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小犬のワルツ
Chap.3 Sec.8
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ピアノの横に並んだフランソワの希望に応え、ルネは次々と曲を奏でていた。
——面白くないな。
不満な気持ちで眺めていたフィリップが横を見ると、隣の彼女は演奏をじっと見つめていた。自分の家の使用人なのだから、いくらでも弾いてもらえるだろうに。まるでグランド・オペラでも見るかのように真剣に見ていた。耳を傾けるというよりも、見ている。食い入るような横顔をフィリップが見ていると、その視線に気づいたのか、彼女が振り返った。
少しだけ、誇らしげに、
「すごいでしょう?」
「…………そんなに大したことない」
「本当はもっと上手なのよ。ピアノだけをひたすら練習していたら、きっと演奏家になれたわ。だって小さいころから楽譜もぜんぶ覚えていてね……」
否定にも動じず、ぺらぺらと思いつくままに使用人なんかを褒めたたえていく。つまらない話題。ほとんど頭に残ることなく流れ、あっそう、と適当に返答していた。彼がどれだけすごいかを丁寧に語っていた彼女は、最後にフィリップに向けて、
「この音楽も、とっても素敵でしょう?」
宝物を披露するように、キラキラとした瞳で笑ってみせた。
硬い引きつり笑いではなく、屈託のない笑顔をまっすぐに向けられて、ドキリと心臓が大きく跳ねる。一瞬、頭が真っ白になった気がした。
「…………なあ、」
動きを取り戻した頭は、しかしながら、明晰というには程遠く。半分は反射であるかのように、問いかけていた。
「結婚……本当にしてやろうか?」
さらりと紡がれたセリフに、彼女のほうは聞きこぼしたのか、笑顔で固まり——理解した瞬間、思いっきり眉を寄せた。
拒否する気で満々たる表情に、フィリップは意外にも動じなかった。彼は断られるわけがないと思っていたから、リアクションについて何も思うことなく、比較的に淡々とした声で、
「あんたの母親、残り短いんだろ?」
「……どうして、それを……」
「それなりに知られてる。あんたは、このままじゃ全然結婚できなさそうじゃないか。だから、母親も心配してるだろ?」
「………………」
「俺と結婚したら、最期に親孝行できる。恩を何も返せないまま死なれるのは……きついぞ。後で悔やんでも、遅い」
フィリップの声は、妙に淡白だった。感情を乗せないよう、神経を尖らせているような。顔色を変えることなく伝えられた言葉に、彼女のほうは重く沈黙した。
静かに目を合わせたまま、色のない声が言葉を繋いでいく。
「病気持ちのあんたが、他のやつと婚姻を結んだ場合、離縁されることもあるかも知れない。……でも、俺は、そんなことはしない。周りがなんと言おうと、病気を理由に突き放すことは……絶対にない」
乗せるまいとした感情が、わずかに滲む。フィリップの真剣さが響いたのか、彼女の目にも真摯に話を聞こうという意思が見られた。
黒い双眸が、強く彼女を見据え、
「何があっても、最期まで一緒にいてやる」
騎士の誓いに似た響きに、彼女の記憶から、何かが重なっていた。
——約束いたします。私はお嬢様を決して裏切りません。
思い出の声を掻き消すように、ピアノによる静かな夜想曲が響いている。
繊細な指使いで奏でられるその音は、ひそやかに二人のあいだを満たしていた。
——面白くないな。
不満な気持ちで眺めていたフィリップが横を見ると、隣の彼女は演奏をじっと見つめていた。自分の家の使用人なのだから、いくらでも弾いてもらえるだろうに。まるでグランド・オペラでも見るかのように真剣に見ていた。耳を傾けるというよりも、見ている。食い入るような横顔をフィリップが見ていると、その視線に気づいたのか、彼女が振り返った。
少しだけ、誇らしげに、
「すごいでしょう?」
「…………そんなに大したことない」
「本当はもっと上手なのよ。ピアノだけをひたすら練習していたら、きっと演奏家になれたわ。だって小さいころから楽譜もぜんぶ覚えていてね……」
否定にも動じず、ぺらぺらと思いつくままに使用人なんかを褒めたたえていく。つまらない話題。ほとんど頭に残ることなく流れ、あっそう、と適当に返答していた。彼がどれだけすごいかを丁寧に語っていた彼女は、最後にフィリップに向けて、
「この音楽も、とっても素敵でしょう?」
宝物を披露するように、キラキラとした瞳で笑ってみせた。
硬い引きつり笑いではなく、屈託のない笑顔をまっすぐに向けられて、ドキリと心臓が大きく跳ねる。一瞬、頭が真っ白になった気がした。
「…………なあ、」
動きを取り戻した頭は、しかしながら、明晰というには程遠く。半分は反射であるかのように、問いかけていた。
「結婚……本当にしてやろうか?」
さらりと紡がれたセリフに、彼女のほうは聞きこぼしたのか、笑顔で固まり——理解した瞬間、思いっきり眉を寄せた。
拒否する気で満々たる表情に、フィリップは意外にも動じなかった。彼は断られるわけがないと思っていたから、リアクションについて何も思うことなく、比較的に淡々とした声で、
「あんたの母親、残り短いんだろ?」
「……どうして、それを……」
「それなりに知られてる。あんたは、このままじゃ全然結婚できなさそうじゃないか。だから、母親も心配してるだろ?」
「………………」
「俺と結婚したら、最期に親孝行できる。恩を何も返せないまま死なれるのは……きついぞ。後で悔やんでも、遅い」
フィリップの声は、妙に淡白だった。感情を乗せないよう、神経を尖らせているような。顔色を変えることなく伝えられた言葉に、彼女のほうは重く沈黙した。
静かに目を合わせたまま、色のない声が言葉を繋いでいく。
「病気持ちのあんたが、他のやつと婚姻を結んだ場合、離縁されることもあるかも知れない。……でも、俺は、そんなことはしない。周りがなんと言おうと、病気を理由に突き放すことは……絶対にない」
乗せるまいとした感情が、わずかに滲む。フィリップの真剣さが響いたのか、彼女の目にも真摯に話を聞こうという意思が見られた。
黒い双眸が、強く彼女を見据え、
「何があっても、最期まで一緒にいてやる」
騎士の誓いに似た響きに、彼女の記憶から、何かが重なっていた。
——約束いたします。私はお嬢様を決して裏切りません。
思い出の声を掻き消すように、ピアノによる静かな夜想曲が響いている。
繊細な指使いで奏でられるその音は、ひそやかに二人のあいだを満たしていた。
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