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本編03「あなたの力になりたい」
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夜中、胸を圧迫するような苦しさに見舞われた。
それなのに目は覚めない。夢の中で俺は、昔付き合っていた男に頬を張られ続けていた。
『おまえは何もできない。一緒にいてやっている俺に感謝しろ』
そいつはローションを使わずに突っ込んでくる乱暴な男だった。俺が痛がれば痛がるほど悦ぶ、厄介な癖を持っていた。締まりがよくなるからと言って、俺の首を絞めながら貫いてきたこともあった。
俺は昔の男から罵声と暴力を浴びながら、何もできずにいた。このままサンドバッグになれればいいのに。そんなところまで思考が落ちていった。
「早峰くん?」
肩を揺すられて、俺は悪夢から解放された。
暗がりの中、名雪の手が伸びてくる。
「あの、ソフレの契約では……ボディタッチはナシのはずです」
「そんなこと言ってる場合か? 相当うなされていたぞ」
「……昔の男が夢に出てきました」
俺は背中をさすられるあいだ、自嘲した。
「愛されなくって当然ですよね。俺、なんの長所もないし」
「どうしてそういう発想になるんだ。今日だって俺の体調を気遣って、美味しい料理を作ってくれたじゃないか。バーでも助けてくれたし。きみは優しい人だよ」
「それだけじゃ足りないですよ。俺は誰かの運命の相手になりたい。だから尽くしてきたけど、全部間違いだった……」
涙ぐみそうになったので俺は言葉を切った。
名雪が俺を抱きしめる。
「あの、契約が……」
「今ここで、この状態のきみを無視して寝るなんてできない」
「同情はかえって毒になりますよ」
「……早峰くん」
俺は名雪にハグされて嬉しいのに意地を張った。
だって、同じことの繰り返しじゃないか。名雪に惚れたとしたら、俺はまた家事をあれこれ手伝うだろう? マメに会いたがるだろう? そして、やがて重たいと思われるんだ。
「もう大丈夫ですから……」
喉から搾り出した俺の声は震えていた。
名雪がため息をつき、俺の髪をさらりと指先で撫でた。
「気丈なのはいいけど無理だけはしないでくれ」
「はい……」
「もう一度眠れそう?」
「なんとか」
「それじゃあ、おやすみ」
「名雪さん、ごめんなさい」
「謝らないで。俺だってきみの力になりたい」
またしても殺し文句を口にすると、名雪は無言になった。俺も沈黙を選び、まぶたを閉じた。待っていましたとばかりに、まどろみが襲ってくる。
うとうとしかけた時、玄関のチャイムが鳴った。
「こんな時間に誰だろう?」
ドアスコープをのぞけば、博樹が立っていた。
▪️
何回もチャイムが鳴った。
時間帯が時間帯なので、近所迷惑もいいところだ。
俺はドアを開けた。
「大智。久しぶりだな」
博樹は我がもの顔で部屋に入ってきた。彼はもう左手の薬指にリングをしていなかった。博樹はベッドにいた名雪に気づくと、眉間に思いっきり皺を寄せた。
「新しい男がいるとはな。どうだ、お兄さん。三人で楽しまないか? 大智はドスケベだからな。あんたのマラを咥えさせてるあいだに、俺が後ろから突っ込んでやる」
「……早峰くんを侮辱するようなことは言わないでくれ」
名雪が強い口調で非難しても、博樹はニヤニヤと笑うだけだった。
「早峰くんって呼んでるんだ? もしかしてまだヤッてないのか」
「博樹。俺たちは終わったんだ。もう帰ってくれ」
「そんなこと言って。俺のちんぽが忘れられないだろう?」
博樹が俺に向かって手を伸ばそうとする。
その時、名雪が俺の前に滑り込んできて、博樹の手から俺を守ってくれた。
「ナイト気取りか? 大智にそんな価値はねぇよ。こいつは男をしゃぶるのが大好きな淫乱だ」
「それ以上、早峰くんを侮辱したら許さない」
「おいおい。なんだよ、あんた。こんな地味野郎に対して本気になってるのか?」
「早峰くんは俺の恩人だ」
名雪の迫力に気圧されたのか、博樹が後ずさった。
ここが攻め時だ。
俺はフローリングワイパーの柄を握った。そして、先端を博樹に向けた。
