けたようになっているヴィンス先生の右手を掴むと、イナギは手帳を握らせた。

「…ど…どこでこれを…」

 手帳の中の写真をすぐさま確認しながら、感動に打ち震えているヴィンス先生をそのままに、イナギはニコッと笑う。

「それでは失礼致します。」

 一刻も早く宿舎に帰って、暖を取らねばならない。
 だんだんと暖かくはなってきてはいるが、まだまだ夏には程遠い4月の夜である。このまま濡れたままでいては、間違いなく風邪をひく。

 クルッと華麗にきびすを返したイナギの腕を、今度はヴィンス先生がハシっと掴んだ。

「待って待って待って…。こんな濡れた格好の生徒を、このまま帰せるわけがないじゃないですか。」

 いつの間にか正気に戻っていたヴィンス先生は、少し怖い顔をしてそう言った。

「あなたは大事な生徒なうえ、今日、いえ、たった今、私の大恩人になったのです。もう、このままでは帰すことはできません!」

 いつもの弱気なヴィンス先生ではなく、普通の先生らしいヴィンス先生だった。
 そして、イナギの返答を待たずに、グイッと引っ張ると、部屋の中へ強引に引き入れてしまった。
 そのままグイグイと引っ張り、イナギはついに、お風呂場のある部屋へと押し込まれた。
 イナギの鼻腔に、ふわっと甘い香りが香る。昨日もここで嗅いだ香りだ。

「ちょうどお湯がはってあるので、浸かって行ってください。」

 お風呂場のドアを閉めて、ヴィンス先生はドアの向こう側からそう言った。

 たしかに、温かなお湯がはってあり、すぐにでも身体を温めることができそうだ。それに、ここまでしてもらっておいて、固辞するのは逆に悪い気がする。

「…ありがとうございます!お言葉に甘えさせていただきます!」

 イナギは声を張り上げて、ドアの向こうにいるヴィンス先生へ快諾の意を伝える。


「…さてと…」

 心を決めて、お風呂に入ることにしてはみたものの、イナギとしては、他人の家のお風呂に入るのは、初めての経験だった。宿舎にはシャワーしかないため、自分の生家の湯船に浸かる以外は、したことがないのだ。

 そして、服を脱ごうとして気が付いた。
 上がった後に、何を着たら良いのだろう。またこの濡れた制服を着ることになるとしたら、せっかくお風呂で温まったことが台無しになる。そもそもバスタオルはどこにあるのだろうか。

 そんなことを考えながら周りを見回すと、ヴィンス先生の物と思われるバスローブが1枚、ハンガーにかけられているのが見つかった。

(…うーん…)

 サイズ的には問題無いとしても、ヴィンス先生が毎日着ているであろうバスローブを、イナギが羽織るのは、何か違う気がする。
 しかし、それ以外にバスタオルらしきものは見つからず、イナギとしては、バスタオルが無いのに、今着ている服を脱ぐ気にもなれなかった。

(わからない時には、聞いた方が良いんだろうな。)

 勝手に判断するよりは、と、ヴィンス先生に聞いてみることにする。

 イナギは、濡れた服を着たまま、閉められたドアを開けるために、ドアノブにグッと力を入れた。
 そして、押し開こうとしたその時、意外にも女性とヴィンス先生の2人が会話している声が聞こえてきたのだ。

「…ってに人を入れないでよ!」

「とは言え、あの状態で生徒を帰すわけにいかないじゃないですか。」

「そうかもしれないけど…ちょっと待ってもらうとか、まずはタオルを渡すとか…できることはあったよね?なんで私が入った後のお風呂に彼を入れるのよ!」

「そうは言っても…」

「ヴィーはいっつも考え無しすぎるのよ!」

 ヴィンス先生を『ヴィー』と愛称で呼んでいるところを聞くと、どうやら親しい間柄のようだ。
 そして、この女性は、何やらイナギをお風呂に入れることにたいそうご立腹らしい。

「…ごめんよ、レカ。でも、もう彼を入れてしまったのだから、君は寝室で隠れていて…」

 「クシュンッ‼︎」

 ヴィンス先生が言い終わる前に、冷えた身体のイナギは我慢できずにくしゃみをしてしまった。
 それを機に、2人が息を飲む音が聞こえて来る。

 しまった、とは思ったが、このままドアを閉めることの方が不自然な気がして、イナギは思い切ってドアを開けた。

「…すみません。えっと、バスタオルがどこにあるのかお聞きしたくて…。」

 至極申し訳なさそうな顔をしながら、イナギは思い切って質問した。一応、『2人の会話は聞いていません』といった心情を表に出して言ってみたつもりだが、いかんせん、イナギは俳優では無いので、うまく演技ができた気はしていない。

 そんなイナギの気持ちが届いたのかどうなのか、『ふぅっ』と息をついた女性が、パッと動いたのが目の端でわかった。

「バスタオルはこっちよ。」

 女性は、イナギの前まで来ると、イナギの持つドアノブとはドアを挟んで反対側を掴むと、ドアをぐいっと開ける。そして、ツカツカと歩いて、イナギの前を通過し、洗面台の下から白い大きなバスタオルを取り出した。

(あっ…この香り…)

 女性がイナギの前を通る時に、その豊かな黒髪から、甘い花のような香りが強く香ってきた。

 それは、ここに入った時に嗅いだ香りと同じもので、甘さだけでなく、爽やかな感じもしていて、個人的にとても好感がもてる。

 それから、バスタオルを受け取る時に、そっと彼女の姿を見る。どうやら見せてもらった写真の中の女性のようだ。

 真っ直ぐな背中までの黒髪を垂らし、その大きな目を縁取るまつ毛や眉毛も黒い。そして、よく見ると、瞳の色まで黒かった。肌は白いとはいえ、イナギの肌の白さと比べると、少し黄色い感じがする。

「ゆっくり入ってくださいね。」

 ニッコリと、明らかに作ったような笑顔でバスタオルを渡すと、女性はすぐさまお風呂場から出て、ドアを外側からしっかり閉めた。
 
「…あ…ありがとうございます!」

 ドアの外に、また大きな声で謝辞を伝えると、今度こそ、お風呂に入るために、濡れた制服を脱ぎ出した。

※※※※

 お風呂から上がって、バスタオルに下半身を包んでからリビングに出ると、すでに女性は居なかった。
 ヴィンス先生から、先生の服を借りて、身につける間、ヴィンス先生は、温かいお茶を用意してくれた。

「イナギ君、今日は本当にありがとう。大事な大事な写真が返ってきて、僕は心から嬉しい。」

 ヴィンス先生は改めてお礼を伝えてくれる。

「いえいえ、そんな。お役に立てて光栄です。」

 イナギは恐縮して答える。

「そんな大恩人を相手に、こんなことお願いするのは心苦しのだけど…」

 そう言って、ヴィンス先生は少し言い淀むと、意を決したように続けた。

「ここで会った女性のことは、誰にも言わないでほしい!」

 ヴィンス先生があまりに真剣な顔をして言うので、イナギはその勢いに押されて形で頷く。

「…わかりました。お約束します。」

 しっかりと目を見て答えるイナギの様子に、ヴィンス先生はほっとしたように、肩の力を抜いた。

「ありがとう。…さて、では、宿舎まで送ろう。」

 もう外の雨は止んでいたが、1人で宿舎まで帰すわけにはいかない、と、ヴィンス先生自ら、送り届けてくれることになった。

 その際に、ヴィンス先生の部屋で会った女性について、先生は一言も話さなかった。








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