とある騎士の遠い記憶

春華(syunka)

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第2章:生い立ち編1~訓練施設インシデント~

第9話 インシデント5:後始末

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ベアトレスは隣室でセルジオの替えのころもと乳と血液で汚れたマットとシーツ等寝具の交換準備をしていた。

「湯の用意も」とポルデュラから申し付かった事を思い出し浴槽よくそうに入れる湯の準備の為、各階にある水屋へ向かう。

曲者くせもの始末しまつしました。
マデュラ子爵家の乳母にございました」

バルドの言葉が蘇えり、身震いを覚える。

『あの様ににこやかに・・・
話しかけてこられたのに・・・・
私は一切疑いを持たなかった・・・・』

ベアトレスは自分がいかに心やすらかにいられる環境で過ごしてきたか、そして、自分が知らない所で今も戦闘が続いているのだと思うと将来の騎士団長の乳母であることの重大さをはじめて認識したのだった。

セルジオを初めて抱き上げた3ヶ月前までとかけ離れた状況に胸が苦しくなる。水屋につく頃には涙が溢れ、ポタポタとこぼれ落ちていた。

水屋は主に厨房ちゅうぼうで訓練施設内での訓練者、従事する者への食事と入浴時に使う湯の提供をしている。水屋内には各貴族の家から侍従、調理人、使用人(女官)が従事していた。

ベアトレスは、水屋の扉の前で一呼吸おく。
涙をぬぐい、姿勢を正し、大きく息を吐いた。
水屋の扉を開け水屋内に向かって声を掛ける。

「恐れ入ります。エステール伯爵家乳母のベアトレスです。
セルジオ様が沐浴もくよく をなさいます。
湯をお運び頂けませんか?」

水屋内にいた全ての者の視線が一斉にベアトレスへ向けられた。

「ベアトレス殿!!大事ございませんでしたか!
セルジオ様のお部屋が大層たいそう騒がしく・・・・
先程様子を伺いにまいりました・・・・」

エステール伯爵家の侍従フィデリオが、真っ先に興味深々の眼差しで駆け寄ってきた。

『無理もないことですね・・・・
私も大きな声を上げてしまいましたし・・・』

ため息交じりの微笑みで呼応する。

「お騒がせ致しました。大事ございません。
仔細しさいは後ほど、バルド様から皆様へお話しがあると存じます。
それまで暫しお待ちいただけますでしょうか?
今は、セルジオ様の沐浴もくよくのご準備を致したく、お願いできましょうか?」

