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Bal masqué

Chap.4 Sec.16

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 馬車のなか、仮面を取ったルネはいつもどおり小窓の外を眺めていた。
 普段と変わらないその横顔を見つめていると、会場での出来事は夢だったのではないかと思えてくる。わたし以外のひとに触れたことも、悲しみに暮れたことも、共に踊ったことさえも。何もかも仮面が見せた幻だったのではないか——

「——フィリップ様が、」

 急に、ろう人形のように静止していた唇が動いた。そこでの動揺は表に出なかったが、振り向いたルネと目が合うと、つい息をむような反応をしていた。

「当然のように、ご婚姻を前提でいらっしゃるのでございますが」

 振られた話題に、ぱちぱちと瞬きを返してから、

「そ……そうなの。どうしてか、そんなことに……」
「お嬢様からは、お断りの言葉を出されていないということでございますか?」
「わたしは断ってるわ」
「本気でお断りされるのであれば、お父上にお話しいただくのが早いかと」
「……そうね。……帰ったら話すわ」

 じっと見据える瞳は、こちらを観察するように捕らえている。

「お嬢様は……彼とのご婚姻をお望みでいらっしゃいますか?」

 見定めるような目つきのまま、ルネはそんなことを問うた。
 言葉が胸に刺さる。その言葉にどれほどの力があるのか、彼は分かっていない。

「……それは前にも答えたわ」
「あれから、ご意思に変わりはございませんか?」
「……なんで……」

 なんで、そんなことを平然と訊くの。
 訴えたくなった心は、言葉に変わることなく目の奥を痛めた。わたしの想いなど、きっと知っているだろうに。
 涙を抑え込んで、感情をのせることなく言葉の先を変える。

「わたしに出て行ってほしいの?」
「そのような意図はございません」
「ほんとうかしら? わたしがいなくなったら、あなたは自由な時間が増えるものね?」
「……何か根に持たれているようでございますね」
「疑いはれてないもの」

 ——しつこい。細められた眼にそんな感情がひらめいて、すぐさま消えた。ルネの嘆息たんそくする息の音が、わざとらしく響いた。
 彼は面倒になったのか会話を切って目を外に戻し、その横顔に少しむかむかとした気持ちをいだく。
 強い視線を送っていても無視されるので、立ち上がって隣に移った。彼の、左隣に。ルネは振り向くことなく声だけで、

「……走行中にお立ちになるのは危険でございますよ」
「ルネも前に立ってたでしょ」
わたくしとお嬢様では身体能力の差がございます」
「わたしがどんくさいと言いたいの?」
「そういうわけでは……お嬢様? 何をなさっているのでございましょう?」

 ルネの服に手を掛けると、ようやく彼の目がこちらに向いた。押さえてくる手の力にあらがいつつ、彼の首許のタイを外す。ボタンにも指を伸ばすと、制止する手の力が強くなった。

「……ここは馬車の中でございますが」
「じゃあカーテンを下げて」
「お戯れをなさらぬよう——」

 手を押し戻すように払われたので、ルネの体を越えて小窓のカーテンへと手を掛けた。カーテンを落とすことには成功したが、馬車の揺れでバランスを崩した体が不安定に傾き——ルネの膝にぶつかる直前、彼の手で受け止められていた。掬いあげる腕の力は強く、あっというまに元の体勢へと直される。

「危険だと——お伝えいたしましたよ」

 厳しい声に目を上げる。暗くなった車内に、影のようなルネのかたちが浮かぶ。
 発せられた声を頼りに、小さく訴えた。

「シャツのボタンを外したいの」
「何を仰っているのか理解できかねます」
「くちづけの跡を消したいのよ」
「……そう簡単に消せるものではございませんよ」
「だったらわたしも付けるわ」
「……ご冗談を」
「本気で言ってるのよ」
「………………」

 ふうっと諦めたような吐息のあと、ルネがボタンに手を掛けるのが分かった。暗さに慣れてきた目が、ぼんやりと輪郭を捉える。開かれたシャツの首許にそろりと触れると、ルネは顔を背けた。

「……くすぐったい?」
「いいえ」
「わたしに触られるのは……不快?」
「……いいえ」

 ため息みたいに答えられる。あきれているのかも知れない。
 横を向くルネの肩に手を置き、さらされた首筋へと下から吸い付くように唇を当てる。ちゅ、と音を立ててみるが、ルネはぴくりともしない。無反応。むしろなんだか冷ややかな空気を感じる。

「お嬢様」
「……なに?」
「それで跡が付くとお考えでしたら……私、失笑の念を禁じえませんが」
「? ……どうして? 吸ったら付くと聞いたわよ?」
「どなたに?」
「エレアノール……いえ、ジョゼフィーヌ?」
「……お嬢様方は、非常に可愛らしい世界で生きてらっしゃいますね」
「……馬鹿にしてるわね?」

 睨んだところで彼には見えない。すると、ルネはカーテンを少しだけ上げた。射し込むランプの明かりが、ほんのりとルネの肌を浮かび上がらせるが……

「……これは、夫人の跡よね?」
「そうでございましょうね」
「どうしてわたしではダメなの? 情念が足りないというの?」
「そのようなものが関わるかどうかは存じ上げませんが……これは単にお嬢様がつたないだけかと」
「下手ってこと? 吸うだけなのに?」
「………………」

 考えるように黙したルネが、わたしの腕を取った。手首まである長いドレスの袖をまくると、腕の内側、手首よりも少しばかり上のあたりに唇を寄せた。
 どきり、と。胸が震える間に、ちりりとした痛みを覚えた。みつかれたわけではないけれど、歯先を感じるほど強く皮膚を吸われる。
 ちゅっと強い音とともに解放された腕を見ると、うっすらとした色が付いていた。すこしだけ、痛みも残る。目を合わせたルネは微笑んだ。

「このようにして付けるのでございますよ」

 はだける首筋とほの明かりのせいで、誘惑するような色香をまとう。そんな微笑みに胸をつかまれることが悔しくて、首許へと。咬みつく勢いで吸い付いた。

「……お嬢様、とても痛いのでございますが」

 文句を聞き流して、くちづけを深める。ほとんど意地で長く吸い付いていたが、ようやく気がおさまって離したところ……くっきりと、鮮やかな跡が。

「……できた」
「それだけ吸い付いていらっしゃれば出来ますでしょう」
「……すごく赤いのだけど、痛くない?」
「私はすでに痛いと申し上げたかと思いますが?」
「……ごめんなさい?」

 上目遣いに見ると、ため息を返された。「ご満足いただけましたでしょうか」と呟きながら、シャツのボタンに指を掛ける。閉じられていくシャツに、隠されるぎりぎりまで赤い跡を見ていた。

(……わたしのもの、みたいだわ)

 彼の肌に残った印に、満足というよりは安心感を得ていた。
 仮に他のメイドが見たとしても、きっとこれほどの情念には敵わないと——諦めてくれるだろうから。
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