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第四章:虚実に揺れる心
16:証に宿る敵意
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身の内で暴れていた邪悪の気配が静まっている。右眼をえぐるような痛みも引いていた。自分への印象を白紙に戻すというルシアの決意の賜物だろうか。
ディオンは右眼を覆う装飾から手を離した。
感情によって覚える疼きもなくなっている。
「ムギン」
ディオンは腕をふってムギンを放つ。バサリと羽ばたいて、魔鳥がディオンを焼いた天界の証を咥えて再び腕に戻ってくる。ディオンは鋭い嘴から、そっと天界の証を手に取った。
自分を否定する灼熱の戒めが失われている。レイアの覚悟を改めて感じた。
「ディオン様、それは……」
焼けただれた手は少しずつ再生している。ルシアは驚いたようにディオンの手の中にある天界の証を眺めていた。
ディオンは腕からムギンを放つ。魔鳥はぐるりと旋回してから、そのまま中庭を飛び去った。羽ばたく影を見送ってから彼はルシアに歩み寄る。
「どうして? という顔だな」
「はい。先ほどはディオン様の手をひどく焼いていましたので、触れても大丈夫なのかと……」
「おまえの恐れや敵意がそのまま形になった。天界の加護とはそういう力だ。持つ者の心が作用する」
ディオンは切り裂かれたルシアの顔を見た。美しい顔に不似合いな傷。歯がゆい思いに苛まれるが、弁解はできない。
「ルシア。心を白紙に戻すと言ったお前の覚悟はこれで証明された。――信じよう」
「ありがとうございます」
ルシアは優美な所作で、再び平伏する。
ディオンはそっと吐息をつく。彼女の覚悟は認めるが、レイアの最期に同調している限り気は抜けない。覚悟で押さえつけているだけで、ノルンの授けた成り行きは今も失われず胸の内に巣食っている。
囚われた鎖を外す事はできない。
ディオンは頰を血に染めているルシアの前に膝をつく。美しい肌の傷から、今も血が滲み出して顎を伝う。
心に女神としての過去が戻っていないことを示していた。
アウズンブラの女神。
ルシアには怪我の内にも入らないような傷だが、癒せるとは考えてもいないのだろう。
「手を」
「え?」
ディオンがルシアの白い手を取った。美しい手に重なる自身の魔性を帯びた手。天界の証で焼かれた名残でさらに醜悪に映る。触れることに罪悪を覚えるほどの醜さだった。
ルシアの細い肩が一瞬ためらうように震えたが、すぐに気持ちを切り替えたのか澄んだ碧眼が毅然とディオンを見つめた。
「これは返しておこう。おまえが望めば、再び私の身を焼くこともできる」
邪悪の放つ狂気の餌食にならないように、身を守る術は与えておきたい。ディオンはルシアの頰から流れる血に触れる。思ったよりずっと傷が深い。
「おまえなら自分でこの傷を癒せるはずだが、今はこれに力を借りるといい。女神の力を解放する助けにもなるだろう」
ディオンは天界の証を彼女の手に握らせた。
「忘れていても、おまえが女神であることは消しようがない」
「私には、そのような事はできません」
「ーー難しいことはない。ただ願えばいい」
ディオンが立ち上がると、傍らで様子を見守っていたクルドとアルヴィが、励ますようにルシアに声をかける。
「ルシア様。ご自分を信じてください」
「そんなお顔のままでは痛々しいです」
「でも、私は女神では――」
ただ戸惑うルシアの声を遮るように、クルドがぴしゃりと言い放つ。
「とにかくやってみましょう」
天界の証を握りしめるルシアの手に、クルドが包み込むように両手を添える。自分を人界の王妃であると信じ込んでいるのなら戸惑うのは当然だろう。
ディオンはもう一度深く吐息をついて、少し彼らから距離をとった。ルシアとの再会のために用意されていた一角を振り返り、そちらへと歩む。広げられた敷布に乱れはない。ゆっくりと腰を下ろした。邪悪に犯されても、並んだ料理を無駄にすることはなかったようだ。敷布の上に作られた空間には凶行の爪痕がなく、料理とともにクルドの活けた花が場を華やかに彩っている。
(体が、重い……)
気が緩んだのだろうか。ルシアとの再会に気を張っていたせいか、ひどく消耗している。邪悪の影響は遠ざかっているのに、錘のような倦怠感に身を包まれていた。
その時、ふわりと爽やかな気配がした。ディオンは風が頰をかすめたのだと思ったが、辺りが風に揺れる様子はない。クルドとアルヴィに囲まれているルシアに視線を戻すと、天界の証から力を解放することに成功したようだった。
(ああ、これはルシアの癒し――)
心地の良い気配がディオンの錘のような怠さを拭う。変わらない力だった。
「ルシア様、傷が消えていますよ!」
クルドの弾んだ声が中庭を貫く。血を綺麗に拭き取ると、遠目にもルシアの顔が美しく回復しているのがわかった。ディオンは自然と顔が綻んだが、自身の黒く長い爪を見て心が沈むのを感じる。邪悪に囚われると、内にある醜い思いが解放される。あらゆる欲望の餌食になって、抗いようもない。
嫉妬、独占欲、羨望、苛立ち、焦燥。
別の何者かになるのならまだ救いがあるが、そうではないのだ。
表と裏が逆転するように、ひたすら醜悪で危険な部分が暴かれて、解き放たれる。
「せっかくなので、食事を再会しませんか?」
