39 / 58
第八章:蝕まれていく予兆
39:伝わらない不安
しおりを挟む
一睡もできないまま朝を迎えて、ルシアはクルドが準備してくれた朝食を摂っていた。食欲があるはずもなく、何を口に含んでも砂を噛むように味わいがない。
早朝にアルヴィからの返信を携えてムギンが戻ってきたが、ディオンの行方は明らかにならなかった。
ルシアの傍らで、クルドが気遣ってくれているのがわかる。自分よりも非力な少女の不安を煽りたくはない。できるだけ微笑んでいたが、食事を続けることが苦痛だった。
ルシアは水だけを飲み干してクルドに後片付けを頼むと、独りで中庭へと降りた。
「ヨルムンド」
どこへ向けるでもなく呼んでみるが、何の気配もない。いつもならルシアが呼ばなくても駆けつけてくるが、中庭はまるで時間が止まっているかのように静寂を守っている。
しばらくヨルムンドが現れる事を期待して佇んでいたが、ルシアは諦めてため息をついた。外庭へ回ろうと考えた時、はっと馴染んだ気配を感じた。
「ヨルムンド?」
呼びかけると同時にざっと中庭の空気が震える。曇天の下でも輝く銀色の体毛。見慣れた巨体が、中庭の真ん中に降り立ち、弾むような勢いで迫って来た。白っぽく映るヨルムンドの巨躯に、馴染まない深い色が見える。
ルシアは思わず叫んだ。
「ディオン様!?」
ルシアの目前までたどり着き、ヨルムンドが勢いを殺すために前足を突っ張らせている。同時に大きな魔獣の背から人影がひらりと降り立った。これまでにも何度も見たことのある光景だった。ばさりと、背の高い人影の纏う黒衣が翻る。
現れたディオンはルシアの抱く面影と変わらず、凛と気高い。傷を負っているような様子もないが、しっかりと容貌を確かめる前に、視界が滲む。こみ上げた涙で像が揺らめいた。
「ルシア」
「ーーっ!」
何も言葉にできない。ルシアは手を伸ばし、ディオンに縋りついた。幼子のような嗚咽が漏れる。
「おまえにはひどい姿を見せた。怖がらせてしまったな、悪かった」
どこか的外れな言い様に、ルシアは涙に濡れた顔をあげる。
「お身体は大丈夫なのですか? 私は、それが心配でーー」
ディオンの顔を仰いで、ルシアはぎくりと身じろぐ。彼の頭に見慣れない金の装飾があった。すぐに双角を飾る金細工であることがわかる。ルシアの脳裏におぞましい光景が蘇ったが、屋上でみた時のように長く広がる様子はない。人界の牡鹿に見られるような、緩やかな曲線を描く角だった。忌まわしさはなく、右眼を隠す装飾と同じ細工で美しく飾られている。
「ディオン様、その角は……」
ルシアの視線が角に向けられているのを感じたのか、彼は苦笑する。ルシアの濡れた頬に手を添わせ、そっと拭いながら教えてくれた。
「おまえに見られたのは失態だったが、私はまれに邪悪の制御に失敗することがある。すぐに持ち直すが、気分の良いものではない。そのために枷を作っていたのだが、ようやく完成した。この角も目障りだが金細工には仕掛けを施してある。暴走を防ぐ印にしておいた方が都合が良い」
些末な事を語るように、ディオンの口調には深刻さがない。容貌も元に戻っているが、ルシアは高まり切った不安を打ち明けた。
「ディオン様の中で、邪悪の影響が強くなってきているのではないのですか?」
ルシアの切実な訴えに、ディオンは意外なことを聞いたと言いたげに眉を動かした。
「それは違う。あの無様な姿は今に始まったことではない」
「本当に?」
「こんなことで嘘をついても仕方がない」
昨日の惨状で、緩やかに淀んでいた不安が深まっていた。くっきりと跡を刻まれたように、簡単には拭えない。
ディオンの身を侵す邪悪。彼を悪しきものに変化させていく予感は失われず広がっていく。
剣呑な顔している自覚があったが、ルシアは取り繕わずディオンを見つめる。じっとルシアの目を見つめていたディオンが浅く笑った。
「おまえはあの程度の事で、私がやられるとでも思っているのか」
「え?」
「見苦しい姿を見せたことは詫びるが、どうやら私は随分と甘く見られているようだ」
「甘くなど見ていません! 私は心配なのです!」
「だから、それが私を甘く見ているということだ」
「違います!」
強く否定すると、ディオンが可笑しそうに笑った。
「泣き止んだな」
不安が伝わらないもどかしさに囚われて、涙が止まっていた。ディオンはからかうような眼差しをしている。以前と変わることのない様子。
「おまえを泣かすのは本意ではない。それならまだ怒っている方がましだ」
彼はヨルムンドを振り返ると、深い銀色を帯びた長毛で覆われた首筋を撫でた。ぐうと魔獣の喉が鳴っている。
