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オペラ座の幻影
Chap.5 Sec.11
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どうする?
その問いの答えは簡単だった。
少しのあいだ目をつぶればいい。
眠りにつく彼女を残し、何も知らなかったフリをして……出て行ってしまえばいい。彼女にさえ咎められることはない。タレランが乱暴をする男でないのは、噂や先ほどのダンサーの表情からも想像がつく。彼女も例外でなく愉しむかも知れない。
この程度の犠牲で目的が達成されるなら、最善の道ではないか。
この程度……で。
——ルネ、約束のピアノを弾いて!
幼く高い声が、やわらかに胸に響く。
くるくると変わる表情で、泣いたり笑ったり、ときに拗ねて甘えたり。
——ルネ、コンコンが止まらないの。よしよしして。
あざとく幼児ぶってみたり。
通用すると分かれば、ちゃっかり何度も要求して。
——ルネがいいの。ルネじゃなきゃ、だめなの。
離れようとするたびに、小さな手でこちらをぎゅっと掴み、うるんだ目で訴えてきた……小さな女の子。
主人の命のもと、大切に護り育ててきた——自分を慕う、無垢な幻が、胸に棲みついて離れない。
——君が、何よりも娘のことを大切に想ってくれていることは、ちゃんと分かっている。今さらクビにするなど、あるはずがない。
子を想う父の顔と、温かい声が耳に残っている。
本来ならば——あの場所は、自分と、自分の家族がいる場所だった。
何も知らない顔をして、平然と幸せのなかにいるが……あの主人が何も覚えていないはずはない。国外に出たときに入れ替わったとしたなら、間違いなく記憶のある年齢になる。
自分が偽物であると知っていて、そのうえで黙して娘の婚姻を笑っている。世継ぎは安泰だと……見当違いな安堵に胸を撫でおろしている。
——私の犠牲のうえで安穏を貪る奴らを、ひとり残らず殺してくれ。
仕えたての頃、何度あの主人を手に掛けようとしたことか。
ひとり残らずという父親の望みを汲んで思いとどまったが……全員を葬れるほどに強くなる日は遠い。果てしなく思った夜は絶望的だった。
その中で、どうせならば奪い返してやると——新たな目的を胸に、自分を律していた。
——タレラン様に限らず、すべてから護っておくれ。
これは、ふざけた主人の命に報いる、絶好の機会だ。
彼女をタレランに捧げて、その見返りに望みの物を手に入れる。
答えは、明白だった。
「……気持ちは決まったかな?」
「……ああ」
短く応じて、ルネは彼女の体にかざしていた右手をどけた。
動かない肢体。眠りにつく顔は変わらずに静かで、そばにいることもきっと気づいていない。
わずかに開かれた唇が、名を呼ぶ動きを見せた気がしたのは……錯覚なのだろう。
——それでも。
「彼女は、貴方には渡せない」
明瞭なセリフとともに、傍らの甲冑が着けた飾り剣をスラリと抜き取った。
唇は、自然と笑っていた。
これから自分がする愚かな行為を、笑わずにはいられない。
今まで耐えてきた時間のすべてを無に帰そうとしている。
でも、仕方がない。
——ルネがいいの。ルネじゃなきゃ、だめなの。
自分は、あの手を振り払えなかった。
一度も、ただの一度も。
——黙っているから、そばにいてはいけない?
突き放そうとしてみても、
——うつしてもいいから、そばにいさせて。
涙をこぼされたら、振り払えない。突き放せなくなる。
自分の意志が、こんなにも弱いとは知らなかった。
(……違うか)
彼女の存在が、自分にとってこんなにも大切なものだとは——。
あるいは、もっとあの家の者たちが皆ひどく冷たい人間であったなら。
誰もが温かな目と声で接することなく、蔑んだ態度でいてくれたなら。
あそこで過ごした長い時間が、辛く耐えがたいものであったなら……。
苦笑をこぼして構えた剣は、本物の剣ではない。
しかし、長く硬いそれは十分な武器となる。まがい物の先端を、ピタリと敵に合わせた。
「あの家だけに限らず、彼女も俺のものだ。誰にも渡さない」
——この唇も、体も、生涯も。すべて、あなたに捧げるわ。
気高い彼女を、誰に渡せようか。
兄代わりの騎士となったあの日から、彼女を護ることが自分の存在意義となった。
たったひとりの、愛しい彼女を護れるなら。
この命など惜しくはない。
その問いの答えは簡単だった。
少しのあいだ目をつぶればいい。
眠りにつく彼女を残し、何も知らなかったフリをして……出て行ってしまえばいい。彼女にさえ咎められることはない。タレランが乱暴をする男でないのは、噂や先ほどのダンサーの表情からも想像がつく。彼女も例外でなく愉しむかも知れない。
この程度の犠牲で目的が達成されるなら、最善の道ではないか。
この程度……で。
——ルネ、約束のピアノを弾いて!
