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Bal masqué
Chap.4 Sec.6
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ルネがいない。気づいたのは、舞台がすべて終わりきったあとだった。
立ち上がって振り返ったがドアのところに彼はおらず、わたしに黙っていなくなることなど今までなかっただけに多少の不安に駆られていた。
——いつから? てっきり見られていると勘違いしていたが、もしかするとフィリップが距離を縮めてきたときには、もういなかったのでは? あの場にいたなら止められてもおかしくなかった。
「あら? ルネさんがいらっしゃらないわね?」
同じく振り返ったエレアノールが、わたしのそばに顔を持ってきて、
「めずらしい……外かしら?」
首をかしげると、彼女のほうの付き添い人が、彼なら途中で呼ばれて廊下の方におりますよと教えてくれた。
安心したけれど、確認しないことには不安が消えない。開けてもらうのを待てずに、みずからボックス席のドアを開いていた。
目が合ったのは、ルネじゃなかった。
わたしの視界から見えたのはスラリとした長躯の後ろ姿と、それに向き合う華やかなドレスの女性だった。艶やかな黒の短い髪は顔まわりで細くウェーブを重ね、ふっくらとした下唇は淡く色づいている。年齢は30代前半だろうか。こまかなギャザーを裾にあしらい、光沢の豊かなパールが並んでいる。大粒の宝石がついたジュエリーで飾られた胸はコルセットで持ち上げられ、女性的なラインを生んでいた。
その女性の暗いブラウンの目が、わたしを捉えて放さなかった。
「——まぁ! デュポン夫人!」
その名を告げたのは、開かれたドアから似た光景を目にしていたエレアノールだった。
高い声に名を呼ばれて、その女性はわたしから目を外し、唇を弓なりに曲げる。
「あらあら、可愛いエレアノール。お久しぶりね?」
「久しくご無沙汰しております。いらっしゃっていたとは知らず……ご挨拶が遅れましたわ」
「——いいえ、今ほど来たところよ。愛しい甥っ子の顔を見ようかと、晩餐会のあとに寄ってみたの」
流れた目は、フランソワに向いた。視線を受けて、彼は似たような笑みを返した。ルネは場所を空けるように横へと控え、フィリップが先に出て挨拶を交わす。
その女性——デュポン夫人は、社交界では有名だった。サロンや舞踏会の主催はもちろんのこと、ボランティア活動でも名を聞く。才気あふれる彼女のイメージは、まさに凛と咲く花のようなものだと思っていたが、初めて向き合う印象は大きく異なっていた。
同じ花に喩えるとしても、あでやかな大輪の赤。触れれば今にもこぼれ落ちそうな花びらが、夜露を身につけて色めくような。
「——そう。この子が、あなたの稚気にあふれる心を射止めたという、お嬢さん」
フィリップの紹介から、すでにわたしを知っていたと思われる。艶麗な唇はわたしの名を呼んだ。
フィリップのほうが、「俺はガキじゃない。それに射止めるのは俺だ。弓だって得意だ」と話し続けていたが、フランソワによって「君はまだ酔ってるのかい?」と細い横目をもらっている。
「……初めまして、デュポン夫人」
「初めまして。貴女のお父様には大変お世話になっているわ。素敵なワインをいつもありがとう」
細まる目は、慈愛を見せた。またしても印象が変わる。
父への言葉をいくつか託され、会話を終えようとしたとき、彼女は思い出したように、
「——ああ、そうだわ。今度、我が家で仮面舞踏会を開くのよ。ぜひ、おいでなさいな。招待状を送るから……みんなでいらっしゃい」
最後は親しげな声で、活発な若い笑顔に。キュートなウィンクまで加えて、彼女は付き添い人と共に去っていった。
横のエレアノールを見ると、
「すてき……あんな女性になりたいわ……」
うっとりとした瞳で彼女を見送っていた。彼女に憧れる女性は多い。わたしも例外ではなかったのだが、今回で分からなくなった。雰囲気がくるくる変わるひとだと思った。どれが彼女の素顔なのか。
——そんな彼女と、どうしてルネは一緒にいたのだろう。
疑問を胸にルネを見たが、彼は目を返すことなく目線を下げている。考え事をしているようでもあった。
ルネを眺めていると、いつのまにか近くへと移動していたフランソワが、わたしの隣に並んだことに意識がいった。顔を向けると、微笑んだまま、こそりとした声で、
「——フィリップの友人として、俺から忠告してもいいかい?」
「……忠告?」
「メイドたちが噂してたんだけどねぇ……あの執事くん、けっこうな手練だよ? そちらのメイドさんも何人か手をつけられてるらしいから……お嬢さんも気をつけて」
話の内容にそぐわず、ニコッと爽やかに笑った。そのせいで頭を過ぎていったセリフが、遅れて理解に達する。
「……ご冗談を」
「おや、信じないかな?」
「わたしの使用人を貶めるようなお言葉は、わたしに対しても無礼では?」
「……ふむ、強気だねぇ」
小さく睨みあげたわたしに、彼は顎に指を当てて、考えるような仕草を見せた。目の端で捉えるように流し目を投げて、
「——なら、確かめてごらん」
「……そんなことは、致しません」
「使用人に聞いて回るんじゃないさ。ちょっと彼に……服を脱ぐよう指示してみればいいんだ」
「……?」
薄く微笑む唇は、挑戦的に歪んでいる。
理解しきれていないわたしに、彼はさらに声のトーンを落として、忍びやかに、
