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Chap.4 うさぎを追いかけて
Chap.4 Sec.4
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波ひとつない海のような、あらゆる物を呑み込んでしまいそうな粛々とした声。昨夜、ベッドではほとんど聞いていない。それでも、イシャンのその静かで重く響く声を耳にした瞬間、全身が稲妻に貫かれたのように、思考も感情もすべてが止まってしまった。
セトはすでにいない。どこかへ出かけてしまった。引き止めたかったが、叶わなかった。イシャンとふたりきりにしないでほしいと、どう伝えればよかったのか。
静寂につつまれたリビングで、座ったまま身動きもとれずにじっと息を殺している。セトと違い、イシャンは外からすぐに帰ってきた。外出の用意をしていないのだから、出かける気はないのだろう。無言のままテーブルの前で私を見下ろしている。顔を上げられない。何を考えているのか、分からない。永遠とも思えるほどの沈黙のなか、独り言のようにイシャンが口を開いた。
「貴方は……私の言葉を、どこまで理解している……?」
一歩、私の方へとイシャンの足が踏み出された。距離はない。うつむく視界には、私の足とイシャンの足が向き合っている。
「……皆目わからないか?」
反応できずにいると、バンッ、と。イシャンの左手がテーブルを叩いた。固くなっていた身体が飛びあがり、麻痺していた恐怖が締めつけるように襲いかかる。
なにか言わなくては。なにか、なにを、なんて。目の前でたたずむ大きな影の圧迫に、手脚が震えて何ひとつ頭に浮かばない。涙すらも浮かばない、凍りつくような戦慄が脳を支配している。
かたかたと鳴っているのは、私の歯なのか。確かめるまでもなく、私の後頭部に大きな手が回されたかと思うと、髪を掴んだイシャンによって顔を上げられ、暗い闇色の眼と向き合わされた。
「……ここに、貴方の居場所は無い」
深い底まで落とされそうな、黒い双眸。額に垂れた前髪の狭間で、水銀のように、無機的で有機的でもある不思議な光を放っている。
「昨夜のあれでは、足りなかったか? ……もっと酷い目に合わさなければ、分からないだろうか……」
髪にかかる力が、強まる。頭皮が引きつる痛みに顔を歪めるが、彼の表情は変わらない。
「……分かるまで、ここで犯しても、一向に構わないが」
耳から滑り込んできた凄みのある低音に、背筋がぞっとした。私はこの人たちに殺されることはないと。そう思い込んでいたが、そんな甘い考えは一瞬で吹き飛んだ。足元から得体の知れない寒気が這い上がり、肌があわだつ。脅されていることだけは分かるが、どうしろと言われているのかが分からない。ただ、恐怖が。抑えようのない恐怖だけが、全身を縛りつける。
「…………本当に、全く分からないのか」
私の顔を観察していたイシャンの手が、髪を放した。不穏な空気が、わずかに揺れる。私を見つめる瞳は冷ややかで、何か考えるように黙したかと思うと、小さな吐息をこぼした。イシャンはそのまま、無言でキッチンへと消えていった。
姿が見えなくなった途端、思い出したようにぼろぼろと涙が落ちていく。黒い服にはすでにいくつも染みができていて、セトに怒られるんじゃないかと、ばかみたいな不安が生まれた。
ぎゅっと胸の前で抱きしめる腕に残った、醜い痕を思い出す。ともすれば、また縛られるのだろうか。何かを取りにいっただけで、すぐに戻ってくるのだろうか。暴力をふるわれる可能性は。刃物や銃器だってありえる。イシャンは普段、武器のようなそれらを必ず身に着けているのを知っている。ただ、今は何も着けていなかった。それはつまり——。
がたりと大きな音を立ててイスから立ち上がった。キッチンを見るが、イシャンはいない。ほんとうに何かを取りにいったのなら、どうしたらいいのか。——戦う? 私が? 勝てるはずもないのにどうやって。私の手には何も戦える物などない。
何かを探して、周囲を見る。いや、本当は何も探してなどいない。最初から、目はドアへと向いていた。逃げることしか私の身体でできることがないのを、分かっているのだから。駆け寄るようにドアへと縋りついて、その平らな壁に手を当てた。すると、錠前のマークが赤く点灯しているのが目につき、(アンロックされてる……?)疑問が浮かぶのと同時に、思いのほかすんなりとドアが開いた。
「あ……」
想像していたよりも簡単に開いたドアに、口の中だけで声があがった。なんの警告音も鳴らない。久しぶりに見る日の光がまぶしく、目を細めた。
ざわ、と。一陣の風が吹き、戸惑っていた身体を呼ぶ。
——逃げるなら、今しかない。
踏み出そうとした足が、裸足であることに気づく。急いで棚の中から靴を取り出し、足を突っ込んで駆けおりた。
どこへ向かえばいいのかも分からない。建ち並ぶビルのかげへと、とにかくここから遠ざかり見えなくなるまで。決して後ろを振り返ってはいけない。そう強く自分に言い聞かせて、走りだした。
