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第七章:昔日に重なる日々
32:思い出話
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石柱が回廊を形作る中庭を越えて、ルシアはディオンと宮殿の外庭まで出てきた。
「今日は霧が深いですね」
魔王の丘に立ち込める霧は、日によって濃度が変わる。遠景が白く滲むだけの日もあれば、今日のように少し先の樹々を白く霞ませる事もあった。
ディオンが外庭を一望して「そうだな」と頷いた。
「おまえが当初ノルンと逃亡を企んだ時も、霧が深かったのではないか」
「え?」
ルシアは記憶を辿る。たしかに霧の深さが身を隠してくれていた。
「言われてみれば、そうですね」
「ーーやはりそうか」
「霧に何か問題があるのですか?」
「おそらく死者の泉の力の満ち欠けと関係がある。霧の深い日は古き者が魔王の丘に悪戯を仕掛けやすい」
「古き者が?」
「あれから見ることはないようだが、おまえが異形を恐れるなら霧の深い日はあまり出歩かないことだな」
ルシアは恐ろしい形相を思い出して、自分の体を抱くように腕を回した。今となっては幻のようなものだとわかるが、気持ちの良い光景ではないので素直に頷いた。
「そうします」
曇天の下でディオンの右眼を隠す金の装飾が鈍く輝く。左目が労わるようにルシアを見つめていた。ディオンの腕がそっとルシアの肩を引き寄せる。美しい衣装は互いの体温や鼓動を伝えるのに何の妨げにもならない。ルシアは抱き寄せられるがまま、ディオンの胸に身を寄せる。
ルシアの背中から肩に続く緩やかな骨の線に、彼の指先が触れた。
「おまえが美しい翼を広げる日も近いかもしれない」
衣装は背中に生地の合わせ目ができるように着付けられていた。天界の者は有翼種であるが、ルシアには失われた感覚だった。
「私にも翼が……」
「もちろん美しい翼がある。創生を継承した稀有な翼を持つ女神。今は失われているが……」
「もしかして、ディオン様はーー」
ふとある考えがルシアの心をよぎったが、ディオンの手が背中の生地の重ね目を開くようにして、直にルシアの背をなぞる。克明に肌に伝わった熱に、思わず身が震えた。
問おうとしていた声が詰まる。言葉を遮られた事を責めるように彼の左眼を仰いたが、すぐに視界は明瞭さを失った。気遣うように重ねられた唇は、すぐに乞うような激しさを伴ってルシアを翻弄する。思考がディオンから与えられる情熱に奪われてしまう。
激流に囚われるような時が過ぎると、ルシアは小さな拳でどんとディオンの胸を叩いた。
「ディオン様に触れられると、何も考えられなくなります」
自分を見下ろす彼の左眼が、驚いたように見開かれる。
「――何か、思い出したのか」
「え?」
「いや、違うのならいい。おまえが同じことを言うから少し驚いただけだ」
「同じこと?」
ルシアが不思議そうにディオンを見ると、彼はすでにいつもの調子を取り戻している。赤い眼に不敵な色が宿っていた。
「私に抱かれると何も考えられなくなる。――昔、よくそう言っていた」
「っ!」
全身に火がついたように、ルシアは羞恥心に焼かれる。言葉を失っていると、ディオンが声をたてて笑った。からかわれていると悟って、ルシアはむっとする。拗ねた勢いのまま心の内を打ち明けた。
「ディオン様は昔のことを良くご存じなのですね。私には何も話してくださいませんが……」
「そうだな。では少し思い出話でもしてやろうか? 初めておまえを迎えた夜、派手に燭台を倒して私の寝台が火の海になった話はどうだ?」
「ーーっ!? け、結構です! 私が聞きたいのはそういうお話ではありません!」
「天界ではしばらく語り草になった面白い話なのだが?」
「面白くありません!」
覚えていない失態に、ルシアは頰が染まる。ディオンは記憶を辿るような仕草で「そういえば」と続ける。
「さっきの籠で思い出したが……」
「え?」
ルシアは火照った頰を押さえたままディオンを見た。
よじった葉を編む手順が馴染んでいた事を思い出して、そっと自分の掌を見る。
「おまえはよくレイアや私の髪を編んでいた」
「それは……、やはり、そうだったのですか」
「どういう事だ」
「何かを編む事が手に馴染んでいる気がして、少し不思議でした」
ルシアが自分の両手を眺めていると、ディオンも興味深げにルシアの手を見たが、再び口元に浅い微笑みが宿る。
「そういう事もあるのかもしれないな。では、ルシアが私に投げた暴言を厄介な者に聞かれて、危うくおまえが断罪されそうになった話などはどうだ?」
「ディオン様に暴言!? 私が?」
「この話には興味を示すのか」
