建築家

闇之一夜

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 彼は建築家だった。日本有数の一級建築士と呼ばれ、その作品は膨大で商用ビル、庁舎をはじめ多岐の分野にわたる。その独特の作風、特に四角と円を組み合わせたマンションや美術館は宇宙的かつ未来的と絶賛され、海外からも高い評価を得ている。
 二〇××年、内部に階段を多用し、各階の行き来の自由度を限界まで高めた画期的構造を持つ高層ビルで、彼は建築業界で最も権威のあるプリツカー賞を受賞。世界に名を知らぬ者のない比類の建築家になった。
 彼は大型専門で一般家屋の設計はしなかったが、受賞ののち三十年の歳月をかけて東京郊外の一画にビル街をつくり、その立ち並ぶ高層マンションには、今も膨大な住民が暮らしている。

 マスコミ嫌いの彼はほとんどメディアの取材は受けないが、たまに週刊誌の表紙を飾る彼の山高帽にパイプをくわえた堀の深いダンディな顔は多くの女性を魅了し、「日本一パイプの似合う男」という、彼にはあまり嬉しくない称号をいただいた。雑誌の特集ページでは、「いやぁ、ビジュアルよりも、やはり作品で誉められたいですね。私は生粋の建築バカなんでね」と答えている記事のわきに、彼のややはにかみながらも、実力者のどっしりとした貫禄たっぷりに苦笑する華やかな写真が掲載されていた。

 しかし、彼は自分の建てた家に住まなかった。建築家なら住む家くらい自分で建てそうなものだし、そうすれば家族も喜ぶと思うのだが、そうはしなかった。ビルやマンション専門でも、一戸の家屋をつくるくらい造作もなかったはずだが、東京中を探しても彼の住んでいる家は影も形もなかった。それもそのはずで、彼は都内のうらぶれた駅前通りに、暗い林に丸めて放られたゴミくずのようにぽつんとたたずむ、つぶれかけた格安アパートの一室に住んでいたのだった。
 なぜ世界的な建築士がそんな部屋に住んでいるのかと世間は思ったが、せわしい世をうとむ変わり者の彼のこと、そのくらいはしそうだ、と納得した。あるいは家族を第一に思い、有名になりすぎた身を隠したかったのかもしれない。
 そのへんはテレビや雑誌のインタビューでもいっさい答えないので、その理由を知るものはない。住所も公開されず、熱心なファンも、彼の住みかを見つけることは出来なかった。




 ある気持ちのいいはずの朝。彼はうんざりと暗い気分で玄関にすわり、靴を履いていた。今日は仕事の日なのだ。これで気分よくなどいられるわけがない。後ろからあわただしく女房が来て、ゴミを出すのを忘れないよう言うと、またせわしく引っ込んだ。

 このボロアパートの一室には部屋など三っつしかなく、それも襖で仕切っているだけなので、一番近い台所で皿を洗う音がここまでガチャガチャと聞こえてくる。玄関わきには、家族四人の数日分の生活が詰まり、赤青黒とさまざまなどぎつい色のあふれた、深海魚の透けた胃のごとき醜いゴミ袋がそっくりかえっており、彼をむかつかせた。
 しかし、出さないわけにはいけない。つかむ前にドアを薄くあけ、隙間から廊下に誰もいないのを確認してから、ゆっくりと押す。ここに来てもう二十年は経つので重くなっていて、少し持ち上げて押さないと、ギギギイ! とすごい音が響くので、「さあこれから、ここに住む奴が出ます! 見てください!」とでも騒ぐようで、すごく嫌だった。極力、誰にも会いたくなかった。

 やっと廊下に出ると、汚い袋を提げて小走りに走った。出口で隣の奥さんと鉢合わせした。「おはようございます」と言ったが、丸々した奥さんはなにも返さずに目をそらし、脇を抜けて行った。一気に胸が悪くなる。自分の部屋に戻った音がしたので、おおかた自分のようにゴミ出しだったんだろうが、最悪だ。
 挨拶を返されれば、まだ良かった。住民全員が返さないわけではないが、誰が返す、返さない、などを把握はしていなかった。それ以前に、そもそも住民の顔を覚えていなかった。会えば極力見ないようにし、逃げ回っていたからだ。
 ここに二十年住んでいて、誰が住んでいるのか、あるいはいなくなったり入ってきたのか、そんな事情はいっさい知らなかった。たまに新入居者が挨拶に来たと女房が報告するが、彼が一人でいたときに、それが来たことはない。

 彼は朝からうんざりしたが、これから一日、こんなのとは比べ物にならない不愉快が散々浴びせられ、脅され、そのたびに骨の芯まで慄き、恥をさらして傷つくのだ。それも酒を飲めばぱっと忘れるどころか、何かにつけて思い出し、心が血を流す不快なトラウマを、仕事をする限り、これからも生涯にわたり、たゆまず量産しつづけるのだ。
 彼は根はいい加減だったわりに、ささいな事を気にするたちだった。理由をつけてずる休みしたくてしょうがなかったが、今度仕事場から連絡が行ったら、女房も子供たちも、さすがに怒り出すだろう。家計はぎりぎりだった。

