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逃走 3
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細川元晴は突然入って来た近侍の足音に飛び起きた。いつでも戦える準備をしていたが、深い眠りに入りかけた、まだ日も昇り切らぬ時間だった。
「何事だ!」
狼狽えて報告もままならぬ近侍に不機嫌に怒鳴る。不意を突かれた動揺を悟られぬように、無理に声を荒げているようだった。
「敵襲です! 三好長慶が攻めてきました!」
「戦場に敵がいるのは当たり前だ!」
声を張り上げ大股に陣幕の外へ出たが、そこで足が止まった。
「……何だ、これは?」
その時が、もっとも霧の濃い時間帯だった。手を伸ばした先さえ見えない霧に視界を塞がれてはいたが、その向こうでは、大勢の人間が怒鳴り合っている。
「敵は……、敵はどこだ?」
それに答えられる者がいる筈もなかった。
完全に視界を塞いでいるほど濃い霧が立ち込めていたのはわずかな時間だが、霧にまかれた者たちにとって、それがどれだけ続くかなど知り得ようはずもない。何とか声を出し合って味方の位置を確かめ、武器を手に取り、馬の所へ向かおうとしていた。だが、彼らも細川元晴の精鋭、最初は面食らっても、灯りの無い暗がりで襲われる事も想定の内、霧の中でも数名ずつの騎馬が集まり、部隊としての体をなし始めていた。
隊長の号令がかかれば、一気に放たれる引き絞った弓のような緊張感が、霧の中で互いの姿は見えなくとも整然と並んだ騎馬から伝わってくる。並ぶ馬の息使いが、走り出す時を今か今かと待ちわびているのだ。
「攻勢に出る準備が整いました」
「うむ……」
細川元晴も十分に落ち着きを取り戻し、どっかと陣の中央に腰を落ち着けていた。霧で視界を塞がれているのは相手も同じで、味方の位置を確認するために声を上げれば、敵にもその場所が筒抜けだった。お互いに場所が分かっていれば、数で勝る細川元晴の軍が負ける筈はない。余裕が生まれれば、他の状況へも意識を向けられる。
「そう言えば、将軍はどうした? 天幕の内側で震えておるのか?」
「言え、それが……、夜も空けぬうちに数騎を率いて陣を出られたとか……」
「何だと?……」
何処へ行ったのかと、問おうとして口を閉ざした。もしかすると、今の現状は、陣を抜け出した将軍の手によって作り出されたのかもしれない。功を逸って戦端を開いたと言う可能性も、細川元晴を裏切り、三好長慶側へ付いたと言う事も。幼い足利義藤が自らそのような計画を企てるとは思えないが、側近たちがそう仕向ける可能性はあったのだ。
「居らぬのなら……、まぁ仕方あるまい」
不確定な問題の答えに捕らわれず、先へ進めるのも将としての細川元晴の資質だった。目の前の確かな物へ全力を注ぐ姿勢は優れたものだが、確かでない物を簡単に切り捨てられる冷酷な思考でもあった。だが、目の前の敵を殲滅する機会を見逃せる武将は居はしないだろう。
「全軍突撃! 三好長慶の弱兵を蹴散らしてしまえ!」
細川元晴の号令で騎馬武者が霧の中へ飛び込んでいった。霧に飲み込まれた姿は、直ぐに見えなくなったが、泥をはね上げる蹄の音に、槍を振り上げた武者の鬨の声が一斉に響き渡り、激しい戦いが始まった。
足場の悪い沼地であっても、勢いに乗った騎馬隊を止められるものではない。その実、味方の騎馬隊の気配は、霧の奥へと進み、戦いの物音も遠ざかっていくようだ。敵を押し込んでいる。当然そう考えていた。陣で指揮を執る細川元晴も戦っている騎馬武者たちでさえ。だからこそ、戦いの気配が遠ざかっていくように、次第に霧が晴れ始めて、周囲の景色に驚愕した。
「まさか……」
霧が晴れるにつれて、無数の死体が転がっていた。切り倒した敵でだけではなく、味方の精鋭の騎馬武者も馬も。いや、味方の兵の死体の方がはるかに多い、精鋭の騎馬隊を寄せ集めの兵だけで止められる筈がない。立ち上がって、周囲の死体を見渡すと、兵を貫いているのは槍の他に、鋭く削られた木の柵だった。
三好長慶の兵は、数名で構えた槍で木の柵を支えて進んで来ていたのだ。両端の者が声を上げて他の隊と連携して均等に広がり、敵が来るのを待つ。後は騎馬隊が勝手に柵に激突する。無論、馬の勢いで柵ごと踏みつぶされもするが、槍を振り回すよりずっと多くの敵を倒せた。
近くで戦いの物音がしなくなったのは、柵を運んできた敵兵を踏みつぶしたためだったが、元々戦いが始まると動かずに堪えるだけの相手に向かって進んでいるのだ、押し進んで当然。そして、進むたびに大きな被害を出していた。
「馬を用意しろ!」
細川元晴の判断は早かった。目の前の戦況を見るや、霧が晴れる前に自分の愛馬に跨ると、近侍をまとめて北に向かって戦場から逃げ出した。旗頭として担ぎ上げてきた将軍・足利義藤の安否を確認しようともせずに。