アルヴィの無邪気な声がルシアを誘っている。幼さゆえの強引さは彼女には効果があるらしく、ルシアも美しく飾られた一角へ戻ってきた。
ディオンは右眼を覆う装飾から手を離した。
感情によって覚える疼きもなくなっている。
「ムギン」
ディオンは腕をふってムギンを放つ。バサリと羽ばたいて、魔鳥がディオンを焼いた天界の証を咥えて再び腕に戻ってくる。ディオンは鋭い嘴から、そっと天界の証を手に取った。
自分を否定する灼熱の戒めが失われている。レイアの覚悟を改めて感じた。
「ディオン様、それは……」
焼けただれた手は少しずつ再生している。ルシアは驚いたようにディオンの手の中にある天界の証を眺めていた。
ディオンは腕からムギンを放つ。魔鳥はぐるりと旋回してから、そのまま中庭を飛び去った。羽ばたく影を見送ってから彼はルシアに歩み寄る。
「どうして? という顔だな」
「はい。先ほどはディオン様の手をひどく焼いていましたので、触れても大丈夫なのかと……」
「おまえの恐れや敵意がそのまま形になった。天界の加護とはそういう力だ。持つ者の心が作用する」
ディオンは切り裂かれたルシアの顔を見た。美しい顔に不似合いな傷。歯がゆい思いに苛まれるが、弁解はできない。
「ルシア。心を白紙に戻すと言ったお前の覚悟はこれで証明された。――信じよう」
「ありがとうございます」
ルシアは優美な所作で、再び平伏する。
ディオンはそっと吐息をつく。彼女の覚悟は認めるが、レイアの最期に同調している限り気は抜けない。覚悟で押さえつけているだけで、ノルンの授けた成り行きは今も失われず胸の内に巣食っている。
囚われた鎖を外す事はできない。
ディオンは頰を血に染めているルシアの前に膝をつく。美しい肌の傷から、今も血が滲み出して顎を伝う。
心に女神としての過去が戻っていないことを示していた。
アウズンブラの女神。
ルシアには怪我の内にも入らないような傷だが、癒せるとは考えてもいないのだろう。
「手を」
「え?」
ディオンがルシアの白い手を取った。美しい手に重なる自身の魔性を帯びた手。天界の証で焼かれた名残でさらに醜悪に映る。触れることに罪悪を覚えるほどの醜さだった。
ルシアの細い肩が一瞬ためらうように震えたが、すぐに気持ちを切り替えたのか澄んだ碧眼が毅然とディオンを見つめた。
「これは返しておこう。おまえが望めば、再び私の身を焼くこともできる」
邪悪の放つ狂気の餌食にならないように、身を守る術は与えておきたい。ディオンはルシアの頰から流れる血に触れる。思ったよりずっと傷が深い。
「おまえなら自分でこの傷を癒せるはずだが、今はこれに力を借りるといい。女神の力を解放する助けにもなるだろう」
ディオンは天界の証を彼女の手に握らせた。
「忘れていても、おまえが女神であることは消しようがない」
「私には、そのような事はできません」
「ーー難しいことはない。ただ願えばいい」
ディオンが立ち上がると、傍らで様子を見守っていたクルドとアルヴィが、励ますようにルシアに声をかける。
「ルシア様。ご自分を信じてください」
「そんなお顔のままでは痛々しいです」
「でも、私は女神では――」
ただ戸惑うルシアの声を遮るように、クルドがぴしゃりと言い放つ。
「とにかくやってみましょう」
天界の証を握りしめるルシアの手に、クルドが包み込むように両手を添える。自分を人界の王妃であると信じ込んでいるのなら戸惑うのは当然だろう。
ディオンはもう一度深く吐息をついて、少し彼らから距離をとった。ルシアとの再会のために用意されていた一角を振り返り、そちらへと歩む。広げられた敷布に乱れはない。ゆっくりと腰を下ろした。邪悪に犯されても、並んだ料理を無駄にすることはなかったようだ。敷布の上に作られた空間には凶行の爪痕がなく、料理とともにクルドの活けた花が場を華やかに彩っている。
(体が、重い……)
気が緩んだのだろうか。ルシアとの再会に気を張っていたせいか、ひどく消耗している。邪悪の影響は遠ざかっているのに、錘のような倦怠感に身を包まれていた。
その時、ふわりと爽やかな気配がした。ディオンは風が頰をかすめたのだと思ったが、辺りが風に揺れる様子はない。クルドとアルヴィに囲まれているルシアに視線を戻すと、天界の証から力を解放することに成功したようだった。
(ああ、これはルシアの癒し――)
心地の良い気配がディオンの錘のような怠さを拭う。変わらない力だった。
「ルシア様、傷が消えていますよ!」
クルドの弾んだ声が中庭を貫く。血を綺麗に拭き取ると、遠目にもルシアの顔が美しく回復しているのがわかった。ディオンは自然と顔が綻んだが、自身の黒く長い爪を見て心が沈むのを感じる。邪悪に囚われると、内にある醜い思いが解放される。あらゆる欲望の餌食になって、抗いようもない。
嫉妬、独占欲、羨望、苛立ち、焦燥。
別の何者かになるのならまだ救いがあるが、そうではないのだ。
表と裏が逆転するように、ひたすら醜悪で危険な部分が暴かれて、解き放たれる。
「せっかくなので、食事を再会しませんか?」
アルヴィの無邪気な声がルシアを誘っている。幼さゆえの強引さは彼女には効果があるらしく、ルシアも美しく飾られた一角へ戻ってきた。
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