昆陽伝

畑山

文字の大きさ
1 / 3

カッパと昆陽

しおりを挟む
 江戸中期、享保の大飢饉の際、多数の餓死者を出したことから、その対策として、八代将軍徳川吉宗は、蕃藷考を書いた青木昆陽に、甘藷かんしょの栽培を小石川にて試作せていた。
 そんな折、昆陽は奇妙な噂を聞いた。
 カッパが人を襲っている。
 飢饉対策として、甘藷の栽培だけではなく新田の開発も行われていた。そのため、山や森を切り開き、田畑を広げようとしていたのだが、その山や森でカッパが人を襲っているというのだ。甘藷の栽培に関しては一段落ついている。いてもたってもいられず、その噂を確かめるため旅をすることにした。

 飢饉の爪痕は各地にありありと残っていた。人々の顔に生気は無く、飢饉の恐れや恐怖がべったりと土地に張りついていた。
 米は気温や害虫に影響を大きく受ける。春から秋まで、日照りになれば実は小さくなり、雨が多ければ穂が水につかり腐る。気温が低ければ成長は遅れ、病害虫が発生する。甘藷ならば、芋も蔓も食すことができる。痩せ地で育ち、病害虫にきわめて強く、多少天候が悪くてもある程度の収穫は期待できる。冬の保存は難しいが、それさえできれば保存も利く。
 飢饉の爪痕を感じながら、なんとしても甘藷の栽培を成功させ、人々を飢饉から救わねばならぬと昆陽はあらためて誓った。
 
 牛久という村に来た。村の古老の話によると、昔から、山や森にカッパはいたそうだ。今まで、人に害を与えるようなことは、ほとんどなかったそうだ。だが飢饉の影響で、人々は食べ物を山や森に求めた。沼の魚を捕り果実を採った。木を切り倒し、山や森の水を奪い田畑を作った。人にとっては良いことだ。新田が開発されれば、飢える者が減る。だが、カッパにとっては、おのれのすみかや食い物を人間が奪いにきた。そう見える。
 カッパは音もなく忍び込み、人を殺し食った。カッパを退治しようと、人を出し何度も山狩りをしたが、カッパは人が大勢いるときには出てこなかった。出てくるときは、人が一人でいるとき、しかも、大便をしているときにしか出てこなかった。
 槍、刀、いかな達人といえども、大便をひねり出しているときは無防備であった。袴を下ろし尻をむきだし、軽く目をつむったりする。そこをカッパは狙う。いざ出さんと力んだところで、尻から、ずぼりと、爪の生えた手でえぐる。そのまま腸を引きずり、攫っていくのである。
「尻こだまを奪っていくんだわ」
 村の古老は笑いながら言った。
 最近では人の味を覚えたのか、河童が村に降りてくることもあるそうだ。村人は皆、背後を気にしながら便を出しているそうだ。
「人の方が悪いのかもしれん」
 昆陽は古老の話を聞きながらそう思った。山や森はカッパのすみかなのだ。それを荒らしているのは人間だ。だが、新田の開発をしなければ、人々は飢え苦しむことになる。泣くことさえできず死ぬ赤子、食べ物を巡って争う人達、たとえカッパのすみかを奪い命を奪っても、自らの家族を同胞を守りたいと思うのが人という生き物だ。それが愚かと言える者は、腹が満たされているからそう思うのだ。

 昆陽は、ふかした甘藷かんしょを食べながら、一人森の中に入った。ところどころ、皮が剥がれ枯れた木が何本もあった。飢えた百姓が皮を剥いで、すぐ下の薄皮をゆがいて食べたのだろう。飢えというものの恐ろしさを改めて感じた。
 カッパが出ると噂のある、沼の近くで、昆陽は袴を下ろした。下帯を外し、それから、杖を支えに、手を前に両手で杖を握りしめ、頭をまっすぐに、むき身の尻を突き出した。
 半刻ほど、その姿勢を保っていると、尻毛がちりちりと逆立つような感覚がした。地面を這う何か、昆陽の肛門が異質な存在を敏感に感じた。草むらを這う生き物、体表は緑、頭に皿があり、背には甲羅を背負っている。カッパだ。

 カッパは地面をゆっくりと移動しながら、昆陽の尻に近づいた。目と鼻が尻の先、カッパが昆陽の尻めがけ、腕を突き立てようとした瞬間、昆陽は屁を放った。
 カッパの顔の前である。屁は、カッパの顔面にたたきこまれた。
 昆陽は、甘藷を食べると、屁がよく出ることに気がついていた。甘藷栽培の傍ら屁の研究も密かに行っていた。一般的に肛門の皺の数が多いほど屁の威力は増すと言われている。一度、弟子におのれの肛門の皺の数をかぞえさせたことがある。通常は二十から三十門程度、だが、昆陽の肛門の皺は百二十八門あった。常人の七倍、尋常でない皺の数であった。その昆陽の屁である。カッパは悶絶して吹き飛んだ。
 それから、昆陽は持っていた杖で、もだえ苦しむカッパの頭の皿をたたき壊した。皿を壊されたことにより神通力を失ったカッパは山の中へと帰って行った。
 青木昆陽は屁を使ったカッパの倒し方と、甘藷の栽培を世に広め、人々を飢饉から救ったと言われている。

