228 / 228
Birthday Story 花火消えたるあとの
Into the Flame Fin.
しおりを挟む
私は、仕事はできると自負している。
年齢のわりに責任のあるポジションにいるのは、学歴や功績による人事的な評価であって(女性の地位向上なども要因のひとつではあるかも知れないが)、おおむね正当なものだと思っている。
どのプロジェクトも責任をもって全うし、成果を上げてきた。趣味がない分プライベートを仕事に費やしてきたところもある。……それで恋人を失っているのだから、公私ともに上手いわけではないが——つまり、私は仕事で成果を上げるのが好きで、そのためなら多少の個人プレーも厭わない。
周りの人たちに恵まれているのもあって、比較的自由にやらせてもらっていた。大抵の個人プレーに対しても、「さすがだね」と褒めてもらえるが……
「君は本当に抜け目がないな。珍しく休みを取ったかと思えば、そのあいだに大口のプロジェクトを進めているとは……さすがだね」
——が、今回ばかりは全くもって身に覚えがない。
失恋休暇(表向きはただの有休だが)を取った私が、3日間というレアな休養期間を経て出社し、溜まっていたメール処理やらなんやらを片していたところ直属の上司に声をかけられ、……なんのことやら。
「……あの、どの件をおっしゃっているのか……」
困惑する私が詳細を聞くまでもなく、内線で呼び出しをくらった。直属の上司ではなく、上の室長でもなく、そのさらに上の部長でもなく……まさかの、社長に。正しくいうと、社長付きの秘書に。例の件で、今すぐ来るように——と。
急ぎ足でフロアを上がり、社長室へと向かいながら……もしかして、これってドッキリだろうか? 暇な会社なのか。いやしかし、なぜ私? ——などと考えていると、社長室の前の前室で、慌てたような社長と秘書に遭遇した。
「きみか! きみだね? こんな重要な案件はきちんと上を通してもらわなければ——いいや、それについては後で話すが……しかし、昨日の今日でいきなり本人がやって来て、きみを出せと——ともかく、頼むよ? 君に社運が掛かっているんだ。分かるね?」
なにひとつ分かってないです。なんの話をしてるんですかね? ——なんて言うわけにはいかない。相手は社長である。個人的に話すのは初めてだが、私の顔を見て「きみか!」と呼びかけて来たので、私に用があるのは間違いないらしい……?
促されるままに前室の先の社長室へと。ひとりで行かされるあたり、ドッキリへの疑いは霽れず……リアクションをどうしようかと考える。
入室して、手前の応接スペースを見るが、誰もいない。口の付けられていない珈琲のみ。
——ドッキリ確定だ。うまい反応をしなくては。
変なことに頭を悩ませかけたとき、社長の机だと思われる奥に、目がいった。私と反対の、窓側を向くイスが、くるりと回り——
「お姉さん、見ィっけ♪」
カラフルな色が飛び散った頭髪。ツヤのあるスーツは、ダークネイビーの夜空色。花火みたいな——彼が、場違いな青空を背にしてニヤッと笑った。
「……えっ? は? ……え?」
「お、いいねェ~? そォゆう驚いた顔、見たかったンだよなァ~」
「なに言って……いえ、何やってるんですか? ……ドッキリ? え? どこから? いつから?」
「ドッキリじゃねェよ? これは、けっこうガチな、お仕事」
「…………はい?」
「お姉さんの会社、買収しよっかなァ~って」
「……はいっ?」
「アハハ、じょ~だん♪」
愉快げに笑う彼が、イスを軋ませて立ち上がった。スラリとした体躯。高い位置から見下ろしてくる顔は、非常に身に覚えがある。
3日前の夜に、短い時間だが、共に過ごしたひと。
「……あの、これは、どういうことでしょう?」
立ち尽くす私の方へと歩み寄りながら、ふっと薄く曲げた唇で吐息をもらした。
「お姉さんが、オレんとこに忘れ物してくから……持って来てあげたわけ」
目の前に差し出された手が、私の受け取りを待たずに開いた。
とっさに受け止めて——ラムネ色の、指輪——その存在に、眉を寄せる。これは、忘れたわけじゃない。置いていったのだ。
「……いりません」
「なんで? お姉さんのために取ったのに?」
「こんな物、欲しいなんて言ってません」
「こんな物って……ダイヤの指輪なら貰ってくれンの?」
「そういう問題じゃ……」
「じゃ、どォゆう問題?」
