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序章

お別れ

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「クレト、今日であなたとはお別れね」

 屋敷の応接間。お茶出しのメイドが部屋を出ていき、二人きりになったタイミングでエステルはお別れを切り出した。ローテーブルのカップに目を落としていたクレトは、切れ長の瞳をちらりとあげた。

「ええ、エステルお嬢様。このクレト、お嬢様のご婚約は目出度く存じますが、今後お会いすることがかなわないかと思いますと寂しく思います」

 そう言って目を落とす。エステルは自然とその視線を追い、膝の上で組まれたクレトの長い指をじっと見つめた。
 クレトは屋敷に出入りしている商人の一人だった。
 背がすらりと高くて見目がよく、いつも口元に微笑をたたえている紳士だ。所作の一つ一つも美しく、並みの貴族よりもよほど洗練されている。
 まだ二十五歳と商人としての経験は浅いそうだが腕利きの商人で、ここ数年はアルモンテ公爵家ではクレトから多くの商品を購入している。今や屋敷にある調度品のほとんどはクレトが持ち込んだものを購入したものだ。
 エステルの父アルモンテ公爵もクレトのすすめるものに間違いはないと全幅の信を置いている。

 エステルはといえば、クレトの持ち込む商品よりもクレトから聞く異国の話が大好きだった。いつもその商売で巡った異国の話をして、それにまつわるちょっとしたお土産も買ってきてくれる。エステルの数少ない、というか唯一人の友達だ。エステルは月に何度かやってくるそんなクレトから異国の話を聞くのが何よりの楽しみだった。
 それももうかなわなくなる。あまり考えないようにしていたけれど、いざ今日でクレトと会えなくなるかと思うと急に寂しさがこみ上げた。

「まだ、婚約するわけではないわ。明日からの王太子妃選で正式に選ばれれば、いずれはというお話よ」

「けれど出来レースなのでしょう? お父様のアルモンテ公爵様にお聞きしましたよ。すでにエステルお嬢様が選ばれることは決まっていると」

 それは本当だ。エステルの父、アルモンテ公爵は王の信頼厚く、元老院にも懇意の貴族が多数いる。父の手回しにより、王太子の成人を前に開かれる王太子妃選にエステルが選ばれることは決まっていた。

「わたしが王太子妃に、つまりは王妃になるのは亡きお母様の夢だったから。そのためにわたしも今日までがんばってきたんだもの」

「そのことは私も存じ上げております。礼儀作法からダンスに勉学まで、エステルお嬢様は実にたくさんの教師につかれ日々研鑽をつんでおられたそうですね。すべては将来の王妃となるために」

「それがお母様のご遺志だったから……」

 エステルの母はエステルが二歳の時に流行り病で亡くなった。
 ゆえに母の記憶はない。
 父によるとその母は、エステルを将来王妃にすることを強く望んでいたそうだ。その望みを叶えてやりたいと父はいつもエステルに言う。そのために父はできることを全てした。
 エステルに将来王妃となっても困らないようにと多くのことを学ばせ、変な虫がついてはいけないと舞踏会などの若い男性の目に留まる社交場にエステルを参加させなかった。
 おかげで同じ年頃の友達もいないし、エステルはこの屋敷から外へ出たことも数えるほどしかない。
 そんな毎日に疑問を感じることもなく、幼い頃からお前は将来王妃になるんだと言い聞かされて育ってきた。
 肖像画でしか知らない優しく微笑む亡き母のため、エステルは厳しい父に不満を漏らすこともなく懸命に頑張ってきた。
 父はその後再婚し、エステルにはいま異母妹と異母弟がいる。
 後妻と父の仲は良く、二人の間に生まれた子供たちは父によく似た面差しをしている。四人が食卓に揃っているとエステルはいつも疎外感を感じてきた。
 別に意地悪されるわけでも、仲間外れにされるわけでもない。
 でも優しくされればされるほど、自分がここにいることが申し訳ないような気がしてくる。
 そんな家族に認められるためにはエステルは亡き母の、ひいては父の望みをかなえ、王太子妃になるしかないと思っている。
 それに王太子妃に選ばれればこの屋敷を出ていける。王太子妃選で選ばれると、そのまま屋敷に戻ることはなく王宮で本格的なお妃教育が始まるのだ。
 この家を出ればもう疎外感を感じることもなくなる。この家は完璧な家族になれるのだ……。

 エステルが押し黙ると、クレトは優雅な手つきでカップをソーサーに戻し、真っすぐにエステルを見た。

「それで、エステルお嬢様のご意思はどうなのですか? 王太子のオラシオ殿下はお手の早い方としても有名ですよ。寛容に受け入れて夫婦としてやっていけるのですか?」

「……クレト、あなたって時々意地悪よね」

 一年前、王宮で開かれるご婦人方のお茶会に参加した時、王太子オラシオの姿は一度見たことがある。エステルより一つ年上のオラシオは当時十七歳。王家の者の特徴であるくすんだ茶色の髪と瞳で小太りで丸顔、背も低い。ときめきは、感じなかった。この方が将来自分の夫になるのかとどこか冷めた思いで見つめていた。あとで知ったことなのだが、あのお茶会そのものが、オラシオにエステルを見せるためのものだったらしい。
 アルモンテ公爵が強く推す自分の娘を、本決まりとなる前に品定めしたいとの意図だったそうだ。
 エステルはその品定めに合格した。父は「よくやったエステル、オラシオ殿下はお前をお気に召したぞ」と嬉しそうに褒めた。
 エステルにとっては、王妃というのは称号にすぎず、オラシオ殿下との結婚生活も具体的には想像できない。オラシオにたとえ多くの女性とのうわさがあろうとも、エステルにはどこか関係のない話でもあった。何の嫉妬も感じない。

「きっと上手くやってみせるわよ。そのためにわたし、たくさん勉強してきたのですもの」

 必要なのは王妃としての威厳を保ち、跡継ぎを生むことだけだ。

「それでエステルお嬢様はお幸せになれるのですか?」

「……幸せ?」

 思ってもみないことを聞かれ、エステルはオウム返しに聞き返した。きょとんとしてクレトを見ると、クレトは「そうです」と強く頷いた。

「ええ、そうですよ。幸せです。自分の夫が他の女性と関係をもたれて、それでお嬢様はお幸せなのですか? そんな一生が本当に幸せなのですか?」

 たぶん、愛し合って結婚した普通の夫婦なら幸せではないのだろう。でも。

「……クレト。わたしには関係のない話だわ。わたしは王太子妃になれればそれで幸せなのよ。その先のことは考えていないわ。だってそうでしょう? お父様も、亡きお母様もわたしが王妃になればご満足なんだから。そしてわたしはその望みを叶えるためにがんばってきたのだから」

 この答えにクレトはエステルをじっと見返した。なにか言いたげではあったが、クレトは「失礼なことを申し上げました」とこの話を打ち切り、立ち上がった。

「ではお嬢様。私はこれにて。どうぞお健やかにお過ごしください。では」

 今生の別れというのにクレトはあっさりと切り上げると丁寧にエステルに頭を下げ、応接間を出ていった。
 あっけないほど味気のない別れだった―――。


 

 

 
 

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