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第二章
お隣さん
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レウス王国の港町に暮らすセサルは、生まれも育ちもバラカルド帝国の首都の出だ。学校を卒業後、商人見習いとして今の親方のもとで修業を積んでいる身だ。その親方の、いい所に住めという意向で、見習いとしては破格のアパートメントに住んでいる。
セサルが今のアパートメントに移ったのは一年ほど前だ。セサルが入ったときから右隣はずっと空き部屋だった。そのことをさして気にも留めていなかったが、一週間ほど前に、というか正確に日付まで覚えているのだが、ついにお隣さんが入居した。
なぜセサルが正確に日付まで覚えているかと言えば、そのお隣さんの一人がとんでもない美人で、セサルにとって忘れられない一日となったからだ。
その日、いつもよりゆっくりでいいと親方に言われていたセサルは、溜まっていた洗濯物を干してから家を出ようとして玄関先に置いているカギを手にしたところだった。
空き部屋のはずの右隣から、かちゃかちゃとカギを開ける音がし、セサルも知っている不動産屋の主人の野太い声が聞こえてきた。どうやら部屋の説明をしているようで、セサルはすぐにぴんときた。
空き部屋についに入居者がきたのか。
それなりの価格帯であるこのアパートメントにはご婦人や紳士が多い。中には夫婦で住んでいる者もいるが、たいていは現役を引退した老齢の夫婦だ。
おそらくお隣も同じような人が入居するのだろうと思い、仕事へ行くため玄関扉を開けたのだが。
そこに女神がいた。
白金に輝くふわふわとした髪、紫紺の瞳。肌は抜けるように白く、唇は艶めいていた。ほっそりとした肢体を包む純白のワンピースの、裾がふわりと軽く広がっているのもいい。その下にはすらりと細い足が伸びている。
あまりの驚きに、セサルは口をぽかんと開けて、しばらくその姿をぼうっと眺め続けた。
女神と一緒にいた中年の女性が「んんっ」と咳払いし、セサルは慌てて女神から視線をそらした。
この物件の仲介業者である不動産屋の恰幅のいい主人は、今度隣に部屋を借りられるエステルさんとマリナさんだと二人を紹介した。
「よろしくお願いいたします」
エステルと紹介された女神は、にこりとセサルに微笑んだ。その笑顔の素敵なことといったら。思わず見とれると、一緒にいたマリナという女性に再び咳ばらいをされた。
「あの、セサルです。こちらこそよろしくです」
慌ててこちらも名乗ると、「セサルさんですね。何かわからないことがあれば教えてくださいね」とまた女神が微笑んだ。
それからというものセサルは朝、エステルとマリナの出勤時間に合わせて家を出るようになった。
たとえ一言二言でもいい。言葉を交わせるこの幸せ。
こんなきれいな女性と知り合えるなんて、いいところに住めと言ってくれた親方さま。一生ついていきます。
そんなこんなで一週間が過ぎ、セサルはある決断をし、大きな賭けに出た。
エステルさんをデートに誘ってみよう。
どうやら女神は仕事場と家との往復だけで、男と付き合っている様子はない。
あの一緒に住んでいるマリナとかいう中年の女性が少し厄介だが。マリナは女神のお手伝いさんか何かのようで、いつも女神のことをお嬢様と呼んでいる。女神は佇まいも品があるし、マリナの呼ぶようにどこかのお嬢様なのだろう。
本来ならセサルが逆立ちしても知り合えないような人なのだ。
けれどこれも何かの縁。自分の幸運は生かし切るべきだ。
もしこんな女性と付き合えたなら、自分は他の仲間より一歩も二歩も先んずることになるし、自慢して街を歩ける。平凡だった自分の人生が一気に開ける。
そう思い、今朝家を出たタイミングでデートに誘おうとしたのだけれど……。
またしてもマリナに邪魔をされた。
これはどうあってもマリナのいない、女神が一人の時を狙わなければならない。
そう固く決意して帰宅したのだが。