「もう二度と俺のところに来ないでくれ!」
「大智……っ。くそっ、昔のおまえは従順だったのに」
「あんたに早峰くんの名前を呼ぶ資格はない。消えろ!」
「はっ。随分とそいつに入れ込んでるね、イケメンのお兄さん。そいつのアヌス、縦割れだよ。さんざん男と遊んできた証拠だ」
博樹は捨て台詞を吐くと、ドアの外に消えていった。
静かになった部屋で、名雪が俺を抱きしめた。
「あっ、あの……契約違反ですよ?」
「ペナルティならいくらでも払う。しばらくこうさせてくれ」
「……名雪さん。あんまり俺に優しくしないでください。勘違いしそうになる」
「早峰くん……」
俺は名雪の腕を振りほどいた。
そしてベッドに横たわった。名雪が隣にやって来る。
名雪のぬくもりに触れているうちに、俺は泣きそうになった。
「俺、幸せになりたかっただけなんです。だから、博樹に必死で尽くしました……」
「あの男はきみの気持ちを踏みにじった。一発ぶん殴ってやればよかった!」
「名雪さんも怒ることがあるんですね」
「当たり前だろう! 早峰くんを傷つける奴は許せない」
俺は名雪の懐に頭を預けた。
「もう大丈夫です。名雪さんがいてくれてよかった……」
「早峰くん。俺はきみの力になれただろうか?」
「はい。ありがとうございます」
名雪の腕が俺の背中に回された。俺は名雪にぎゅっと抱き締められた。
もはや添い寝の域を超えている。でも今夜は特別ということでいいだろうか。
「おやすみ、早峰くん」
「……おやすみなさい」
興奮が鎮まっていったあと、俺は夢の世界へと羽ばたいた。
壁が白い一軒家が出てきた。
俺はキッチンで料理を作りながら、誰かの帰りを待っていた。なめこの味噌汁に焼き魚、キュウリとわかめの酢の物。ありふれた献立だった。
やがて誰かが帰ってきて、俺の額にキスをした。
願望で塗り固められた夢というのは、なかなかに辛いものだ。
朝を迎えた時、俺は自己嫌悪でいっぱいになった。
▪️
その後、名雪は「大丈夫?」とマメに連絡をくれた。
俺は「平気です」と返したものの、内心は心が波立っていた。ロクでもない男と付き合っていたことを名雪に知られてしまった。恥ずかしくて顔を合わせづらい。
名雪も俺も仕事が立て込んでいて、直接会えずにいた。このままフェードアウトしてしまうかもしれない。
イケメンと同衾するだなんて期間限定の夢だったと思えばいい。そう頭では理解していても、胸の底が焦げるような寂しさが襲ってきた。
もう認めるしかない。俺は名雪に恋をしていた。
地下鉄に揺られるあいだ、名雪が一緒に乗り合わせていないか、視線をあちらこちらに漂わせる。しかし、都合よく彼の姿が見つかるわけはなく、俺はとぼとぼとホームを歩いた。
出勤すると、執務室はちょっとしたお祭り騒ぎになっていた。俺の同期の坂井に、子どもが生まれたらしい。
ふだんは寡黙な坂井であるが、父親になった喜びを熱く語っている。
「坂井、おめでとう」
「ありがとう。頑張ってくれた妻には一生頭が上がらないよ」
俺は赤ちゃんの写真を見せてもらった。
「可愛いね……」
ちっちゃな指先にもちゃんと爪がある。
愛し合った人と新しい命を迎える。なんて素晴らしいことだろう。でも俺は、そんな幸せを味わうことはできない。表情が曇らないように口角を上げるのに必死だった。
昼休みになった。
マッチングアプリに届いたギラギラしたメッセージを眺めつつも、俺の頭は名雪の姿を思い描いていた。
もう一度、彼に会いたい。
他愛のない会話をしたあと、彼のぬくもりに包まれて眠りにつきたい。
これまでの恋愛経験から、追う側に回ったらダメだというのは分かっていた。でも俺は「今夜空いてますか?」というメッセージを入力して、送信ボタンをタップしてしまった。
程なくして名雪から返信が来た。
『ごめん、仕事でバタバタしてた。ちょうど早峰くんの顔が見たいと思ってたところ。19時に××公園駅西口でどうかな?』
『大丈夫です』
『久しぶりだね。楽しみにしてる』
名雪にとっては何気ない言葉かもしれないが、俺の心は華やいでいった。外で会うのは初めてだ。
