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番外編2
不安で苦しい…
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「……はい」
部屋のノックに返事を返し、エステルは慌てて起き上がると乱れた髪を整え、スカートの裾を直した。
「……エステル、まだ起きているかい?」
「クレト……」
部屋の外から聞こえてきたのはクレトの声だった。エステルは嬉しくなって駆け寄ると扉を開いた。
クレトは、ロレッタと三人で話し合っていた時と同じ格好のままで、片手にワイングラスを二つ、もう片手に瓶を二本器用に指先に挟んで持っていた。
「少し付き合ってくれないか? いつものテラスで」
「ええ、もちろん」
イアンは眠ってしまっただろうし、ロレッタも部屋に戻った頃だろう。
やっと二人きりの時間が巡ってきた。テラスのいつもの指定席に座るのも久しぶりな気がする。自身はワインを、エステルには果実水を注いでくれるクレトの横顔をじっと見つめた。今は自分一人だけがクレトの横顔を独占できていることがただ無性に嬉しかった。
「どうぞ」
差し出されたグラスを受け取ると、グラスを軽く合わせた。
「エステルとこうして過ごすのは何日ぶりだろうな」
クレトはワインを干しながらくすりと笑う。
「ロレッタが来てからというもの、ずっとイアンに君をとられているからね」
そう思えてもらえていることが嬉しかった。
ただ、イアンがエステルに付きまとう目的が、クレトとロレッタとを二人きりにするためだとはクレトには言えなかった。
「でもクレト、疲れてないの? わたしと過ごす時間を作ってくれるのは嬉しいけれど……」
「大丈夫。ただ眠っているより、エステルとこうしている方が疲れがとれるよ」
「……それだといいんだけれど」
連日忙しい日が続けば誰でも疲労は溜まる。自分のために無理をさせているのではないだろうか。
俯いたエステルの髪をクレトの指先が梳き、顔をあげさせられた。
「……何か心配事でもあるのかい? 少し、元気がないように見える」
「そんなことない、大丈夫」
本当は心の中は不安でいっぱいだった。
このままイアンに邪魔され続け、ロレッタとクレトの二人の時間が積み重なれば、エステルはこのままクレトの恋人で居続けることができるのだろうか。
それに―――。
かつてロレッタとクレトが恋人同士だったのなら、あのショーウインドウ前でのような経験をロレッタもしたのだろうか……。
考えれば考えるほど自分の心が濁っていくような気がする。
クレトの恋人になる前は、恋人同士になれれば、世界は全て晴れやかになるのだと信じていた。悩むことも苦しいこともないのだと思い込んでいた。
でも実際はエステルはため息ばかりついているし、過去のクレトの恋人に嫉妬し、不安で心配で苦しい―――。
こんな醜い心の内をクレトには見せられない。
久しぶりの二人の時間だったのに、あまり会話は弾まなかった。たぶんエステルが別のことで頭がいっぱいだったからだろう。波音が沈黙をかき消してくれたことだけが救いだった。
翌朝―――。
「あ、クレト。少し待って」
玄関ホールを横切ると、ちょうどクレトが商談に出かけるところだった。いってらっしゃいと声をかけに行こうとすると、それより先にロレッタが横から現れ、クレトを呼び止めた。
「タイが曲がっているわ」
ロレッタはクレトのタイに手を伸ばすと器用に結びなおした。
「これでいいわ。いってらっしゃい」
「ああ、ありがとう。行ってくる」
側にいたブラスにも軽く手をあげ、クレトはエステルには気づくことなく邸を出て行った。
なんということはない一幕だ。でも胸が不快な気持ちになるのを抑えられなかった。
なぜなら先程のロレッタはまるで夫を見送る妻のようだったし、クレトだって何も言わずタイを直してもらったりして―――。
「……いやだ、わたしったら」
