10 / 26
第一部 白:佐々木航太 黒:鷺沢悠 20xx年9月x日
9:白が戦略上の重要なポジションを得る(9.Nf5 c6)
しおりを挟む
僕は鷺沢悠、絶賛スランプ中の吹奏楽部二年。
前のめりな誘惑が失敗に終わって、航太とはもう少しぎくしゃくするものと覚悟していた。
なのに航太が僕を避けたのは翌日だけで、翌々日からあまりに屈託なくチェスの話をしてくるので、何だか可笑しかった。油断するとすぐに、d4、とか言ってきて、僕とブラインドチェスを指そうとする。
気持ちはわからなくもないけれど、僕は敢えてはぐらかす。
次の対局まで、楽しみは取っておきたかったから。
航太との対局は思った通り、というか思った以上に楽しかった。
誰かとチェスをするというのが、あんなにぞくぞくするものだとは知らなかった。
航太の指す一手一手は、僕を追い詰めるのじゃなく昂らせた。
投了、ということを知っていたら、僕はもっとさっさとそうしていただろう。けどあの時、僕はもう限界だった。
チェス盤を挟んで対峙している航太も、僕と同じ気持ちでいるものと思い込んだ。
だから僕は、迷いなく航太を誘惑した。
航太の戸惑いは予想してなかったけど、それもすぐに解けた。僕のキスに、航太はちゃんと応えてきた。両手を伸ばして僕の首に回したと思ったら、一瞬後には夢中で貪ってきた。
ドアがノックされた時、もう航太がその気になっているのは明らかだった。こんなスタジオで時間超過したって何も言われないはずだ、と僕は思ったけれどそのノックで航太のほうが動転してしまって、結局キス以上のことはせずに終わった。
だけど、僕にとってはそれでも充分だった。
僕は8月のあの日からずっと、この夜を待っていたから。
凛久にはうんざりする一方だった。親はただおろおろしているだけで何の助けにもならない。吹部も気を遣われるばかりで居心地が悪かったし、Fオケのクラリネット吹きが気晴らしに協力すると言ってきたのも完璧に、余計なお世話だった。
結局は自力でどうにかしなければ、冗談じゃなく僕は駄目になる。
そう思ったとき、僕は既に航太のことを考え始めていた。その時はまだ名前も知らなかったけど、自分を救ってくれるのはチェスと航太だけだと、僕は本能的に悟っていた。
決して死にたいわけじゃなかったけれど、生きていて楽しいわけでもなかった。僕はただ人生最悪の夏を、どうにか生き延びようと足掻いていた。
僕が何を必要としているのか、凛久にはそもそも理解する気がなかった。単に、親に頼まれたから傍にいるだけ。その親は僕の親に頼まれたから凛久に頼んだだけ。僕の親は僕が首を吊ったりどこかの屋上から飛び降りたりするんじゃないかと見当違いな心配をしているだけ。そして僕が凛久を拒まなかったのは単に、凛久と二人でいれば、他の誰とも口を利かずに済んだから。
Fオケのクラリネット奏者、竹内響は、僕の気晴らしにはまったくならなかった。むしろ竹内が持ち掛けてきたのは竹内の気晴らしで、僕の方は余計に病むだけの提案だった。
とは言え僕はそれを拒絶せず、初手d5を指して脳内チェスをスタートし、目を閉じて表層の快楽だけを追った(そういう目に遭うのは初めてじゃない)。
スタジオを予約したのは、その翌日のことだ。
九月の三週目は、Fオケの引っ越し公演で竹内が留守にすることが解っていた。
だから、航太に声を掛けて対局に誘おうと決めた。
以前から、航太の対局はいつもチェックしていた。すぐ後ろで音出ししながら局面を追ったこともある。
廊下に座り込んでる四人のうち、一人だけレベルが違うことは明らかだった。
迷いのない展開で、まるで駒が自分の意思で動いているように見える。
速攻を決める時のコンビネーションが、息を呑むほど美しい。
いくらか早指ししすぎている、と思わなくもなかったけれど、それでも拙い手を指すことはほとんどなかった。
こういう相手と一緒にチェスをやるのはどういう気分だろう、と思った。
一人で自分相手にするのじゃなく、嫌々するのでもなく、したい相手としたくてするのは、どういう感じなんだろう。
想像しただけで、身体が震えた。
航太と会うのに同じ場所を選んだのはまさに、竹内がそこを選んだのと同じ理由だった。
誰にも邪魔されないこと、中の様子が外から見えないこと、声や物音が外に漏れないこと。
もちろん僕が航太を誘ったのはチェスの対局のためだったけれど、僕の側に下心がなかったわけじゃないことの、これは揺るぎない証拠だ。
そして航太は、僕が何を必要としているのか知るはずもなかったのに、惜しみなくそれを与えてくれた。
一時でも夢中になれるもの。音楽のことを忘れさせてくれる時間。僕と真剣に向き合ってくれる誰か。
人と喋るのが億劫なのは変わらなかったけれど、航太とは楽に話せた。
航太になら、自分の頭の中にあるもの全部を知られてもいいと思った。
とにかく航太とのその初対局のあと、思いがけず、吹部にいるのが少し楽になった。
音楽準備室へ行けばそこに(というか廊下に)航太がいて、以前は目を合わせることもなかったのに、今では互いに挨拶を交わす。
今の航太は僕を知っていて、僕とキスをして、それに僕とまたチェスをしたがっている。
そのことを、吹部の連中は誰も知らない。
僕が吹けなくなったことは全員が知っているけれど、そのことは誰一人知らない。
そんなことで気持ちが楽になるのは、自分にとっても意外だった。
