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第八章:蝕まれていく予兆
37:悪夢のような光景
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これまでにもヨルムンドの背に乗ったことはあったが、利口な魔獣は決してルシアを魔王の丘の外には連れ出さなかった。ディオンの言いつけを守っているのだ。ルシアがディオンへの恋しさに囚われて、やみくもに魔王の丘を出ようとした時も、ヨルムンドに阻止された。
突然駆け出したヨルムンドが、魔王の丘を出ることは考えにくいが、これほど性急に動くのははじめてだった。
「いったいどうしたのですか? ヨルムンド?」
ヨルムンドは一直線に宮殿へと駆け付けると、そのまま城の側壁へと飛び移る。
「え?」
垂直な壁を装飾の凹凸を足場にして、ヨルムンドは軽快に駆け上っていく。ルシアは声をあげる余裕もなく、振り落とされないようにひたすらヨルムンドの首に縋りついたが、強引な壁面の道のりを辿ったのは一瞬の出来事だった。あっという間に宮殿の上まで駆け上ると、ルシアを城の屋上へと導いた。
城の屋上にも露台と同じように、精巧な彫刻が施された石卓や長椅子が用意されている。ヨルムンドは再びまるで気配を殺すように足音もなく歩み出した。ゆっくりと進む先に、ルシアは黒い影を見つける。大きな黒い翼。魔鳥かと思い目を凝らすと、何の前触れもなく影がこちらを振り返った。
「ヨルムンド? ーーおまえ、どうして……」
黒い翼をもつ影はディオンだった。手で右眼を押さえて跪いている。
ヨルムンドの長い毛並みに姿が紛れているせいか、彼はルシアには気づいていない。
「ディーー」
呼びかけたルシアの声が驚愕に詰まるのと、歩み寄っていたヨルムンドの動きが止まるのが同時だった。
幻覚を見ているのかと疑いたくなるほど、おぞましい光景。予兆もなく始まった目の前の変化に、ルシアの心が追い付かない。
「ーーっ!」
痛みに耐えるように呻く声が聞こえる。ルシアは悪夢に囚われたように体が強張った。
ディオンが膝をつく位置まで距離があるにも関わらず、ヨルムンドの体毛が逆立っている。
ばしゃりと水を撒くような耳障りな音が響いた。ルシアの視界に真紅の飛沫が散る。
「う、――くっ!」
立ち上ろうとしていたディオンが、再び崩れるようにその場に膝をついた。
ルシアは目の前で起きている事が咀嚼できない。ヨルムンドに縋りついていた腕に知らずに力がこもった。
ディオンとの間には少しの距離がある。
だから、聞こえるはずがないのだ。
聞こえるはずがないのに、めりめりと肉を裂き、皮を破る音を肌に感じた。ルシアはぞっと全身が粟立つ。
「――あ、……はっ……」
ディオンの黒い爪が、よじれるように長く変形する。黒色の翼から美しい羽根をもぎ取るように、骨格がめきめきと何かを威嚇するように形を変えて広がり始めた。輪郭が変わる度に、ばしゃりと辺りに血しぶきが舞う。
ディオンの悲痛な呻きが悲鳴に変わった。ルシアは咄嗟に顔を背けたが、目を閉じても凄惨な光景が脳裏に焼き付いている。
頭髪をかき分けて露出した黒い双角。羽根を失い黒い形骸だけになった翼。まるで葉を失った巨木のようだった。ディオンの身を糧に真っ黒な大木が育とうとしている。
頭の左右から伸びた角が、さらに天を目指すように枝を伸ばす。ディオンを違う何かに変化させようとしている。
身を突き破って露出する鋭利な輪郭。皮膚を裂かれ、形を変えていく肉体。飛び散る血潮。広がる血だまり。
誰のものかも分からないような、絶叫。
「ーーっ!」
ルシアはたまらず悲鳴をあげた。自分の甲高い声で、ようやく目の前の惨状に囚われていた心が我に返る。
「ディオン様!」
ヨルムンドの背から飛び降りて駆け付けようとしたルシアを、ディオンの左眼が真っすぐに捉えた。真紅の瞳にある瞳孔は、暗黒を映しているかのように光がない。
狂気と正気の狭間を見据える真っ黒な深淵だった。魔性に侵され姿を失うほどの凄絶な姿。
「っ! 来るな!」
聞き慣れた声だけが、それをディオンだと示した。
「私に近寄るな!」
悲鳴のような激しさを伴い、ルシアを拒絶する声。
「ヨルムンド! ルシアを連れて行け!」
「ディオン様!」
かまわず駆け寄ろうとしていたルシアを背後から捉える気配があった。再びヨルムンドに咥えられ、ルシアは力の限りもがく。
「放してください!」
ルシアを咥えたまま、ヨルムンドが来た道へと踵を返す。視野が大きく流れ、すぐにディオンの姿はルシアの視界から失われてしまう。
「放して! 放しなさい! ヨルムンド!」