部屋の鍵を開けていると、女神が部屋から出てきた。マリナも一緒だ。その後ろからぞろぞろと不動産屋の主人、燕尾服を着た執事然とした男性も出てくる。執事然とした男性は手に大きなボストンバッグを持っていた。
女神はセサルの姿を見つけると、「ちょうどよかったですわ」と声をかけてきた。
「どうかしましたか?」
「実は急なのですが、この部屋を出ることになりました」
「え……」
セサルの鍵を持つ手が固まった。
「それは、あの、また……。どうして? そんなに…急に…」
思ってもみない話に、セサルはうまく言葉が出ない。
あまりに急すぎる話だ。女神が引っ越してきたのはたった一週間前なのだ。
デートは…。俺の平凡な人生を花開かせるはずの女神は…。
様々な思考がぐるぐると巡り、その間にも女神は続ける。
「どうしても不動産屋さんのご都合でこの部屋を出なければならなくなりまして」
そのご都合というのは何なのだ。おい。声には出さないが物問いたげに不動産屋を見れば、
「いやぁ、本当にエステルさんには申し訳ないことです。こちらの無理なお願いに応じていただいて」
と何の情報もないどうでもいいような話をし、その間に執事然とした男性が「ささ、エステル様。暗くなる前に戻りましょう」と急がせる。
「短い間でしたがお世話になりました」
女神はセサルに丁寧に頭を下げると、執事然とした男に促されるままにあっさりと去っていった―――。
後日、セサルは街で女神を見かけた。
スーツを着た、薄茶の髪の背の高い男と一緒で、並んで歩く姿はお似合いだった。
所詮は自分など相手にされるはずもなかったのだと思い知ったセサルだ。人任せの逆転劇など当てにせず、自分自身の力でのしあがれということなのだろう。
それでも相手の男がどんな奴なのか。気になるのは人の性だ。どれどれ相手の男はどんな顔なのかと、女神に見つからない程度に近寄りセサルは男の顔を見てあれ?と首をひねった。
どこかで見たことがあるような気がした。
ずっと昔、まだバラカルド帝国の首都で暮らしていた頃だ。
けれどこんな美男子、一度見れば女神同様覚えているような気もするのだが。
しばらくセサルは考えていたが、結局思い出すことはできなかった。
セサルが今のアパートメントに移ったのは一年ほど前だ。セサルが入ったときから右隣はずっと空き部屋だった。そのことをさして気にも留めていなかったが、一週間ほど前に、というか正確に日付まで覚えているのだが、ついにお隣さんが入居した。
なぜセサルが正確に日付まで覚えているかと言えば、そのお隣さんの一人がとんでもない美人で、セサルにとって忘れられない一日となったからだ。
その日、いつもよりゆっくりでいいと親方に言われていたセサルは、溜まっていた洗濯物を干してから家を出ようとして玄関先に置いているカギを手にしたところだった。
空き部屋のはずの右隣から、かちゃかちゃとカギを開ける音がし、セサルも知っている不動産屋の主人の野太い声が聞こえてきた。どうやら部屋の説明をしているようで、セサルはすぐにぴんときた。
空き部屋についに入居者がきたのか。
それなりの価格帯であるこのアパートメントにはご婦人や紳士が多い。中には夫婦で住んでいる者もいるが、たいていは現役を引退した老齢の夫婦だ。
おそらくお隣も同じような人が入居するのだろうと思い、仕事へ行くため玄関扉を開けたのだが。
そこに女神がいた。
白金に輝くふわふわとした髪、紫紺の瞳。肌は抜けるように白く、唇は艶めいていた。ほっそりとした肢体を包む純白のワンピースの、裾がふわりと軽く広がっているのもいい。その下にはすらりと細い足が伸びている。
あまりの驚きに、セサルは口をぽかんと開けて、しばらくその姿をぼうっと眺め続けた。
女神と一緒にいた中年の女性が「んんっ」と咳払いし、セサルは慌てて女神から視線をそらした。
この物件の仲介業者である不動産屋の恰幅のいい主人は、今度隣に部屋を借りられるエステルさんとマリナさんだと二人を紹介した。
「よろしくお願いいたします」
