奇夜に結ぶ鬼

蓮華空

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 アドリエンは腸が煮えくり返るほど怒りに震えていた。

 ロシア上空でザンという高位結鬼の襲撃を逃れるため、奏閻と落ちたバルト海はアドリエンに地獄のような苦しみを与えた。

 以前、キースに聞かされたことがあった。我々、高位結鬼は、文明が栄えた時期に産まれ、成長したせいで1000年前の高位結鬼と違い、身体に多大なる影響を及ぼしているという話だ。幼体期であるうちから、空気に溶け込んでいる我々は、人類の出す汚染物質への感度が高い。その結果、現在の高位結鬼は1000年前と比べ、再生能力は高くとも化学汚染物質に対しては耐性が弱くなっているというのもだ。

 バルト海は陸に囲まれ海流の流れが悪く、方々から汚染物質が流れ込みやすい場所だ。
 その海に長時間浸かるということは、低位結鬼の奏閻と比べ、アドリエンの身体は思った以上のダメージを受けるということだ。

 どうやら奏閻はそのことを知っていたようだった。最初に海へと落ちた時、ザンも後を追って海に飛び込んできたが、数分経つと速やかに上空へと戻って行った。ザンはバルト海の汚染に気付いたのだろう。長時間、海に浸かることを避け、海面すれすれの所から此方の様子を伺っていた。

 これに困ったのはアドリエンだった。奏閻を掴みながら、次第に力を失っていく。だが、海面に出ればそこにはザンが居た。出るに出られぬ状況の中、遂には意識も薄れて、奏閻を離さないよう掴んでいるのがやっとだった。

 それでも威厳を失わず、奏閻を支配下に置けるよう、水底で幼児の体を踏みつけながら上から押さえ込んだ。すると、奏閻が下から不適な笑みを見せた。

 奏閻はポケットから、何やら鉛筆のような棒を2本取り出した。
 突如としてそれは伸び、アドリエンの胸を貫いた。二方向から心臓を穿たれたアドリエンは大層慌てた。だが、時は既に遅し、開いた傷痕からバルト海の汚染された海水が一気に流れ込んだ。

 皮膚からの侵入だけではなく、循環の要である心臓から流れてくる海水に、アドリエンの身体はのたうち回った。

 その隙に、奏閻はアドリエンの手から離れ、ミズダコのように海の中に消えていった。

 残されたアドリエンは朦朧とした意識の中、暫く海の藻屑となって海中を漂っていた。
 
 この程度でアドリエンは死なない。だが、身体を襲う初めての脱力感に、精神は次第に蝕まれていった。

 彼が地上に上がったのは、奏閻とバルト海に沈んでから1週間ほど経った頃だった。

 月明かりの中、岸辺に打ち上げられたアドリエンは水死体の如く無惨に膨れ上がっていたが、次第に外気を肌で感じ始めると、少しずつ元の姿に再生されていった。それと同時に意識も戻り始め、何とか自力で立ち上がった頃には、ほぼ、元の美貌に戻ることができた。

「──おのれ……奏閻。羅閻もろとも、そのうち、この僕の中で生きて貰うぞ」

 中空を仰ぎながら、アドリエンは足を引き摺り歩き出した。

 月明かりに照らされた美貌は青白く、儚ささえ感じられたが、内に籠る憎悪は計り知れないほどの勢いで燃えていた。




  アドリエンがフランスにある自分の塒に戻ったのは、それから2日後のことだった。

 配下の殆んどをザンに吸収され、アドリエンの邸は閑散としていた。

「おい、キース!どこだ!キース!」

 アドリエンはキースを探した。キースにはテラという高位結鬼の赤子を託した筈だ。そいつを吸収できれば、今の弱った身体を元に戻し、力をつける事が出来る。
 アドリエンは今すぐにでもそいつに食らい付きたい衝動に駆られ、邸の中を荒々しく探した。

「アドリエン様。随分と遅いお帰りですね。もう帰って来ないものと思っていましたが……」

 不意に背後から声をかけられ、アドリエンは愕然とした。よもやキースに背後を取られるとは思ってもみなかったのだ。

「どうなさいました、アドリエン様?何をそんなに驚いていらっしゃるんです?」

「──いや、別に……」

 奴から異様な力を感じるのは気のせいか?

 アドリエンは警戒した。

「それより、あの赤子はどうした?」

「ああ、その事なら私が頂きました」

「何?!そんな馬鹿な!!お前があのレベルの者を吸収出来るとは思えん!!」

「仰る通りです。だから、吸収したのは一部だけ」

「どういうことだ?」

 アドリエンは慎重にキースとの距離を計った。高位結鬼を一部とはいえ吸収したキースにどんな力が宿ったのか分からない。ならば用心に越したことはない。

「私にもよく分かりません。奴からの提案だったのです。奴は私に身体を吸収させて、ウォルガンに頭部を与えました。きっと何かしらの意図がありそうですが、提案に乗ってみることにしたのです。身体は吸収され元には戻らないというのに、脳だけになった高位結鬼になにが出来るのか?──気になると思いませんか?」

 アドリエンは目を細め、正面のキースの様子をまじまじと観察した。
 物腰は以前のキースと変わりがない。だが、含みを持った物言いに何故だがアドリエンは畏怖の念を感じた。

「確かに……、何を意図してそうしたのか気になるところだが、その前にお前自身も内側から奴に支配される、──なんて事はないだろうな?」

 訝しい顔で見つめるアドリエンに、キースは穏やかに微笑んでみせた。

「大丈夫ですよ。そんな事を心配なさっているのですか?私はずっと変わらず貴方の味方です。──信じないのですか?」

 アドリエンは眉間に皺を寄せ、益々警戒した。質問を質問で返すなど、以前のキースなら有り得ないことだ。確実に何かが違う。

「キース。僕は元々、誰のことも信用はしていないよ。今のお前も以前のお前も」

「だったら、そんな質問なさることもないでしょう。今まで通りですよ。──ささ、アドリエン様。大層、お身体も汚れているようですし、ゆっくり沐浴でもなさって下さい。用意出来ています。これからの事はその後でお聞きします。今まで通り何なりとお申し付け下さい。きっと以前の私よりあなた様のお役に立てると思いますよ」

 そう言ってキースは艶やかに笑った。

 
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