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5 皇帝陛下がいなくなりました

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 皇帝の下から辞した後は、春明たちに囲まれて根ほり葉ほり皇帝について聞かれた。すでに後宮で鈴花がお呼ばれにあずかったことは広まっているようで、鈴花は他の妃嬪の嫉妬を考えると胃の痛みを感じながらも、皇帝との一時を話してあげた。どうやら、皇帝が声をかけたのは鈴花一人だったらしい。突風が吹くように他の妃嬪にも伝わると思うと、さらに会いたくなくなった鈴花である。

 その後お渡りがないまま皇帝は陵墓の巡礼に旅立ち、退屈な日々に戻った。その退屈を紛らわすのにお喋りはもってこいだ。鈴花は春明を通じて皇帝にまつわる色々な噂話を聞いた。仮面の下が実は女ではないかだとか、影武者がいるだとか、先帝のご落胤をどこぞの家が保護しているだとか、眉唾物ばかりだ。それでも、退屈を紛らわすにはそんなのでも聞かないよりましだ。そうこうして四日を過ごし、皇帝がお戻りになる日になった。

 つまらなさが一周し、もはや諦めの境地に近づいたころ。鈴花は院子なかにわの池に面したあずまやで、家から取り寄せた茶菓子を食べながら春明が淹れたお茶を飲んでいた。いつ陛下が訪れてもいいように、茶請けには干した果物を用意していたのだが、鈴花に食べ尽くされてしまいそうである。

「ここまで退屈だと、笑えてくるわね」

 暇つぶしの遊びにも飽きてしまい、甘いものを食べて気を紛らわすしかないのだ。鈴花は干し杏子を口に入れ、確かめるように味わう。干し果物は玄家が三年前から始めたもので、まあまあの味わいだ。
 程よい噛み応えがあり、じわじわと杏子の酸味と砂糖の甘みが染み出てくる。茶杯《ゆのみ》には香りが深い、茶褐色のお茶が淹れられていた。これも五年前から玄家が着手し、最近やっとまともなお茶が生産できるようになったものだ。

(まぁ、おいしいのだけど、洗練された味にはまだ遠いのよね)

 おいしいのはおいしいのだ。だが、一流と呼ばれるものと比べるとやはり見劣りがする。

(そりゃ何代にもわたって技を継承している人たちに、数年で追いつけるはずはないのだけど)

 丸卓の隅に置かれている木箱に押された玄家の焼き印が、自信なさげにかすれて見えた。鈴花はうーんと眉間に皺をよせ、何かいい手はないかしらと揺れる水面に視線を向ける。春の訪れを感じさせる木々が植えられ、風に花の甘い香りが混ざっている。池の奥にある築山つきやまには小さな滝があり、音が耳を楽しませてくれた。

 最近はこの亭で時間を過ごすのが鈴花のお気に入りだ。書を読んでもいいし、お茶を吟味するのもいい。だが、そのゆったりとした時間は、何の前触れもなく断ち切られたのだ。


 急に辺りが騒がしくなったと思えば、伝令役をしてくれている宮女が血相を変えて飛んできた。礼もおざなりに膝を付き、息を整えることなく言い放つ。

「急令でございます! 陛下が、陛下が、賊に襲われ行方知れずとのことです!」
「……え?」

 鈴花と春明の声が重なる。意味を理解するのに時間がかかり、その事態を飲み込んだ時には二人とも真っ青になっていた。皇帝は陵墓に参るため、都の外に出ている。この不安定な政情では、命が狙われてもおかしくはなかった。

「まさか、本当に狙う人がいるだなんて」

 以前からそういう噂はあったが、鈴花は話半分に聞いていた。公には、皇太子はいない。先帝の血族を辿れば男子がいなくはないだろうが、皇帝と認められるかはわからないだろう。
 絶句していた春明が不安そうな声で、落とすように呟いた。

「では、今後後宮はどうなるのですか?」

 後宮は皇帝のためにある。その主人がいなければ、存在意義はないのだ。そのことに気づいた鈴花は、急に足元が崩れ出したような感覚に襲われ、不安そうに眉根を下げた。

「まだ、何もわかりません……現在捜索が続けられており、状況の把握を急いでいるそうです」
「そんな、ご無事よね」

 鈴花の言葉は、もはや願いだった。脳裏には滑稽な面と栗色の髪が蘇る。細く優しい声は、心地よいものだった。

「……まだ、なんとも」

 宮女も胸が痛むのか、苦しそうに顔を歪ませている。先帝の喪が明け、皇位争いも終結して新帝が立った。やっと閉ざされていた後宮が動き出したのである。その矢先のできごとに、これからのことを思うと心配でしかたがないのだろう。
 鈴花は静かに深呼吸をして気を落ち着かせると、騒ぎを聞きつけて亭の周りに集まった宮女や下女を見回して声をかける。

「そう、ありがとう。皆も、心配でしょうが、ここで私たちができるのはいつ陛下がお戻りになってもよいように、準備をすることだけです。ですから、信じて待ちましょう」

 妃の一人として、玄家の娘として、何を言うべきかは理解していた。そしてそれを実行する演技力もある。だが闇に突き落とされたような不安はぬぐえず、胸にこびりついていた。

「鈴花様、風が冷たくなってまいりました。中でお休みください」

 春明の言葉に、鈴花ははっとして指先を握り込んだ。いつの間にか指先は冷え、青白くなっている。

「そう、ね。春明はお父様と連絡を取って、何か情報が無いか訊いて……心配することはないわ。すぐに、ご無事が確認できるかもしれないもの。大丈夫、大丈夫よ」

 鈴花は自分に言い聞かせるように繰り返し、拳を握った。だが鈴花の願いとは裏腹に、一日経っても、三日経っても皇帝が見つかったという報は届かなかった。
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