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Bal masqué

Chap.4 Sec.5

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 乱れ髪を手で撫でつけ、フィリップのもとに急いで戻った彼女を待っていたのは、

「ん? あんた何も変わってねぇな?」
「……いえ、ドレスを着替えてまいりましたけれど……あの、フィリップ様……もしかして、だいぶ酔ってらっしゃる?」

 ほわんとした赤い顔に尋ねると、彼と向き合ってソファにいた父が、高らかに笑った。

「すまない。彼の味覚が鋭いものだから、つい……楽しくなってしまってね」

 給仕の者の横に置かれたワゴンの上、並んだワインボトルはどれも開いている。空になっていないところを見るに、試飲会なのだろうだが……数が、多すぎる。
 にこにことした笑顔の父が、

「さすが美食家タレラン様のご子息だ。どのワインも、ぶどうの品種をすべて当ててみせるのだよ。割合も大方あっていてね……じつに素晴らしい!」
「……お父様、彼は今からお出かけなさるのよ……?」

 娘の指摘に、輝いていた父の表情が、はたりと固まる。

「……うむ? 怒っているのかね……?」
「………………」
「いや、しかしだね? そんなに量は飲んでいないからね? 馬車も平気だと思うのだがね?」
「量は飲んでいるでしょう。そこに証拠があるのよ」

 ワゴンの上を指さすと、父は唇を貝のように閉ざした。
 ソファに座ってこちらを見上げるフィリップが、きょとっとした目で、

「へいきだぞ?」
「……ほんとうに? あなた、なにか変よ。顔も赤いし……」
「あんたも顔が赤いじゃねぇか」

 ふいに、下からフィリップの手が伸ばされた。ただ示すために出されただけだっただろうに、動揺から過剰に反応してしまい、びくりと身を下げていた。
 化粧を直してくるべきだった。熱を帯びた頬が、隠しきれていない。

「……なんで避けるんだ。俺は何もしないぞ……」

 不満を浮かべるフィリップと、頬を染めて下がった彼女の姿をどう捉えたのか。ワインの入った金のグラスを傾けながら、父は意外そうな目を送っていた。

「——オペラを愉しんでおいで」

 ほろ酔いの、ほがらかな声に送り出され、彼らはオペラ座へと向かう。



 §



 ——あまく見ていた。
 フィリップの顔の広さを、わたしは完全になめていた。

「ムシュー! こんばんは!」
「あらタレラン様! 本日もご機嫌うるわしく」
「まぁ! フィリップ様!」

 などなど各方面から声をかけられ、そのたびに、

「こちらがご婚約者の! お噂はかねがね……」

 当然のようにフィリップがわたしを婚約者と紹介するせいで、皆がそう捉えて会話をしてくる。すでに噂が行き渡っているのか、否定するにも伝わらない。

「いえ、わたくしは……そのような……」
「ご結婚の日取りは決められたのですか?」
「……あの、ですから、わたくしはまだ……」
「ご世継ぎが産まれれば、ご夫人も大層お喜びになられますなぁ!」

 ……だめだ。誰も話をまともに聞いていない。みんな、ほんのりアルコールくさい。
 極めつけが、こちら。

「フィリップ様、婚約者として紹介するのはやめてちょうだい!」
「なんでだ?」
「取り消せなくなるでしょう!」
「取り消さなくていいじゃねぇか」

 このひとも酔っている。馬車の中でもふわふわしていたけれど(行きの馬車はタレラン家の馬車に乗ったので)、今も変わらずにふんわりしている。全体的にノリだけでしゃべっている。呂律ろれつもちょっと怪しい。友人と顔を合わせても、

「フィリップ、なんで君はそんなに酔ってるんだい?」
「んー?」
「……大丈夫かい? 君、そんな感じで……大丈夫かい?」
「心配ねぇぞ。俺は酔ってても弾を外したことはない!」
「そんなことは訊いてないんだよねぇ……」

 金髪を美しく整えた、ダンジュー家の令息であるフランソワは、ライトブラウンの眼を細めて、
(だめだこいつ)
 なんとなくあきれかえっている気がした。
 そんななか、可愛く着飾ったエレアノールは楚々そそとして彼に寄り添い、本日の演目について上目遣いにぽつぽつと尋ねる。
 ステージ真横にしつらえられたボックス席は、演技に近すぎるのもあいまって、なかなか混沌こんとんとしていた。

「……迫力はあるのだけどね……」

 アラジン役の歌手の歌声を聴きながら、ぽつりともれた本音に、隣のフィリップが耳を寄せた。

「なんだって?」
「……近いから、物語の中に入り込んだみたいね」
「それは気に入ったってことか?」
「ええ、まぁ……」
「そうか、よかった!」

 屈託くったくなく笑う顔は無邪気で、扱いに困る。なんなのだろう、なんで今日はこんな感じなのだろう。(いや、大半が父のせいか……)
 オペラにあまり集中できないのは、下がったドアの位置にルネが控えているのもある。ずっと見られている気がする。イスの背で遮られているにしても、彼の視線にさらされていると思うと、指で首から背筋をなぞられるような心地がして、落ち着かない。をどうしたらいいのか。逃げ道がない——と、思い込みたい自分がいる。

 考え事のせいか照明の熱のせいか、頭がぼうっとする。悩める思考はまともに働いておらず、漠然とした意識のなかで舞台を眺めていると、膝の上に置いていた片手を、思いがけず大きな手に包まれた。
 瞠目どうもくして隣を見る。こちらを見ていたフィリップが、イタズラする子供みたいに笑った。

「……はなして」
「これくらいならいいだろ。使用人にも見えない」
「……そういう問題じゃないわ」
「だったらどういう問題だ?」

 声は互いにほとんど出していない。唇の動きで訴えるが、手を握る力は、かえって強まった。

「俺は本気だ。あんたと結婚しようと思ってる」
「……申し訳ないけれど、わたしは、そんなつもりじゃないの……」
「あの使用人とじゃ、結婚はできないぞ」

 ひやりと、背が冷たくなった。
 演出で落とされた照明は関係なく、ただ目の前の唇が結んだ言葉が、わたしの言葉を奪っていた。
 何も、返せない。静かな歌が、滔々とうとうと響いている。
 見つめ合う彼の目は暗く、闇の色をしていた。

「あんたは一人娘だ。子を成さないと、爵位を次に継げない。使用人との婚姻も、そこで成した子への爵位も、認められるわけない。……それくらい分かってるだろ?」
「……そんなこと……分かってるわ」
「だったら——答えは出てるじゃないか」

 ふっと寄せられた顔が、唇を。
 かすめるだけのキスを、そこに残した。

「俺なら、爵位も親孝行も、ぜんぶ叶えてやれる。……俺にしろよ、幸せにするから」

 歌と音楽で織りなす魔法の物語にのせて語られる言葉は、酔いがすものなのか、それとも——。
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