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【前編】王家に嫁ぐ
しおりを挟む父に呼ばれ執務室に向かう途中、玄関ポーチの正面に見事なバラがあることに気づいた。
アディンセル公爵家において代々大切にされている大きな花器に、淡い紫色の美しいバラが五十本は活けてあった。
大きく花をつける品種なのか、ここまでひとつの花が大きいバラは初めて見た。
このバラはどうしたのだろうと思いながら、執務室のドアをノックする。
「お父様、お呼びでしょうか」
「入りなさい」
父の機嫌は良さそうで、そう悪い理由でここに呼ばれたわけではないようで少し安心する。
「おまえの結婚相手が決まった」
「……はい」
「王室からおまえをメイナード第一王子殿下の婚約者にとの打診があり、昨日お受けすると返事をしたところだ。二人が王立学園の最終学年になるいいタイミングだ。
婚約式は再来月、結婚式は卒業後すぐとのことだ。何か言いたいことはあるか?」
自分の結婚相手が決まったという話を、食事の用意が整いましたという侍女の言葉と同じようにただそのまま聞いて受け止める。
何か言いたいことはあるかと父は言ったが、『私の言いたいこと』を聞き入れてくれたことは幼少期の記憶に遡ってもただの一度も無い。
父のその言葉は、一応は娘に慮ったという父自身の『あるべき父親像』を撫でるためだけのものだ。
「特にありません。婚約につきまして謹んでお受けしたいと思います」
「そうか。ではメイナード殿下から届いたバラのお礼状を書いて送るように。もう下がってよい」
「はい」
執務室を出て、先ほど見たバラの前で足を止める。
ここまで大きく花をつける淡い紫色のバラなどあまり見かけないと思っていたら、メイナード殿下からの贈り物だったとは。
これだけ本数があるのに、花びらに傷や折れがある花が一つも見当たらない。
届いた時がその花の最高の一瞬というものを、こんなにも集められるのだという力を見せられた気がした。
──私がメイナード殿下の婚約者に決まった……。
結婚というものは、父親から与えられるものだと思って生きてきた。
公爵家の娘に生まれたならば、いつか父の駒として然るべき『家』に嫁ぐ、そう教えられてきた。
それでも夢を見ていた。
愛し愛される日々を。
婚約相手は私と同じ年でこの王国の第一王子。
王立学園で『歴史』を共に選択していて同じクラスだ。
選択歴史科はクラス編成の三つの教科のうち人気がないのか生徒数が一番少ない。
メイナード殿下は淡い金色の髪、藍色に近い青い瞳はあまり感情を宿さずいつもただ静謐さだけを湛えている。
軽薄か薄情かどちらかの印象を与えがちな薄いくちびるは、本人に軽薄さのかけらもないことから薄情に見えてしまうのが、メイナード殿下の外見による唯一の疵だろう。そのくらい外見において欠点が見当たらない。
そして、いずれこの国の頂きに立つ者としての器量を持っている。
真面目で努力も怠らない。
常に自分の立場となすべきことを考えていると分かる。
完璧なメイナード殿下の隣に立つためには自分もまた完璧を求められ、それに応えていくしかないという重さに気持ちが沈んだ。
活けられているバラの中で、僅かに俯いている花をそっと一本抜く。
私宛に贈られた花なのだから、一本くらい貰っていっても叱られはしないだろう。
棘のない品種かと見紛うほどきれいに茎まで整えられていた。
それは父に求められ続けてきた『私』とどこか似ている。
棘を持って生まれてきたのにそれを隠さなければならず、つるりと美しく見せている。
この頃その棘は、内側から私をちくりと刺してくる。
バラは、多くの花の中で一番嫌いな花だ。
でも、メイナード殿下がくださったのだ、きっと殿下がお好きなお花なのだろう。
今日からバラを好きになりたい。
部屋に戻りグラスにバラを挿して机に置いた。
グラスの高さと茎の長さが少し合わなくて、バラは不安定に俯いている。
指先でそっと触れると花がくるりと向こう側を向いた。
バラがこちらを見ていないことに少しほっとして、父に指示されたメイナード殿下への手紙を書き始めた。
