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Chap.4 うさぎを追いかけて
Chap.4 Sec.3
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底のない沼に足を踏み入れてしまったのだろうか。どろりとした泥濘に足をとられ、踏み出すこともできない。伸ばした手は虚空を掴み、体は音もなく沈んでいく。叫ぼうと開いた口腔が引き攣ったような音を鳴らし——……
バチッと。電気が点いたかのように鮮明に意識が戻り、イシャンは自分が眠っていたことを把握した。起こそうとした上体が鉛か何かのように重い。今が何時かも分からない。昨夜はセトやティアと共に呑んだところまでは覚えている。腕に着けている端末によるとまだ朝と呼べる時間ではあったが、普段と比較すると遅い起床だった。
今日の予定を記憶から引き出す。セトが外出する際に待機する。おそらくティアは昼過ぎまで起きないから、イシャンが起きなければセトは外出できない。適当に髪をなで上げてしまおうと整髪料に手を伸ばそうとして、自分のベッドではないことに気づいた。サクラのベッドだろう。独特な香の匂いが染み付いている。そうか、昨夜は彼女に——
浮かんだ映像を、かき消した。思い返せば罪悪感が生まれるだけで無益だ。加害者が嘆くのは筋違いでしかない。目的のために手段は選ばないことを、省みる気はないのだから。震えていた肩や濡れた髪の感触が意識に上がらないよう、素早い動作でベッドから立ち上がった。
ベッドから降りると、遠くで諍いのような声が聞こえた。何事かと思って急ぎリビングに向かったイシャンの目に映ったのは、セトと彼女が揉めている姿だった。
「セト」
「うぉっ……いつからいたんだよ?」
イシャンに気づいたセトはすぐさま掴んでいた彼女の手首を放し、こちらを振り返った。イスに座ったままの彼女は解放された手を胸の前で組み、まるで小動物が身を守るかのように背を丸くした。長い髪の隙間から見える眼は赤く、頬には幾筋も涙の跡ができている。
「——まて! 勘違いすんなよ? 襲ってねぇからな!」
「……そんなことは思っていない」
「勝手に泣いたんだよ。俺は何も……たぶん、してねぇと……思うけど」
歯切れ悪く弁明するセトは、右手で前髪をかき上げて弱りきった表情を浮かべた。縮こまった彼女は、イシャンの方を見ない。蒼白な顔で硬直している。要因はおそらくセトではないだろう。
「……そうか。……それよりも、ひとまず交代しよう。セトは出てくれて構わない。……遅くなって、すまなかった」
「は? ……あ、あぁ。それは別に……いいんだけどよ」
「……出ないのか?」
「いや……まぁ、出る……予定では、ある」
「それなら……早く出たほうがいい。……時間がなくなる」
「……おう」
応じたわりにセトは動き始めない。視界の端で彼女をうかがっている。
「……この人間のことなら、私が見ておく」
「……ああ」
二の足を踏むセトに提案すると、彼女を気にしながらもテーブルの上にあった皿を取ってキッチンへと移動した。そのまま衣類等が収めてある脱衣所へと用意に行ったのが分かった。
イスに座ったままの丸い背は、呼吸すら忘れたかのように静止している。
「………………」
セトが再びリビングに戻ってくるまで何も思考することなく、石のように動かない彼女の髪の隙間から見える、色の失われた唇を見ていた。
「……イシャン、何やってんだ?」
「……待っているあいだ、見ておくという約束だった」
「お、おお。見るってそういう感じか」
「……他にしてやれることもない」
「まあ、お前が来たら泣きやだんだしよ。俺がなんかしたのかも知んねぇな。……とりあえず、行ってくる」
身支度を終えたセトはイシャンの肩をたたき、横を過ぎた。座っていた彼女の前も通り過ぎようとして、
『ぁ、』
