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第四話 闇の在処(ありか)
一章:一 闇の地(あんのち):希望
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夜は嫌いだという独白は、声にならず苦しげな吐息として溢れ出る。
徐々に天帝の加護(かご)が色合いを変える時刻。身を苛む恐れに全身が支配されていく。この世から消えてなくなる術があるのなら、迷わずに縋りたくなるほどに。
「――名を呼んで下さい」
背後から声が聞こえる。彼は込み上げる恐れを振り払うかのように、まだ幼さの残る顔で見返る。背後でひっそりと佇む人影を見つけると、恐れと嫌悪でさらに身を震わせた。まだ大人になりきれない細い腕で、彼は不似合いな刀剣を抱え持っていた。まるで縋るように、柄を強く握り締める。漆黒の澄んだ眼差しは、迫り来る夜に恐れて潤んでいる。
「お願いです、どうか我らの名を――」
彼は大きく頭を振って、他には人気のない寝殿の中庭まで駆け出した。
「おまえ達が毎晩私を禍にしようと同胞を呼ぶ。名を呼んだら、私は鬼に寄り憑かれて禍になってしまうんだ」
叫びながらも、一瞬そのほうが楽なのかもしれないと気持ちが傾いた。逃げても逃げても、逃れられない悪夢のように繰り返される惨状。昨夜受けた襲撃の傷は、ほぼ癒えていた。けれど空が美しい藍に呑まれると、彼らがどこからともなくやって来るのだ。
ぞわぞわと夜の澄んだ暗さの中に浮かび上がる影。どこか果てしない闇の中へ引きずり込もうとしているかのように、骨のような黒い腕を伸ばしてくる。
「我らは、あなたをお護りするために在るのです。どうか、名を――」
名を呼んでくださいと人に化けた魂鬼は繰り返す。
漆黒に染められた瞳と頭髪は、彼らが悪しき鬼である証なのだ。自分をその救いのない仲間にする為に、彼らは優しい声で誘う。
自分が禍の生贄として生まれた者であるから。
名を呼んでほしいと訴える彼らと同じように、自分の頭髪と瞳も漆黒をしている。この世の凶兆を現す、呪われた姿。これは生贄の証のようなものだと教えられた。
あの美しい人が、そう教えてくれたのだ。
「どうか。我らの名を――」
「こちらに来るな」
彼は更に中庭を駆け抜けて、中門にたどり着くと迷わずに屋敷の表に出た。いつか禍に成るのだとしても、それは今ではないのだと言いきかせる。
自分が禍になってしまったら、きっと朔夜が哀しむ。
朔夜、――心優しい女。
彼はその思いに突き動かされて、屋敷から離れる為に走った。
彼の世話をするために屋敷に遣わされている者は、皆、彼を恐れている。声を交わすことも触れることもしない。視界に映すことさえ拒むかのように。
拒絶だけを強いる者達の中に在って、一人だけ異なった存在。
彼女――朔夜だけは違っていた。
声を失った慈悲深い女。以前は美しい高位の先守であったという。彼女は呪いに身を委ね天罰を受けたようだった。声と美貌を失い、先守の地位も追われた。美しい頃の面影はなく、焼け爛れたかのように痛々しい姿をしている。けれど、彼女だけは彼を拒絶しない。傍に寄ることを厭わず、その手で触れて、指先で話し、彼の言葉を聞いてくれた。
彼は出来るだけ屋敷から遠ざかりながら、自分が禍になって消えてしまったら、朔夜が哀しむと言いきかせた。
彼はふとあの美しい人も哀しんでくれるのだろうかと考えたが、その考えはすぐに思考の外へと追いやった。
屋敷に鬼の襲撃を招くことはできない。万が一、朔夜に襲い掛かるようなことがあったら、それで彼女が傷ついたら。
想像するだけで彼は身が竦む。自分が傷つけられるより、ずっと痛い気がしたのだ。
――あなたは良い子です。
そんな筈はないのに、朔夜はそう繰り返す。
その爛れた指先で、そっと彼の掌に言葉を紡ぐのだ。まるで彼女の失われた声が届くかのように温かい仕草。
彼は屋敷を振り返り、視界から消えてなくなったことを確認すると立ち止まった。手にした輝きのない刀剣を見つめて、祈るように握り締める。
恐れを振り払って覚悟を決めた。どうせ逃れることなど出来はしないのだ。きっと自分が禍になるまで続くのだろう。
戦ってもきりがないことには、もう気付き始めていた。どれほど切り捨てても彼らは消えない。悪意が鬼に寄り付き、具現したモノ。目に見えても、傷つけられても、本当は実態のないものなのかもしれない。
彼は深い藍に呑まれた空を見上げた。夜が来る。
彼らが形になって襲ってくる時刻が訪れるのだ。
手の中には唯一縋れるものが在る。美しい人が与えてくれた剣。
無名の剣は彼が禍となる悪しき力を封じ、同時に悪しき魂鬼を排除できるという。名を呼べと請う彼らも傍に寄ることができないらしい。事実として、この刀剣を振りかざすと襲い掛かってくる魂鬼を薙ぎ払い打ち据えることができた。自身の中に在る礼神が、剣を通して開放できる。
けれど、その効力は永遠ではない。彼が発揮できる礼神が著しく消耗すると、枯れた古木のように力を失った。
気力が費え、意識を失って目覚めると朝が訪れているのだ。繰り返しの毎日。
意味のない戦いは終わらない。判っているのに、それでも。
(――いつか……)
彼は打ちのめされながらも、かすかな希望を抱いている。鍛錬を積んでもっと強くなれば、悪しきモノ達が姿を消す夜明けまで立っていられるかもしれない。いつの日か全ての魂鬼を滅して、自身を禍へと導く運命を変えることができるのかもしれない。
(いつか全ての鬼《き》を倒したら、――私が勝てば、朔夜は喜ぶだろうか)
芽生えた希望が支えだった。
夜は決して外に出ではいけないと、朔夜には厳しく言い募ってある。
いつの日か、夜通し彼女の指先が語る声を聞いて眠りにつける日が訪れるのかもしれない。
「――来たか」
彼は気配を感じて、柄を握る手に力を込めて構える。
夜の澄んだ光景の中に、ぞわぞわと形作られる闇――鬼をじっと見据えた。
夜が来るたびに、自分は少しずつ強くなっていくのだ。一太刀で薙ぎ払える数は日増しにふえ、今では振り払うだけで弾くように吹き飛ばすことができた。
彼が一歩を踏み出した。
憎むべき悪《あ》しき影。消えてなくなればいい。
手にした刀剣を頭上に翳し、彼は躊躇することなく不毛な戦いに身を投じた。
(――いつか)
秘めた希望を守るために。
それが儚く失われる夢であることも知らずに。
徐々に天帝の加護(かご)が色合いを変える時刻。身を苛む恐れに全身が支配されていく。この世から消えてなくなる術があるのなら、迷わずに縋りたくなるほどに。
「――名を呼んで下さい」
背後から声が聞こえる。彼は込み上げる恐れを振り払うかのように、まだ幼さの残る顔で見返る。背後でひっそりと佇む人影を見つけると、恐れと嫌悪でさらに身を震わせた。まだ大人になりきれない細い腕で、彼は不似合いな刀剣を抱え持っていた。まるで縋るように、柄を強く握り締める。漆黒の澄んだ眼差しは、迫り来る夜に恐れて潤んでいる。
「お願いです、どうか我らの名を――」
彼は大きく頭を振って、他には人気のない寝殿の中庭まで駆け出した。
「おまえ達が毎晩私を禍にしようと同胞を呼ぶ。名を呼んだら、私は鬼に寄り憑かれて禍になってしまうんだ」
叫びながらも、一瞬そのほうが楽なのかもしれないと気持ちが傾いた。逃げても逃げても、逃れられない悪夢のように繰り返される惨状。昨夜受けた襲撃の傷は、ほぼ癒えていた。けれど空が美しい藍に呑まれると、彼らがどこからともなくやって来るのだ。
ぞわぞわと夜の澄んだ暗さの中に浮かび上がる影。どこか果てしない闇の中へ引きずり込もうとしているかのように、骨のような黒い腕を伸ばしてくる。
「我らは、あなたをお護りするために在るのです。どうか、名を――」
名を呼んでくださいと人に化けた魂鬼は繰り返す。
漆黒に染められた瞳と頭髪は、彼らが悪しき鬼である証なのだ。自分をその救いのない仲間にする為に、彼らは優しい声で誘う。
自分が禍の生贄として生まれた者であるから。
名を呼んでほしいと訴える彼らと同じように、自分の頭髪と瞳も漆黒をしている。この世の凶兆を現す、呪われた姿。これは生贄の証のようなものだと教えられた。
あの美しい人が、そう教えてくれたのだ。
「どうか。我らの名を――」
「こちらに来るな」
彼は更に中庭を駆け抜けて、中門にたどり着くと迷わずに屋敷の表に出た。いつか禍に成るのだとしても、それは今ではないのだと言いきかせる。
自分が禍になってしまったら、きっと朔夜が哀しむ。
朔夜、――心優しい女。
彼はその思いに突き動かされて、屋敷から離れる為に走った。
彼の世話をするために屋敷に遣わされている者は、皆、彼を恐れている。声を交わすことも触れることもしない。視界に映すことさえ拒むかのように。
拒絶だけを強いる者達の中に在って、一人だけ異なった存在。
彼女――朔夜だけは違っていた。
声を失った慈悲深い女。以前は美しい高位の先守であったという。彼女は呪いに身を委ね天罰を受けたようだった。声と美貌を失い、先守の地位も追われた。美しい頃の面影はなく、焼け爛れたかのように痛々しい姿をしている。けれど、彼女だけは彼を拒絶しない。傍に寄ることを厭わず、その手で触れて、指先で話し、彼の言葉を聞いてくれた。
彼は出来るだけ屋敷から遠ざかりながら、自分が禍になって消えてしまったら、朔夜が哀しむと言いきかせた。
彼はふとあの美しい人も哀しんでくれるのだろうかと考えたが、その考えはすぐに思考の外へと追いやった。
屋敷に鬼の襲撃を招くことはできない。万が一、朔夜に襲い掛かるようなことがあったら、それで彼女が傷ついたら。
想像するだけで彼は身が竦む。自分が傷つけられるより、ずっと痛い気がしたのだ。
――あなたは良い子です。
そんな筈はないのに、朔夜はそう繰り返す。
その爛れた指先で、そっと彼の掌に言葉を紡ぐのだ。まるで彼女の失われた声が届くかのように温かい仕草。
彼は屋敷を振り返り、視界から消えてなくなったことを確認すると立ち止まった。手にした輝きのない刀剣を見つめて、祈るように握り締める。
恐れを振り払って覚悟を決めた。どうせ逃れることなど出来はしないのだ。きっと自分が禍になるまで続くのだろう。
戦ってもきりがないことには、もう気付き始めていた。どれほど切り捨てても彼らは消えない。悪意が鬼に寄り付き、具現したモノ。目に見えても、傷つけられても、本当は実態のないものなのかもしれない。
彼は深い藍に呑まれた空を見上げた。夜が来る。
彼らが形になって襲ってくる時刻が訪れるのだ。
手の中には唯一縋れるものが在る。美しい人が与えてくれた剣。
無名の剣は彼が禍となる悪しき力を封じ、同時に悪しき魂鬼を排除できるという。名を呼べと請う彼らも傍に寄ることができないらしい。事実として、この刀剣を振りかざすと襲い掛かってくる魂鬼を薙ぎ払い打ち据えることができた。自身の中に在る礼神が、剣を通して開放できる。
けれど、その効力は永遠ではない。彼が発揮できる礼神が著しく消耗すると、枯れた古木のように力を失った。
気力が費え、意識を失って目覚めると朝が訪れているのだ。繰り返しの毎日。
意味のない戦いは終わらない。判っているのに、それでも。
(――いつか……)
彼は打ちのめされながらも、かすかな希望を抱いている。鍛錬を積んでもっと強くなれば、悪しきモノ達が姿を消す夜明けまで立っていられるかもしれない。いつの日か全ての魂鬼を滅して、自身を禍へと導く運命を変えることができるのかもしれない。
(いつか全ての鬼《き》を倒したら、――私が勝てば、朔夜は喜ぶだろうか)
芽生えた希望が支えだった。
夜は決して外に出ではいけないと、朔夜には厳しく言い募ってある。
いつの日か、夜通し彼女の指先が語る声を聞いて眠りにつける日が訪れるのかもしれない。
「――来たか」
彼は気配を感じて、柄を握る手に力を込めて構える。
夜の澄んだ光景の中に、ぞわぞわと形作られる闇――鬼をじっと見据えた。
夜が来るたびに、自分は少しずつ強くなっていくのだ。一太刀で薙ぎ払える数は日増しにふえ、今では振り払うだけで弾くように吹き飛ばすことができた。
彼が一歩を踏み出した。
憎むべき悪《あ》しき影。消えてなくなればいい。
手にした刀剣を頭上に翳し、彼は躊躇することなく不毛な戦いに身を投じた。
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