しかし、午後に急を要する案件が入ってしまった。俺は残業を余儀なくされた。トイレに立ったタイミングで、俺は名雪に連絡を入れた。
『すみません。突発的な仕事が入ってしまって。21時ぐらいまでかかりそうです』
会うのを断られるかと思ったが、名雪は『待つよ』と言ってくれた。
『待ち合わせ場所を変更しよう。××通りの裏手にある居酒屋<コノハナ>にいるから』
『ありがとうございます』
名雪は居酒屋<コノハナ>のマップを教えてくれた。
その後、俺は仕事の鬼と化してタスクを片付けていった。ふだんだったら遠慮してしまいそうな上司の間違いもズバリ指摘する。名雪に会いたいという思いが俺に力をくれた。
同僚の山口がそんな俺の様子を見て、「好きな人を待たせてるのか?」と笑った。山口はいい奴だけれども噂好きなので、俺は曖昧な笑みだけを返した。
「名雪さん! お待たせしました」
仕事から解放された俺は、居酒屋<コノハナ>に駆け込んだ。
名雪はカウンターの一番奥の席でウーロンハイを飲んでいた。
「今日は俺が奢ります」
「いいよ、夕食代わりだったし。それより、何かあった?」
「実は……」
俺は周囲に配慮しながら小さな声で、同期に子どもが生まれたことを伝えた。
名雪の麗しい目が伏せられる。
「……おめでたい話だけど、それは辛かったね」
「みんな笑っているのに、心の底からお祝いできない自分がいて。そんな自分が嫌で……」
「その気持ち、分かるよ」
気遣いに満ちた名雪の優しい声に包まれていると、心の痛みが和らいでいった。疲れているので酒がよく回る。俺の口はどんどん滑らかになっていった。
「俺の夢は……好きな人と一軒家に住んで、犬を飼うことです」
「……俺もそういう暮らしに憧れるな」
名雪は笑顔で賛同してくれた。でも、彼が夢を叶える相手に選ぶ相手は俺じゃない。
「……今夜うちに来ませんか?」
「いいよ」
会計を済ませて店の外に出た。
凍てついた風が吹きつけてきて、俺と名雪のマフラーを揺らした。
「早く暖まろう」
「はい」
地下鉄の××公園駅に向かう途中、名雪が足を止めた。そして、道路に面した大きなビルを見上げた。フロアの電気はすべて消えていて、闇に染まった窓が黒く光っている。
「ここ、うちの社屋」
「立派ですね……。さすがゼネコン」
「中は地獄だけどね」
名雪の表情が険しくなる。
「俺、職場の上司にアウティングされたんだ」
「えっ」
「東京本社にいた頃、当時の上司から娘さんを紹介されそうになったんだ。この人なら信頼できるだろうと思って事情を説明したんだけど……」
「そんなのって……。ひどすぎます」
俺はアウティングをされた際に名雪が感じた絶望を想像した。心臓がきゅうっと痛くなる。
信じていた相手に裏切られたのは、さぞショックだったに違いない。そして周囲から好奇のまなざしを向けられたことだろう。俺ならば耐えられず、仕事を辞めてしまったかもしれない。
「それ以来、俺は会社で腫れ物扱いされちゃって。一、二年スパンであちこち転勤させられてるってわけ」
「大手企業なんだし、ダイバーシティ推進室とかあるでしょう?」
「相談したことはあるよ。でも、総合職が全国転勤をさせられるのはよくあることだから、考えすぎだと言われた」
「……ごめんなさい、名雪さん。俺、あなたが受けてきた辛さを何も分かっていませんでした」
「きみが謝る必要はないよ」
名雪が諦めたように笑った。
彼が抱いていた記憶のかけらとは、とても苦しいものだったのだ。たくさん傷ついて人間不信にも陥っただろうに、名雪は俺に優しくしてくれた。彼の心は琉球ガラスのように繊細で美しい。
辛い思いをしても負けずに戦っている名雪の力になりたい。俺は胸がいっぱいになった。
「重い話をしてしまってごめんね」
「あの、名雪さん! 俺はただのソフレですけど、話ならいくらでも聞きます! どうか俺を使ってください!」
「……早峰くん」
俺の肩に名雪の手が伸びてきた。でも、触れるか触れないかのところで名雪は動きを止めた。
「添い寝以外の行為は禁止だったね。危うく忘れるところだった」
「……俺は、別に構いません」
「こちらの事情にきみを巻き込むわけにはいかない。俺のことは喋る抱き枕ぐらいに思ってくれていいから」
