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逃走 2
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水面は静かだった。流れは絶えず一定の間隔で波を作っている。時折、船が作る小さな波と風が作った波がぶつかって、キラキラと輝いたかと思うと深みに広がる濃い緑の水の中に溶け込んでいく。川は何度か支流と合流したり分かれたりして、その度に、岸が近くなったり遠くなったり、そのうち進んでいる方向が分からなくなりそうだった。
流れに手を付けてみれば、分かるだろうか?
確かめてみたくなったが、手を伸ばすのは止めた。そんな事をしても、船の進む勢いで押される水の抵抗を感じるだけだろう。代わりに水面に目を凝らして流れる水の方向を確かめようとしていたが、不意に呼びかけられたような気がして顔を上げると、目の前に葦の林が広がっていた。いつの間にか、かなり岸に寄っていたようだった。人の姿は見えない。
気のせいだったのか。思い返せば、その声は鳥の声だった気も、蛙の鳴き声だったようにも思えた。
「義賢様、ここです。こっちです」
今度ははっきりと聞こえた。葦の向こう側から若い男の声が、もう一つ。
「馬鹿野郎! 名前を呼んだら、合図の意味がなくなるだろう!」
「しっ、でかい声を出すな。何のために隠れていると思っているんだ」
平井定武は水面から櫓を引き抜いて水しぶきを切ると、葦の間に差し込み上下に振った。何かを計るような動作だった。びっしり生えて視界を塞いでいる葦のどこに隙間があったのか、葦は少しも揺れない。櫓が戻されると船は向きを変え、葦の林の中を縫うように岸に向かって進みだした。
船の左右両側の視界は、変わらず葦で塞がれていたが、進行方向だけは、ぎりぎり通れるだけの通路になっていた。それが何度か折れ曲がりながら岸へ向かって伸びている。もちろん、予め刈り取っておいたのだ。無理に船を寄せれば、葦が揺れて対岸からでも丸分かりだが、逆に揺れていなければ、誰にも気づかれはしない絶好の隠れ場所だった。
「御無事で、安心しました」
視界を塞いでいた葦がひらけると、すぐ目の前に岸があり、若い男が二人、自分で頭を押さえてお辞儀をしていた。奇妙な作法だと思ったが、二人は頭にこぶが出来ていないか探るように撫でていたのだ。
「成持も無事だったか」
「ええ、まぁ、今しがた、こぶが出来たくらいで……」
頭を押さえながら顔を上げた一人は三雲成持だった。不平を漏らすような答えに、平井定武の視線が突き刺さった。慌てて口を閉ざして背を向けたが、いつもながらの説教が始まった。
「お前は、甲賀六宿老の自覚が足りん。他の者の模範とならねばならぬのに、落ち着いて待つ事も出来ないのか」
「そうです! 成持のせいで進藤様の計画が台無しになるところでした」
もう一人の若い男がすぐさま同調した。三雲成持と同じくらいの年齢か、きっちりと揃えられた髪と若草色の着物で少し若く見える。彼も甲賀六宿老の一人の蒲生賢秀だ。
「お前もだ、賢秀。そこに並べ。そもそも、六宿老に選ばれると言う事は、甲賀の忍びを代表する役目を担って……」
自分まで説教の対象になって神妙な態度で三雲成持の隣に並んでいたが、大人しく聞いているわけではなかった。
「成持のせいで俺まで……」
「人のせいにするなよ。お前が怒られているのは、その緑色に染めた着物が派手過ぎるからだろう?」
「これは、草むらに身をひそめるには打って付けなんだ」
「町にも寄らず、ずっと草むらを進んでいくのか?」
「お前こそ、そんなに泥まみれで人前に出る気なのか?」
風を切って何かが頭の上を飛ぶと、言い争っていた二人が文字通り頭を押さえて押し黙った。
「お前ら、人の話はちゃんと聞くもんだ」
定武の声は決して大きくはなかったが、聞く者の口をつぐませるに十分だった。空を切って回された櫓を波も立てずに水面に差し込んだ。
「後藤殿が居ないと直ぐに、たるむ……。まだ、戻られないのか?」
「はい、三好軍の様子を見ると言って、日賀田を連れて行かれました」
後藤賢豊は、甲賀の両藤と呼ばれ、智の進藤貞治と双璧をなす武の要であった。六角義賢や若い六宿老たちの武術の師であり、予定の行動とは言え、彼が居る居ないでは安心感が大きく違った。しかしそうも言ってはいられない。
「そうか……我々も行動に移るか」
振り返っても追手の兵士の姿も足音も聞こえはしない。だが、見えぬ場所では、静かな川の流れのように、水面下では大きく事態が進もうとしていた。
流れに手を付けてみれば、分かるだろうか?