「…………そもそも、どうやってここを? 私、名前も言ってないですよね?」
「まァね……けど、汗流したいって言ってシャワー浴びたろ。そんときに身分証明になるもん漁られたのかもよ?」
「はぁ? 勝手に中を調べたんですかっ?」
「隙だらけなのが悪いンじゃん」
「犯罪ですよ!」
「……調べてねェって。シャワー待ってるあいだ暇だったから、お姉さんの巾着にキーホルダーつけようとしたの。……そんときに中身がこぼれたから、拾って……偶然、名前が知れたわけ」
「名前だけで会社は分からないですよね?」
「いや? オレ、個人特定とか得意だし、探偵やってる知り合いもいるし、簡単に分かったけど?」
「それ! 絶対に犯罪行為を含んでますよねっ?」
「黙秘で」
ひらっと振った彼の手に、揃いの指輪はない。手首に巻かれた腕時計は明るいトーンの金属で、ホワイトゴールドかプラチナ。特徴的なデザインですぐに分かる、スイス製の高級腕時計。傷のないそれは使用感がなく、経年劣化も感じさせない。銀メッキの指輪とは、かけ離れている。
「これが、ドッキリじゃないって言うなら……あなたは、なんですか」
「何って、なに?」
「ひとの会社に来て……いきなり社長に会えるなんて……ありえないでしょう?」
「オレは、オレだけど。お姉さんにやり逃げされた、かわいそォなやつ。……ってか、やり逃げはひどくね?」
「やり逃げって……人聞きの悪い。いえ、事実そうかも知れないですけど……あなたも楽しんでたんだから、そこは文句ないですよね?」
「う~わァ……それ、クズが言うセリフ。お姉さん、そォゆう感じなの? けっこう傷付くンだけど」
「………………」
なんだ、これは。どうして私が責められているのか。
困惑に怒りのような気持ちが湧いていたが、彼の——さびしげな苦笑に、心が揺さぶられる。私が悪いのか。
「……会社まで来て、私にどうしろと?」
「どうしてほしい、とか……そこまでは考えてない。ただ、もう一回……会いてェなって、思って」
「……会いたい、だけで……普通、こんな大事にします?」
「普通なんて知らねェし。お姉さんのこと調べるため、周りに探りいれさせたら……仕事に貪欲な感じって報告もらったから? じゃ、オレを餌にしたら逃げられねェかもってゆう……安全策」
貪欲。誰だ、そんなこと言ったのは。
「最初は、元彼の後輩を飛ばそっかなァって思ったンだけど……そんなことしても、お姉さんの頭の中から消えるか分かんねェし。オレは、元彼クン気に入ってるし。お姉さんを引き抜くにしても、この仕事がスキなら、オレのワガママで奪えねェじゃん?」
いろいろ突っこみたい。なに言ってんの? とすら思う。……思うが、とりあえず、
「……あなたが、どうして私の後輩を気に入っているんでしょう?」
「お似合いですねって言ってくれたじゃん? オレとお姉さん、似合ってるって。オレは嬉しかった」
「………………」
無邪気な笑顔に、何も言えなくなる。
「……お姉さん、なんで黙って帰ったの? 指輪も置いてさ……オレ、なんかした?」
「………………」
「怒らせた? 下手だった? ……それとも、最初から遊びだった?」
「それは……そっちだって……」
「オレ、遊びなんて言った? ……言ってねェよな?」
「そう、ですけど……私が、ひとりで都合よかったから……声をかけてきた、だけですよね?」
「そんなの、照れ隠しの言い訳に決まってンじゃん。お姉さんが綺麗だったから、玉砕覚悟で声かけたんだよ。……そんなことも分かってなかった?」
「……きれい? 誰が?」
「お姉さん以外、誰がいるの?」
「……私、普通ですよね? メイクはそれなりに上手くやれてると思いますけど、かといって……この程度なら、どこにでもいますよね? あの場に、もっと可愛いひとだっていましたよね?」
「そう? ……お姉さん、浴衣が似合ってたし。そのへんの安いのと違って、柄の色も映えてた。ひとりで、誰に見せるわけでもないのに綺麗で——かっこよかった。……祭りにいた誰よりも、お姉さんが綺麗だったと思うけど?」
「……お世辞が、うまいですね」
「嘘じゃねェって。オレは、空に上がった花火よりも……お姉さんに惹かれてた」
「………………」
あの日、美しく着飾ったのは——些末なプライドからだ。