 了
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

無用庵隠居清左衛門

蔵屋
歴史・時代
前老中田沼意次から引き継いで老中となった松平定信は、厳しい倹約令として|寛政の改革《かんせいのかいかく》を実施した。 第8代将軍徳川吉宗によって実施された|享保の改革《きょうほうのかいかく》、|天保の改革《てんぽうのかいかく》と合わせて幕政改革の三大改革という。 松平定信は厳しい倹約令を実施したのだった。江戸幕府は町人たちを中心とした貨幣経済の発達に伴い|逼迫《ひっぱく》した幕府の財政で苦しんでいた。 幕府の財政再建を目的とした改革を実施する事は江戸幕府にとって緊急の課題であった。 この時期、各地方の諸藩に於いても藩政改革が行われていたのであった。 そんな中、徳川家直参旗本であった緒方清左衛門は、己の出世の事しか考えない同僚に嫌気がさしていた。 清左衛門は無欲の徳川家直参旗本であった。 俸禄も入らず、出世欲もなく、ただひたすら、女房の千歳と娘の弥生と、三人仲睦まじく暮らす平穏な日々であればよかったのである。 清左衛門は『あらゆる欲を捨て去り、何もこだわらぬ無の境地になって千歳と弥生の幸せだけを願い、最後は無欲で死にたい』と思っていたのだ。 ある日、清左衛門に理不尽な言いがかりが同僚立花右近からあったのだ。 清左衛門は右近の言いがかりを相手にせず、 無視したのであった。 そして、松平定信に対して、隠居願いを提出したのであった。 「おぬし、本当にそれで良いのだな」 「拙者、一向に構いません」 「分かった。好きにするがよい」 こうして、清左衛門は隠居生活に入ったのである。

与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし

かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし 長屋シリーズ一作目。 第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。 十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。 頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。 一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。

花嫁

一ノ瀬亮太郎
歴史・時代
征之進は小さい頃から市松人形が欲しかった。しかし大身旗本の嫡男が女の子のように人形遊びをするなど許されるはずもない。他人からも自分からもそんな気持を隠すように征之進は武芸に励み、今では道場の師範代を務めるまでになっていた。そんな征之進に結婚話が持ち込まれる。

滝川家の人びと

卯花月影
歴史・時代
勝利のために走るのではない。 生きるために走る者は、 傷を負いながらも、歩みを止めない。 戦国という時代の只中で、 彼らは何を失い、 走り続けたのか。 滝川一益と、その郎党。 これは、勝者の物語ではない。 生き延びた者たちの記録である。

甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ

朽縄咲良
歴史・時代
【第8回歴史時代小説大賞奨励賞受賞作品】  戦国の雄武田信玄の次弟にして、“稀代の副将”として、同時代の戦国武将たちはもちろん、後代の歴史家の間でも評価の高い武将、武田典厩信繁。  永禄四年、武田信玄と強敵上杉輝虎とが雌雄を決する“第四次川中島合戦”に於いて討ち死にするはずだった彼は、家臣の必死の奮闘により、その命を拾う。  信繁の生存によって、甲斐武田家と日本が辿るべき歴史の流れは徐々にずれてゆく――。  この作品は、武田信繁というひとりの武将の生存によって、史実とは異なっていく戦国時代を書いた、大河if戦記である。 *ノベルアッププラス・小説家になろうにも、同内容の作品を掲載しております(一部差異あり)。

旧式戦艦はつせ

古井論理
歴史・時代
真珠湾攻撃を行う前に機動艦隊が発見されてしまい、結果的に太平洋戦争を回避した日本であったが軍備は軍縮条約によって制限され、日本国に国名を変更し民主政治を取り入れたあとも締め付けが厳しい日々が続いている世界。東南アジアの元列強植民地が独立した大国・マカスネシア連邦と同盟を結んだ日本だが、果たして復権の日は来るのであろうか。ロマンと知略のIF戦記。

日露戦争の真実

蔵屋
歴史・時代
 私の先祖は日露戦争の奉天の戦いで若くして戦死しました。 日本政府の定めた徴兵制で戦地に行ったのでした。  日露戦争が始まったのは明治37年(1904)2月6日でした。  帝政ロシアは清国の領土だった中国東北部を事実上占領下に置き、さらに朝鮮半島、日本海に勢力を伸ばそうとしていました。  日本はこれに対抗し開戦に至ったのです。 ほぼ同時に、日本連合艦隊はロシア軍の拠点港である旅順に向かい、ロシア軍の旅順艦隊の殲滅を目指すことになりました。  ロシア軍はヨーロッパに配備していたバルチック艦隊を日本に派遣するべく準備を開始したのです。  深い入り江に守られた旅順沿岸に設置された強力な砲台のため日本の連合艦隊は、陸軍に陸上からの旅順艦隊攻撃を要請したのでした。  この物語の始まりです。 『神知りて 人の幸せ 祈るのみ 神の伝えし 愛善の道』 この短歌は私が今年元旦に詠んだ歌である。 作家 蔵屋日唱

裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する

克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。

処理中です...