幼く高い声が、やわらかに胸に響く。
くるくると変わる表情で、泣いたり笑ったり、ときに拗ねて甘えたり。
——ルネ、コンコンが止まらないの。よしよしして。
あざとく幼児ぶってみたり。
通用すると分かれば、ちゃっかり何度も要求して。
——ルネがいいの。ルネじゃなきゃ、だめなの。
離れようとするたびに、小さな手でこちらをぎゅっと掴み、うるんだ目で訴えてきた……小さな女の子。
主人の命のもと、大切に護り育ててきた——自分を慕う、無垢な幻が、胸に棲みついて離れない。
——君が、何よりも娘のことを大切に想ってくれていることは、ちゃんと分かっている。今さらクビにするなど、あるはずがない。
子を想う父の顔と、温かい声が耳に残っている。
本来ならば——あの場所は、自分と、自分の家族がいる場所だった。
何も知らない顔をして、平然と幸せのなかにいるが……あの主人が何も覚えていないはずはない。国外に出たときに入れ替わったとしたなら、間違いなく記憶のある年齢になる。
自分が偽物であると知っていて、そのうえで黙して娘の婚姻を笑っている。世継ぎは安泰だと……見当違いな安堵に胸を撫でおろしている。
——私の犠牲のうえで安穏を貪る奴らを、ひとり残らず殺してくれ。
仕えたての頃、何度あの主人を手に掛けようとしたことか。
ひとり残らずという父親の望みを汲んで思いとどまったが……全員を葬れるほどに強くなる日は遠い。果てしなく思った夜は絶望的だった。
その中で、どうせならば奪い返してやると——新たな目的を胸に、自分を律していた。
——タレラン様に限らず、すべてから護っておくれ。
これは、ふざけた主人の命に報いる、絶好の機会だ。
彼女をタレランに捧げて、その見返りに望みの物を手に入れる。
答えは、明白だった。
「……気持ちは決まったかな?」
「……ああ」
短く応じて、ルネは彼女の体にかざしていた右手をどけた。
動かない肢体。眠りにつく顔は変わらずに静かで、そばにいることもきっと気づいていない。
わずかに開かれた唇が、名を呼ぶ動きを見せた気がしたのは……錯覚なのだろう。
——それでも。
「彼女は、貴方には渡せない」
明瞭なセリフとともに、傍らの甲冑が着けた飾り剣をスラリと抜き取った。
唇は、自然と笑っていた。
これから自分がする愚かな行為を、笑わずにはいられない。
今まで耐えてきた時間のすべてを無に帰そうとしている。
でも、仕方がない。
——ルネがいいの。ルネじゃなきゃ、だめなの。
自分は、あの手を振り払えなかった。
一度も、ただの一度も。
——黙っているから、そばにいてはいけない?
突き放そうとしてみても、
——うつしてもいいから、そばにいさせて。
涙をこぼされたら、振り払えない。突き放せなくなる。
自分の意志が、こんなにも弱いとは知らなかった。
(……違うか)
彼女の存在が、自分にとってこんなにも大切なものだとは——。
あるいは、もっとあの家の者たちが皆ひどく冷たい人間であったなら。
誰もが温かな目と声で接することなく、蔑んだ態度でいてくれたなら。
あそこで過ごした長い時間が、辛く耐えがたいものであったなら……。
苦笑をこぼして構えた剣は、本物の剣ではない。
しかし、長く硬いそれは十分な武器となる。まがい物の先端を、ピタリと敵に合わせた。
「あの家だけに限らず、彼女も俺のものだ。誰にも渡さない」
——この唇も、体も、生涯も。すべて、あなたに捧げるわ。
気高い彼女を、誰に渡せようか。
兄代わりの騎士となったあの日から、彼女を護ることが自分の存在意義となった。
たったひとりの、愛しい彼女を護れるなら。
この命など惜しくはない。
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