距離を置きたいと言われて、その不安をごまかすために着付けを習った。浴衣も素材の良い物を買って、爪は、「ネイルしないの? 仕事用じゃなくて……キラキラした感じの」そう言われたのを思い出したから、練習した。
夏祭りは、毎年のことだから。きっと、そのときなら——会えると思って。……楽観的で、いや、逃避していて……ものすごく馬鹿だ。もっとやるべきことがあった。これが仕事だったら、そんな無駄な時間を置いたりしない。多少の駆け引きはあっても、半年も放置しない。間に合ったかは分からないが、直接的なアプローチをするべきだった。大事なものなら、目をそらしては……いけないのに。
「……オレの気持ちは、伝わった?」
「そこそこ好いてくれていた……ということだけ、分かりました」
「オレと付き合ってみる?」
「……はい?」
「オレと、付き合ってみる?」
「いえ、聞こえてますから……」
「聞こえてるならイエスノーで答えてよ」
「……それなら、ノーです。付き合いません」
「なんで?」
「……あの。私、つい先日失恋したばかりなんですよ。……ご存知ですよね? 普通は、こんなに早く別のひとと付き合う気になんてなれません」
「寝るのはよくて、付き合うのはダメなわけ? お姉さんが言う普通っておかしくね?」
シンプルに突き刺さってくる事実に、ぐうの音も出ない。
「——とにかく、付き合う気はありません」
「えェ~? いいじゃん、付き合ってよ。お試しでさ、この夏だけでも。とりあえず」
軽い。ひと夏のキャンペーンみたいなノリで言われても、乗るわけがない。
近寄ってきた彼から距離を取るべく、一歩下がった。すると彼は、意外にも食い下がることなく、不敵に微笑み、
「——お姉さんに、拒否権ってある?」
「? ……ありますよ?」
「ほんと? オレ、お姉さんが休んでるうちに外堀を埋めてみたンだけど……効果なかった?」
「外堀……?」
意味深長な言いぶりに、ふと——上司たちの言葉が、
——珍しく休みを取ったかと思えば、そのあいだに大口のプロジェクトを進めているとは……さすがだね。
——こんな重要な案件はきちんと上を通してもらわなければ……
——頼むよ? 君に社運が掛かっているんだ。
……いや、まさか。まさかそんな……。
否定してみるが、嫌な予感がぬぐえない。
「……もしかして、私、脅されてます?」
「ん?」
にこっと口角を上げる顔は肯定せず、否定もせず……黙ったまま。
「………………」
「………………」
「…………え、ほんとに付き合わないといけないんですか……?」
「別に? お姉さんのスキにすればい~んじゃねェ?」
「………………」
「——ちなみに言っとくと、成果を上げたい貪欲な会社員は断らねェと思うなァ~? 損得勘定でさぁ、オレを利用したほうがいいって弾き出せると思うンだよなァ~? そんなことも計算できねェやつなんていないだろォけど……いるなら? そいつがクビにならねェか心配だなァ~?」
「! ……さっきと態度違いませんかっ?」
「オレが下手に出ても、乗ってくんねェじゃん。そっちがそォゆう態度なんだから、こっちもビジネス対応。——ってワケで、付き合って?」
「あんなに謙虚な発言してたのに、言ってること矛盾してませんっ? 会いたかっただけで、私に何も望んでない——みたいなこと言ってましたよね?」
「ン~? 言ったっけ?」
「そういうところが! 軽そうで付き合いたくないところですよ!」
「軽いのはオレじゃなくてお姉さんじゃん?」
「そこはお互いさまですからね!」
明るい声をあげて笑ってみせる彼を睨むと、楽しそうな顔のまま、一歩。離れた分の距離を取り戻された。背後はドア。物理的にも比喩的にも逃げ道がない。
「そろそろ諦めついた?」
見下ろしてくる意地の悪い笑みに、「……最悪」ぼそりと本音がこぼれる。恋愛は当分——むしろ生涯——要らないと思った矢先に、こんな不条理な恋愛に囚われるなんて。
「最悪? 最高の間違いじゃねェ? オレを利用して出世できるかも知んねェし? ……お姉さん、最高に運いいじゃん。祭りで千本引きでもすりゃよかったなァ~?」
「どこが最高ですかっ? ほとんど身売りですよ?」
「それは自業自得。火遊びなんかするから、悪いヤツに捕まるンだって。……まァ、オレは優しいから? よかったじゃん?」
「……どの口が言って……」
「この口」
へりくつを吐く唇が、頬に落ちてきた。軽いリップ音が、ふざけたように頬をくすぐる。
「まだ付き合うとは言ってませんよ!」