「私は、決して怒っているわけでは……」
自分の憂慮が彼にはまるで伝わらない。本当にディオンにとっては些細な出来事だったのだろうか。ルシアはぐっと手を拳に握りしめる。心を蝕むような危機感は遠ざかっていたが、誤魔化されているような気がしてならない。
「――声が枯れているな」
ヨルムンドから手を離し、ディオンはルシアの首に手を伸ばして気遣うように目を細めた。
「私を探し回ったのか」
「当たり前です」
昨夜もディオンの痛々しい光景が何度も脳裏に蘇り、冷や汗と涙で寝台を濡らした。血の気の引くような一夜だった。目の前でディオンを確かめていても、まだ衝撃の余韻が残っている。簡単には安堵できない。
「ディオン様は、ご自身は大した力を持たないと仰いました」
「ああ、そうだな」
「だから余計に心配なのです。邪悪は恐ろしい力です」
ディオンの背後で美しい体毛に覆われた巨体がぶるぶると身震いをする。ヨルムンドがゆっくりとルシアに歩み寄って大きな顔を寄せてきた。弓型の大きな赤眼がじっとルシアを見る。まるで機嫌を直せと言っているようだった。
「ヨルムンド、私はディオン様を責めているわけではないのです」
早朝にアルヴィからの返信を携えてムギンが戻ってきたが、ディオンの行方は明らかにならなかった。
ルシアの傍らで、クルドが気遣ってくれているのがわかる。自分よりも非力な少女の不安を煽りたくはない。できるだけ微笑んでいたが、食事を続けることが苦痛だった。
ルシアは水だけを飲み干してクルドに後片付けを頼むと、独りで中庭へと降りた。
「ヨルムンド」
どこへ向けるでもなく呼んでみるが、何の気配もない。いつもならルシアが呼ばなくても駆けつけてくるが、中庭はまるで時間が止まっているかのように静寂を守っている。
しばらくヨルムンドが現れる事を期待して佇んでいたが、ルシアは諦めてため息をついた。外庭へ回ろうと考えた時、はっと馴染んだ気配を感じた。
「ヨルムンド?」
呼びかけると同時にざっと中庭の空気が震える。曇天の下でも輝く銀色の体毛。見慣れた巨体が、中庭の真ん中に降り立ち、弾むような勢いで迫って来た。白っぽく映るヨルムンドの巨躯に、馴染まない深い色が見える。
ルシアは思わず叫んだ。
「ディオン様!?」
ルシアの目前までたどり着き、ヨルムンドが勢いを殺すために前足を突っ張らせている。同時に大きな魔獣の背から人影がひらりと降り立った。これまでにも何度も見たことのある光景だった。ばさりと、背の高い人影の纏う黒衣が翻る。
現れたディオンはルシアの抱く面影と変わらず、凛と気高い。傷を負っているような様子もないが、しっかりと容貌を確かめる前に、視界が滲む。こみ上げた涙で像が揺らめいた。
「ルシア」
「ーーっ!」
何も言葉にできない。ルシアは手を伸ばし、ディオンに縋りついた。幼子のような嗚咽が漏れる。
「おまえにはひどい姿を見せた。怖がらせてしまったな、悪かった」
どこか的外れな言い様に、ルシアは涙に濡れた顔をあげる。
「お身体は大丈夫なのですか? 私は、それが心配でーー」
ディオンの顔を仰いで、ルシアはぎくりと身じろぐ。彼の頭に見慣れない金の装飾があった。すぐに双角を飾る金細工であることがわかる。ルシアの脳裏におぞましい光景が蘇ったが、屋上でみた時のように長く広がる様子はない。人界の牡鹿に見られるような、緩やかな曲線を描く角だった。忌まわしさはなく、右眼を隠す装飾と同じ細工で美しく飾られている。
「ディオン様、その角は……」
ルシアの視線が角に向けられているのを感じたのか、彼は苦笑する。ルシアの濡れた頬に手を添わせ、そっと拭いながら教えてくれた。
「おまえに見られたのは失態だったが、私はまれに邪悪の制御に失敗することがある。すぐに持ち直すが、気分の良いものではない。そのために枷を作っていたのだが、ようやく完成した。この角も目障りだが金細工には仕掛けを施してある。暴走を防ぐ印にしておいた方が都合が良い」
些末な事を語るように、ディオンの口調には深刻さがない。容貌も元に戻っているが、ルシアは高まり切った不安を打ち明けた。
「ディオン様の中で、邪悪の影響が強くなってきているのではないのですか?」
ルシアの切実な訴えに、ディオンは意外なことを聞いたと言いたげに眉を動かした。
「それは違う。あの無様な姿は今に始まったことではない」
「本当に?」
「こんなことで嘘をついても仕方がない」
昨日の惨状で、緩やかに淀んでいた不安が深まっていた。くっきりと跡を刻まれたように、簡単には拭えない。