名雪が足早に歩き出したので、俺は必死であとをついて行った。
それなのに目は覚めない。夢の中で俺は、昔付き合っていた男に頬を張られ続けていた。
『おまえは何もできない。一緒にいてやっている俺に感謝しろ』
そいつはローションを使わずに突っ込んでくる乱暴な男だった。俺が痛がれば痛がるほど悦ぶ、厄介な癖を持っていた。締まりがよくなるからと言って、俺の首を絞めながら貫いてきたこともあった。
俺は昔の男から罵声と暴力を浴びながら、何もできずにいた。このままサンドバッグになれればいいのに。そんなところまで思考が落ちていった。
「早峰くん?」
肩を揺すられて、俺は悪夢から解放された。
暗がりの中、名雪の手が伸びてくる。
「あの、ソフレの契約では……ボディタッチはナシのはずです」
「そんなこと言ってる場合か? 相当うなされていたぞ」
「……昔の男が夢に出てきました」
俺は背中をさすられるあいだ、自嘲した。
「愛されなくって当然ですよね。俺、なんの長所もないし」
「どうしてそういう発想になるんだ。今日だって俺の体調を気遣って、美味しい料理を作ってくれたじゃないか。バーでも助けてくれたし。きみは優しい人だよ」
「それだけじゃ足りないですよ。俺は誰かの運命の相手になりたい。だから尽くしてきたけど、全部間違いだった……」
涙ぐみそうになったので俺は言葉を切った。
名雪が俺を抱きしめる。
「あの、契約が……」
「今ここで、この状態のきみを無視して寝るなんてできない」
「同情はかえって毒になりますよ」
「……早峰くん」
俺は名雪にハグされて嬉しいのに意地を張った。
だって、同じことの繰り返しじゃないか。名雪に惚れたとしたら、俺はまた家事をあれこれ手伝うだろう? マメに会いたがるだろう? そして、やがて重たいと思われるんだ。
「もう大丈夫ですから……」
喉から搾り出した俺の声は震えていた。
名雪がため息をつき、俺の髪をさらりと指先で撫でた。
「気丈なのはいいけど無理だけはしないでくれ」
「はい……」
「もう一度眠れそう?」
「なんとか」
「それじゃあ、おやすみ」
「名雪さん、ごめんなさい」
「謝らないで。俺だってきみの力になりたい」
またしても殺し文句を口にすると、名雪は無言になった。俺も沈黙を選び、まぶたを閉じた。待っていましたとばかりに、まどろみが襲ってくる。
うとうとしかけた時、玄関のチャイムが鳴った。
「こんな時間に誰だろう?」
ドアスコープをのぞけば、博樹が立っていた。
▪️
何回もチャイムが鳴った。
時間帯が時間帯なので、近所迷惑もいいところだ。
俺はドアを開けた。
「大智。久しぶりだな」
博樹は我がもの顔で部屋に入ってきた。彼はもう左手の薬指にリングをしていなかった。博樹はベッドにいた名雪に気づくと、眉間に思いっきり皺を寄せた。
「新しい男がいるとはな。どうだ、お兄さん。三人で楽しまないか? 大智はドスケベだからな。あんたのマラを咥えさせてるあいだに、俺が後ろから突っ込んでやる」
「……早峰くんを侮辱するようなことは言わないでくれ」
名雪が強い口調で非難しても、博樹はニヤニヤと笑うだけだった。
「早峰くんって呼んでるんだ? もしかしてまだヤッてないのか」
「博樹。俺たちは終わったんだ。もう帰ってくれ」
「そんなこと言って。俺のちんぽが忘れられないだろう?」
博樹が俺に向かって手を伸ばそうとする。
その時、名雪が俺の前に滑り込んできて、博樹の手から俺を守ってくれた。
「ナイト気取りか? 大智にそんな価値はねぇよ。こいつは男をしゃぶるのが大好きな淫乱だ」
「それ以上、早峰くんを侮辱したら許さない」
「おいおい。なんだよ、あんた。こんな地味野郎に対して本気になってるのか?」
「早峰くんは俺の恩人だ」
名雪の迫力に気圧されたのか、博樹が後ずさった。
ここが攻め時だ。
俺はフローリングワイパーの柄を握った。そして、先端を博樹に向けた。
「もう二度と俺のところに来ないでくれ!」
「大智……っ。くそっ、昔のおまえは従順だったのに」
「あんたに早峰くんの名前を呼ぶ資格はない。消えろ!」
「はっ。随分とそいつに入れ込んでるね、イケメンのお兄さん。そいつのアヌス、縦割れだよ。さんざん男と遊んできた証拠だ」
博樹は捨て台詞を吐くと、ドアの外に消えていった。
静かになった部屋で、名雪が俺を抱きしめた。
「あっ、あの……契約違反ですよ?」
「ペナルティならいくらでも払う。しばらくこうさせてくれ」
「……名雪さん。あんまり俺に優しくしないでください。勘違いしそうになる」
「早峰くん……」
俺は名雪の腕を振りほどいた。
そしてベッドに横たわった。名雪が隣にやって来る。
名雪のぬくもりに触れているうちに、俺は泣きそうになった。
「俺、幸せになりたかっただけなんです。だから、博樹に必死で尽くしました……」
「あの男はきみの気持ちを踏みにじった。一発ぶん殴ってやればよかった!」
「名雪さんも怒ることがあるんですね」
「当たり前だろう! 早峰くんを傷つける奴は許せない」
俺は名雪の懐に頭を預けた。
「もう大丈夫です。名雪さんがいてくれてよかった……」
「早峰くん。俺はきみの力になれただろうか?」
「はい。ありがとうございます」
名雪の腕が俺の背中に回された。俺は名雪にぎゅっと抱き締められた。
もはや添い寝の域を超えている。でも今夜は特別ということでいいだろうか。
「おやすみ、早峰くん」
「……おやすみなさい」
興奮が鎮まっていったあと、俺は夢の世界へと羽ばたいた。
壁が白い一軒家が出てきた。
俺はキッチンで料理を作りながら、誰かの帰りを待っていた。なめこの味噌汁に焼き魚、キュウリとわかめの酢の物。ありふれた献立だった。
やがて誰かが帰ってきて、俺の額にキスをした。
願望で塗り固められた夢というのは、なかなかに辛いものだ。
朝を迎えた時、俺は自己嫌悪でいっぱいになった。
▪️
その後、名雪は「大丈夫?」とマメに連絡をくれた。
俺は「平気です」と返したものの、内心は心が波立っていた。ロクでもない男と付き合っていたことを名雪に知られてしまった。恥ずかしくて顔を合わせづらい。
名雪も俺も仕事が立て込んでいて、直接会えずにいた。このままフェードアウトしてしまうかもしれない。
イケメンと同衾するだなんて期間限定の夢だったと思えばいい。そう頭では理解していても、胸の底が焦げるような寂しさが襲ってきた。
もう認めるしかない。俺は名雪に恋をしていた。
地下鉄に揺られるあいだ、名雪が一緒に乗り合わせていないか、視線をあちらこちらに漂わせる。しかし、都合よく彼の姿が見つかるわけはなく、俺はとぼとぼとホームを歩いた。
出勤すると、執務室はちょっとしたお祭り騒ぎになっていた。俺の同期の坂井に、子どもが生まれたらしい。
ふだんは寡黙な坂井であるが、父親になった喜びを熱く語っている。
「坂井、おめでとう」
「ありがとう。頑張ってくれた妻には一生頭が上がらないよ」
俺は赤ちゃんの写真を見せてもらった。
「可愛いね……」
ちっちゃな指先にもちゃんと爪がある。
愛し合った人と新しい命を迎える。なんて素晴らしいことだろう。でも俺は、そんな幸せを味わうことはできない。表情が曇らないように口角を上げるのに必死だった。
昼休みになった。
マッチングアプリに届いたギラギラしたメッセージを眺めつつも、俺の頭は名雪の姿を思い描いていた。
もう一度、彼に会いたい。
他愛のない会話をしたあと、彼のぬくもりに包まれて眠りにつきたい。
これまでの恋愛経験から、追う側に回ったらダメだというのは分かっていた。でも俺は「今夜空いてますか?」というメッセージを入力して、送信ボタンをタップしてしまった。
程なくして名雪から返信が来た。
『ごめん、仕事でバタバタしてた。ちょうど早峰くんの顔が見たいと思ってたところ。19時に××公園駅西口でどうかな?』
『大丈夫です』
『久しぶりだね。楽しみにしてる』
名雪にとっては何気ない言葉かもしれないが、俺の心は華やいでいった。外で会うのは初めてだ。
しかし、午後に急を要する案件が入ってしまった。俺は残業を余儀なくされた。トイレに立ったタイミングで、俺は名雪に連絡を入れた。
『すみません。突発的な仕事が入ってしまって。21時ぐらいまでかかりそうです』
会うのを断られるかと思ったが、名雪は『待つよ』と言ってくれた。
『待ち合わせ場所を変更しよう。××通りの裏手にある居酒屋<コノハナ>にいるから』
『ありがとうございます』
名雪は居酒屋<コノハナ>のマップを教えてくれた。
その後、俺は仕事の鬼と化してタスクを片付けていった。ふだんだったら遠慮してしまいそうな上司の間違いもズバリ指摘する。名雪に会いたいという思いが俺に力をくれた。
同僚の山口がそんな俺の様子を見て、「好きな人を待たせてるのか?」と笑った。山口はいい奴だけれども噂好きなので、俺は曖昧な笑みだけを返した。
「名雪さん! お待たせしました」
仕事から解放された俺は、居酒屋<コノハナ>に駆け込んだ。
名雪はカウンターの一番奥の席でウーロンハイを飲んでいた。
「今日は俺が奢ります」
「いいよ、夕食代わりだったし。それより、何かあった?」
「実は……」
俺は周囲に配慮しながら小さな声で、同期に子どもが生まれたことを伝えた。
名雪の麗しい目が伏せられる。
「……おめでたい話だけど、それは辛かったね」
「みんな笑っているのに、心の底からお祝いできない自分がいて。そんな自分が嫌で……」
「その気持ち、分かるよ」
気遣いに満ちた名雪の優しい声に包まれていると、心の痛みが和らいでいった。疲れているので酒がよく回る。俺の口はどんどん滑らかになっていった。
「俺の夢は……好きな人と一軒家に住んで、犬を飼うことです」
「……俺もそういう暮らしに憧れるな」
名雪は笑顔で賛同してくれた。でも、彼が夢を叶える相手に選ぶ相手は俺じゃない。
「……今夜うちに来ませんか?」
「いいよ」
会計を済ませて店の外に出た。
凍てついた風が吹きつけてきて、俺と名雪のマフラーを揺らした。
「早く暖まろう」
「はい」
地下鉄の××公園駅に向かう途中、名雪が足を止めた。そして、道路に面した大きなビルを見上げた。フロアの電気はすべて消えていて、闇に染まった窓が黒く光っている。
「ここ、うちの社屋」
「立派ですね……。さすがゼネコン」
「中は地獄だけどね」
名雪の表情が険しくなる。
「俺、職場の上司にアウティングされたんだ」
「えっ」
「東京本社にいた頃、当時の上司から娘さんを紹介されそうになったんだ。この人なら信頼できるだろうと思って事情を説明したんだけど……」
「そんなのって……。ひどすぎます」
俺はアウティングをされた際に名雪が感じた絶望を想像した。心臓がきゅうっと痛くなる。
信じていた相手に裏切られたのは、さぞショックだったに違いない。そして周囲から好奇のまなざしを向けられたことだろう。俺ならば耐えられず、仕事を辞めてしまったかもしれない。
「それ以来、俺は会社で腫れ物扱いされちゃって。一、二年スパンであちこち転勤させられてるってわけ」
「大手企業なんだし、ダイバーシティ推進室とかあるでしょう?」
「相談したことはあるよ。でも、総合職が全国転勤をさせられるのはよくあることだから、考えすぎだと言われた」
「……ごめんなさい、名雪さん。俺、あなたが受けてきた辛さを何も分かっていませんでした」
「きみが謝る必要はないよ」
名雪が諦めたように笑った。
彼が抱いていた記憶のかけらとは、とても苦しいものだったのだ。たくさん傷ついて人間不信にも陥っただろうに、名雪は俺に優しくしてくれた。彼の心は琉球ガラスのように繊細で美しい。
辛い思いをしても負けずに戦っている名雪の力になりたい。俺は胸がいっぱいになった。
「重い話をしてしまってごめんね」
「あの、名雪さん! 俺はただのソフレですけど、話ならいくらでも聞きます! どうか俺を使ってください!」
「……早峰くん」
俺の肩に名雪の手が伸びてきた。でも、触れるか触れないかのところで名雪は動きを止めた。
「添い寝以外の行為は禁止だったね。危うく忘れるところだった」
「……俺は、別に構いません」
「こちらの事情にきみを巻き込むわけにはいかない。俺のことは喋る抱き枕ぐらいに思ってくれていいから」
名雪が足早に歩き出したので、俺は必死であとをついて行った。
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