ルシアが足掻いてもヨルムンドの力は緩まない。決してディオンの命令に背くことなく、巨体がためらいなく屋上から跳んだ。
「ディオン様っ!」
ルシアの呼びかけはどこにも届かない。宮殿の屋上から再び悲痛な絶叫が、長く尾を引くように響いた。
突然駆け出したヨルムンドが、魔王の丘を出ることは考えにくいが、これほど性急に動くのははじめてだった。
「いったいどうしたのですか? ヨルムンド?」
ヨルムンドは一直線に宮殿へと駆け付けると、そのまま城の側壁へと飛び移る。
「え?」
垂直な壁を装飾の凹凸を足場にして、ヨルムンドは軽快に駆け上っていく。ルシアは声をあげる余裕もなく、振り落とされないようにひたすらヨルムンドの首に縋りついたが、強引な壁面の道のりを辿ったのは一瞬の出来事だった。あっという間に宮殿の上まで駆け上ると、ルシアを城の屋上へと導いた。
城の屋上にも露台と同じように、精巧な彫刻が施された石卓や長椅子が用意されている。ヨルムンドは再びまるで気配を殺すように足音もなく歩み出した。ゆっくりと進む先に、ルシアは黒い影を見つける。大きな黒い翼。魔鳥かと思い目を凝らすと、何の前触れもなく影がこちらを振り返った。
「ヨルムンド? ーーおまえ、どうして……」
黒い翼をもつ影はディオンだった。手で右眼を押さえて跪いている。
ヨルムンドの長い毛並みに姿が紛れているせいか、彼はルシアには気づいていない。
「ディーー」
呼びかけたルシアの声が驚愕に詰まるのと、歩み寄っていたヨルムンドの動きが止まるのが同時だった。
幻覚を見ているのかと疑いたくなるほど、おぞましい光景。予兆もなく始まった目の前の変化に、ルシアの心が追い付かない。
「ーーっ!」
痛みに耐えるように呻く声が聞こえる。ルシアは悪夢に囚われたように体が強張った。
ディオンが膝をつく位置まで距離があるにも関わらず、ヨルムンドの体毛が逆立っている。
ばしゃりと水を撒くような耳障りな音が響いた。ルシアの視界に真紅の飛沫が散る。
「う、――くっ!」
立ち上ろうとしていたディオンが、再び崩れるようにその場に膝をついた。
ルシアは目の前で起きている事が咀嚼できない。ヨルムンドに縋りついていた腕に知らずに力がこもった。
ディオンとの間には少しの距離がある。
だから、聞こえるはずがないのだ。
聞こえるはずがないのに、めりめりと肉を裂き、皮を破る音を肌に感じた。ルシアはぞっと全身が粟立つ。
「――あ、……はっ……」
ディオンの黒い爪が、よじれるように長く変形する。黒色の翼から美しい羽根をもぎ取るように、骨格がめきめきと何かを威嚇するように形を変えて広がり始めた。輪郭が変わる度に、ばしゃりと辺りに血しぶきが舞う。
ディオンの悲痛な呻きが悲鳴に変わった。ルシアは咄嗟に顔を背けたが、目を閉じても凄惨な光景が脳裏に焼き付いている。
頭髪をかき分けて露出した黒い双角。羽根を失い黒い形骸だけになった翼。まるで葉を失った巨木のようだった。ディオンの身を糧に真っ黒な大木が育とうとしている。
頭の左右から伸びた角が、さらに天を目指すように枝を伸ばす。ディオンを違う何かに変化させようとしている。
身を突き破って露出する鋭利な輪郭。皮膚を裂かれ、形を変えていく肉体。飛び散る血潮。広がる血だまり。
誰のものかも分からないような、絶叫。
「ーーっ!」
ルシアはたまらず悲鳴をあげた。自分の甲高い声で、ようやく目の前の惨状に囚われていた心が我に返る。
「ディオン様!」
ヨルムンドの背から飛び降りて駆け付けようとしたルシアを、ディオンの左眼が真っすぐに捉えた。真紅の瞳にある瞳孔は、暗黒を映しているかのように光がない。
狂気と正気の狭間を見据える真っ黒な深淵だった。魔性に侵され姿を失うほどの凄絶な姿。
「っ! 来るな!」
聞き慣れた声だけが、それをディオンだと示した。
「私に近寄るな!」
悲鳴のような激しさを伴い、ルシアを拒絶する声。
「ヨルムンド! ルシアを連れて行け!」
「ディオン様!」
かまわず駆け寄ろうとしていたルシアを背後から捉える気配があった。再びヨルムンドに咥えられ、ルシアは力の限りもがく。
「放してください!」
ルシアを咥えたまま、ヨルムンドが来た道へと踵を返す。視野が大きく流れ、すぐにディオンの姿はルシアの視界から失われてしまう。
「放して! 放しなさい! ヨルムンド!」
ルシアが足掻いてもヨルムンドの力は緩まない。決してディオンの命令に背くことなく、巨体がためらいなく屋上から跳んだ。
「ディオン様っ!」
ルシアの呼びかけはどこにも届かない。宮殿の屋上から再び悲痛な絶叫が、長く尾を引くように響いた。
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