けれどそれもまた、航太が僕にくれたもののひとつだった。
前のめりな誘惑が失敗に終わって、航太とはもう少しぎくしゃくするものと覚悟していた。
なのに航太が僕を避けたのは翌日だけで、翌々日からあまりに屈託なくチェスの話をしてくるので、何だか可笑しかった。油断するとすぐに、d4、とか言ってきて、僕とブラインドチェスを指そうとする。
気持ちはわからなくもないけれど、僕は敢えてはぐらかす。
次の対局まで、楽しみは取っておきたかったから。
航太との対局は思った通り、というか思った以上に楽しかった。
誰かとチェスをするというのが、あんなにぞくぞくするものだとは知らなかった。
航太の指す一手一手は、僕を追い詰めるのじゃなく昂らせた。
投了、ということを知っていたら、僕はもっとさっさとそうしていただろう。けどあの時、僕はもう限界だった。
チェス盤を挟んで対峙している航太も、僕と同じ気持ちでいるものと思い込んだ。
だから僕は、迷いなく航太を誘惑した。
航太の戸惑いは予想してなかったけど、それもすぐに解けた。僕のキスに、航太はちゃんと応えてきた。両手を伸ばして僕の首に回したと思ったら、一瞬後には夢中で貪ってきた。
ドアがノックされた時、もう航太がその気になっているのは明らかだった。こんなスタジオで時間超過したって何も言われないはずだ、と僕は思ったけれどそのノックで航太のほうが動転してしまって、結局キス以上のことはせずに終わった。
だけど、僕にとってはそれでも充分だった。
僕は8月のあの日からずっと、この夜を待っていたから。
凛久にはうんざりする一方だった。親はただおろおろしているだけで何の助けにもならない。吹部も気を遣われるばかりで居心地が悪かったし、Fオケのクラリネット吹きが気晴らしに協力すると言ってきたのも完璧に、余計なお世話だった。
結局は自力でどうにかしなければ、冗談じゃなく僕は駄目になる。
そう思ったとき、僕は既に航太のことを考え始めていた。その時はまだ名前も知らなかったけど、自分を救ってくれるのはチェスと航太だけだと、僕は本能的に悟っていた。
決して死にたいわけじゃなかったけれど、生きていて楽しいわけでもなかった。僕はただ人生最悪の夏を、どうにか生き延びようと足掻いていた。
僕が何を必要としているのか、凛久にはそもそも理解する気がなかった。単に、親に頼まれたから傍にいるだけ。その親は僕の親に頼まれたから凛久に頼んだだけ。僕の親は僕が首を吊ったりどこかの屋上から飛び降りたりするんじゃないかと見当違いな心配をしているだけ。そして僕が凛久を拒まなかったのは単に、凛久と二人でいれば、他の誰とも口を利かずに済んだから。
Fオケのクラリネット奏者、竹内響は、僕の気晴らしにはまったくならなかった。むしろ竹内が持ち掛けてきたのは竹内の気晴らしで、僕の方は余計に病むだけの提案だった。
とは言え僕はそれを拒絶せず、初手d5を指して脳内チェスをスタートし、目を閉じて表層の快楽だけを追った(そういう目に遭うのは初めてじゃない)。
スタジオを予約したのは、その翌日のことだ。
九月の三週目は、Fオケの引っ越し公演で竹内が留守にすることが解っていた。
だから、航太に声を掛けて対局に誘おうと決めた。
以前から、航太の対局はいつもチェックしていた。すぐ後ろで音出ししながら局面を追ったこともある。
廊下に座り込んでる四人のうち、一人だけレベルが違うことは明らかだった。
迷いのない展開で、まるで駒が自分の意思で動いているように見える。
速攻を決める時のコンビネーションが、息を呑むほど美しい。
いくらか早指ししすぎている、と思わなくもなかったけれど、それでも拙い手を指すことはほとんどなかった。
こういう相手と一緒にチェスをやるのはどういう気分だろう、と思った。
一人で自分相手にするのじゃなく、嫌々するのでもなく、したい相手としたくてするのは、どういう感じなんだろう。
想像しただけで、身体が震えた。
航太と会うのに同じ場所を選んだのはまさに、竹内がそこを選んだのと同じ理由だった。
誰にも邪魔されないこと、中の様子が外から見えないこと、声や物音が外に漏れないこと。
もちろん僕が航太を誘ったのはチェスの対局のためだったけれど、僕の側に下心がなかったわけじゃないことの、これは揺るぎない証拠だ。
そして航太は、僕が何を必要としているのか知るはずもなかったのに、惜しみなくそれを与えてくれた。
一時でも夢中になれるもの。音楽のことを忘れさせてくれる時間。僕と真剣に向き合ってくれる誰か。
人と喋るのが億劫なのは変わらなかったけれど、航太とは楽に話せた。
航太になら、自分の頭の中にあるもの全部を知られてもいいと思った。
とにかく航太とのその初対局のあと、思いがけず、吹部にいるのが少し楽になった。
音楽準備室へ行けばそこに(というか廊下に)航太がいて、以前は目を合わせることもなかったのに、今では互いに挨拶を交わす。
今の航太は僕を知っていて、僕とキスをして、それに僕とまたチェスをしたがっている。
そのことを、吹部の連中は誰も知らない。
僕が吹けなくなったことは全員が知っているけれど、そのことは誰一人知らない。
そんなことで気持ちが楽になるのは、自分にとっても意外だった。
けれどそれもまた、航太が僕にくれたもののひとつだった。
0
あなたにおすすめの小説
陰キャ系腐男子はキラキラ王子様とイケメン幼馴染に溺愛されています!
