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8 我慢も限界なので、抜け出します

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 皇帝が行方知れずとなって一週間が経った。皇帝につながる手がかりは得られず、朝廷と後宮には絶望感が漂い始めている。その一方で、実は皇帝陛下は何者かに囚われているのでは、身の危険を感じてどこかに身を潜めていらっしゃるのでは、はたまた陛下は官吏たちを試しているのではと憶測だけが飛び交い始めた。

 しかも皇帝の不在によって、政治の執行に関わる右丞相と左丞相の対立が表面化し始めたらしい。さらに後宮では苛立ち下女に当たる妃嬪が出てきたり、皇帝不在の後宮に留まるのは無駄と後宮の解散を求める者も出てきたりしたそうだ。

 それらの情報は全て噂好きの春明によって鈴花に届けられ、次々と沸き起こる問題に鈴花は頭を抱えるのである。そこに父親からの返信が追い打ちをかける。

「も~無理ぃぃ!」

 父親からの返信を読んだ鈴花はそう叫んだ。晴れやかな朝なのに、気分は全く優れない。椅子に座り、織物がかけられた方卓に突っ伏してみっともなく足をばたつかせていた。

「やっぱり今恩を売っとけば、将来いいことがあるから受けろって返ってきたわ! 人の気も知らないでー!」

 父親は器用貧乏を体現したような人だ。玄家の事業は父の代で一気に拡大し、鈴花にも過剰なほど様々な学問と稽古事を身につけさせた。周りから娘を何にするつもりだと飽きれられたほどだという。

「郭昭様への返事は数日中にはしないといけないし、そしたら胃の痛い毎日になりそうだし、春明助けてー!」
「こればかりは、鈴花様にしかできないことでございます」
「妃嬪ってもう少し楽な役割でしょ!?」

 少なくとも父親からは、皇帝の隣で微笑んでお相手をして、他の妃嬪に縁を広げてくるだけでいいと言われていたのだ。とんだ詐欺だ。
 そして「もう限界」と棘々しい声で呟いた鈴花は、呆れ顔の春明に鋭い視線を向けた。

「春明、一生のお願い! 今日一日私の身代わりになって!」

 幸い今、鈴花の私室には二人しかいない。今なら入れ代わっても知らない人ならわからないだろう。それに春明に身代わりをしてもらうのは初めてではない。玄家にいた時も、父親の目をかいくぐって市井に遊びに行くために頼んでいた。もちろん最後は身代わりが暴かれ、こっぴどく叱られるのだが……。

 春明は頭と気を使い過ぎて、名家の娘らしい気品を投げ捨てている鈴花を見て、深々と溜息をついた。つきあいが長い春明には、そろそろ限界がくるだろうことは見えていた。そのため気が紛れるような書物や盤上の遊びを手配していたが、遅かったようだ。

「……仕方がありませんね。これ以上鈴花様は閉じ込めると、勝手に抜け出しそうで怖いです」
「そうよ。断られたら明日にでも変装して抜け出すわ」

 胸を張るところではないのに、鈴花は偉そうに胸を張った。

「……わかりました。当主様には内緒ですよ」

 渋面を作った春明は、隣の小房室こべやで作業をしている宮女と下女に「今日は鈴花様のお加減が優れないから、臥室しんしつに近づかないように」と伝えて戻って来た。
 そして襦裙じゅくんを交換し、髪型を変え、化粧で似せれば完成だ。二人は似た背格好で、顔の形も近い。うまく春明に化けた鈴花は満面の笑みで、臥室しんしつへと向かう春明に手を振る。

「じゃ、夕刻には帰って来るわ。おいしいお土産持って帰るから、よろしくね」
「……この貸しは大きいですからね」
「あら、私のしんだいで寝られるのよ? 天蓋付きなんだから、公主《ひめ》様気分を味わえばいいわ」

 退屈過ぎますとぼやく春明にもう一度手を振って、鈴花は景雲宮を後にし、堂々と後宮から市井しせいへと出られる門へと向かうのだった。
 後宮はぐるりと郭壁で囲まれており、外とつながるのは西の門だけだ。北にも非常用に門はあるが、常は閉ざされている。壁の向こうは堀で、門からは跳ね橋がかかっていた。見えてきた厳重な門に鈴花はおぉと声を漏らす。後宮に入った時は輿こしに揺られていたので、外を見ていなかったのだ。

(昔は入ったら出られなかったんだもんね~)

 後宮に入った妃嬪や宮女は俗世から切り離され、皇帝に身を捧げるべく一生を後宮で過ごす時代もあった。今は人員の交代も必要ということで、適宜入れ替えられるし、休暇には親元に帰るぐらいは許されている。さすがに上妃ともなるとおいそれと後宮を空けるわけにはいかなくなるが……。

 鈴花は門の手前にある詰め所で、警備をしている宦官の武官に予め手に入れておいた外出許可証を出し、笑顔を振りまく。極力声を出さずに手続きを済ませた。鈴花は春明に声を似せられなくはないが、得意ではないのでぼろが出ては困る。春明の名が帳簿に記録されたのを見届け、鈴花は軽く会釈をする。

「陽が落ちるまでに帰らなければ、後宮での籍は無くなるからね」

 門番から帰りの事を念押され、鈴花はこくりと頷いた。昔に比べれば規則が緩くなったとはいえ、外泊は許されていない。しかも陽が落ちる前に帰らなければならず、少しでも遅れれば即刻後宮での職を失うのだ。だからたいていの外出者は、早朝にこの門を抜ける。

(今は昼前、時間は十分あるわ)

 鈴花は門番に会釈をし、待ちに待った外へと足を踏み入れるのである。
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