「じゃ、早く宣言して」
「こんな脅迫めいた付き合いで本当にいいと思ってるですかっ?」
「思ってる。始まりなんてなんでもい~よ」
「軽薄すぎませんっ?」
——トンっと。行き止まりの背後を、彼の長い手が突いた。逃げ場などないと、知らせるように。
「……あのさ、遊びだとか軽いだとか言うけど……オレ、けっこう重いと思うよ? お姉さんのこと、離す気ねェし」
ゆっくりと下りてくる唇から、目が——離せない。
あの日、あのとき、重ねた熱が……頭に弾ける。
「オレと、付き合ってよ。お姉さんの時間を……オレにちょうだい」
「………………」
「オレの時間も、お姉さんにあげるし。……ほら、等価交換じゃん?」
「……等価、じゃない……」
「そォね? 時間は平等じゃねェし。……じゃァ、オレの全部をあげたら、釣り合う?」
甘く、まとわりつくような香り。体温と混じると、より深く惹きつけるように変化する。感覚が麻痺しそうになる——あの夜と同じ香水。
——よけなければ、受け入れることになるのか。
動けずに、目をつぶった。
しかし、触れたのは……唇ではなく、
「…………?」
開いた目に、間近で彼の顔が映る。
繋がった手の中から、指輪を取ったかと思うと——私の指先に、するりと。左手の小指ではなく、薬指に。
「サイズフリーって便利だよな。リングは全部これにすればい~のに」
そんな情緒のないことを言って、固まったまま見つめていた私に、気づいた。
いたずらっ子のような目が、私を捉え、
「とりあえず、予約で。オレ、けっこう本気だから……覚悟して?」
ラムネ色のアクリルストーンが、私の薬指でキラキラと輝いている。真ん中で割れたハートの半分。空にぶちまけられた花火の、ひとしずくのような。
目が離せなくなるほど派手で、でも——透き通った無垢な色。
「まずは、お姉さんの名前教えてくんない? その口で」
「……知ってるくせに……」
「お姉さんの口から聞きてェの」
「……あなたから先に名乗ってください」
「オレ? オレは——」
——火に誘い込まれたのは、どちらか?
夏はまだ当分、終わりそうにない。
年齢のわりに責任のあるポジションにいるのは、学歴や功績による人事的な評価であって(女性の地位向上なども要因のひとつではあるかも知れないが)、おおむね正当なものだと思っている。
どのプロジェクトも責任をもって全うし、成果を上げてきた。趣味がない分プライベートを仕事に費やしてきたところもある。……それで恋人を失っているのだから、公私ともに上手いわけではないが——つまり、私は仕事で成果を上げるのが好きで、そのためなら多少の個人プレーも厭わない。
周りの人たちに恵まれているのもあって、比較的自由にやらせてもらっていた。大抵の個人プレーに対しても、「さすがだね」と褒めてもらえるが……
「君は本当に抜け目がないな。珍しく休みを取ったかと思えば、そのあいだに大口のプロジェクトを進めているとは……さすがだね」
——が、今回ばかりは全くもって身に覚えがない。
失恋休暇(表向きはただの有休だが)を取った私が、3日間というレアな休養期間を経て出社し、溜まっていたメール処理やらなんやらを片していたところ直属の上司に声をかけられ、……なんのことやら。
「……あの、どの件をおっしゃっているのか……」
困惑する私が詳細を聞くまでもなく、内線で呼び出しをくらった。直属の上司ではなく、上の室長でもなく、そのさらに上の部長でもなく……まさかの、社長に。正しくいうと、社長付きの秘書に。例の件で、今すぐ来るように——と。
急ぎ足でフロアを上がり、社長室へと向かいながら……もしかして、これってドッキリだろうか? 暇な会社なのか。いやしかし、なぜ私? ——などと考えていると、社長室の前の前室で、慌てたような社長と秘書に遭遇した。
「きみか! きみだね? こんな重要な案件はきちんと上を通してもらわなければ——いいや、それについては後で話すが……しかし、昨日の今日でいきなり本人がやって来て、きみを出せと——ともかく、頼むよ? 君に社運が掛かっているんだ。分かるね?」
なにひとつ分かってないです。なんの話をしてるんですかね? ——なんて言うわけにはいかない。相手は社長である。個人的に話すのは初めてだが、私の顔を見て「きみか!」と呼びかけて来たので、私に用があるのは間違いないらしい……?
促されるままに前室の先の社長室へと。ひとりで行かされるあたり、ドッキリへの疑いは霽れず……リアクションをどうしようかと考える。
入室して、手前の応接スペースを見るが、誰もいない。口の付けられていない珈琲のみ。
——ドッキリ確定だ。うまい反応をしなくては。
変なことに頭を悩ませかけたとき、社長の机だと思われる奥に、目がいった。私と反対の、窓側を向くイスが、くるりと回り——
「お姉さん、見ィっけ♪」
カラフルな色が飛び散った頭髪。ツヤのあるスーツは、ダークネイビーの夜空色。花火みたいな——彼が、場違いな青空を背にしてニヤッと笑った。
「……えっ? は? ……え?」
「お、いいねェ~? そォゆう驚いた顔、見たかったンだよなァ~」
「なに言って……いえ、何やってるんですか? ……ドッキリ? え? どこから? いつから?」
「ドッキリじゃねェよ? これは、けっこうガチな、お仕事」
「…………はい?」
「お姉さんの会社、買収しよっかなァ~って」
「……はいっ?」
「アハハ、じょ~だん♪」
愉快げに笑う彼が、イスを軋ませて立ち上がった。スラリとした体躯。高い位置から見下ろしてくる顔は、非常に身に覚えがある。
3日前の夜に、短い時間だが、共に過ごしたひと。
「……あの、これは、どういうことでしょう?」
立ち尽くす私の方へと歩み寄りながら、ふっと薄く曲げた唇で吐息をもらした。
「お姉さんが、オレんとこに忘れ物してくから……持って来てあげたわけ」
目の前に差し出された手が、私の受け取りを待たずに開いた。
とっさに受け止めて——ラムネ色の、指輪——その存在に、眉を寄せる。これは、忘れたわけじゃない。置いていったのだ。
「……いりません」
「なんで? お姉さんのために取ったのに?」
「こんな物、欲しいなんて言ってません」
「こんな物って……ダイヤの指輪なら貰ってくれンの?」
「そういう問題じゃ……」
「じゃ、どォゆう問題?」
「…………そもそも、どうやってここを? 私、名前も言ってないですよね?」
「まァね……けど、汗流したいって言ってシャワー浴びたろ。そんときに身分証明になるもん漁られたのかもよ?」
「はぁ? 勝手に中を調べたんですかっ?」
「隙だらけなのが悪いンじゃん」
「犯罪ですよ!」
「……調べてねェって。シャワー待ってるあいだ暇だったから、お姉さんの巾着にキーホルダーつけようとしたの。……そんときに中身がこぼれたから、拾って……偶然、名前が知れたわけ」
「名前だけで会社は分からないですよね?」
「いや? オレ、個人特定とか得意だし、探偵やってる知り合いもいるし、簡単に分かったけど?」
「それ! 絶対に犯罪行為を含んでますよねっ?」
「黙秘で」
ひらっと振った彼の手に、揃いの指輪はない。手首に巻かれた腕時計は明るいトーンの金属で、ホワイトゴールドかプラチナ。特徴的なデザインですぐに分かる、スイス製の高級腕時計。傷のないそれは使用感がなく、経年劣化も感じさせない。銀メッキの指輪とは、かけ離れている。
「これが、ドッキリじゃないって言うなら……あなたは、なんですか」
「何って、なに?」
「ひとの会社に来て……いきなり社長に会えるなんて……ありえないでしょう?」
「オレは、オレだけど。お姉さんにやり逃げされた、かわいそォなやつ。……ってか、やり逃げはひどくね?」
「やり逃げって……人聞きの悪い。いえ、事実そうかも知れないですけど……あなたも楽しんでたんだから、そこは文句ないですよね?」
「う~わァ……それ、クズが言うセリフ。お姉さん、そォゆう感じなの? けっこう傷付くンだけど」
「………………」
なんだ、これは。どうして私が責められているのか。
困惑に怒りのような気持ちが湧いていたが、彼の——さびしげな苦笑に、心が揺さぶられる。私が悪いのか。
「……会社まで来て、私にどうしろと?」
「どうしてほしい、とか……そこまでは考えてない。ただ、もう一回……会いてェなって、思って」
「……会いたい、だけで……普通、こんな大事にします?」
「普通なんて知らねェし。お姉さんのこと調べるため、周りに探りいれさせたら……仕事に貪欲な感じって報告もらったから? じゃ、オレを餌にしたら逃げられねェかもってゆう……安全策」
貪欲。誰だ、そんなこと言ったのは。
「最初は、元彼の後輩を飛ばそっかなァって思ったンだけど……そんなことしても、お姉さんの頭の中から消えるか分かんねェし。オレは、元彼クン気に入ってるし。お姉さんを引き抜くにしても、この仕事がスキなら、オレのワガママで奪えねェじゃん?」
いろいろ突っこみたい。なに言ってんの? とすら思う。……思うが、とりあえず、
「……あなたが、どうして私の後輩を気に入っているんでしょう?」
「お似合いですねって言ってくれたじゃん? オレとお姉さん、似合ってるって。オレは嬉しかった」
「………………」
無邪気な笑顔に、何も言えなくなる。
「……お姉さん、なんで黙って帰ったの? 指輪も置いてさ……オレ、なんかした?」
「………………」
「怒らせた? 下手だった? ……それとも、最初から遊びだった?」
「それは……そっちだって……」
「オレ、遊びなんて言った? ……言ってねェよな?」
「そう、ですけど……私が、ひとりで都合よかったから……声をかけてきた、だけですよね?」
「そんなの、照れ隠しの言い訳に決まってンじゃん。お姉さんが綺麗だったから、玉砕覚悟で声かけたんだよ。……そんなことも分かってなかった?」
「……きれい? 誰が?」
「お姉さん以外、誰がいるの?」
「……私、普通ですよね? メイクはそれなりに上手くやれてると思いますけど、かといって……この程度なら、どこにでもいますよね? あの場に、もっと可愛いひとだっていましたよね?」
「そう? ……お姉さん、浴衣が似合ってたし。そのへんの安いのと違って、柄の色も映えてた。ひとりで、誰に見せるわけでもないのに綺麗で——かっこよかった。……祭りにいた誰よりも、お姉さんが綺麗だったと思うけど?」
「……お世辞が、うまいですね」
「嘘じゃねェって。オレは、空に上がった花火よりも……お姉さんに惹かれてた」
「………………」
あの日、美しく着飾ったのは——些末なプライドからだ。
距離を置きたいと言われて、その不安をごまかすために着付けを習った。浴衣も素材の良い物を買って、爪は、「ネイルしないの? 仕事用じゃなくて……キラキラした感じの」そう言われたのを思い出したから、練習した。
夏祭りは、毎年のことだから。きっと、そのときなら——会えると思って。……楽観的で、いや、逃避していて……ものすごく馬鹿だ。もっとやるべきことがあった。これが仕事だったら、そんな無駄な時間を置いたりしない。多少の駆け引きはあっても、半年も放置しない。間に合ったかは分からないが、直接的なアプローチをするべきだった。大事なものなら、目をそらしては……いけないのに。
「……オレの気持ちは、伝わった?」
「そこそこ好いてくれていた……ということだけ、分かりました」
「オレと付き合ってみる?」
「……はい?」
「オレと、付き合ってみる?」
「いえ、聞こえてますから……」
「聞こえてるならイエスノーで答えてよ」
「……それなら、ノーです。付き合いません」
「なんで?」
「……あの。私、つい先日失恋したばかりなんですよ。……ご存知ですよね? 普通は、こんなに早く別のひとと付き合う気になんてなれません」
「寝るのはよくて、付き合うのはダメなわけ? お姉さんが言う普通っておかしくね?」
シンプルに突き刺さってくる事実に、ぐうの音も出ない。
「——とにかく、付き合う気はありません」
「えェ~? いいじゃん、付き合ってよ。お試しでさ、この夏だけでも。とりあえず」
軽い。ひと夏のキャンペーンみたいなノリで言われても、乗るわけがない。
近寄ってきた彼から距離を取るべく、一歩下がった。すると彼は、意外にも食い下がることなく、不敵に微笑み、
「——お姉さんに、拒否権ってある?」
「? ……ありますよ?」
「ほんと? オレ、お姉さんが休んでるうちに外堀を埋めてみたンだけど……効果なかった?」
「外堀……?」
意味深長な言いぶりに、ふと——上司たちの言葉が、
——珍しく休みを取ったかと思えば、そのあいだに大口のプロジェクトを進めているとは……さすがだね。
——こんな重要な案件はきちんと上を通してもらわなければ……
——頼むよ? 君に社運が掛かっているんだ。
……いや、まさか。まさかそんな……。
否定してみるが、嫌な予感がぬぐえない。
