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嘘の始まりを教えて

Chap.1 Sec.3

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 あの夜、彼を見つけたのは偶然だった。

 いつもどおり深夜の2時頃、いちど眠りについたのだが、午後のうたた寝のせいか、オペラの影響を受けて悪夢でも見たのか……暗闇のなか、ぱっちりと目を覚ましてしまった。
 眠れそうにないわたしは、彼にホットチョコレートでも作ってもらおうと、部屋を後にした。両親には子供がわたししかいなかったから、子供のための3階は、幼少期からずっとわたしのための空間。成人して(デビュタントが終わって)からも、両親とわたしとの線引きは、明確には変わらなかった。
 廊下の最奥につながる尖塔せんとうが彼の私室だったけれど、いつも彼は、わたしの寝室の向かいの部屋で雑務をしていることが多かった。
 彼はいつ眠っているのだろう。浮世離れした彼は、ひょっとすると眠らずとも平気なのかも。そう思ってしまうくらい、彼は絶えず何かをしていて。あわよくば寝顔を見たいと願うわたしは、仮眠でもしていないか、と。ひっそりと向かいの部屋へと向かった。

 しかし、珍しいことに、そこには誰もおらず。
 ベルでも鳴らしてみようか。いやしかし、ほかの使用人がやってきてしまっては……困る。わたしは彼の作るホットチョコレートが飲みたい。そうして、あの優しいバイオリンのような音色で「おやすみなさいませ」と唱えてほしい。そうでなければ——今夜は眠れない。

 彼を捜そう。ここにいないということは、尖塔の私室なのだろう。尖塔にある部屋のうち、2階は家令のゲランの私室だが、彼は両親と共に外出している。視察やら付き合いやら、この時期は居ないことが多い。父が母を帯同するようになってから、従者ではなく必ずゲランが同行している。そのせいで、残るルネへと仕事が降ってくるのだ。もっとわたしに構ってほしいのに。
 尖塔への細い廊下を渡りきり、ふと何か違和感を覚えて足を止めた。手にしていたオイルランプの火が、不自然にゆらりとなびいた気がした。
 じっと見つめていると、やはり灯火ともしびは小さくゆれている。隙間風のないよう、先日しっかり塞いだという話だったが……見逃された隙間があるのだろうか。
 我が家は歴史ある美しい城ではあるが、それはつまり、とても古いということ。
 私室のあるルネ(と、ゲラン)のためにも、修復すべき箇所を確認しようと、階段をおりていった。使用人に任せればよいことを、そのとき妙に気になったのは……やはり何か、虫の知らせみたいなものがあったのかもしれない。

 空気の流れはどこから来るのか。特定できないまま、内壁をなぞる螺旋らせん階段を2階、1階と。すべての階段をおりきってしまった。そして、1階の部屋に足を入れる前に、に気づいた。
 1階から外には出られない。扉も窓もない、がらんとした空間の床には、さらに地下へと降りる階段があるだけ。
 その、短い階段の奥にある扉が、開いていた。
 空気の流れは、そこから生まれている。地下の細い通気口からだろう。
 
(誰かいるのかしら?)

 首をひねりつつ階下をのぞき込む。扉の奥には更なる通路があるため、ここからは真っ暗で何も見えない。かすかな風が流れて、手許の火を揺らしていた。
 通気口だけでは心許こころもとないから、と。灯火の酸素を確保するため、地下に降りる際は扉を開けておくのがこの家の習慣であったが、いくつかある地下室のうち、ここは食料庫などではなく、父が集めた書物や(秘密の)家宝を保存してある部屋であり、入ることのできる人間は限られている。
 知るかぎりでは父と、信頼のあるゲラン。父か、管理を任されたゲランが鍵を持っているはず。
 わたしが眠っているあいだに両親たちが帰宅していたとして、ゲランがこんな時間にここを掃除するわけもないだろう。そうなると、母が眠りきってから、こっそりやって来た父の可能性がある。

(お父様ったら、また内緒の宝石かしら?)