 彼はバイトに行った。交通誘導は一週間で泣いて帰ってくるのがデフォルトだったが、ここは偶然、楽な現場が多く、まだ二週も持っている。だがそのうち仕事が出来ないことがバレて散々怒られ、いやになって戻ってくるだろう。新人のうちは出来なくても給料泥棒できるが、一週間しても仕事を覚えられない、失敗しかしない、となれば先方は金など払いたくないので、なにやってんだ、とあれこれ攻撃してくる。
 もとより彼は警備に向いていなかった。家族に給料がよくてすぐ雇ってもらえるから、と無理強いされただけである。警備会社のほうも彼が向かないことなどは一目見て分かったはずだが、一時の使い捨てのために雇ったので、そこはお互い様だった。

 しかし彼に向いた仕事などなかった。何をしても嫌になって続かず、すぐに戻ってきた。それは無理もなかった。なぜ自分がバイトなどをしなければならないのか、本当はこんなことを苦労してする身分ではないのに、なぜこんな目に遭わなくてはならないのかと、自分の今の境遇を、どう考えても納得できなかったのである。


 アパートに戻れば、家族の冷たい視線から、襖で隔てて作った自分の「部屋」に逃げて、机の引き出しの奥から数枚の白い紙を出して眺める。そこには、どれも直線が縦横に描かれ、その内や外をコンパスを使ったきれいな円形がいくつも彩っていた。設計図だった。それらはマンション、美術館、庁舎、企業ビルなど、大規模な建造物の構造を記した企画書だった。

 彼は自分が、無数のビルを建てて成功を収めている世界で最も名の知れた建築家だと「思い込んで」いた。だが実際には一軒も建っておらず、設計図しかなかった。彼の中では、彼が建築業界で最も権威のあるプリツカー賞の受賞者ということになっていたが、何も建てていないのだから、そんなものをもらえるはずもない。
 彼の建築は、ただ紙の上と想像の産物でしかなかった。実際の彼は無職の五十前のオヤジで、女房と子供に食わせてもらっている、ただの駄目男のクズに過ぎなかった。

 しかし、どういうわけか、そのことを、なんと彼自身が知らなかったのである。どこかでなんとなく察知はしていても、それを自覚は出来なかった。もし自分が本当はなんなのかを知ったら、命に関わると信じていたのだ。
(自分がダメ人間だと認めたら終わりだ。もう生きていけない)
(だから絶対に、自分は憎むべき無能のカスなどではなく、社会で歓迎され、愛される成功者でなければならない……)
 それで本当の自分をいっさい無視し、見ないようにした。
 彼は、自分の顔も容姿も知らなかった。
 彼は、いないも同然だった。

 しかし、生活することは現実である。妄想は現実に勝てず、あっさり崩れる。
 彼は、土台もなにもないところに家を建てようとした。自分の本当の姿を認めず、自分がいもしないままで、それを誤魔化しながら仕方なくバイトをし、当然やる気のかけらもなく失敗した。その繰り返しで何十年も過ごし、家族が食わしてくれるのをいいことに、己を変えようとはしなかった。
 こうして彼は何もないまま、存在しないまま、ただ歳だけ食った。
 それでも彼は建築家だった。


 彼の妄想した全ての建築の設計図を描いたわけではない。今、残っているのはたった数枚である。三十年かけて東京に巨大なビル街を造り、多くの人を住まわせたことになっていたが、それらのビルの設計図はない。
 世の人々が長年かけて地道に身につける技術、伸ばす才能、それに見合う成果、それらのごく当たり前のものが、彼の場合には、ことごとく嘘でしかなかった。
 むろん、彼も仕事を覚えて何十年かけて働き、世間に貢献して喜ばれ、生きる充実感を得ていた。たんに、それらが全て彼の妄想だっただけである。そうしたと思い込んでいただけで、実際には何もしていなかっただけである。

 ただ嘘と誤魔化しに明け暮れて歳月は過ぎ、なにもせず、ただ口だけ吠えるうちに、心身は衰え、死が近づいてくる。こういうのを世間は「不幸」とか「悲惨」とか言うのだろうが、彼は、きっと世の連中が自分を知ったら、ただ家族に甘やかされていい気になって、のうのうと生きているだけのふざけた奴だとさげすみ、攻撃してくるに決まっている、と信じた。それでますます人と関わらず、引きこもることになった。彼にとっては、人付き合いイコール破滅だった。
 最近はよく腰が痛み、遠くの景色がぼやけるようになってきている。五十を過ぎればもう老人であり、人生(こんなものが人生だとしたら、だが)あともう少し、というところである。
 それは実は、彼が心のどこかで願ってきたことだった。現実のない、隙間風すら吹かぬ、なにもない薄っぺらい紙のような心のわずかな奥底で、そっとひそかに求めていたこと。
 それが「死」である。

 それでも彼は建築家だった。薄いぺらぺらの設計図しかない、偽りの建築家だった。
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