——見たら分かるよ。脱ぐのを拒むならば……それも答えかも知れないね。
つい今しがた見たばかりのウィンクが、同じように落とされた。
立ち上がって振り返ったがドアのところに彼はおらず、わたしに黙っていなくなることなど今までなかっただけに多少の不安に駆られていた。
——いつから? てっきり見られていると勘違いしていたが、もしかするとフィリップが距離を縮めてきたときには、もういなかったのでは? あの場にいたなら止められてもおかしくなかった。
「あら? ルネさんがいらっしゃらないわね?」
同じく振り返ったエレアノールが、わたしのそばに顔を持ってきて、
「めずらしい……外かしら?」
首をかしげると、彼女のほうの付き添い人が、彼なら途中で呼ばれて廊下の方におりますよと教えてくれた。
安心したけれど、確認しないことには不安が消えない。開けてもらうのを待てずに、みずからボックス席のドアを開いていた。
目が合ったのは、ルネじゃなかった。
わたしの視界から見えたのはスラリとした長躯の後ろ姿と、それに向き合う華やかなドレスの女性だった。艶やかな黒の短い髪は顔まわりで細くウェーブを重ね、ふっくらとした下唇は淡く色づいている。年齢は30代前半だろうか。こまかなギャザーを裾にあしらい、光沢の豊かなパールが並んでいる。大粒の宝石がついたジュエリーで飾られた胸はコルセットで持ち上げられ、女性的なラインを生んでいた。
その女性の暗いブラウンの目が、わたしを捉えて放さなかった。
「——まぁ! デュポン夫人!」
その名を告げたのは、開かれたドアから似た光景を目にしていたエレアノールだった。
高い声に名を呼ばれて、その女性はわたしから目を外し、唇を弓なりに曲げる。
「あらあら、可愛いエレアノール。お久しぶりね?」
「久しくご無沙汰しております。いらっしゃっていたとは知らず……ご挨拶が遅れましたわ」
「——いいえ、今ほど来たところよ。愛しい甥っ子の顔を見ようかと、晩餐会のあとに寄ってみたの」
流れた目は、フランソワに向いた。視線を受けて、彼は似たような笑みを返した。ルネは場所を空けるように横へと控え、フィリップが先に出て挨拶を交わす。
その女性——デュポン夫人は、社交界では有名だった。サロンや舞踏会の主催はもちろんのこと、ボランティア活動でも名を聞く。才気あふれる彼女のイメージは、まさに凛と咲く花のようなものだと思っていたが、初めて向き合う印象は大きく異なっていた。
同じ花に喩えるとしても、あでやかな大輪の赤。触れれば今にもこぼれ落ちそうな花びらが、夜露を身につけて色めくような。
「——そう。この子が、あなたの稚気にあふれる心を射止めたという、お嬢さん」
フィリップの紹介から、すでにわたしを知っていたと思われる。艶麗な唇はわたしの名を呼んだ。
フィリップのほうが、「俺はガキじゃない。それに射止めるのは俺だ。弓だって得意だ」と話し続けていたが、フランソワによって「君はまだ酔ってるのかい?」と細い横目をもらっている。
「……初めまして、デュポン夫人」
「初めまして。貴女のお父様には大変お世話になっているわ。素敵なワインをいつもありがとう」
細まる目は、慈愛を見せた。またしても印象が変わる。
父への言葉をいくつか託され、会話を終えようとしたとき、彼女は思い出したように、
「——ああ、そうだわ。今度、我が家で仮面舞踏会を開くのよ。ぜひ、おいでなさいな。招待状を送るから……みんなでいらっしゃい」
最後は親しげな声で、活発な若い笑顔に。キュートなウィンクまで加えて、彼女は付き添い人と共に去っていった。
横のエレアノールを見ると、
「すてき……あんな女性になりたいわ……」
うっとりとした瞳で彼女を見送っていた。彼女に憧れる女性は多い。わたしも例外ではなかったのだが、今回で分からなくなった。雰囲気がくるくる変わるひとだと思った。どれが彼女の素顔なのか。
——そんな彼女と、どうしてルネは一緒にいたのだろう。
疑問を胸にルネを見たが、彼は目を返すことなく目線を下げている。考え事をしているようでもあった。
ルネを眺めていると、いつのまにか近くへと移動していたフランソワが、わたしの隣に並んだことに意識がいった。顔を向けると、微笑んだまま、こそりとした声で、
「——フィリップの友人として、俺から忠告してもいいかい?」
「……忠告?」
「メイドたちが噂してたんだけどねぇ……あの執事くん、けっこうな手練だよ? そちらのメイドさんも何人か手をつけられてるらしいから……お嬢さんも気をつけて」
話の内容にそぐわず、ニコッと爽やかに笑った。そのせいで頭を過ぎていったセリフが、遅れて理解に達する。
「……ご冗談を」
「おや、信じないかな?」
「わたしの使用人を貶めるようなお言葉は、わたしに対しても無礼では?」
「……ふむ、強気だねぇ」
小さく睨みあげたわたしに、彼は顎に指を当てて、考えるような仕草を見せた。目の端で捉えるように流し目を投げて、
「——なら、確かめてごらん」
「……そんなことは、致しません」
「使用人に聞いて回るんじゃないさ。ちょっと彼に……服を脱ぐよう指示してみればいいんだ」
「……?」
薄く微笑む唇は、挑戦的に歪んでいる。
理解しきれていないわたしに、彼はさらに声のトーンを落として、忍びやかに、
——見たら分かるよ。脱ぐのを拒むならば……それも答えかも知れないね。
つい今しがた見たばかりのウィンクが、同じように落とされた。
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