 実のところ、父は大の宝石好きであった。母には秘密裏に収集したそれらを、この地下室に隠している。家宝にするのだ、後世の子孫のためだと言っているが、完全に趣味だと思う。
 流行に合わせた新しい宝飾品に使いたがるだろう母には、絶対に内緒にするという約束で、「美しいだろう? 綺麗だろう?」と並べられた大粒のダイヤやルビーを見せてもらったことがあるが、どう見てもコレクションを自慢する顔にしか思えなかった。
 書物の棚裏に隠された家宝(ではない。今はまだ、ただの裸石ルース)は、わたしと父だけの秘密であり、ゲランも知らないだろう。

(……驚かせちゃおう)

 ふふ、と笑みがこぼれた。父の驚く顔と、新たな宝石の口止めに、何をおねだりしようか——と。たのしい想像をめぐらせながら、手許の火を消した。足音を殺して、そうっと階段をおりていく。
 明かりを失った視界は、インクをぬりたくったように真っ黒で。ランプを持つ手とは反対の手で壁をつたい、記憶から拾いあげるイメージを頼りに、一段一段、開かれた扉まで慎重におりていった。

 最下段を踏みきり、通路へと入る。少し進んだところにあるもうひとつの扉の隙間から、うっすらと明かりが漏れているのが分かった。その明かりを追って、そうっとそうっとを進めていく。
 扉の隙間から、目だけを出して部屋の様子をうかがった。

(あら? ……お父様じゃない?)

 部屋の奧で、棚に向かっている後ろ姿は、恰幅かっぷくのいい父のそれとはまったく異なり、けれどもよく見知ったシルエットであると——気づく。
 オイルランプのほのかな明かりが浮かびあがらせる、すらりとした長躯ちょうく

(あっ……)

 名前を、呼ぶつもりだった。
 けれども、ギイっときしんだ扉の音に振り返った彼が、
 ——見たことのない、冷たい顔。

 ぞくりと走った恐怖が、わたしの足を後退させた。暗闇のこちら側は彼から見えていないようで、怪訝けげんそうな瞳が細くわたしへと刺さっている。反射的に身をひるがえしたわたしは、音を立てないよう注意しながらも急いで通路を戻り、階段を駆けあがった。彼がこちらへ来ているかどうか。分からない。尖塔の1階に上がりきってからは、細かな螺旋階段の上を、一度も振り向くことなく部屋まで逃げるように走った。

 寝室の扉を閉めて、ベッドにもぐり込み、息をひそめる。

(どうして……なんで、わたし、逃げたの……?)

 自分の家だというのに、家人に見つかった盗人のようだ。バクバクと跳ねる心臓をなだめながら、いま見た光景を脳裏のうりに浮かべる。

(彼が、お父様の本棚でなにか見ていた? 羊皮紙ようひしのような薄い束を手にしていたわ……あれは、なに?)

 胸に重ねた両手を当て、シーツのなかで考えをめぐらせる。あの冷たい目をした彼が追ってくるのではないかと不安に駆られ、扉の方をそろりとのぞいた。
 息を止めてしばらく扉を見ていたが、開く気配がないことにほっとした。暗闇からのぞいていた者がわたしだとは分からなかったのか、そもそも誰かがのぞいていたことすら気づいていないのか。こわばっていた体に、ゆっくりと安堵あんどが広がっていく。

 緊張がほぐれるにつれ、思考は冷静さを取り戻していった。
 普段と別人のような彼は、いったい何をしていたのだろう。あそこは彼の入っていい場所ではない。
 今まで彼にいだくことのなかった疑念のカケラが、ひとつ、胸に刺さる。

(泥棒? ……そうじゃない。ルネは宝石なんて手にしていなかったわ……)

 持っていたものは、書物ですらない。本の形はしていなかった。あそこに置いてあるのだから、父がおおやけにしたくない——あるいはできない——何かだろうか。

(でも、そんなもの、ルネはどうして……)

 処分を任された?
 まさか、そんなこと、一介の執事に任せるはずがない。家令のゲランなら分かるが、ルネに任せるのはおかしい。彼は優秀だが、立場上はただの執事。重要な仕事も任されつつあるけれど……それでも、父の仕事に、ゲランを差し置いてルネが手を出すことはない。ぐるぐると回り続ける思考の渦の中で、芽生えはじめる疑心を抑え込むように首を振る。

(ルネに直接訊けばいいじゃない。やましいことがなければ、ちゃんと答えてくれるはず……)

 そう自分に言い聞かせながら、けれどもわたしは、それを実行する無意味さも感じていた。
 頭のいい彼のことだ。わたしに言いたくない話なら、うやむやにされる可能性がある。

(……それなら、)

 ひとつの答えにたどり着いたわたしは、シーツをぎゅっとつかんで、深呼吸するように深い決意の息を吐き出した。

 ——探ってみよう。
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