珍しく家族が揃った夕食が終わる頃、父は私の婚約が調ったことを話した。
四つ年上の兄ユージーンは、「これから忙しくなるな」と私に微笑を見せた。
私より二つ下の妹チェーリアは早くも婚礼ドレスはどうなるのかしらと目を輝かせる。
母はそんな私たちを穏やかな眼差しでみつめてくれていた。
「私の婚約を喜んでくださって嬉しいですわ。これからのことを思うと少し怖い気持ちもありますが、王家のために国のために、そしてアディンセル公爵家のためにしっかり学んでいこうと思います」
私がそう言うと父はやっと笑みを見せた。
父は盤上に置いた私という駒が、自分が思い描いた通りに動いているのを見て取り安心したのだ。
綿密に、何手も先読みして置かれた駒。
不敬を承知で言えば、この国の王と父は似た者同士の好敵手なのだ。
いつもほんの少しの差で勝ちたいと思っている。相手に痛手を負わせるつもりはどちらにもない。
メイナード殿下と私の婚約も、二人はちょうどいいところに落としどころを見つけたというものなのだ。
それを理解しているメイナード殿下は王の駒として、きっと私を優しく扱うだろう。
メイナード殿下を長子として、三人の王子のいずれも王妃殿下がお産みになったから、王位継承争いも無いと言われている。
高位貴族からであれば、どこからメイナード殿下の婚約者を選んでもよかったはずだ。
殿下と年齢的に釣り合う高位貴族の娘たちの中で、私が無難だったのだろう。
でも、たとえ消去法で選ばれたのだとしても、誠心誠意メイナード殿下に尽していきたい。本に出てくるような情熱が二人の間に生まれなくても、互いに尊重しあって大切にしあえる関係を作ることができればそれは素敵だ。
淡い紫色のバラがきれいな色を保っているうちに、押し花を作ることにした。
メイナード殿下がお好きそうな本を読み、その本に押し花のしおりを使いたいと思った。
***
父母と共に王宮へ招かれた。
正式にメイナード殿下の婚約者となり、初めて国王陛下と王妃殿下にご挨拶をした。メイナード殿下とは、午後にお茶の席が設けられる予定だと聞かされた。
良いことがあったとすれば、挨拶の口上で噛んでしまって焦った父を見たことくらいだった。他は取り立てて何もない。
ご挨拶が済んだ後、両親は帰り王妃殿下に私だけがサロンに招かれお茶を戴くことになった。
「さっそくだけど結婚式のドレスについて話をしようと思うの」
「はい」
「わたくしが陛下との挙式で着たドレスで、王太后陛下も御着用になった由緒正しいものなのよ。
国内最高峰のシルクで、パールはジュエリーに使う十ミリ珠をちりばめてあるの。
わたくしが着用した時に少し補正をしたのだけど、あなただとどうかしら。
今から試しに着て貰えると嬉しいわ」
「はい、とても歴史のあるドレスなのですね」
王妃殿下の侍女の案内で、サロンの控室に連れていかれる。トルソーに見るからに重たそうなドレスがあった。
襟が高く詰まっているこの形は、かなり古いものに感じる。
遠目で見ると気づかない細かい点のような茶色い染みが、みっしりとあった。パールも黄味がかってしまっており、ホワイトドレスなのに全体的にクリーム色に見える。
布を重ねてトランクに何年もしまっておいたような独特の臭いがしていた。
生涯に一度の晴れの日に、私はこれを着て嫁ぐことになるのだろうか……。
そんな思いに気づかれないように、ドレスを着付ける侍女たちに身を任せた。
「まあ、やはり質の良いものは違うわね! あなたはわたくしよりも背が高いから少し短いような気もするけれど、踵の無い靴を履けば問題ないわ。ああ、わたくしの結婚の日のことを思い出すわ」
王妃殿下は、独り言のようにご自身の挙式の日の話をしている。
ドレスは泣きたいほどに重たく、そして私にはまるで似合っていなかった。というより、現代においてこれが似合う人がいるのだろうか。
丈が短くて、くるぶしが完全に見えてしまっている。高い靴を履かずにドレスを着るのは、その分見映えが悪くなるということだ。
問題は低い靴を履いても丈の短さはどうにもならないことだが、何か下にドレスの裾より長いものを穿くのだろうか。