ベアトレスはセルジオの乳母ではあるが、エステール伯爵家では新参者しんざんものである事を心得ていた。

そこで自身の役割以外は口を出さず、常ににこやかに接する事をおこたらなかった。

このベアトレスの分け隔てない対応は訓練施設内で評判がよく、頼み事も快く受け入れられていた。

「それは!ごもっともな事。委細いさい承知致しました。
早速、湯をお運び致します故、お部屋にてお待ち下さい」

フィデリオは女官のエルマとヘルタへ湯を沸かす指示を出す。

「それでは、よろしくお願い致します。私はセルジオ様の居室へ戻ります」

ベアトレスは水屋内に挨拶をし、セルジオの居室へ小走りで戻った。

トンットンットンッ
カチャリ

ベアトレスはセルジオの居室の扉を叩くと中でセルジオへ治癒の魔術を施しているポルデュラの邪魔にならないようにそっと扉を開けた。

「ポルデュラ様、バルド様、ベアトレスです。
セルジオ様の替えの衣と・・・・」

言葉をかけながら扉を開けるとバルドがセルジオの頬を両掌で包み込み、この3ヶ月の内では見せた事がない優しい眼差しを向けていた。

ギクリッ!
ドサリッ・・・・

ベアトレスは見た事のないバルドの表情に息を飲んだ。手にしていた替えの衣と寝具を床に落とす。

『もしや!セルジオ様の御身になにか・・・』

頭に浮かんだ黒々としたモヤを首を左右に大きく振り払いさった。
床に落とした替えの衣と寝具はそのままにセルジオのベッドへ近づく。

「ポルデュラ様!バルド様!セルジオ様は・・・・!」

バルドはその優し気な眼差しのままベアトレスへ顔を向けた。

「ベアトレス様!セルジオ様がお目覚めになりましたっ!!」

ベアトレスはその場で口を両掌でおおう。涙が溢れポルデュラとバルドの姿がゆがんだ。

「ベアトレス、何をしておる。早うセルジオ様を抱いて差し上げろ」

ポルデュラが微笑みを向け、ベアトレスをセルジオのそばいざなった。

ベアトレスは床に落したセルジオの替えの衣と寝具のこと等すっかり忘れ、セルジオに両手を伸ばす。吐き出した乳と血液がいささか乾き、衣がガサガサと音を立てた。

心なしか震える手でセルジオを抱えた。

ポタッポタッポツリッ・・・・
溢れ出る涙がセルジオのほほらす。

「・・・・うっ・・・・ほっ・・・・
ふぅ・・・・本当に・・・・よろしゅうございました・・・・」

ベアトレスは両腕の中で優しく、しっかりとセルジオを抱えた。

「まずは沐浴もくよくで汚れを落として差し上げろ。
バルドはその間に寝所を整えてやれ」

ポルデュラは半ば放心しているベアトレスとベアトレスが床に落したセルジオの替えの衣と寝具を拾うバルドに指示を出す。

「はっ!」

「はいっ」

バルドとベアトレスはボルデュラの指示に呼応する。

パタンッッ

バルドは寝具が挟まり、扉が開いたままの状態から外の様子を一瞬、うかがうと扉を閉めた。

ポルデュラはこれから3人で話しをする手順を説明する。

「バルド、ベアトレス。
これよりの話はセルジオ様が落ちつかれてからだ。
私は一旦、部屋へ戻る。全て整った後、
セルジオ様と共に私の部屋へくるがよい。お茶の用意をしておこう」

ポルデュラは心なしか楽しそうにセルジオの居室を出ていった。
ポルデュラを見送ったバルドとベアトレスはそれぞれ後始末に入る。

「バルド様、私はセルジオ様をこのまま沐浴もくよく
お連れしてもよろしいでしょうか?」

ベアトレスはセルジオを抱き隣室へ向かう事を伝える。

「・・・・ベアトレス様、私もご一緒致します。
セルジオ様の寝所を整えますので、しばらくそのままお待ち頂けますか?」

バルドは何かを感じているのか?セルジオの居室周囲に気を巡らしている様だった。

セルジオが目覚めたことでホッとしていたベアトレスはバルドのその行動に再び緊張し、身体を強張こわばらせた。

ベアトレスの様子にバルドはそっと言葉を繋ぐ。

「ベアトレス様、念の為にて。ご案じなさいますな」

バルドは乳と血液で汚れたマットとシーツを取替ながら穏やかな声でベアトレスに伝えた。

「ベアトレス様・・・・
今まで、この様な出来事できごとにあわれた事はございますまい。
乳と血が入り混じるこの部屋の臭いにもよくえておいでです。
お身体もお気持ちもさぞやお疲れの事と思います。
今しばらく、セルジオ様と共にそちらの椅子に腰かけてお待ち下さい」

バルドのいつになく優しい物言いにベアトレスは黙って従った。

「感謝致します・・・・実は私・・・・
足元がふらついておりました・・・・
このままではセルジオ様を落としてしまうと思っていたところです・・・・」

ベアトレスはセルジオを抱えたまま倒れそうだったわが身を椅子へ滑らせた。

『本当によかった・・・・セルジオ様・・・』

ベアトレスは自身がこのまま意識を失わない様にセルジオの瞳をじっと見つめる。

『・・・セルジオ様?』

かすかな違和感を覚え、うつろになりかけていた意識が戻る。

「バルド様っ!
セルジオ様のご様子が先程までと・・・・
少々瞳の色が濃くなられたか?」

感じた違和感をバルドへ伝える。

「・・・ベアトレス様、
後ほどポルデュラ様のお部屋へ伺います。
その際にベアトレス様の感じておられる仔細が明らかになりましょう。
今しばらく、ゆるりとなさいませ」

バルドはベアトレスの疲労を少しでも回復させてから『始まりのはなし』を伝えたいと思っていた。

しばらくするとバルドは汚れたセルジオの寝所の準備を整え、ベアトレスへ声をかける。

「ベアトレス様、お待たせをいたしました。
隣室へセルジオ様の沐浴へまいりましょう」

ベアトレスはセルジオを抱えたまま、椅子から立ち上がる。

ガタッ!
フワッ・・・・フラリッ!

ベアトレスは足元がふらつき、倒れそうになる。

ブワッ!
ガッシッ!