一体何を考えているのだろう。
昨日、クレトは疲れているのにも関わらず、エステルとの時間を作ってくれたばかりだ。その優しさに自分は癒やされたはずだ。それなのにたったこれだけのことでまた不安になるなんて、自分は一体どうしてしまったのだろう。
「いい感じだったな」
クレトの出ていった玄関をじっと見つめていると、いつの間にか小さなイアンがエステルの足元に立っていた。
「僕の作戦がうまくいってるってことだよね。ねぇねぇ、クレトがお父様になったら、どんな感じかなぁ。クレトってお金持ちなんだろう? そしたらお母様は無理して働く必要なんてなくなるのになぁ」
「……クレトは、ロレッタさんとは結婚しないわ」
思わず冷たい声が出た。はっとしてイアンを見ると、案の定、イアンはぷくっとかわいらしい頬を膨らませた。
「エステルのうそつき。絶対に二人は結婚するよ。お母様はなんでもできるすごい人なんだからな。クレトだってお母様のことを好きになるはずだよ。だからエステルは邪魔したらだめだからな」
子供の言うことだ。聞き流せばいい。
そうわかっているのに、ついエステルは言い返した。
「だからそれは違うって言ってるのよ。邪魔をしているのはロレッタさんの方だわ」
「何言ってるんだよ。いくらエステルがクレトのことを好きだからって、お母様の邪魔は許さないぞ」
「だから、クレトの恋人はわたしなの。だからわたしは邪魔者ではないわ」
「恋人……?」
イアンの気持ちを考えて、自分がクレトの恋人だということは言わないでおこうと思っていたのに、つい口をついて出た。イアンは驚いたように動きを止めたが、すぐに反論した。
「う、うそだっ! エステルのうそつき! だってお母様はクレトの恋人だったんだぞっ!」
「昔のことは知らないわ。でも今はわたしが恋人なの」
「な、なんだよっ! 僕にそんなうそをついてもだめだからな。クレトとお母様を結婚させたくないからって、うそなんかつくな!」
最後は堪えきれなくなったのか、イアンはとうとう声を上げて泣き出した。
部屋のノックに返事を返し、エステルは慌てて起き上がると乱れた髪を整え、スカートの裾を直した。
「……エステル、まだ起きているかい?」
「クレト……」
部屋の外から聞こえてきたのはクレトの声だった。エステルは嬉しくなって駆け寄ると扉を開いた。
クレトは、ロレッタと三人で話し合っていた時と同じ格好のままで、片手にワイングラスを二つ、もう片手に瓶を二本器用に指先に挟んで持っていた。
「少し付き合ってくれないか? いつものテラスで」
「ええ、もちろん」
イアンは眠ってしまっただろうし、ロレッタも部屋に戻った頃だろう。
やっと二人きりの時間が巡ってきた。テラスのいつもの指定席に座るのも久しぶりな気がする。自身はワインを、エステルには果実水を注いでくれるクレトの横顔をじっと見つめた。今は自分一人だけがクレトの横顔を独占できていることがただ無性に嬉しかった。
「どうぞ」
差し出されたグラスを受け取ると、グラスを軽く合わせた。
「エステルとこうして過ごすのは何日ぶりだろうな」
クレトはワインを干しながらくすりと笑う。
「ロレッタが来てからというもの、ずっとイアンに君をとられているからね」
そう思えてもらえていることが嬉しかった。
ただ、イアンがエステルに付きまとう目的が、クレトとロレッタとを二人きりにするためだとはクレトには言えなかった。
「でもクレト、疲れてないの? わたしと過ごす時間を作ってくれるのは嬉しいけれど……」
「大丈夫。ただ眠っているより、エステルとこうしている方が疲れがとれるよ」
「……それだといいんだけれど」
連日忙しい日が続けば誰でも疲労は溜まる。自分のために無理をさせているのではないだろうか。
俯いたエステルの髪をクレトの指先が梳き、顔をあげさせられた。
「……何か心配事でもあるのかい? 少し、元気がないように見える」
「そんなことない、大丈夫」