軽く柔らかな靴は地面の衝撃を吸って、うまく走ることのできない脚を支えてくれている。靴があってよかったと、頭のすみで思った。
この靴をくれたのが誰か。
そこまでは、思い浮かばなかったけれど。
セトはすでにいない。どこかへ出かけてしまった。引き止めたかったが、叶わなかった。イシャンとふたりきりにしないでほしいと、どう伝えればよかったのか。
静寂につつまれたリビングで、座ったまま身動きもとれずにじっと息を殺している。セトと違い、イシャンは外からすぐに帰ってきた。外出の用意をしていないのだから、出かける気はないのだろう。無言のままテーブルの前で私を見下ろしている。顔を上げられない。何を考えているのか、分からない。永遠とも思えるほどの沈黙のなか、独り言のようにイシャンが口を開いた。
「貴方は……私の言葉を、どこまで理解している……?」
一歩、私の方へとイシャンの足が踏み出された。距離はない。うつむく視界には、私の足とイシャンの足が向き合っている。
「……皆目わからないか?」
反応できずにいると、バンッ、と。イシャンの左手がテーブルを叩いた。固くなっていた身体が飛びあがり、麻痺していた恐怖が締めつけるように襲いかかる。
なにか言わなくては。なにか、なにを、なんて。目の前でたたずむ大きな影の圧迫に、手脚が震えて何ひとつ頭に浮かばない。涙すらも浮かばない、凍りつくような戦慄が脳を支配している。
かたかたと鳴っているのは、私の歯なのか。確かめるまでもなく、私の後頭部に大きな手が回されたかと思うと、髪を掴んだイシャンによって顔を上げられ、暗い闇色の眼と向き合わされた。
「……ここに、貴方の居場所は無い」
深い底まで落とされそうな、黒い双眸。額に垂れた前髪の狭間で、水銀のように、無機的で有機的でもある不思議な光を放っている。
「昨夜のあれでは、足りなかったか? ……もっと酷い目に合わさなければ、分からないだろうか……」
髪にかかる力が、強まる。頭皮が引きつる痛みに顔を歪めるが、彼の表情は変わらない。
「……分かるまで、ここで犯しても、一向に構わないが」
耳から滑り込んできた凄みのある低音に、背筋がぞっとした。私はこの人たちに殺されることはないと。そう思い込んでいたが、そんな甘い考えは一瞬で吹き飛んだ。足元から得体の知れない寒気が這い上がり、肌があわだつ。脅されていることだけは分かるが、どうしろと言われているのかが分からない。ただ、恐怖が。抑えようのない恐怖だけが、全身を縛りつける。
「…………本当に、全く分からないのか」
私の顔を観察していたイシャンの手が、髪を放した。不穏な空気が、わずかに揺れる。私を見つめる瞳は冷ややかで、何か考えるように黙したかと思うと、小さな吐息をこぼした。イシャンはそのまま、無言でキッチンへと消えていった。
姿が見えなくなった途端、思い出したようにぼろぼろと涙が落ちていく。黒い服にはすでにいくつも染みができていて、セトに怒られるんじゃないかと、ばかみたいな不安が生まれた。
ぎゅっと胸の前で抱きしめる腕に残った、醜い痕を思い出す。ともすれば、また縛られるのだろうか。何かを取りにいっただけで、すぐに戻ってくるのだろうか。暴力をふるわれる可能性は。刃物や銃器だってありえる。イシャンは普段、武器のようなそれらを必ず身に着けているのを知っている。ただ、今は何も着けていなかった。それはつまり——。
がたりと大きな音を立ててイスから立ち上がった。キッチンを見るが、イシャンはいない。ほんとうに何かを取りにいったのなら、どうしたらいいのか。——戦う? 私が? 勝てるはずもないのにどうやって。私の手には何も戦える物などない。
何かを探して、周囲を見る。いや、本当は何も探してなどいない。最初から、目はドアへと向いていた。逃げることしか私の身体でできることがないのを、分かっているのだから。駆け寄るようにドアへと縋りついて、その平らな壁に手を当てた。すると、錠前のマークが赤く点灯しているのが目につき、(アンロックされてる……?)疑問が浮かぶのと同時に、思いのほかすんなりとドアが開いた。
「あ……」
想像していたよりも簡単に開いたドアに、口の中だけで声があがった。なんの警告音も鳴らない。久しぶりに見る日の光がまぶしく、目を細めた。
ざわ、と。一陣の風が吹き、戸惑っていた身体を呼ぶ。
——逃げるなら、今しかない。
踏み出そうとした足が、裸足であることに気づく。急いで棚の中から靴を取り出し、足を突っ込んで駆けおりた。
どこへ向かえばいいのかも分からない。建ち並ぶビルのかげへと、とにかくここから遠ざかり見えなくなるまで。決して後ろを振り返ってはいけない。そう強く自分に言い聞かせて、走りだした。
軽く柔らかな靴は地面の衝撃を吸って、うまく走ることのできない脚を支えてくれている。靴があってよかったと、頭のすみで思った。
この靴をくれたのが誰か。
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