魔王と囚われた王妃 ~断末魔の声が、わたしの心を狂わせる~

長月京子

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第八章:蝕まれていく予兆

39:伝わらない不安

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 一睡もできないまま朝を迎えて、ルシアはクルドが準備してくれた朝食を摂っていた。食欲があるはずもなく、何を口に含んでも砂を噛むように味わいがない。

 早朝にアルヴィからの返信を携えてムギンが戻ってきたが、ディオンの行方は明らかにならなかった。
 ルシアの傍らで、クルドが気遣ってくれているのがわかる。自分よりも非力な少女の不安を煽りたくはない。できるだけ微笑んでいたが、食事を続けることが苦痛だった。

 ルシアは水だけを飲み干してクルドに後片付けを頼むと、独りで中庭へと降りた。

「ヨルムンド」

 どこへ向けるでもなく呼んでみるが、何の気配もない。いつもならルシアが呼ばなくても駆けつけてくるが、中庭はまるで時間が止まっているかのように静寂を守っている。

 しばらくヨルムンドが現れる事を期待して佇んでいたが、ルシアは諦めてため息をついた。外庭へ回ろうと考えた時、はっと馴染んだ気配を感じた。

「ヨルムンド?」

 呼びかけると同時にざっと中庭の空気が震える。曇天の下でも輝く銀色の体毛。見慣れた巨体が、中庭の真ん中に降り立ち、弾むような勢いで迫って来た。白っぽく映るヨルムンドの巨躯に、馴染まない深い色が見える。
 ルシアは思わず叫んだ。

「ディオン様!?」

 ルシアの目前までたどり着き、ヨルムンドが勢いを殺すために前足を突っ張らせている。同時に大きな魔獣の背から人影がひらりと降り立った。これまでにも何度も見たことのある光景だった。ばさりと、背の高い人影の纏う黒衣が翻る。

 現れたディオンはルシアの抱く面影と変わらず、凛と気高い。傷を負っているような様子もないが、しっかりと容貌を確かめる前に、視界が滲む。こみ上げた涙で像が揺らめいた。

「ルシア」

「ーーっ!」

 何も言葉にできない。ルシアは手を伸ばし、ディオンに縋りついた。幼子のような嗚咽が漏れる。

「おまえにはひどい姿を見せた。怖がらせてしまったな、悪かった」

 どこか的外れな言い様に、ルシアは涙に濡れた顔をあげる。

「お身体は大丈夫なのですか? 私は、それが心配でーー」

 ディオンの顔を仰いで、ルシアはぎくりと身じろぐ。彼の頭に見慣れない金の装飾があった。すぐに双角を飾る金細工であることがわかる。ルシアの脳裏におぞましい光景が蘇ったが、屋上でみた時のように長く広がる様子はない。人界ヨルズの牡鹿に見られるような、緩やかな曲線を描く角だった。忌まわしさはなく、右眼を隠す装飾と同じ細工で美しく飾られている。

「ディオン様、その角は……」

 ルシアの視線が角に向けられているのを感じたのか、彼は苦笑する。ルシアの濡れた頬に手を添わせ、そっと拭いながら教えてくれた。

「おまえに見られたのは失態だったが、私はまれに邪悪ガルドルの制御に失敗することがある。すぐに持ち直すが、気分の良いものではない。そのために枷を作っていたのだが、ようやく完成した。この角も目障りだが金細工には仕掛けを施してある。暴走を防ぐ印にしておいた方が都合が良い」

 些末な事を語るように、ディオンの口調には深刻さがない。容貌も元に戻っているが、ルシアは高まり切った不安を打ち明けた。

「ディオン様の中で、邪悪ガルドルの影響が強くなってきているのではないのですか?」

 ルシアの切実な訴えに、ディオンは意外なことを聞いたと言いたげに眉を動かした。

「それは違う。あの無様な姿は今に始まったことではない」

「本当に?」

「こんなことで嘘をついても仕方がない」

 昨日の惨状で、緩やかに淀んでいた不安が深まっていた。くっきりと跡を刻まれたように、簡単には拭えない。

 ディオンの身を侵す邪悪ガルドル。彼を悪しきものに変化させていく予感は失われず広がっていく。

 剣呑な顔している自覚があったが、ルシアは取り繕わずディオンを見つめる。じっとルシアの目を見つめていたディオンが浅く笑った。

「おまえはあの程度の事で、私がやられるとでも思っているのか」

「え?」

「見苦しい姿を見せたことは詫びるが、どうやら私は随分と甘く見られているようだ」

「甘くなど見ていません! 私は心配なのです!」

「だから、それが私を甘く見ているということだ」

「違います!」

 強く否定すると、ディオンが可笑しそうに笑った。

「泣き止んだな」

 不安が伝わらないもどかしさに囚われて、涙が止まっていた。ディオンはからかうような眼差しをしている。以前と変わることのない様子。

「おまえを泣かすのは本意ではない。それならまだ怒っている方がましだ」

 彼はヨルムンドを振り返ると、深い銀色を帯びた長毛で覆われた首筋を撫でた。ぐうと魔獣の喉が鳴っている。

「私は、決して怒っているわけでは……」

 自分の憂慮が彼にはまるで伝わらない。本当にディオンにとっては些細な出来事だったのだろうか。ルシアはぐっと手を拳に握りしめる。心を蝕むような危機感は遠ざかっていたが、誤魔化されているような気がしてならない。

「――声が枯れているな」

 ヨルムンドから手を離し、ディオンはルシアの首に手を伸ばして気遣うように目を細めた。

「私を探し回ったのか」

「当たり前です」

 昨夜もディオンの痛々しい光景が何度も脳裏に蘇り、冷や汗と涙で寝台を濡らした。血の気の引くような一夜だった。目の前でディオンを確かめていても、まだ衝撃の余韻が残っている。簡単には安堵できない。

「ディオン様は、ご自身は大した力を持たないと仰いました」

「ああ、そうだな」

「だから余計に心配なのです。邪悪ガルドルは恐ろしい力です」

 ディオンの背後で美しい体毛に覆われた巨体がぶるぶると身震いをする。ヨルムンドがゆっくりとルシアに歩み寄って大きな顔を寄せてきた。弓型の大きな赤眼がじっとルシアを見る。まるで機嫌を直せと言っているようだった。

「ヨルムンド、私はディオン様を責めているわけではないのです」
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