今のドレスはもっとウエストの位置が高くて足が長く見えるのに、このドレスはずいぶん下のほうで切り替えられており、胴長に見えた。
花嫁のドレスに夢や希望を強く持っているかと言われれば、それほどでもないかもしれない。
でも、自分が着るドレスに、自分の意見が何一つ取り入れられないのは正直とても寂しい。
妹は私のドレスを楽しみにしてくれていたが、これを見たらはしたなく悲鳴を上げてしまうだろう。
ドレスがこの調子なら、きっと他の物もすべて王妃殿下の思い出がやってくるのではないか……。
この懸念は、悲しいことに的中してしまった。
指輪は王妃殿下が結婚の記念としてご実家のお母様から贈られたという、大きなダイヤのひと粒石のリング。
ネックレスとイヤリングはドレスにちりばめられたパールと同じ物。
次々と王妃殿下の思い出の品がテーブルに並べられた。
私にも父と母がいて、二人が娘である私に持たせたい物があるかもしれない──とは思ってもいらっしゃらないようだった。
***
午後になり、メイナード殿下に招かれる形で庭に張り出したテラスにて、軽食とお茶を戴いている。
「母上がさっそく、ウェディングドレスを君に試着させたと聞いたよ。
僕は男ばかりの三人兄弟だから、母上は僕に婚約者ができたことをとても喜んでいるんだ。
娘がいれば継がせたかった物がたくさんあるらしい」
「……ありがたいことです」
メイナード殿下は満足そうに微笑んでいた。
母親の思いを息子の自分が叶えることができたという喜びを、私にストレートに伝えてくる。
その瞳には喜び以外何もなかった。むしろ親孝行な自分を自画自賛しているようですらあった。
私の意思を確認してくれる言葉が無い、それがすべてだ。
これが王家に嫁ぐということなのだ。
伝統と格式が重んじられ、それを大切に継承していく。そこに嫁ぐ者の気持ちや考えなどは一切慮られることはない。
メイナード殿下は穏やかでとても紳士的だが、私に向ける目に特別なものは一切感じられない。従者たちに向ける目とまったく同じだった。
特別不幸なことは起こらない気はするが、特別幸せなこともまた起こらないのだろう。
これが王家と貴族の結婚なのだと、私は冷めて香りがぼやけてしまった紅茶を飲んだ。
この先の人生もこの香りのぼやけた紅茶みたいになるのだと思うと、ひと口で飲むのをやめたが、渋みがいつまでも舌に残った。
***
結婚式は、王家の戴冠式や即位式などに使われる古い教会で、粛々と執り行われた。
私はあの黄ばんで重たいドレスと、何人かの歴代王太子妃が引きずったヴェールに身を包んだ。ドレスの丈を直されることはなく、踵の無い靴を履いたがドレスの裾から地面までがやや近くなっただけだった。
鏡を見て泣きたくなるほど胴長でスタイルが悪く見えた。
髪はきつく結い上げられ、目がつり上がって痛みが走る。
少しの後れ毛も出ないようにきっちり編み込まれてまとめられた。
そこに何代か前の王妃殿下の為に作られたティアラが載せられた。
司祭の元で誓ったのは、愛とは名ばかりの王家への忠誠だけで、私の結婚相手は『伝統』だった。
私はこの時から第一王子妃の仮面を身に着け、結婚相手の『伝統』に相応しくあることだけを考えた。
挙式が終わってドレスを脱ぐと、顎から首にかけて、それから脇腹や腰回りに赤い斑点がいくつもあった。かゆみが強くつい掻くと、それはしばらくして地図のように大きく繋がってしまった。
私の身体に王妃殿下の領土が広がったのだ。
王妃殿下からの『贈り物』は、宝飾品だけでは終わらず、高名な作家が作ったテディベアや、ランプシェード、鋳物細工に縁取られた鏡、シェル型の宝石箱、ガラスのキャンディボックス……あらゆる『王妃殿下の素敵な思い出の品』が届けられた。
どれもとても貴重で高価で大切な物で、メイナード殿下曰く『娘がいれば譲りたかった物』なのだ。
でも、それらが私の部屋に一つ届けられる度に、部屋の空気が薄くなったように感じられた。
そうして二年が過ぎた時、私の『王子妃の仮面をつけた日々』が終わりを迎えた。
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