ディオンの身を侵す邪悪。彼を悪しきものに変化させていく予感は失われず広がっていく。
剣呑な顔している自覚があったが、ルシアは取り繕わずディオンを見つめる。じっとルシアの目を見つめていたディオンが浅く笑った。
「おまえはあの程度の事で、私がやられるとでも思っているのか」
「え?」
「見苦しい姿を見せたことは詫びるが、どうやら私は随分と甘く見られているようだ」
「甘くなど見ていません! 私は心配なのです!」
「だから、それが私を甘く見ているということだ」
「違います!」
強く否定すると、ディオンが可笑しそうに笑った。
「泣き止んだな」
不安が伝わらないもどかしさに囚われて、涙が止まっていた。ディオンはからかうような眼差しをしている。以前と変わることのない様子。
「おまえを泣かすのは本意ではない。それならまだ怒っている方がましだ」
彼はヨルムンドを振り返ると、深い銀色を帯びた長毛で覆われた首筋を撫でた。ぐうと魔獣の喉が鳴っている。
「私は、決して怒っているわけでは……」
自分の憂慮が彼にはまるで伝わらない。本当にディオンにとっては些細な出来事だったのだろうか。ルシアはぐっと手を拳に握りしめる。心を蝕むような危機感は遠ざかっていたが、誤魔化されているような気がしてならない。
「――声が枯れているな」
ヨルムンドから手を離し、ディオンはルシアの首に手を伸ばして気遣うように目を細めた。
「私を探し回ったのか」
「当たり前です」
昨夜もディオンの痛々しい光景が何度も脳裏に蘇り、冷や汗と涙で寝台を濡らした。血の気の引くような一夜だった。目の前でディオンを確かめていても、まだ衝撃の余韻が残っている。簡単には安堵できない。
「ディオン様は、ご自身は大した力を持たないと仰いました」
「ああ、そうだな」
「だから余計に心配なのです。邪悪は恐ろしい力です」
ディオンの背後で美しい体毛に覆われた巨体がぶるぶると身震いをする。ヨルムンドがゆっくりとルシアに歩み寄って大きな顔を寄せてきた。弓型の大きな赤眼がじっとルシアを見る。まるで機嫌を直せと言っているようだった。
「ヨルムンド、私はディオン様を責めているわけではないのです」
0
あなたにおすすめの小説
愛された側妃と、愛されなかった正妃
編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。
夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。
連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。
正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。
※カクヨムさんにも掲載中
※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります
※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。
王子を身籠りました
青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。
王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。
再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。
行き場を失った恋の終わらせ方
当麻月菜
恋愛
「君との婚約を白紙に戻してほしい」
自分の全てだったアイザックから別れを切り出されたエステルは、どうしてもこの恋を終わらすことができなかった。
避け続ける彼を求めて、復縁を願って、あの日聞けなかった答えを得るために、エステルは王城の夜会に出席する。
しかしやっと再会できた、そこには見たくない現実が待っていて……
恋の終わりを見届ける貴族青年と、行き場を失った恋の中をさ迷う令嬢の終わりと始まりの物語。
※他のサイトにも重複投稿しています。
〈完結〉【書籍化・取り下げ予定】「他に愛するひとがいる」と言った旦那様が溺愛してくるのですが、そういうのは不要です
ごろごろみかん。
恋愛
「私には、他に愛するひとがいます」
「では、契約結婚といたしましょう」
そうして今の夫と結婚したシドローネ。
夫は、シドローネより四つも年下の若き騎士だ。
彼には愛するひとがいる。
それを理解した上で政略結婚を結んだはずだったのだが、だんだん夫の様子が変わり始めて……?