不意に伸びた彼女の細い腕が、セトの手を掴んだ。思いもよらない接触に、セトは目を丸くして彼女を見下ろす。
「……なんだ?」
『い……いかないで』
「は? なんて?」
『おいて、か……ないで』
絞り出す声はひどくかすれていて、音になりきれていない。何を言っているのかイシャンには聞こえない。言語が違うのか耳ざといセトでも聞き取れていないらしい。
「もしかして、外に行きたいのか? ……今日は無理だぞ。俺は用事あるんだよ。……ティアもじきに起きてくるから。大人しく待っとけ」
掴まれていた手を引いて、セトは彼女の頭をそっとなでた。それこそ小動物か何かをいたわるように。セトのやわらかな接し方に、イシャンは密かに眉をひそめた。計画は上手くいくだろうか。
「……セト」
「ん?」
「……外まで送ろう」
「は? ……はっ? 俺を?」
「……この場合、他に誰もいないと思うのだが」
「いや……けど見送りなんて別に」
「……体が重い。陽を浴びるついでに……送る」
「お、おぅ……?」
彼女の前から引き剝がすために、セトの背中を軽く押して先へ進むよう促した。セトも流されるままにドアへと歩き、少しばかり後ろ髪を引かれる様子で彼女を振り返ったが、うつむいたままの彼女は表情も見えず、諦めたようだった。
セトは出口の壁面に収納された靴を取って履きながら、ドアへと手をかざしロックを外した。見送るというのは口から出た適当な言い訳であったが、このロックを自然に外すためには丁度いい。乗る際に閉め忘れたふりができる。
「じゃあ行ってくるな」
「……ああ、気をつけて」
軽い足取りで踏み出したセトは、顔だけ振り向いて、
「そういやあいつ……ウサギ、なんか怪我してるみてぇだから、診といてくれるか?」
「……分かった」
「手……つぅか腕か。頼むな」
片手を上げたセトはもう振り返ることなく、早足で行った。あの様子からすると、迅速に調査を済ませて戻ってくる蓋然性が高い。
——時間が、ない。
降りそそぐ陽光は建物の隙間を縫い、黒々とした影を生み出している。いかなる手段で彼女を追い出すか、思案することに気を取られていたイシャンの頭からは、セトとの最後の約束は忘れ去られていた。
バチッと。電気が点いたかのように鮮明に意識が戻り、イシャンは自分が眠っていたことを把握した。起こそうとした上体が鉛か何かのように重い。今が何時かも分からない。昨夜はセトやティアと共に呑んだところまでは覚えている。腕に着けている端末によるとまだ朝と呼べる時間ではあったが、普段と比較すると遅い起床だった。
今日の予定を記憶から引き出す。セトが外出する際に待機する。おそらくティアは昼過ぎまで起きないから、イシャンが起きなければセトは外出できない。適当に髪をなで上げてしまおうと整髪料に手を伸ばそうとして、自分のベッドではないことに気づいた。サクラのベッドだろう。独特な香の匂いが染み付いている。そうか、昨夜は彼女に——
浮かんだ映像を、かき消した。思い返せば罪悪感が生まれるだけで無益だ。加害者が嘆くのは筋違いでしかない。目的のために手段は選ばないことを、省みる気はないのだから。震えていた肩や濡れた髪の感触が意識に上がらないよう、素早い動作でベッドから立ち上がった。
ベッドから降りると、遠くで諍いのような声が聞こえた。何事かと思って急ぎリビングに向かったイシャンの目に映ったのは、セトと彼女が揉めている姿だった。
「セト」
「うぉっ……いつからいたんだよ?」
イシャンに気づいたセトはすぐさま掴んでいた彼女の手首を放し、こちらを振り返った。イスに座ったままの彼女は解放された手を胸の前で組み、まるで小動物が身を守るかのように背を丸くした。長い髪の隙間から見える眼は赤く、頬には幾筋も涙の跡ができている。
「——まて! 勘違いすんなよ? 襲ってねぇからな!」
「……そんなことは思っていない」
「勝手に泣いたんだよ。俺は何も……たぶん、してねぇと……思うけど」