「……もしかして、私、脅されてます?」
「ん?」
にこっと口角を上げる顔は肯定せず、否定もせず……黙ったまま。
「………………」
「………………」
「…………え、ほんとに付き合わないといけないんですか……?」
「別に? お姉さんのスキにすればい~んじゃねェ?」
「………………」
「——ちなみに言っとくと、成果を上げたい貪欲な会社員は断らねェと思うなァ~? 損得勘定でさぁ、オレを利用したほうがいいって弾き出せると思うンだよなァ~? そんなことも計算できねェやつなんていないだろォけど……いるなら? そいつがクビにならねェか心配だなァ~?」
「! ……さっきと態度違いませんかっ?」
「オレが下手に出ても、乗ってくんねェじゃん。そっちがそォゆう態度なんだから、こっちもビジネス対応。——ってワケで、付き合って?」
「あんなに謙虚な発言してたのに、言ってること矛盾してませんっ? 会いたかっただけで、私に何も望んでない——みたいなこと言ってましたよね?」
「ン~? 言ったっけ?」
「そういうところが! 軽そうで付き合いたくないところですよ!」
「軽いのはオレじゃなくてお姉さんじゃん?」
「そこはお互いさまですからね!」
明るい声をあげて笑ってみせる彼を睨むと、楽しそうな顔のまま、一歩。離れた分の距離を取り戻された。背後はドア。物理的にも比喩的にも逃げ道がない。
「そろそろ諦めついた?」
見下ろしてくる意地の悪い笑みに、「……最悪」ぼそりと本音がこぼれる。恋愛は当分——むしろ生涯——要らないと思った矢先に、こんな不条理な恋愛に囚われるなんて。
「最悪? 最高の間違いじゃねェ? オレを利用して出世できるかも知んねェし? ……お姉さん、最高に運いいじゃん。祭りで千本引きでもすりゃよかったなァ~?」
「どこが最高ですかっ? ほとんど身売りですよ?」
「それは自業自得。火遊びなんかするから、悪いヤツに捕まるンだって。……まァ、オレは優しいから? よかったじゃん?」
「……どの口が言って……」
「この口」
へりくつを吐く唇が、頬に落ちてきた。軽いリップ音が、ふざけたように頬をくすぐる。
「まだ付き合うとは言ってませんよ!」
「じゃ、早く宣言して」
「こんな脅迫めいた付き合いで本当にいいと思ってるですかっ?」
「思ってる。始まりなんてなんでもい~よ」
「軽薄すぎませんっ?」
——トンっと。行き止まりの背後を、彼の長い手が突いた。逃げ場などないと、知らせるように。
「……あのさ、遊びだとか軽いだとか言うけど……オレ、けっこう重いと思うよ? お姉さんのこと、離す気ねェし」
ゆっくりと下りてくる唇から、目が——離せない。
あの日、あのとき、重ねた熱が……頭に弾ける。
「オレと、付き合ってよ。お姉さんの時間を……オレにちょうだい」
「………………」
「オレの時間も、お姉さんにあげるし。……ほら、等価交換じゃん?」
「……等価、じゃない……」
「そォね? 時間は平等じゃねェし。……じゃァ、オレの全部をあげたら、釣り合う?」
甘く、まとわりつくような香り。体温と混じると、より深く惹きつけるように変化する。感覚が麻痺しそうになる——あの夜と同じ香水。
——よけなければ、受け入れることになるのか。
動けずに、目をつぶった。
しかし、触れたのは……唇ではなく、
「…………?」
開いた目に、間近で彼の顔が映る。
繋がった手の中から、指輪を取ったかと思うと——私の指先に、するりと。左手の小指ではなく、薬指に。
「サイズフリーって便利だよな。リングは全部これにすればい~のに」
そんな情緒のないことを言って、固まったまま見つめていた私に、気づいた。
いたずらっ子のような目が、私を捉え、
「とりあえず、予約で。オレ、けっこう本気だから……覚悟して?」
ラムネ色のアクリルストーンが、私の薬指でキラキラと輝いている。真ん中で割れたハートの半分。空にぶちまけられた花火の、ひとしずくのような。
目が離せなくなるほど派手で、でも——透き通った無垢な色。
「まずは、お姉さんの名前教えてくんない? その口で」
「……知ってるくせに……」
「お姉さんの口から聞きてェの」
「……あなたから先に名乗ってください」
「オレ? オレは——」
——火に誘い込まれたのは、どちらか?