バルドが慌ててベアトレスへ駆け寄り、セルジオを抱えるベアトレス毎マントでくるみ身体を支えた。

「ベアトレス様、大事ございませんか?
足元が・・・・セルジオ様は私が隣室へお連れいたしましょうか?」

バルドはベアトレスからセルジオを受け取る。

「バルド様・・・・私・・・・恥ずかしながら・・・・
足元が先ほどからおぼつかないのです。
立っておりますだけでフラフラとして・・・・」

申し訳なさそうにバルドに自身の状況を説明した。

「いえ、その様に気丈なお振舞ふるまい
ベアトレス様だからこそできることかと存じます。
この後のポルデュラ様からのお話もございます。
あまり、ご無理はなさらないで下さい」

バルドはベアトレスの身を案じていた。

ベアトレスは呼応する。

「バルド様、ありがとう存じます。隣室までセルジオ様を頼みます」

ベアトレスはセルジオをバルドの両腕に預けた。

チャポンッポチャッ・・・・
ポチャッ・・チャポン・・・・

セルジオの沐浴中、バルドは部屋の扉を開けたままにし、廊下を行きかう人物を確かめていた。エステール伯爵家の侍従フィデリオ、女官のエルマとヘルタが取替の湯を何度か運び入れた以外は廊下を通る者はいなかった。

『今の所、動くそぶりはない。
ポルデュラ様は恐らく既にラドフォール公へお話下されているだろう・・・
後はベアトレス様へお話ししてから動く事が肝要かんようだな』

バルドはポルデュラと話ていたままの策を進めると固めた。

騒ぎが大きくなる事を未然に防ぐには確かな情報をいち早く、より多くの者へ伝えるに限る。

バルドは湯を運び入れる侍従のフィデリオとエルマ、ヘルタにポルデュラの部屋から戻り次第、水屋で従事する者全てに事の次第を伝える旨の通達を頼んだ。

『これで、事情を伝える元は限られる』

バルドが恐れていた事は事実と異なる「うわさ」が伝播でんぱする事だった。「うわさ」は出所によっては虚偽きょぎ真実しんじつに変わる事もあり得る。かつてはバルド自身がその知略ちりゃく謀略ぼうりゃくを巧みに使い敵方を翻弄ほんそうさせてきた。

『今は、セルジオ様の御身を守る、ただその一念でよい。
セルジオ様をお守りする事がエステール伯爵家をお守りする事、
シュタイン王国をお守りすることになるのだからっ!』

バルドは心の中で自身に誓いを立てた。
セルジオの沐浴後、バルドとベアトレスはポルデュラの部屋へ向かう。

ポルデュラの部屋の扉を叩く。中へ入るとバラの香りが立ち込めていた。

「よう参られた。さっ、さっ、これへ」

バラの花びらを浮かべたお茶が焼き菓子と共にテーブルに並ぶ。

「セルジオ様はこちらへ」

長椅子の上にマットが乗せてある。セルジオの為に用意させたのであろう。

『お優しい方・・・・』

ベアトレスはポルデュラの心使いに胸が熱くなる。

「ポルデュラ様、感謝いたします」

ベアトレスは素直に言葉に乗せた。

「アレキサンドラ殿がわざわざ実家より招いたと聞いたが、
セルジオ様はそなたが乳母で命拾いをしたの」

ポルデュラはベアトレスへ微笑みを向ける。

「左様でございます。
ベアトレス様のセルジオ様への愛情はひとかたならぬものと感じております」

バルドもベアトレスを称賛する。

「・・・・私はその様な・・・
お二方様よりその様に仰って頂けるなど恥ずかしい限りにございます。
先程の一件では慌てふためき、バルド様の様に見事なお働きを
遂げているでもなく・・・ほとほと恥ずかしく・・・」

ベアトレスは数時間の間に起こった出来事の発端の一部を担った事を悔いていた。

「何を言うか!
そなたの乳がセルジオ様の心と身体を作っているのだぞ。
そなたであったからこそセルジオ様は再び目覚める事ができた。
セルジオ様の御身はそなたとバルドの双方あってこそ、
守る事ができるというもの。ゆめゆめその様に己を非難するな!
乳の出が悪くなるっ!」

ポルデュラは良質な乳は乳母の精神的な作用で左右される事を熟知していた。

「!はい!承知致しました。
そうですね。私の役目は乳母にございました」

ベアトレスの言葉にポルデュラは満足気だった。
ポルデュラは2人に焼き菓子とバラの花びらが浮かぶお茶をカップに注ぎ、すすめる。

「話はしばしゆるりとしてからにいたそう」

ポルデュラは、そう言うと自らも美味しそうに焼き菓子とお茶を口に運んだ。
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