『影の夫人とガラスの花嫁』
柴田はつみ
恋愛
公爵カルロスの後妻として嫁いだシャルロットは、
結婚初日から気づいていた。
夫は優しい。
礼儀正しく、決して冷たくはない。
けれど──どこか遠い。
夜会で向けられる微笑みの奥には、
亡き前妻エリザベラの影が静かに揺れていた。
社交界は囁く。
「公爵さまは、今も前妻を想っているのだわ」
「後妻は所詮、影の夫人よ」
その言葉に胸が痛む。
けれどシャルロットは自分に言い聞かせた。
──これは政略婚。
愛を求めてはいけない、と。
そんなある日、彼女はカルロスの書斎で
“あり得ない手紙”を見つけてしまう。
『愛しいカルロスへ。
私は必ずあなたのもとへ戻るわ。
エリザベラ』
……前妻は、本当に死んだのだろうか?
噂、沈黙、誤解、そして夫の隠す真実。
揺れ動く心のまま、シャルロットは
“ガラスの花嫁”のように繊細にひび割れていく。
しかし、前妻の影が完全に姿を現したとき、
カルロスの静かな愛がようやく溢れ出す。
「影なんて、最初からいない。
見ていたのは……ずっと君だけだった」
消えた指輪、隠された手紙、閉ざされた書庫──
すべての謎が解けたとき、
影に怯えていた花嫁は光を手に入れる。
切なく、美しく、そして必ず幸せになる後妻ロマンス。
愛に触れたとき、ガラスは光へと変わる
好きな人に『その気持ちが迷惑だ』と言われたので、姿を消します【完結済み】
皇 翼
恋愛
「正直、貴女のその気持ちは迷惑なのですよ……この場だから言いますが、既に想い人が居るんです。諦めて頂けませんか?」
「っ――――!!」
「賢い貴女の事だ。地位も身分も財力も何もかもが貴女にとっては高嶺の花だと元々分かっていたのでしょう?そんな感情を持っているだけ時間が無駄だと思いませんか?」
クロエの気持ちなどお構いなしに、言葉は続けられる。既に想い人がいる。気持ちが迷惑。諦めろ。時間の無駄。彼は止まらず話し続ける。彼が口を開く度に、まるで弾丸のように心を抉っていった。
******
・執筆時間空けてしまった間に途中過程が気に食わなくなったので、設定などを少し変えて改稿しています。
娼館で元夫と再会しました
無味無臭(不定期更新)
恋愛
公爵家に嫁いですぐ、寡黙な夫と厳格な義父母との関係に悩みホームシックにもなった私は、ついに耐えきれず離縁状を机に置いて嫁ぎ先から逃げ出した。
しかし実家に帰っても、そこに私の居場所はない。
連れ戻されてしまうと危惧した私は、自らの体を売って生計を立てることにした。
「シーク様…」
どうして貴方がここに?
元夫と娼館で再会してしまうなんて、なんという不運なの!
【完結】ずっと、ずっとあなたを愛していました 〜後悔も、懺悔も今更いりません〜
高瀬船
恋愛
リスティアナ・メイブルムには二歳年上の婚約者が居る。
婚約者は、国の王太子で穏やかで優しく、婚約は王命ではあったが仲睦まじく関係を築けていた。
それなのに、突然ある日婚約者である王太子からは土下座をされ、婚約を解消して欲しいと願われる。
何故、そんな事に。
優しく微笑むその笑顔を向ける先は確かに自分に向けられていたのに。
婚約者として確かに大切にされていたのに何故こうなってしまったのか。
リスティアナの思いとは裏腹に、ある時期からリスティアナに悪い噂が立ち始める。
悪い噂が立つ事など何もしていないのにも関わらず、リスティアナは次第に学園で、夜会で、孤立していく。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる