~短編集~恋する唇

秋野 林檎 

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誘惑の唇(中編)

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「いいかしら?」
女は、そう言うと、俺の返事を待たずに横に座り…

「モスコミュールを…」
カウンターの男に言った女の注文に、俺は思わず…

「…ここのモスコミュールは、ジンジャーエールじゃなくて、ジンジャービアで割っているから、かなり強めだ。止めたほうが良い。」

女はクスリと笑うと
「酔った女を…部屋に連れ込むような輩ではないのね。」

「酔った女を、部屋に連れ込むような男に見えて、近づいたんだったら…おあいにくさまだったなぁ。」

「…そう見えないから…近づいたの。」

と言って女は笑った…それは満面の笑みで…
男に馴れた女のように近づいてきた女が、少女のように見えて、俺は…言葉を失い、女のその笑顔から眼が離せなくて、呆然と見つめていた。そんな俺を…女は…少し唇を尖らせ…

「…変?私の笑い方って変かしら…」
綺麗に整えられた人差し指を軽く噛み…眉を八の字にして…

なんなんだ…こいつ。
まるで、そう…大人になりたくて、化粧をした子供みたいな奴。

フッ…アハハ…

俺は…女のギャップが可笑しくて…4ヵ月ぶりに腹の底から、笑っていた。
突然笑い出した俺に…女はギョッとした顔で俺を見たが…

苦笑すると…首をすぼめて両手の平を上に 向けて
「どうぞ…好きなだけ笑って…やっぱり私には…色っぽい女性は無理みたい。」

俺はまだ口元が緩みそうになるのを、抑えながら
「みたいだなぁ…なんでそんな背伸びをしたような事をするんだ。」

女は…少し眼を伏せ
「好きな人がこんな雰囲気の女性が好み…みたいなの。でも私には無理みたい。もう…あきらめるべきかなぁ…ねぇ、好きな人に、振り向いてもらえないの気持ちは、どう始末したら…いいの?」

俺の口元は小刻みに震えた。

それから後は…何杯も酒を飲み、女に…淡々と話した記憶がある。
長かった初恋の始末は、時間しかないと言ったが、その時間の長さはどれほど必要なのか、わからないと言ったのが最後に…俺の記憶は途切れていた。


頭…が痛い。
今…何時だ…。

「大丈夫?」

えっ?…俺は眼を見開き、その声の方向に…眼をやった。
「私に…偉そうな事を言っていた人が先に潰れるとは思わなかったわ。」

そう言って笑っている女は…ホテルのバーで隣に座った女だった。
俺は慌てて起き上がり
「…い、今…何時だ。」

「あれから…1時間も経っていないわ。大丈夫、結婚式まで…あと9時間以上もあるわ。」

そう言って、女は立ち上がると…泣きそうな顔で
「…あれはほんとなの?」

「何を…言ってるんだ?」

「忘れたいと思う恋は、誰かを好きになるか…快楽で上書きするかのどちらかって話。」

「…そんなこと言ったのか…?俺が…?」

女はほんの少し笑みを浮かべ頷くと、そっと俺の頬に手を添えて
「あなたはどうなの?明日、親友と好きだった女性が結婚する事を…忘れたいと思わないの?」

「…忘…れる?」

女は「うん」と…子供のように笑って返事をすると…俺の唇に自分の唇をそっと触れさせ…

「…あなたから…キスして…」と俺の唇の上で言った。

「…おまえ…」
と言ったきり、動かない俺に、女は笑って立ち上がり…背を向けると

「届かない思いを…腐敗するまで持ち続けるつもり?悪臭を放ち…いろんな人に迷惑をかけても…?」と言って、振り向き

「…背中のファスナーを…下ろして」と…強い視線で俺を見た。


*****


伸ばされた白い腕は…微かに震えていた。

恐いのか…?この女、挑発しているくせに…恐がっている?

だが…女は言った。
「まさか…ここまできて…躊躇している?それとも…」
女は眼を伏せ…クスリと笑うと…

「その女性を一生忘れないと、宣言しているつもり?」

「バカ言え…もう、心の整理は付いている。」

「なら…抱けるでしょう?それとも…長い間守り続けた男の純情は…あなたをEDにしちゃった?」

「ふざけるな!…もう、いい加減にしろ!」

「それはこっちの台詞よ。何年も何年も…あきらめきれない思いなら、どうして!動かなかったの!親友であろうが、なんであろうが、その女性を奪い取らなかったの!!」

「…」

なにも…反論できなかった。そのとおりだ。

「…言い過ぎたわ…。でも…逃げて…」
だが…俺は、女にそれ以上しゃべられたくなかった。
どうにもならない思いを諦めきれずにいたくせに、でも動く事も出来なくて逃げていた心を…それを暴いていく女が、女の唇が…恐かった。

俺は…女を抱き寄せ、唇をむしゃぶりつく様に覆うと…舌をねじ込み、生意気なことを言う口を支配しようとした。女は…突然奪われた唇に、驚いたように体を震わせたが、白い腕を俺の背中へと、そっと回した。

女に、もうあれ以上、言われたくなくて、塞ぐつもりでキスをしたつもりが…
いつのまにか、体は女を求めて、熱くなっていくことに、俺は戸惑うように…なぜか女を見た。

目が合うと女は…慌てて顔を両手で覆い

「…顔を見ないで…」

「なぜ…?」

「…顔を見たら興ざめでしょう…」

「どうして?…」

「私は…あなたの好みとは…違うから…」

そう言った女の顔を覆った指の隙間から…線のように、繋がって涙が零れていった。


…心が…俺の心が…

今、この女が欲しいと言った。

「名前…」

「えっ?」

「名前ぐらい言えよ。」

「…ま…【まり】」

「まり…」

女は微かに頷いた。



首筋に舌を這わせ、小刻みに震える茉莉の首を強く吸い上げた…
「…跡を残さないで…」

掠れた声で言った、【まり】の言葉を無視するように…俺はもう一度、噛み付くように跡をつけ【まり】茉莉に小さな悲鳴のようなあえぎ声をあげさせると、俺は形の良い乳房の先端を舌で転がした。



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