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Chap.4 うさぎを追いかけて
Chap.4 Sec.2
しおりを挟む珈琲の熱が、かたく凍りついていた全身にじわりじわりと染みていく。こわばっていた四肢がゆるみ、ぎこちなくとも正常な機能を取り戻そうとしていた。身体をほぐすその温かさに、またしても涙が湧きあふれそうだったので、まばたきを繰り返して抑えこむ。涙をこぼしても何にもならない。——分かっている。
「……なぁ、」
テーブルに視線を合わせたまま茫然としていた私に、セトの声が掛かった。顔を上げると、明るい蜂蜜色の眼がこちらを見ている。
「飯は?」
「……ゴハン?」
「食べねぇか? ……作ってやっても、いいけど」
食事について訊かれているようだった。朝食を食べるかどうかなのだろうと推測できたが、昨日のセトが用意してくれたカレーを思い出して胃が苦しくなった。食べ物を口に入れる気力がない。珈琲すら弱った胃には辛い気がしたが、温もりがなぐさめになったので飲めたのだと思う。
返答に迷っていると、セトのほうはそんな私を見て、「俺の言ってる意味、分かんねぇか?」考えるように眉間を狭めてから立ち上がり、黙ってキッチンへと行ってしまった。
怒らせたのだろうか。足下が抜けるような不安に駆られ、カップのかすかな熱に、両手でぎゅっと縋った。昨夜の凌辱によって植え付けられた恐怖が、絶えず胸を締めつけている。自分の身体を乱暴に扱われることが、こんなにも心を削るなんて知らなかった。私はこれからも、こんなことをしていかなければいけないのだろうか。……できるのだろうか。
カップを握ったまま、目だけでそっと外へのドアを確認した。外へと出るためのドアは、いつも鍵が掛かっている。本当にロックされているのかどうかは確かめていないが、シャワールームと同じ小さな錠前のマークが閉じられ、緑に点灯している。構造上は内部から開けられないわけがないと思うが、彼らの様子を見ていると何かの認証システムで解錠しているらしかった。セトが壁のような平坦なドアへ掌をかざし、アンロックのマークが点灯してからドアが自動で開くのを一度見ている。ティアには、私では開けられないというようなジェスチャーをされたが、まだ試していない。逃げられないと、確定したわけではない。
……試してみようか。しかし、もし開かなかった場合に警報などが鳴ってしまっては意味がない。もとより、彼らにとって私など逃げようがいなくなろうが関係ないだろうか。身体しか使えない、いくらでも代わりがきく私なんて。——それならば、
「ほらよ」
いきなり目の前に現れた物体に、びくりと肩が跳ねた。はっとして横に立つセトを振り仰ぐ。過剰に反応してしまった私に、セトも驚いているようだった。きまりが悪そうに向かいの席へと戻る。
「……おととい、美味いって言ってたろ。食べられるもんだけ食えよ」
早口に言って、私にフォークを手渡した。
テーブルに置かれたのは、一昨日に見たワンプレートの朝食だった。今回はふたり分のプレートが、私とセトの前にひとつずつ置かれている。メニューは同じ。違うのは、私のプレートのパンはひとつ、セトのほうはパンが7つあるくらい。
「……あ、アリガトウ」
予想していなかったのもあって、呆けたような感謝が口から落ちた。セトはそんな私に一瞥をくれたが、応えることなく食事を始めた。
どうするか迷ったが、とりあえず小さく合掌していただきますを唱えてから、桃に似た果物へとフォークを刺した。口に含むと、みずみずしい甘さにほんのすこし心が癒されたように錯覚した。
食べられないと思ったのに、ひとくち胃に入れただけで、ゆっくりではあるが他も受け入れることができた。そういえば昨日の夕食はほとんど食べていない。酷い思いをしたのに、図太い神経をしていると心の中だけで嗤った。昨夜は眠れず、死にたいとまで思ったのに。結局こうして生きることに執着している私はなんなのだろう。
ふがいない自分には目をつぶる。今は食べることだけに集中しておきたい。考えても辛く仕方のないことに頭を使うくらいなら、栄養を摂っているほうが身になる。昨夜を思い出そうとする頭を空っぽにしたくて、ただ黙々と食事を進めた。
「意外と食ったな」
プレートの上の物を食べきったところ、私よりも早く食べ終わっていたセトが何かつぶやいた。機嫌が良さそうだったので文句ではないと思う。セトは自分のプレートを手に席を立ち、私の方へと手を伸ばした。反射的に目の前のプレートを押さえ、
「これは、わたし……」
「ついでだろ」
ひったくられそうだったので、思いきって自分の方へと引き寄せた。セトの片眉が上がる。
「は?」
急に怒ったような声を出されて、ひるむ。見下ろされているせいか迫力が増して怖い。プレートから手を離した。遠慮して自分で持って行こうと思ったことを後悔する。彼が動くよりも先に立ち上がっておけばよかった。いやしかし、セトは私が食べ終わったのと同じタイミングで席を立ったわけで。……もしかすると、私が食べ終えるのを待っていてくれたのだろうか。
「……アリガトウ」
こんなとき、これしかない。〈ありがとう〉と〈ごめんなさい〉ばかり言っている。そんなことを思いセトを見ると、彼は何故か怖い顔で私のプレート辺りを見ていた。
「……なんだそれ」
「…………?」
「それ、腕、ちょっと見せてみろ」
セトは手にしていた自分のプレートを置くと、私の手を取った。左手首をセトの方へと引き寄せ、袖を肘までめくり上げる。鬱血したような、赤紫色の蛇がまとわり付いたような痣が、白々とした光の下に現れた。自分でも気づいていなかった拘束の痕に衝撃を受け、とっさにセトの手を振り払う。袖を引き下ろして痕を覆うと、金の眼が鋭くなった。
「なに隠してんだ? 怪我なら診てやるから、出せよ」
また手首を掴まれそうになったので、腕を胸の前に寄せて身を縮めた。
「なんで抵抗してんだよ。別に痛いことしねぇって。ほら貸せ」
セトが何をしたいのか分からない。わざわざこんな醜い痣を見たいとも思えないが、なぜか強引に手を引っ張ろうとしてくるので、首を振って触らないでと訴えた。
「いやっ……せと、いやっ」
「お前これ、反対の腕にもねぇか?」
私の必死なNOは届いていないのか。セトは私の意思を無視し、両手首を掴んでめくれかけた袖の中を上からのぞいてくる。ひとの話を聞かずに強い力で手を掴む姿に、出会ったときが思い出された。基本的に荒っぽいひとなのだ。〈痛い〉と〈やめてほしい〉という言葉を、ティアから教わっておかなくてはいけなかった。
「せとっ……せと!」
「だから抵抗すんなって」
名前を呼んでも力をゆるめてくれない。皮膚に指先が食い込み、骨が締められる痛みに涙が浮かぶ。押し込めていた恐怖が一気に膨れあがり、眼の奥から雫となってこぼれ落ちた。
「はっ? おいまて、なんで泣くんだ!」
セトが焦ったように何か言ったが、もう止まらない。決壊した涙腺からぽろぽろと感情があふれていく。
——いたい、こわい、もうゆるして。
昨夜ずっと願っていた思いが頭のなかで反響し、止めどなく流れていく。
誰も助けてくれないのは分かっている。分かっているのに、願ってしまう。——誰か助けて。この悪夢を終わらせて。
そんな叶わない願いを、小さな子供のようにわめいてしまいたかった。
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