夏はまだ当分、終わりそうにない。
51
この作品の感想を投稿する
みんなの感想(18件)
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
橘若頭と怖がり姫
真木
恋愛
八歳の希乃は、母を救うために極道・橘家の門を叩き、「大人になったら自分のすべてを差し出す」と約束する。
その言葉を受け取った橘家の若頭・司は、希乃を保護し、慈しみ、外界から遠ざけて育ててきた。
高校生になった希乃は、虚弱体質で寝込んでばかり。思いつめて、今まで養ってもらったお金を返そうと夜の街に向かうが、そこに司が現れて……。
春の雨はあたたかいー家出JKがオッサンの嫁になって女子大生になるまでのお話
登夢
恋愛
春の雨の夜に出会った訳あり家出JKと真面目な独身サラリーマンの1年間の同居生活を綴ったラブストーリーです。私は家出JKで春の雨の日の夜に駅前にいたところオッサンに拾われて家に連れ帰ってもらった。家出の訳を聞いたオッサンは、自分と同じに境遇に同情して私を同居させてくれた。同居の代わりに私は家事を引き受けることにしたが、真面目なオッサンは私を抱こうとしなかった。18歳になったときオッサンにプロポーズされる。
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜
来栖れいな
恋愛
逃げたかったのは、
疲れきった日々と、叶うはずのない憧れ――のはずだった。
無愛想で冷静な上司・東條崇雅。
その背中に、ただ静かに憧れを抱きながら、
仕事の重圧と、自分の想いの行き場に限界を感じて、私は退職を申し出た。
けれど――
そこから、彼の態度は変わり始めた。
苦手な仕事から外され、
負担を減らされ、
静かに、けれど確実に囲い込まれていく私。
「辞めるのは認めない」
そんな言葉すらないのに、
無言の圧力と、不器用な優しさが、私を縛りつけていく。
これは愛?
それともただの執着?
じれじれと、甘く、不器用に。
二人の距離は、静かに、でも確かに近づいていく――。
無愛想な上司に、心ごと囲い込まれる、じれじれ溺愛・執着オフィスラブ。
※この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。
籠の鳥〜見えない鎖に囚われて✿❦二人の愛から…逃れられない。
クラゲ散歩
恋愛
私。ユリアナ=オリーブ(17)は、自然豊かなオータム国にあるグローパー学院に在籍している。
3年生になって一ヶ月が経ったある日。学院長に呼ばれた。技術と魔術の発展しているフォール国にある。姉妹校のカイト学院に。同じクラスで3年生の男子3名と女子3名(私を含め)。計6名で、半年の交換留学をする事になった。
ユリアナは、気楽な気持ちで留学をしたのだが…まさか学院で…あの二人に会うなんて。これは…仕組まれていたの?幼い頃の記憶。
「早く。早く。逃げなきゃ。誰か〜私を…ここから…。」
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。
このユーザをミュートしますか?
※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。
こちらにも感想ありがとうございます✨
ロキくんの周りは本人の好みもあって優しい女性が多いのですが、今回だけひねくれ不器用(?)ヒロインで挑戦してみました。
ロキくんの一目惚れストーリーですね。
ifストーリーは辻褄合わせず気軽に書けるので本当にいいです笑
こちらのハオロンは探偵事務所で働いていて、セトは警察かな……と軽い設定で書きました。
現在執筆中の青春ストーリーが青く眩しいので、致死量のダークで重い世界が少し恋しいです笑
今回のストーリーは自由すぎるので投稿する予定ではなかったのですが、読んでくださる方がいらっしゃったようなので載せてよかったです。
セトとヒロインのhoneymoon🌙も載せなくては笑(こちらはどこに載せましょうね……)
退会済ユーザのコメントです
サクラとアリアは本編でも番外でもゲームに関わってないので、ちょっと参加させてみました。
本当はゲームだけのがっつりした話も書きたいです!
本編中の〈失名の森〉とかリアルな森でのサバイバルゲームとか……他にもみんなで人狼ゲームとか笑
もう本編のストーリー関係なさすぎますけど、いくらでも書けるな……とよく思います🥺
本編好きな方からしたら需要ないかな?
でもいつか書けたらいいですね🥰
ロキの評価だけが上がっていく……笑
確かにセのほうは「ん」で終わりそうですね。ほんとに頑張ってほしい笑
イシャンの方はそんな素敵なこと言ってくれるんですね!さすが!
こう考えると星空デートはキャラの個性出そうですね?それだけでお話がいっぱい書けそうな……
ちなみにセトは続編で頑張ります!たぶん!