歯切れ悪く弁明するセトは、右手で前髪をかき上げて弱りきった表情を浮かべた。縮こまった彼女は、イシャンの方を見ない。蒼白な顔で硬直している。要因はおそらくセトではないだろう。
「……そうか。……それよりも、ひとまず交代しよう。セトは出てくれて構わない。……遅くなって、すまなかった」
「は? ……あ、あぁ。それは別に……いいんだけどよ」
「……出ないのか?」
「いや……まぁ、出る……予定では、ある」
「それなら……早く出たほうがいい。……時間がなくなる」
「……おう」
応じたわりにセトは動き始めない。視界の端で彼女をうかがっている。
「……この人間のことなら、私が見ておく」
「……ああ」
二の足を踏むセトに提案すると、彼女を気にしながらもテーブルの上にあった皿を取ってキッチンへと移動した。そのまま衣類等が収めてある脱衣所へと用意に行ったのが分かった。
イスに座ったままの丸い背は、呼吸すら忘れたかのように静止している。
「………………」
セトが再びリビングに戻ってくるまで何も思考することなく、石のように動かない彼女の髪の隙間から見える、色の失われた唇を見ていた。
「……イシャン、何やってんだ?」
「……待っているあいだ、見ておくという約束だった」
「お、おお。見るってそういう感じか」
「……他にしてやれることもない」
「まあ、お前が来たら泣きやだんだしよ。俺がなんかしたのかも知んねぇな。……とりあえず、行ってくる」
身支度を終えたセトはイシャンの肩をたたき、横を過ぎた。座っていた彼女の前も通り過ぎようとして、
『ぁ、』
不意に伸びた彼女の細い腕が、セトの手を掴んだ。思いもよらない接触に、セトは目を丸くして彼女を見下ろす。
「……なんだ?」
『い……いかないで』
「は? なんて?」
『おいて、か……ないで』
絞り出す声はひどくかすれていて、音になりきれていない。何を言っているのかイシャンには聞こえない。言語が違うのか耳ざといセトでも聞き取れていないらしい。
「もしかして、外に行きたいのか? ……今日は無理だぞ。俺は用事あるんだよ。……ティアもじきに起きてくるから。大人しく待っとけ」
掴まれていた手を引いて、セトは彼女の頭をそっとなでた。それこそ小動物か何かをいたわるように。セトのやわらかな接し方に、イシャンは密かに眉をひそめた。計画は上手くいくだろうか。
「……セト」
「ん?」
「……外まで送ろう」
「は? ……はっ? 俺を?」
「……この場合、他に誰もいないと思うのだが」
「いや……けど見送りなんて別に」
「……体が重い。陽を浴びるついでに……送る」
「お、おぅ……?」
彼女の前から引き剝がすために、セトの背中を軽く押して先へ進むよう促した。セトも流されるままにドアへと歩き、少しばかり後ろ髪を引かれる様子で彼女を振り返ったが、うつむいたままの彼女は表情も見えず、諦めたようだった。
セトは出口の壁面に収納された靴を取って履きながら、ドアへと手をかざしロックを外した。見送るというのは口から出た適当な言い訳であったが、このロックを自然に外すためには丁度いい。乗る際に閉め忘れたふりができる。
「じゃあ行ってくるな」
「……ああ、気をつけて」
軽い足取りで踏み出したセトは、顔だけ振り向いて、
「そういやあいつ……ウサギ、なんか怪我してるみてぇだから、診といてくれるか?」
「……分かった」
「手……つぅか腕か。頼むな」
片手を上げたセトはもう振り返ることなく、早足で行った。あの様子からすると、迅速に調査を済ませて戻ってくる蓋然性が高い。
——時間が、ない。
降りそそぐ陽光は建物の隙間を縫い、黒々とした影を生み出している。いかなる手段で彼女を追い出すか、思案することに気を取られていたイシャンの頭からは、セトとの最後の約束は忘れ去られていた。
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