「いいえ! 冗談はおやめください」
「冗談ではない。おまえは口説くのはなかなか骨が折れた」
ディオンは可笑しそうに笑っているが、ルシアには返す言葉がない。気になりすぎる話ではあるが、完全に話をずらされている。
「今日は霧が深いですね」
魔王の丘に立ち込める霧は、日によって濃度が変わる。遠景が白く滲むだけの日もあれば、今日のように少し先の樹々を白く霞ませる事もあった。
ディオンが外庭を一望して「そうだな」と頷いた。
「おまえが当初ノルンと逃亡を企んだ時も、霧が深かったのではないか」
「え?」
ルシアは記憶を辿る。たしかに霧の深さが身を隠してくれていた。
「言われてみれば、そうですね」
「ーーやはりそうか」
「霧に何か問題があるのですか?」
「おそらく死者の泉の力の満ち欠けと関係がある。霧の深い日は古き者が魔王の丘に悪戯を仕掛けやすい」
「古き者が?」
「あれから見ることはないようだが、おまえが異形を恐れるなら霧の深い日はあまり出歩かないことだな」
ルシアは恐ろしい形相を思い出して、自分の体を抱くように腕を回した。今となっては幻のようなものだとわかるが、気持ちの良い光景ではないので素直に頷いた。
「そうします」
曇天の下でディオンの右眼を隠す金の装飾が鈍く輝く。左目が労わるようにルシアを見つめていた。ディオンの腕がそっとルシアの肩を引き寄せる。美しい衣装は互いの体温や鼓動を伝えるのに何の妨げにもならない。ルシアは抱き寄せられるがまま、ディオンの胸に身を寄せる。
ルシアの背中から肩に続く緩やかな骨の線に、彼の指先が触れた。
「おまえが美しい翼を広げる日も近いかもしれない」
衣装は背中に生地の合わせ目ができるように着付けられていた。天界の者は有翼種であるが、ルシアには失われた感覚だった。
「私にも翼が……」
「もちろん美しい翼がある。創生を継承した稀有な翼を持つ女神。今は失われているが……」
「もしかして、ディオン様はーー」
ふとある考えがルシアの心をよぎったが、ディオンの手が背中の生地の重ね目を開くようにして、直にルシアの背をなぞる。克明に肌に伝わった熱に、思わず身が震えた。
問おうとしていた声が詰まる。言葉を遮られた事を責めるように彼の左眼を仰いたが、すぐに視界は明瞭さを失った。気遣うように重ねられた唇は、すぐに乞うような激しさを伴ってルシアを翻弄する。思考がディオンから与えられる情熱に奪われてしまう。
激流に囚われるような時が過ぎると、ルシアは小さな拳でどんとディオンの胸を叩いた。
「ディオン様に触れられると、何も考えられなくなります」
自分を見下ろす彼の左眼が、驚いたように見開かれる。
「――何か、思い出したのか」
「え?」
「いや、違うのならいい。おまえが同じことを言うから少し驚いただけだ」
「同じこと?」
ルシアが不思議そうにディオンを見ると、彼はすでにいつもの調子を取り戻している。赤い眼に不敵な色が宿っていた。
「私に抱かれると何も考えられなくなる。――昔、よくそう言っていた」
「っ!」
全身に火がついたように、ルシアは羞恥心に焼かれる。言葉を失っていると、ディオンが声をたてて笑った。からかわれていると悟って、ルシアはむっとする。拗ねた勢いのまま心の内を打ち明けた。
「ディオン様は昔のことを良くご存じなのですね。私には何も話してくださいませんが……」
「そうだな。では少し思い出話でもしてやろうか? 初めておまえを迎えた夜、派手に燭台を倒して私の寝台が火の海になった話はどうだ?」
「ーーっ!? け、結構です! 私が聞きたいのはそういうお話ではありません!」
「天界ではしばらく語り草になった面白い話なのだが?」
「面白くありません!」
覚えていない失態に、ルシアは頰が染まる。ディオンは記憶を辿るような仕草で「そういえば」と続ける。
「さっきの籠で思い出したが……」
「え?」
ルシアは火照った頰を押さえたままディオンを見た。
よじった葉を編む手順が馴染んでいた事を思い出して、そっと自分の掌を見る。
「おまえはよくレイアや私の髪を編んでいた」
「それは……、やはり、そうだったのですか」
「どういう事だ」
「何かを編む事が手に馴染んでいる気がして、少し不思議でした」
ルシアが自分の両手を眺めていると、ディオンも興味深げにルシアの手を見たが、再び口元に浅い微笑みが宿る。
「そういう事もあるのかもしれないな。では、ルシアが私に投げた暴言を厄介な者に聞かれて、危うくおまえが断罪されそうになった話などはどうだ?」
「ディオン様に暴言!? 私が?」
「この話には興味を示すのか」
「いいえ! 冗談はおやめください」
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