本当は心の中は不安でいっぱいだった。
このままイアンに邪魔され続け、ロレッタとクレトの二人の時間が積み重なれば、エステルはこのままクレトの恋人で居続けることができるのだろうか。
それに―――。
かつてロレッタとクレトが恋人同士だったのなら、あのショーウインドウ前でのような経験をロレッタもしたのだろうか……。
考えれば考えるほど自分の心が濁っていくような気がする。
クレトの恋人になる前は、恋人同士になれれば、世界は全て晴れやかになるのだと信じていた。悩むことも苦しいこともないのだと思い込んでいた。
でも実際はエステルはため息ばかりついているし、過去のクレトの恋人に嫉妬し、不安で心配で苦しい―――。
こんな醜い心の内をクレトには見せられない。
久しぶりの二人の時間だったのに、あまり会話は弾まなかった。たぶんエステルが別のことで頭がいっぱいだったからだろう。波音が沈黙をかき消してくれたことだけが救いだった。
翌朝―――。
「あ、クレト。少し待って」
玄関ホールを横切ると、ちょうどクレトが商談に出かけるところだった。いってらっしゃいと声をかけに行こうとすると、それより先にロレッタが横から現れ、クレトを呼び止めた。
「タイが曲がっているわ」
ロレッタはクレトのタイに手を伸ばすと器用に結びなおした。
「これでいいわ。いってらっしゃい」
「ああ、ありがとう。行ってくる」
側にいたブラスにも軽く手をあげ、クレトはエステルには気づくことなく邸を出て行った。
なんということはない一幕だ。でも胸が不快な気持ちになるのを抑えられなかった。
なぜなら先程のロレッタはまるで夫を見送る妻のようだったし、クレトだって何も言わずタイを直してもらったりして―――。
「……いやだ、わたしったら」
一体何を考えているのだろう。
昨日、クレトは疲れているのにも関わらず、エステルとの時間を作ってくれたばかりだ。その優しさに自分は癒やされたはずだ。それなのにたったこれだけのことでまた不安になるなんて、自分は一体どうしてしまったのだろう。
「いい感じだったな」
クレトの出ていった玄関をじっと見つめていると、いつの間にか小さなイアンがエステルの足元に立っていた。
「僕の作戦がうまくいってるってことだよね。ねぇねぇ、クレトがお父様になったら、どんな感じかなぁ。クレトってお金持ちなんだろう? そしたらお母様は無理して働く必要なんてなくなるのになぁ」
「……クレトは、ロレッタさんとは結婚しないわ」
思わず冷たい声が出た。はっとしてイアンを見ると、案の定、イアンはぷくっとかわいらしい頬を膨らませた。
「エステルのうそつき。絶対に二人は結婚するよ。お母様はなんでもできるすごい人なんだからな。クレトだってお母様のことを好きになるはずだよ。だからエステルは邪魔したらだめだからな」
子供の言うことだ。聞き流せばいい。
そうわかっているのに、ついエステルは言い返した。
「だからそれは違うって言ってるのよ。邪魔をしているのはロレッタさんの方だわ」
「何言ってるんだよ。いくらエステルがクレトのことを好きだからって、お母様の邪魔は許さないぞ」
「だから、クレトの恋人はわたしなの。だからわたしは邪魔者ではないわ」
「恋人……?」
イアンの気持ちを考えて、自分がクレトの恋人だということは言わないでおこうと思っていたのに、つい口をついて出た。イアンは驚いたように動きを止めたが、すぐに反論した。
「う、うそだっ! エステルのうそつき! だってお母様はクレトの恋人だったんだぞっ!」
「昔のことは知らないわ。でも今はわたしが恋人なの」
「な、なんだよっ! 僕にそんなうそをついてもだめだからな。クレトとお母様を結婚させたくないからって、うそなんかつくな!」
最後は堪えきれなくなったのか、イアンはとうとう声を上げて泣き出した。
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