確かめてみたくなったが、手を伸ばすのは止めた。そんな事をしても、船の進む勢いで押される水の抵抗を感じるだけだろう。代わりに水面に目を凝らして流れる水の方向を確かめようとしていたが、不意に呼びかけられたような気がして顔を上げると、目の前に葦の林が広がっていた。いつの間にか、かなり岸に寄っていたようだった。人の姿は見えない。
気のせいだったのか。思い返せば、その声は鳥の声だった気も、蛙の鳴き声だったようにも思えた。
「義賢様、ここです。こっちです」
今度ははっきりと聞こえた。葦の向こう側から若い男の声が、もう一つ。
「馬鹿野郎! 名前を呼んだら、合図の意味がなくなるだろう!」
「しっ、でかい声を出すな。何のために隠れていると思っているんだ」
平井定武は水面から櫓を引き抜いて水しぶきを切ると、葦の間に差し込み上下に振った。何かを計るような動作だった。びっしり生えて視界を塞いでいる葦のどこに隙間があったのか、葦は少しも揺れない。櫓が戻されると船は向きを変え、葦の林の中を縫うように岸に向かって進みだした。
船の左右両側の視界は、変わらず葦で塞がれていたが、進行方向だけは、ぎりぎり通れるだけの通路になっていた。それが何度か折れ曲がりながら岸へ向かって伸びている。もちろん、予め刈り取っておいたのだ。無理に船を寄せれば、葦が揺れて対岸からでも丸分かりだが、逆に揺れていなければ、誰にも気づかれはしない絶好の隠れ場所だった。
「御無事で、安心しました」
視界を塞いでいた葦がひらけると、すぐ目の前に岸があり、若い男が二人、自分で頭を押さえてお辞儀をしていた。奇妙な作法だと思ったが、二人は頭にこぶが出来ていないか探るように撫でていたのだ。
「成持も無事だったか」
「ええ、まぁ、今しがた、こぶが出来たくらいで……」
頭を押さえながら顔を上げた一人は三雲成持だった。不平を漏らすような答えに、平井定武の視線が突き刺さった。慌てて口を閉ざして背を向けたが、いつもながらの説教が始まった。
「お前は、甲賀六宿老の自覚が足りん。他の者の模範とならねばならぬのに、落ち着いて待つ事も出来ないのか」
「そうです! 成持のせいで進藤様の計画が台無しになるところでした」
もう一人の若い男がすぐさま同調した。三雲成持と同じくらいの年齢か、きっちりと揃えられた髪と若草色の着物で少し若く見える。彼も甲賀六宿老の一人の蒲生賢秀だ。
「お前もだ、賢秀。そこに並べ。そもそも、六宿老に選ばれると言う事は、甲賀の忍びを代表する役目を担って……」
自分まで説教の対象になって神妙な態度で三雲成持の隣に並んでいたが、大人しく聞いているわけではなかった。
「成持のせいで俺まで……」
「人のせいにするなよ。お前が怒られているのは、その緑色に染めた着物が派手過ぎるからだろう?」
「これは、草むらに身をひそめるには打って付けなんだ」
「町にも寄らず、ずっと草むらを進んでいくのか?」
「お前こそ、そんなに泥まみれで人前に出る気なのか?」
風を切って何かが頭の上を飛ぶと、言い争っていた二人が文字通り頭を押さえて押し黙った。
「お前ら、人の話はちゃんと聞くもんだ」
定武の声は決して大きくはなかったが、聞く者の口をつぐませるに十分だった。空を切って回された櫓を波も立てずに水面に差し込んだ。
「後藤殿が居ないと直ぐに、たるむ……。まだ、戻られないのか?」
「はい、三好軍の様子を見ると言って、日賀田を連れて行かれました」
後藤賢豊は、甲賀の両藤と呼ばれ、智の進藤貞治と双璧をなす武の要であった。六角義賢や若い六宿老たちの武術の師であり、予定の行動とは言え、彼が居る居ないでは安心感が大きく違った。しかしそうも言ってはいられない。
「そうか……我々も行動に移るか」
振り返っても追手の兵士の姿も足音も聞こえはしない。だが、見えぬ場所では、静かな川の流れのように、水面下では大きく事態が進もうとしていた。
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