エステルと紹介された女神は、にこりとセサルに微笑んだ。その笑顔の素敵なことといったら。思わず見とれると、一緒にいたマリナという女性に再び咳ばらいをされた。
「あの、セサルです。こちらこそよろしくです」
慌ててこちらも名乗ると、「セサルさんですね。何かわからないことがあれば教えてくださいね」とまた女神が微笑んだ。
それからというものセサルは朝、エステルとマリナの出勤時間に合わせて家を出るようになった。
たとえ一言二言でもいい。言葉を交わせるこの幸せ。
こんなきれいな女性と知り合えるなんて、いいところに住めと言ってくれた親方さま。一生ついていきます。
そんなこんなで一週間が過ぎ、セサルはある決断をし、大きな賭けに出た。
エステルさんをデートに誘ってみよう。
どうやら女神は仕事場と家との往復だけで、男と付き合っている様子はない。
あの一緒に住んでいるマリナとかいう中年の女性が少し厄介だが。マリナは女神のお手伝いさんか何かのようで、いつも女神のことをお嬢様と呼んでいる。女神は佇まいも品があるし、マリナの呼ぶようにどこかのお嬢様なのだろう。
本来ならセサルが逆立ちしても知り合えないような人なのだ。
けれどこれも何かの縁。自分の幸運は生かし切るべきだ。
もしこんな女性と付き合えたなら、自分は他の仲間より一歩も二歩も先んずることになるし、自慢して街を歩ける。平凡だった自分の人生が一気に開ける。
そう思い、今朝家を出たタイミングでデートに誘おうとしたのだけれど……。
またしてもマリナに邪魔をされた。
これはどうあってもマリナのいない、女神が一人の時を狙わなければならない。
そう固く決意して帰宅したのだが。
部屋の鍵を開けていると、女神が部屋から出てきた。マリナも一緒だ。その後ろからぞろぞろと不動産屋の主人、燕尾服を着た執事然とした男性も出てくる。執事然とした男性は手に大きなボストンバッグを持っていた。
女神はセサルの姿を見つけると、「ちょうどよかったですわ」と声をかけてきた。
「どうかしましたか?」
「実は急なのですが、この部屋を出ることになりました」
「え……」
セサルの鍵を持つ手が固まった。
「それは、あの、また……。どうして? そんなに…急に…」
思ってもみない話に、セサルはうまく言葉が出ない。
あまりに急すぎる話だ。女神が引っ越してきたのはたった一週間前なのだ。
デートは…。俺の平凡な人生を花開かせるはずの女神は…。
様々な思考がぐるぐると巡り、その間にも女神は続ける。
「どうしても不動産屋さんのご都合でこの部屋を出なければならなくなりまして」
そのご都合というのは何なのだ。おい。声には出さないが物問いたげに不動産屋を見れば、
「いやぁ、本当にエステルさんには申し訳ないことです。こちらの無理なお願いに応じていただいて」
と何の情報もないどうでもいいような話をし、その間に執事然とした男性が「ささ、エステル様。暗くなる前に戻りましょう」と急がせる。
「短い間でしたがお世話になりました」
女神はセサルに丁寧に頭を下げると、執事然とした男に促されるままにあっさりと去っていった―――。
後日、セサルは街で女神を見かけた。
スーツを着た、薄茶の髪の背の高い男と一緒で、並んで歩く姿はお似合いだった。
所詮は自分など相手にされるはずもなかったのだと思い知ったセサルだ。人任せの逆転劇など当てにせず、自分自身の力でのしあがれということなのだろう。
それでも相手の男がどんな奴なのか。気になるのは人の性だ。どれどれ相手の男はどんな顔なのかと、女神に見つからない程度に近寄りセサルは男の顔を見てあれ?と首をひねった。
どこかで見たことがあるような気がした。
ずっと昔、まだバラカルド帝国の首都で暮らしていた頃だ。
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しばらくセサルは考えていたが、結局思い出すことはできなかった。
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