東山御城まで逃げ切れば、どうとでもなる。将軍位を譲って、大御所となった義晴を再び将軍に据えるだけ。義藤が寝返ったとしても、死んでいたとしても、同じ事に変わりない。
「何事だ!」
狼狽えて報告もままならぬ近侍に不機嫌に怒鳴る。不意を突かれた動揺を悟られぬように、無理に声を荒げているようだった。
「敵襲です! 三好長慶が攻めてきました!」
「戦場に敵がいるのは当たり前だ!」
声を張り上げ大股に陣幕の外へ出たが、そこで足が止まった。
「……何だ、これは?」
その時が、もっとも霧の濃い時間帯だった。手を伸ばした先さえ見えない霧に視界を塞がれてはいたが、その向こうでは、大勢の人間が怒鳴り合っている。
「敵は……、敵はどこだ?」
それに答えられる者がいる筈もなかった。
完全に視界を塞いでいるほど濃い霧が立ち込めていたのはわずかな時間だが、霧にまかれた者たちにとって、それがどれだけ続くかなど知り得ようはずもない。何とか声を出し合って味方の位置を確かめ、武器を手に取り、馬の所へ向かおうとしていた。だが、彼らも細川元晴の精鋭、最初は面食らっても、灯りの無い暗がりで襲われる事も想定の内、霧の中でも数名ずつの騎馬が集まり、部隊としての体をなし始めていた。
隊長の号令がかかれば、一気に放たれる引き絞った弓のような緊張感が、霧の中で互いの姿は見えなくとも整然と並んだ騎馬から伝わってくる。並ぶ馬の息使いが、走り出す時を今か今かと待ちわびているのだ。
「攻勢に出る準備が整いました」
「うむ……」
細川元晴も十分に落ち着きを取り戻し、どっかと陣の中央に腰を落ち着けていた。霧で視界を塞がれているのは相手も同じで、味方の位置を確認するために声を上げれば、敵にもその場所が筒抜けだった。お互いに場所が分かっていれば、数で勝る細川元晴の軍が負ける筈はない。余裕が生まれれば、他の状況へも意識を向けられる。
「そう言えば、将軍はどうした? 天幕の内側で震えておるのか?」
「言え、それが……、夜も空けぬうちに数騎を率いて陣を出られたとか……」
「何だと?……」
何処へ行ったのかと、問おうとして口を閉ざした。もしかすると、今の現状は、陣を抜け出した将軍の手によって作り出されたのかもしれない。功を逸って戦端を開いたと言う可能性も、細川元晴を裏切り、三好長慶側へ付いたと言う事も。幼い足利義藤が自らそのような計画を企てるとは思えないが、側近たちがそう仕向ける可能性はあったのだ。
「居らぬのなら……、まぁ仕方あるまい」
不確定な問題の答えに捕らわれず、先へ進めるのも将としての細川元晴の資質だった。目の前の確かな物へ全力を注ぐ姿勢は優れたものだが、確かでない物を簡単に切り捨てられる冷酷な思考でもあった。だが、目の前の敵を殲滅する機会を見逃せる武将は居はしないだろう。
「全軍突撃! 三好長慶の弱兵を蹴散らしてしまえ!」
細川元晴の号令で騎馬武者が霧の中へ飛び込んでいった。霧に飲み込まれた姿は、直ぐに見えなくなったが、泥をはね上げる蹄の音に、槍を振り上げた武者の鬨の声が一斉に響き渡り、激しい戦いが始まった。
足場の悪い沼地であっても、勢いに乗った騎馬隊を止められるものではない。その実、味方の騎馬隊の気配は、霧の奥へと進み、戦いの物音も遠ざかっていくようだ。敵を押し込んでいる。当然そう考えていた。陣で指揮を執る細川元晴も戦っている騎馬武者たちでさえ。だからこそ、戦いの気配が遠ざかっていくように、次第に霧が晴れ始めて、周囲の景色に驚愕した。
「まさか……」
霧が晴れるにつれて、無数の死体が転がっていた。切り倒した敵でだけではなく、味方の精鋭の騎馬武者も馬も。いや、味方の兵の死体の方がはるかに多い、精鋭の騎馬隊を寄せ集めの兵だけで止められる筈がない。立ち上がって、周囲の死体を見渡すと、兵を貫いているのは槍の他に、鋭く削られた木の柵だった。
三好長慶の兵は、数名で構えた槍で木の柵を支えて進んで来ていたのだ。両端の者が声を上げて他の隊と連携して均等に広がり、敵が来るのを待つ。後は騎馬隊が勝手に柵に激突する。無論、馬の勢いで柵ごと踏みつぶされもするが、槍を振り回すよりずっと多くの敵を倒せた。
近くで戦いの物音がしなくなったのは、柵を運んできた敵兵を踏みつぶしたためだったが、元々戦いが始まると動かずに堪えるだけの相手に向かって進んでいるのだ、押し進んで当然。そして、進むたびに大きな被害を出していた。
「馬を用意しろ!」
細川元晴の判断は早かった。目の前の戦況を見るや、霧が晴れる前に自分の愛馬に跨ると、近侍をまとめて北に向かって戦場から逃げ出した。旗頭として担ぎ上げてきた将軍・足利義藤の安否を確認しようともせずに。
東山御城まで逃げ切れば、どうとでもなる。将軍位を譲って、大御所となった義晴を再び将軍に据えるだけ。義藤が寝返ったとしても、死んでいたとしても、同じ事に変わりない。
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