はやしかわともえ
BL
閲覧ありがとうございます。
まったり書いていきます。
2024.05.14
閲覧ありがとうございます。
午後4時に更新します。
よろしくお願いします。
栞、お気に入り嬉しいです。
いつもありがとうございます。
2024.05.29
閲覧ありがとうございます。
m(_ _)m
明日のおまけで完結します。
反応ありがとうございます。
とても嬉しいです。
明後日より新作が始まります。
良かったら覗いてみてください。
(^O^)
僕の恋人は、超イケメン!!
八乙女 忍
BL
僕は、普通の高校2年生。そんな僕にある日恋人ができた!それは超イケメンのモテモテ男子、あまりにもモテるため女の子に嫌気をさして、偽者の恋人同士になってほしいとお願いされる。最初は、嘘から始まった恋人ごっこがだんだん本気になっていく。お互いに本気になっていくが・・・二人とも、どうすれば良いのかわからない。この後、僕たちはどうなって行くのかな?
伝説のS級おじさん、俺の「匂い」がないと発狂して国を滅ぼすらしいい
マンスーン
BL
ギルドの事務職員・三上薫は、ある日、ギルドロビーで発作を起こしかけていた英雄ガルド・ベルンシュタインから抱きしめられ、首筋を猛烈に吸引。「見つけた……俺の酸素……!」と叫び、離れなくなってしまう。
最強おじさん(変態)×ギルドの事務職員(平凡)
世界観が現代日本、異世界ごちゃ混ぜ設定になっております。
経理部の美人チーフは、イケメン新人営業に口説かれています――「凛さん、俺だけに甘くないですか?」年下の猛攻にツンデレ先輩が陥落寸前!
中岡 始
BL
社内一の“整いすぎた男”、阿波座凛(あわざりん)は経理部のチーフ。
無表情・無駄のない所作・隙のない資料――
完璧主義で知られる凛に、誰もが一歩距離を置いている。
けれど、新卒営業の谷町光だけは違った。
イケメン・人懐こい・書類はギリギリ不備、でも笑顔は無敵。
毎日のように経費精算の修正を理由に現れる彼は、
凛にだけ距離感がおかしい――そしてやたら甘い。
「また会えて嬉しいです。…書類ミスった甲斐ありました」
戸惑う凛をよそに、光の“攻略”は着実に進行中。
けれど凛は、自分だけに見せる光の視線に、
どこか“計算”を感じ始めていて……?
狙って懐くイケメン新人営業×こじらせツンデレ美人経理チーフ
業務上のやりとりから始まる、じわじわ甘くてときどき切ない“再計算不能”なオフィスラブ!
男子高校に入学したらハーレムでした!
はやしかわともえ
BL
閲覧ありがとうございます。
ゆっくり書いていきます。
毎日19時更新です。
よろしくお願い致します。
2022.04.28
お気に入り、栞ありがとうございます。
とても励みになります。
引き続き宜しくお願いします。
2022.05.01
近々番外編SSをあげます。
よければ覗いてみてください。
2022.05.10
お気に入りしてくれてる方、閲覧くださってる方、ありがとうございます。
精一杯書いていきます。
2022.05.15
閲覧、お気に入り、ありがとうございます。
読んでいただけてとても嬉しいです。
近々番外編をあげます。
良ければ覗いてみてください。
2022.05.28
今日で完結です。閲覧、お気に入り本当にありがとうございました。
次作も頑張って書きます。
よろしくおねがいします。
ある少年の体調不良について
雨水林檎
BL
皆に好かれるいつもにこやかな少年新島陽(にいじまはる)と幼馴染で親友の薬師寺優巳(やくしじまさみ)。高校に入学してしばらく陽は風邪をひいたことをきっかけにひどく体調を崩して行く……。
BLもしくはブロマンス小説。
体調不良描写があります。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる