完結【日月の歌語りⅡ】日輪と徒花

あかつき雨垂

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 この場所が白茨塔ホワイトソーンと呼ばれるようになったのは、一一〇九年のとある事件がきっかけだった。この宮殿には当時の王レナード二世の妹、マチルダ王女が暮らしていて、白亜の塔と、城を取り囲むように生い茂る美しい薔薇で有名だった。
 マチルダ王女には魔女の愛人がいた。ダイラが統一された直後──国内の情勢が不安定で、魔女狩りが最も熾烈を極めた時代だ。レナード二世の政敵が、それに目をつけないはずはなかった。
 魔女は告発され、引き立てられ、宮殿の中庭で処刑されることになったのだ。
 火刑の炎に包まれた魔女は自ら青い劫火ごうかを身に纏い、処刑人や見物人、彼女が愛したマチルダ王女を含む全員を焼き滅ぼした。美しかった塔は黒く焦げ、その根元に生えていた薔薇の痕だけが白く残った。
 その後、宮殿は長らく無人のまま放置された。やがて、この国で最も悪名高い監獄になった。
 
 内部に通される前に一悶着起こるだろうと考えていたクヴァルドは、あっさり部屋に通されたことで、一層警戒を強めた。クヴァルドとラーニヤを案内した二人の衛兵は、ここで待つようにと告げると背後の壁に立ち、彫像のように存在感を消した。
 そこは、かつてここが宮殿だったときの談話室のようだった。古い時代の建物らしく、窓は小さな明かり取りの用しか成していない。剥き出しの石壁には古びたタペストリーが飾られていたが、寒さをしのぐ役には立たないだろう。夏であるにもかかわらず、暖炉には火が入れられていた。それでも、この部屋は寒かった。赤々と燃える巨大な暖炉だけが、この場所が喜びをもって客人を迎え入れていた時代の名残だ。大きな執務机に座る者はいない。白茨塔ホワイトソーンの主は席を外していた。机の上の小さな炉で焚かれたこうの香りが、来るべきあるじのため、部屋を聖域に変えていた。
 しばらく待っていると、石の床を叩く靴と杖の音が聞こえた。二人の背後の扉が勢いよく開くと、クヴァルドとラーニヤは辞儀をし、彼が部屋を横切り執務机に辿りつくのを待った。
「二人とも、どうぞお楽になさい」
 顔を上げると、好々爺こうこうやの顔をしたセオン・ブライア聖法官がそこにいた。
「やれやれ、ひどい雨だ。もっと暖炉に近づくといい。夕立だと言うのに、秋雨のように冷たい」
 そう言いながら、彼自身は少しも雨に濡れていない。
「痛み入ります」クヴァルドは言ったが、その場から動かなかった。「卿直々じきじきにお越しくださり、恐悦に存じます。わたしは〈クラン〉のフィラン・オロフリン。こちらはアシュモールの魔女、ラーニヤ=サーリヤです」
 ブライアはゆっくりと頷いた。「おおよその報告は受けている──あなた方はホラスの放免を望んでいる、と」
「その通りです」
「だがわたしは、彼が長年に亘り魔女と不適切な関係を結んでいたという報告も受けている。審問官でありながら……このわたしをも欺いて。さらには、貴族の暗殺にまで手を染めていたと──」ブライアは首を振った。「信じて欲しい。彼を放免すべき理由を探しているのはわたしも同じなのだ。だが、これほどの罪を重ねた者にそれを問わないことを、神はお許しにならないだろう」
 部屋の横の扉が開いて、質素な黒の尼僧服を着た娘が入ってきた。聖法官に仕える者らしく慎ましやかに俯いたまま、ブライアの傍に控えた。
「彼の罪についての申し開きをしようと思えば、出来ます」クヴァルドは言った。「裁判において、彼の行いには正当な理由があったことを証言することも。卿にもご理解頂けることでしょう。しかし、今はその時間がありません」
「何故かな?」
「〈呪い〉に関係している、とだけ」
 すると、温かささえ感じさせたブライアの表情が一変した。
「何だと」目は見開かれ、唇がわなわなと震える。「我が国に、〈呪い〉の兆候が? ほんの二年前にエダルトを滅ぼしたのは貴殿ではなかったか?」
「それとは別の〈呪い〉です」クヴァルドは言った。「この長雨も、その影響でしょう。じきに嵐が訪れ、そして疫病が興ります。〈呪い〉が去るまで、この国が太陽に照らされることはない。伝説の通りです」
「なんということだ……」
「サムウェル審問官が世話をしていた魔女が、その元凶になろうとしています。だからこそ、彼が必要なのです」
「ああ、陽神デイナよ。我が国を救い給え」ブライアは天を見上げ、聖印を切って手を組んだ。「彼を連れ出すことで、その〈呪い〉を避けることが出来るのか?」
「おそらくは」クヴァルドは言った。「彼をエイルに連れ出すお許しをいただきたい。かの地で〈呪い〉を調伏するため、我々が手を尽くします」
 クヴァルドを見つめたまま、ブライアは考え込むような表情になった。「わたしの一存では……王の許しが必要だ」
「では、王にご報告を」クヴァルドは一歩前に進み出た。「猶予がありません。〈呪い〉が成ってしまえば、まずこの王都が危機にさらされましょう。〈王律〉によって市壁の中での魔法が禁じられて、多くのナドカが街を捨てました。いまの王都に〈呪い〉に抵抗する力はないのです」
 ブライアは、小さな窓を見上げて、長く重いため息をついた。「貴殿の言うとおりだ」
 クヴァルドとラーニヤは顔を見合わせた。
「では……」
「使いを出そう。王に謁見を申し出て、お許しが出れば、明日の朝にでも釈放できる」
 クヴァルドとラーニヤは深く辞儀をした。「ありがとうございます」
 聖法官は頷き、召使いを呼んだ。壁際に控えていた彼女は、聖法官の傍に屈んで命令を受け取ると、粛々と辞儀をし、部屋を横切った。
 そのまま、彼女が扉から外に出て行くだろうと思い込んでいたクヴァルドは、背後から伸びてきた手を振り払うことが出来なかった。
 冷たい手が首筋に触れる。その瞬間、骨とすじを抜かれたような奇妙な感覚に襲われた。嗅覚も聴覚も、水に沈められたように鈍る。身体が重くなり、頭が前にかしいだところで膝裏を蹴られ、クヴァルドはあっさりと膝をついた。頭の先から爪先にまで満ちていた力を失ったことを、否応なく思い知らされる。
 これはまるで……貴金とうがねに触れた時のような反応だった。隣ではラーニヤも、同じ困惑に喘いでいる。
 その時、聖法官が声を上げた。
「〈燈火警団ランタン〉よ、前へ!」
 壁に掛けられた古びたタペストリーの裏から、いしゆみを構えた審問官たちがなだれ込む。武力による制圧を目的とした審問官の軍団、〈燈火警団ランタン〉は、ブライアの子飼いの組織でもある。彼らの弩には銀の矢が装填されていて、いつでも放てる状態だった。
 香のにおいが隠そうとしていたものに、クヴァルドはようやく気づいた。
「クソ……!」
「よくやった、エミリア」
 ブライアが言うと、クヴァルドとラーニヤの首根っこを掴んだまま、召使いが辞儀をした。
「エミリア?」
 ホラスとマタルが探していたという少女じゃないのか?
 ふり返ろうとしたが、彼女の顔は白い頭巾に隠されていて、表情までは見られなかった。
「何故……!?」ラーニヤが、ブライアに向かって言った。「我々は敵ではない! 〈呪い〉を防ごうとしているのに!」
 〈燈火警団ランタン〉を左右に侍らせたブライアは、ゆっくりとたちあがった。
「敵ではない、だと?」彼は言った。「我々が長い間かけて育んできた果実を、横から奪い去ろうとしているのだぞ」
「育む……? 果実……? 何を言っているの?」ラーニヤが言った。
「ホラスが魔女を飼っていることなど、とうに知っていた。その魔女が〈呪い〉の芽を宿していることもな。わかっていて手元に置き、それが熟すのを待っていたのだ。並の審問官ではこなせぬ仕事を与え、復讐の機会を与えて……実に骨の折れる果実だった。だが、それももう終わる」
 ブライアは、二人の背後に居る少女を示した。
「そこにいるエミリアは、魔女の素質を持ちながらも、信仰の力によって生まれ変わった〈神の愛し子〉だ。彼女の肉体は陽神デイナの加護に満ちている。我々が作り出した秘薬を用いれば、君たちのようなナドカの力を無にし、思うままに操ることができるのだよ」
 背筋が凍る。
 思うままに、ナドカを操るだと?
 こんな技術が世に広まってしまったら、どうなる? ナドカは人間に抗う術を奪われ、奴隷のように酷使される。陽神デイナに従うものだけが生きる権利を持つ世界が訪れる。そして、生まれたばかりのエイルは瞬く間に制圧されるだろう。
 エイル。俺の故郷が。
「ナドカを操る……?」ラーニヤが呆然と呟いた。「そのために、マタルを〈呪い〉に落とそうとしているのか──竜を意のままにするつもりで!」
 ブライアは控えめな笑みを浮かべた。
「彼も本望だろう。野垂れ死ぬ運命だった蛮族が、偉大なるダイラの守護者になるのだ」
「野垂れ死ぬ運命? 蛮族だと!?」ラーニヤが声を荒らげる。「マタルはサーリヤ族の魔女だ! 貴様らのような連中の思い通りになどなるものか!」
 クヴァルドはうつむき、分厚い石壁と小さな窓の外、雨音の向こうから聞こえてくるはずのものに必死で耳を澄ませた。
「アシュモールの魔女など、荒野をさすらう女芸人に過ぎぬ」ブライアが言った。「薄汚れた異教徒め──」
 その時、人間並みに戻ってしまったクヴァルドの耳に、ようやく合図が聞こえた。
 笛の音が、二回。
 そして、雨音の向こう側から、喧噪が聞こえてきた。
「一体、何事だ……!?」
 天から遣わされた答えのように、衛兵が部屋に飛び込んできた。
「魔女です!」彼は今にも嘔吐しそうな勢いで叫んだ。「〈真夜中の集会コヴン〉と名乗る連中が、塔に押し入ろうと──」
 しかし衛兵は、最後まで言い終えることは出来なかった。驚いたように息を呑んだかと思うと、次の瞬間には苦しげに喘ぎはじめたのだ。そしていきなり、彼の口から炎が溢れた。
「なんと!」
 叫んだブライアを、〈燈火警団ランタン〉が即座に取り囲む。エミリアもクヴァルドの背後から退き、ブライアの傍につく。クヴァルドはその時はじめて、エミリアの顔を見た。そして、背筋が寒くなるのを感じた。まだほんの少女に過ぎない彼女の瞳に、光はなかった。目の前で男が燃え上がっているのを見ても、眉ひとつ動かさない。
「あ、ああ……!」
 一方、衛兵はなおも炎を吐き出しながら、その身体はみるみるうちに黒い炭に変わっていった。体が前にかしぎ、膝をつく。すると、炭化した身体は瞬く間に崩れ、その場に散らばった。
「一体──」
「あらあら、皆様おそろいで」
 低く豊かな声を響かせて、ゆっくりと、一人の貴婦人が戸口の前までやってきた。黒い肌に、黒い瞳。そして、夜を思わせる黒いガウンを身に纏い、口もとには涼しげな笑みを湛えている。彼女のとなりには金の髪をした女性が従っていた。
 噂には聞いていたが、この目でみるのははじめてだった。彼女こそ、デンズウィックの夜を統べる〈真夜中の魔女〉──。
「アドゥオール……!」ブライアが、憎々しげにその名を呼ぶ。
「ごめんあそばせ、猊下げいか
 彼女とその連れの女性は、ブライアに向かって優雅な辞儀をすると、燃えかすとなった兵士の破片を踏みつけながら部屋の中にやってきた。
「何のつもりかね」ブライアが言った。
 すると、アドゥオールはにっこりと微笑んだ。
「ご挨拶させていただきたくて参りましたの。わたしの娘達が、あなたのとやらに、随分お世話になったようなので……ねぇ、エリザベス?」
 傍らの女性はしとやかに頷くと、片手を宙に挙げた。そして、皆の視線を集めながら、見えない鍵をつまんで……ゆっくりと回した。
「何をしたの……?」ラーニヤが、小さな声で呟いた。「今、何かが変わった」
 アドゥオールは微笑みを浮かべたまま言った。
「エリザベスは錠前破りの天才でしてよ。そしてとっても慈悲深い、自慢の娘ですの」彼女はその言葉が、そこにいる皆の理解を得るまで、たっぷりと時間をとった。「可哀想な囚われ人たちに、茨の森から抜け出す道を作ってさしあげました」
「何だと……?」
 アドゥオールはひときわ優雅な微笑を浮かべた。
「わたくしたちと遊びたいのなら、素直にそう仰ればよかったのですよ。ねえ、セオン」
 
            †
 
 朦朧とした意識の中、暗闇の中に、金色の雫がしたたる。
 夢を見ているのだと思う。同時に、この上なく覚醒している気もした。
 金の雫が零れ、ゆっくりと、自分を満たしてゆく。美しい波紋が輪を拡げる度に、痛みも、全ての感覚も、自分から切り離され、遠くへ押し流されてゆくのがわかった。
『目覚めよ、ホラス』
 そう、誰かが言う。
 父親の声だろうか。そんなはずはない、父は死んだのだ。
 あなたは誰だと問いかけるつもりで、口を開いた。だが、息を吸い込んだ瞬間に眠っていた痛みがぶり返し、恩寵のような夢は唐突に終わった。
「う……ぐ……」
 どれくらい気を失っていたのだろう。
 何者かが遠くで上げている狂乱の声が、地下にいるホラスのところにまで聞こえていた。
 誰かが、ここに押し入ろうとしているのか?
 すぐ傍では、テニエスは怒り狂っていた。
「計画が台無しだ!」
 机の上を払いのけたのだろう、拷問具が床にぶちまけられた、けたたましい音がする。
 流れた血が瞼を塞いでしまったせいで、目が開かない。無理に瞼を持ち上げる気力もなかった。自分の身体の何処が壊れ、どこから血が出ているのかも分からない。宙づりにされた身体は感覚を失いかけている。暗闇の中、ぼんやりとした痺れと痛みだけが、辛うじて自分の肉体と、無感覚の闇との境界線になっていた。
 テニエスの計画を台無しにしてくれたものがなんであれ、この苦痛を引き延ばすのであれば、それは自分の敵だとホラスは思った。
「あのじじい、エミリアを前線に出しやがって──あの子にはまだ早いのに!」テニエスは拷問部屋を足早に行き来しながら呟いた。「なんとかして止めないと──だがここから出るのは無理だ……頼むエミリア……僕らを救ってくれ……」
 テニエスの呟きを聞いているうちに、また、意識が遠のく。
 エミリア……彼女がここにいるのか。
 彼女のことを頭に思い浮かべた瞬間、上階から悲鳴が聞こえた。女たちの叫喚──魔女だろうか? しかし、なぜこんなところに?
 テニエスがあわてて部屋を飛び出し、すぐに戻ってきた。
「今だ!」彼は興奮にうわずった声で言った。「やったぞ! エミリアが魔女どもを吹き飛ばした! 今なら逃げられる!」
 彼はイェゴルに指示を出し、ホラスを吊り鉤からおろして背負わせた。固まった関節に激痛が走る。
「君にはまだ生きていてもらわないといけない。マタルを竜に変異させるためには、君が必要なんだ」
 テニエスはせわしなく話し続けながら、塔の階段を上りはじめた。
 やがて、冷たい雫が背中に降り注ぐと同時に、弱々しい光がホラスの瞼越しに差し込んだ。地上に出たのだ。顔にかかる雨がこびりついていた血を洗い流してくれたおかげで、ホラスはなんとか目を開けることが出来た。
 そこは、戦場だった。
 塔から逃げ出したと思しき人狼やデーモンたちが、枷をつけたまま審問官たちに襲いかかっていた。魔女たちが空を飛び、炎や氷の壁を作っている。その背後から、他の魔女や魔術師たちが、塔を守るように立つ〈燈火警団ランタン〉めがけて雷の矢を放っていた。彼らの攻撃は審問官を薙ぎ倒し、あるいは壁に叩きつけて、着実に彼らの戦力をいでいる。だが繰り出された攻撃の大部分は、〈燈火警団ランタン〉を包み込む金の編み篭のようなものに阻まれて霧散してしていた。
 中空に広がる網目……まるで結界だ。
「エミリア!」
 ホラスの背後で、テニエスが興奮して声を上げる。「陽神デイナよ! あれがあなたの愛し子です!」
 ホラスはイェゴルの背の上で身をよじって、その姿を探した。
 ──いた。
 エミリアは尼僧の服に身を包み、銀の弩を構える〈燈火警団ランタン〉たちの中心に立っていた。大きく拡げた両手から迸る金の糸を見れば、彼女も、彼女が対峙する魔女と変わらず人外ナドカに見える。だが、その表情は平穏を湛えていた。まるで胎の中で暴れる胎児を慈しむ母親のように。
 ほんの一瞬、その横顔にみとれる。
 しかしこの『エミリア』は、いま目の前にいる男によって造られたものなのだ。痛む背中に、関節に、血管という血管に、嫌悪の怖気おぞけが走った。
 〈燈火警団ランタン〉の隊列から、一斉に銀の矢が放たれる。いくつかの矢は、魔女が吹かせた風や吹雪に勢いを失い、地面に堕ちた。それをかいくぐった何本かが魔女の身体を捕らえ、鋭い叫びがあがる。
「今のうちに、ここから遠ざからなくては」テニエスが言った。「イェゴル、馬車の準備を──」
 だが、テニエスの言葉は、轟音に呑まれて消えた。
 土砂降りの雨が頭上から降り注ぎ、全ての音を、光景を、包み隠す。空気が重くなり、関節という関節が軋む。
 ものすごい力が、こちらに降りてくる。それを、本能が感じた。
「来た、来た来た、来たぞ」テニエスの声が辛うじてホラスの耳に届いた。「まったく、なんてところに! いや、待て──これは千載一遇の好機だぞ……!」
 大粒の雨が石礫いしつぶてのように背中を打つ。痛みに歯を食いしばりながら、ホラスは空を見上げた。そして祈った。
「だめだ」ホラスは呟いた。「来るな、来るんじゃない!」
 だが、その声は届かなかった。
 一陣の暴風が吹き付け、魔女と、審問官と、囚人と──その場にいた全てをなぎ倒す。
 ホラスも、ホラスを担いでいたイェゴルも泥濘ぬかるみに突っ伏した。口に入った泥を吐き出しながらもがいて身を起こし、空を見上げる。
 そこに、彼がいた。
 曇天を背負って空中に浮かび上がるマタルを取り囲み、無数の三日月刀シャムシールが浮かんでいる。漆黒の刃を纏って地上を見下ろすマタルの身体を、赤い焔のような光が包んでいた。
 彼がいる。風雨をして、まるで空に君臨する王のように。
「馬鹿野郎……!」
 聞き覚えのない声が言う。顔を向けると、そこに背の高い赤毛の男がいた。黄昏の狼クヴァルド・ウルヴが、こんなところで何をしているのだろうと考える余裕はなかった。彼の向かいにはセオン・ブライアがいて、畏怖に打たれた表情でマタルを見上げていたのだ。
 卿自ら、事態の収拾にやって来たのだろうか──なんと無謀な。だが、彼はそういう人なのだ。自ら危険に身をさらして、後に続く者に手本を示す。だからこそ、皆の人望を集める。けれど、このときばかりは、ホラスはそんな彼の人徳を恨めしいと思った。
「射て! 射て!!」
 狼狽えた審問官が叫ぶ。〈燈火警団ランタン〉はすぐさま標的を変え、空に向かって無数の矢を放った。
 だが、マタルは手の一振りで全ての矢の向きを変えた。一陣の風が矢を攫い、塔の壁面に深々とめり込ませた。
「素晴らしい……!」テニエスがよろめきながら立ち上がる。「まだ完全に〈呪い〉に堕ちていないのに、この力だ」
 なんとかしてマタルを止めなければ、この場にいる全員が危ない。
 ホラスは腰の後ろに回された手枷から逃れようと、泥の上で身をよじった。イェゴルがそれに気づき、ホラスに覆い被さる。
 それがまずかった。
 重いものが落ちたような地響きと、声にならない悲鳴を感じてふり返ると、イェゴルが漆黒の三日月刀シャムシールによって、地面に縫い止められていた。目を瞠るホラスの腹に、彼が吐き出した生温かい血が零れる。逃れようともがくホラスの目の前で、第二、第三の三日月刀シャムシールが降り注ぎ、目の前でイェゴルを切り刻んでいく。
 ホラスはなんとか立ち上がり、マタルに向かって叫んだ。
「もうよせ、マタル!」
 だが、拷問の間じゅう叫び続けた喉は嗄れ、ホラスの声が雨音に打ち克つことはできなかった。それでも、ホラスは声を上げた。
「マタル! 今すぐ逃げろ!」喉が裂け、血の味がのぼってくる。「逃げろ!!」
 それなのに、マタルはホラスを見て微笑んだ。
 状況が見えていない。我を失いかけているのだ。
 マタルは無数の三日月刀シャムシールを翼のように羽ばたかせながら、地面に降り立とうとしている。
「ホラス」彼は言った。「遅くなってごめん、俺──」
 その時、ホラスは後ろから髪の毛を掴まれた。
 目の前に並んだいくつもの顔がくっきりと見える。ブライア、クヴァルド、同僚の審問官や、魔女たち。
 マタル。
 彼の首筋にはひどい火傷の痕があり、見慣れた服もボロボロに裂けていた。
 この異様な状況の中で、それでもホラスは、彼の首の手当てをして、きちんとした服を着せてやらなくてはと考えた。
 走馬灯など、少しもよぎりはしなかった。考えたのはマタルのことだった。
「〈呪い〉よ来たれ!」頭のすぐ後ろで、テニエスが叫ぶ。「そして、偉大なるダイラを護りたまえ!」
 見るな、と言いたかった。
 痛みが喉を横切る。
「あ……く……」
 喉元まで来ていた言葉は、切り裂かれた喉の隙間から血と共に噴き出し、雨と共に流れた。
「ホラス」
 マタルの表情が凍り付く。煌々と輝く彼の瞳が、歪み、ひび割れ……そして、砕け散った。
 絶叫。
 そして、絶叫が響く。
 雷鳴が轟き、空気を焦がしながら、何本もの稲妻が柱のように地面に落ちる。青白い光が炸裂し、大気を切り裂く。どこもかしこも輝いて見えた。まるでこの場所が、彼のための神殿に姿を変えたようだ。
 轟音の向こう側で、逃げろと誰かが叫んでいる。そして声ならぬ声で、マタルが世界を呪っていた。
 真昼のように眩く辺りを照らす雷光の中で、彼の肉体が変容してゆく。
 薔薇の花が開くように人間の殻を裂き、つき破って姿を現す、巨大な翼を持つ首長の竜。雨雲のような、その鱗の色。そして、彼が憎みながらも愛していた九重ここのえの薔薇と茨の文様が、翼膜を飾り立てていた。
 耳をつんざくその咆哮は、剥き出しの悲傷ひしょうに震えている。
 マタル、だめだ。マタル……。頼むからやめてくれ。
 だが──神よ、お赦しください──竜に変化した彼の、なんと美しいことか。
 その絶対的な美しさと、強大な力を目の当たりにして、ホラスはただ圧倒された。畏怖の念を抱いた。敬虔な気持ちになった。嵐を目の前にして為す術のない人間のように。
 霹靂へきれきのような、鬼哭きこくのような、啾啾しゅうしゅうのような声を上げて、マタルという名の竜が、飛び立つ。
 力尽き、地面に倒れ込む寸前──暗転する視界の向こう側で、すべてが燃えていた。
 オスニエル・テニエス。
 そして、セオン・ブライア。
 育ての父にも等しい男は、雨の中、雷に打たれて消し炭になっていた。
 
 暗闇の中で『目覚めよ』と、誰かが言った。
 ああ、まただ。また、金色の雫が滴る。
 声は言った。
『お前の記憶を、返してやろう』
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