【日月の歌語りⅣ】天地の譚詩

あかつき雨垂

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 ダイラ 旧アルバ 
 
「またあたしの勝ち!」 
 グレタが言い、銅貨を全てかき集めた。 
 グレタの兄のカハルは、折りたたみ式の小さな卓に手札をたたきつけて呻いた。『傭兵団』──悪い手ではないけれど、一騎打ちを仕掛けるにはお粗末な役だ。 
 グレタはそれをチラリと見て、小馬鹿にしたように言った。 
「はったりだったの? それとも本気で勝負をかけるつもりだった?」グレタは得意げに笑った。「中途半端に勝負するのが一番駄目だって、ショーン伯父さんが言ってたよ」 
「うるさい」 
 カハルは唸り、隣で笑っているハミシュの方に身を乗り出した。 
「君の手は?」 
 ハミシュは肩をすくめて、手札を拡げた。一番点数の低い『豚小屋』の役だ。カハルは同情するように肩を叩いた。 
「レタの運の強さがおかしいんだ」彼は言った。「だからこそ、ついてないときはとことん負ける。今に見てろよ」 
「あたしは負けないもん」グレタは集めた手札を兄の前に置いた。「ほら、さっさと配って!」 
 マクラリー商隊キャラバンに助けられてから十五日あまりが経っていた。 
 彼らはマイデンまでの道を北上していた。行く先々で商品を売ったり、買い上げたり、ちょっとした頼み事をきいたりしながら、ゆっくりと進んだ。放浪民エルカンは、収穫に精を出す農村では臨時の働き手としてありがたがられる。マクラリーには優秀な働き手だけではなく、治療や鋳掛けを得意とする者もいる。大きな商隊キャラバンだから、遠くからでもよく目立つ。「ちょっと寄っていってくれ」とかかる声はいくつもあった。 
 エルカンは、隙あらば定住民にペテンを仕掛ける信用ならない連中だという見方があるのはハミシュも知っていた。だが数日の間ともに過ごした限りでは、マクラリー商隊キャラバンの仕事はまともだった。引きも切らずに招待の声をかけられるのは、そのおかげだろう。 
 いま、ハミシュたちが逗留している村もそうだった。まだ前の村を出発してもいないうちから、「次はうちの村に」と頼み込まれたのだ。先を急ぎたいノーラは、初めは断ろうとしていた。けれど結局、押し切られる形で滞在を決めたのだった。 
「あんたたち、不慣れな子をカモにするんじゃないよ」 
 厳しい声が降ってきたと思って顔を巡らすと、グレタの背後にノーラが立っていた。 
「ねえ、いつこの村を出るの?」 
 グレタが尋ねると、ノーラは『はぐらかそうったって無駄』という目を娘に向けつつ、答えた。 
「明日には出発だよ。もういい加減、マイデンについてなきゃいけないんだ」そして、彼女はハミシュの方を見た。「寄り道が多くてごめんよ。先を急いでるんだろうに」 
「いいえ、大丈夫です」ハミシュは言った。「なんというか、気ままな旅なので」 
「そうかい? それならいいんだけど……」 
 この族長と話をすると、どうも緊張してしまう。穏やかで気さくなのに、彼女はどことなく、ヒルダ・フィンガルに似ていた。いざとなれば、どんな非情な決断をも下す覚悟を抱えているようなところが。その覚悟とは、彼女の一族を守るためのものだ。ハミシュはよそ者で、覚悟の切っ先を向けられる方だった。 
 ノーラ・マクラリーは誰にでも親切であるかのように見せているけれど、懐に入るのを許すほど甘くはない。 
 手強い相手だ。 
 いつの間にかそんなふうに考えていたことに気付いて、ハミシュの背中に冷や汗が滲んだ。いまの考えは、僕のものか? それともあいつの? 
 動揺を隠そうとするハミシュに、ノーラはもう一度「悪いね」とあやまってから、別の馬車へと向かった。 
 遠ざかる背中にホッとしながら、ハミシュは、実感を、またしても覚えた。 
 僕とあいつを隔てる壁はどんどん崩れて、互いの姿が見えそうなほど穴だらけになっている。このまま行けば、いずれ僕は完全にあいつの操り人形になってしまう。 
 ハミシュたちの周りでは、商隊キャラバンの皆が、めいめい野営の準備をしている。鄙びた農村の真上に開けた大きな空は、かすかに翳りはじめていた。 
「ねえ、もう一勝負!」母親が遠くへ行ったことを確認してから、グレタが小さな声で言う。 
 だが、ハミシュは首を振った。「ごめん。夜に備えて、すこし眠るよ」 
「わかった。じゃああとでね」 
「うん」 
 グレタとカハルに暇を告げて、馬車に乗り込む。 
 眠っておきたかったのは本当だ。商隊キャラバンにただ乗りするのも申し訳なくて、ハミシュは夜間の見張りを申し出ていたのだ。だが、いますぐ眠ってしまいたい理由はもう一つある。 
 リコヴの企みを挫くには、そうするより他に方法がないからだ。 
 少し前まで、自分がこの商隊キャラバンに拾われたのは偶然だと思っていた。しかし、そうではなかった。ヴァスタリアから乗った船がマクラリー一族と取り引きする手筈になっていたのも、ハミシュがその船に乗り込んだのも偶然ではない。リコヴの策略があったからなのだ。 
 出会いが必然だったことがわかったのは、つい昨日、グレタと話をしていたときだ。 
「エルカンは海神マルドーホを信じてる。どの部族もそうだとおもうけど、うちの一族にも、イムラヴから逃げるときに海神から授かった宝物が伝わってるの。イムラヴの民イムラヴァが救いを求めて宝物に願いを懸ければ、そこに海が現れるだろうって言い伝えがあるんだ。母さんが大事にしまってるから、海神マルドーホの祭日にしか見られないけどね」 
 自分の身体を使って、リコヴが何をするつもりなのか──それを正確に知るのは難しい。けれど、行く先々で集めた噂をつなぎ合わせてみると、ある狙いが浮かび上がってくる。 
 どうやらリコヴは、各地に眠る至宝を探し求めているらしい。だからといって、それを奪おうというのではない。彼は、人間が神から賜った神器や古い伝説を掘り起こすことで、古の神々を……その名前を、思い出させようとしている。少なくとも、ハミシュにはそんな風に思えた。 
 思えばそれは、マルヴィナの元でエイルの冠帯ミンドを探していたあの時から始まっていた。エイルを守護する雷神ユルンに、アシュモールで朽ち果てかけていた曙神アシュタハ。記憶にないが、ヴァスタリアやその前にも、リコヴはハミシュの身体を使い、埋もれた神の記憶を呼び起こしたのに違いない。そして今度は、海神マルドーホの宝に狙いを定めているのだ。 
 これをどう考えるべきなのか、ハミシュにはわからない。 
 阻止すべきだ、と言うのは理性の声だ。だが時には、彼の好きにさせたらいいじゃないかと思いそうにもなる。何せリコヴがいなければ、いまのハミシュは存在していなかったのだ。僕がいま生きているのは、リコヴの依り代だからだ。ハミシュという人間の値打ちはそこにこそある。リコヴ無しでは、僕はとっくに死んでいた。 
 それに、リコヴが手を貸さなければエイルはよみがえっていないし、アシュモールは竜によって滅ぼされていたかも知れない。だったら、彼のやりたいようにさせてやればいいんじゃないだろうか。古い神への信仰を呼び起こしたからって、いったいどんな災いが起こるっていうんだ? 
 いや。だめだ。 
 いままでだって全く制御できなかった事態が、ここに来て一層手に負えなくなっているのは明らかだ。リコヴの思惑がどうあれ、このまま彼の好きにさせたら、きっと、あとで悔やむことになる。 
 それに……グレタやカハルを裏切るような真似はしたくない。だから、迷惑をかける前に──友人でいられるうちに、ここを出て行くのだ。 
 小さな寝台に潜り込んで、毛布を頭の上までかぶる。そして、きつく目を瞑った。 
 黄昏の光を目にしなければ、リコヴに身体を乗っ取られることはない。だから、黄昏が近くなったら寝てしまうのが一番なのだ。マイデンに着くまでは、こうしてなんとか自分の身を守る。それからリコヴが事を起こす前に商隊キャラバンに別れを告げ、ヨトゥンヘルムに向かう。誰も残っていなかったとしても、行き先の手がかりくらいは見つかるはずだ。いま〈クラン〉はダイラ中を巡りながら、流浪の兄弟団のように人助けをして回っているという噂だ。どうにか彼らに追いついて事情を全て話せば、きっと……良いように取り計らってくれるだろう。 
 これ以上、お前の好きにはさせない。 
 もう何度目かになる決意を固めて、ハミシュはさらにつよく、瞼を閉じた。 
 自分の目の中から全ての光を追い出してしまうと、意識の闇の奥深くに微かな嘲笑をきいたような気がした。 
 
 翌朝早くに、一行は村を出発した。 
 ハミシュはカハルと並んで御者席に座り、グレタは幌の中から会話に参加していた。 
「あたしとカハルはこのあたりで生まれたの。アルバは昔からエルカンに優しいんだ。身重のエルカンに屋根を貸した家は幸運に恵まれるって言い伝えがあるくらい」 
「へえ」 
 同じ年回りの子供とこんな風に他愛ない会話をするのは、記憶にある限りではこれが初めてかも知れない。何百歳も年上のナドカたちとの会話に慣れた身には、それが新鮮で、楽しかった。 
 あまり多くを話せないハミシュには、賑やかなグレタの存在はありがたかった。彼女もまた、ハミシュの寡黙さを受け入れてくれている。 
「あなたはどこの生まれ?」 
 ハミシュは肩をすくめた。「わからないんだ。小さい頃の記憶がなくて」 
 グレタは「そうなの」と言った。一言で、彼女は多くのことを察したのに違いない。それ以上は踏み込んでこなかった。 
「ハミシュという名は、誰がつけたんだ?」カハルが尋ねた。 
「僕を最初に養ってくれたひとが」 
 マルヴィナの記憶は、いまではだいぶ薄れている。そもそも、彼女がハミシュを『役に立つ道具』以上に扱うことはなかったから、記憶が少ないのは当然かも知れない。マルヴィナという人物についての知識は、彼女が死んでから得たものの方がずっと多かった。 
浪語ホウニの古い名前みたい」グレタは言った。「だったらアルバか、イムラヴの血を引いているのかも」 
「そうとは限らないだろ。名前なんていくらでも好きにつけられる」カハルが冷静に言った。「見たところ、ダイラというよりは大陸人みたいな顔つきだし」 
「どのあたりが?」グレタはすかさず食い下がった。 
「目の辺り。それに鼻も」カハルは、ハミシュの顔を注意深く観察した。「どことなく、フェリジアっぽい顔だと思うな、俺は」 
「そう?」 
 その声色から察するに、グレタはフェリジアのことをよく思ってはいないようだ。それから、彼女は思い出したように真面目な表情をした。 
「もし、言いたくなかったら言わなくていいんだけど」前置きしてから、ちらりと辺りに視線を走らせる。「ハミシュって誰かのために働いていたりしない? ダイラの王とか、貴族とか?」 
「おい」カハルは呻いた。「何考えてるんだ。真正面から聞く奴があるか」 
 ハミシュは兄妹の顔を見比べた。「どういうこと?」 
 カハルはため息をついて言った。「実は……マイデンに近づく前に、確かめておかなきゃいけなかったんだ。君が、誰のがわにいるのか」 
 心臓が高鳴る。 
 緊張に強ばるハミシュの顔を見て、カハルは言い添えた。 
「いまのアルバは、ダイラ人にとって安全な場所とは言えない。もし、君が王の密使とか、間諜とかだってんなら、ここらで別れた方がお互いのためだ──というようなことを、もっと遠回しに探るつもりだったんだ」カハルはグレタを睨んだ。 
「なるほど……」 
 ハミシュは納得して頷いた。 
 ハミシュが物心つく前から、旧アルバ領は叛乱勢力と〈アラニ〉の根城になっている。旧国境線近くではいつでも何かしらの小競り合いが起きていて、アルバとダイラが一進一退の攻防を繰り広げているのが常だった。 
「どちらかと言えば、エルカンはアルバの──北部叛乱軍レバルズの味方なんだ。だからさ」 
 密偵の手引きはできない、と言う代わりに、彼は肩をすくめた。 
 ハミシュは微笑んだ。 
「それなら、心配しないで。僕は誰の味方でもないから」 
 この言葉に、グレタはにっこりした。カハルはまだ、少し探るような目をしている。それもそうだ。誰の味方でもないなんて、かえって怪しい。 
「誰の、というか……」しどろもどろになりながら説明する。「どちらかと言えば、ナドカに縁があるというか……」 
 うっかり口を滑らせてしまう。だが、しかたない。馬車から放り出されるのは同じかも知れないが、黙っていて信頼を損なうよりはマシな気がした。 
「ほんとに!?」 
 グレタが大きな声を上げる。思わず身をすくめそうになったけれど、声色を聞くに、恐怖や嫌悪からそうしているわけではないようだった。ハミシュは恐る恐る、グレタの方を振り向いた。 
「うん。そうなんだ。僕は人間だけど──」 
 グレタは目を輝かせていた。「もっと早く言ってくれれば良かったのに!」 
「ええと……?」 
 困惑するハミシュに、カハルが助け船を出した。 
「レタはナドカに目がないんだ」 
 ハミシュは目を丸くした。「だって、エルカンなのに?」 
「エルカンの中にも、たまにはこういう変人がいるってことさ」 
 グレタは兄の言葉を無視した。 
「あたし、そんな気がしてたんだ。ハミシュはダイラのよそ者サセナクとは違うって」グレタは嬉しそうに言った。「もしかして、エイルのひと? ナドカの知り合いはいるの?」 
「それは──」 
「おっと」 
 質問に答えることはできなかった。秘密にしようと思ったからではない。商隊キャラバン列の先頭が急に速度を落としたので、ハミシュたちが乗った馬車も、あわててそれに倣ったのだ。 
「何だろ。こんなところでとまるなんて」グレタが呟く。 
「ちょっと様子を見てくる」カハルはそう言うと、ハミシュに手綱を預けて、馬車を降りた。 
 程なくして戻ってきたカハルの表情は暗かった。「何だったの?」と尋ねるグレタに、彼は返事もしない。だが、理由はすぐに明らかになった。道の向こうからぞろぞろと胡乱な男たちがやって来て、商隊の馬車の積み荷を、順繰りに検めはじめたのだ。 
「これは、何の取り調べ?」 
 カハルは小さな声で言った。 
「あいつらは、ハンズだ。勝手に関所をつくっちゃ、通行料をせしめてる」 
 ハンズ──〈燈火の手ラテルナ・マヌス〉についての話なら聞いたことがある。人命を守る自警団だという者もいれば、無法者の集団だと言う者もいる。その捉え方は、立場によって変わる。ナドカにとっては間違いなく敵だ。 
 男たちは、ハミシュたちの馬車にもやって来た。 
「積み荷は?」 
 馬車に近づいてきた男は、革の腹帯ベルトに鉄製のメイスを差していた。ずっしりとした棍棒の先端には、凶悪そうな棘が無数に生えている。その棘が僅かに欠けているのは、よく使い込まれているせいだろうか。ハミシュは思わず生唾を飲み込みそうになった。 
「積み荷はない。これは俺たちが寝起きするための馬車だ」 
 カハルが答えると、男は険悪な視線を投げてきた。「嘘を言っても無駄だぞ。中を検めるからな」 
「待て!」カハルは御者席から飛び降り、男の行く手を遮った。「妹がいる。病気がちで寝込んでるんだ」 
 男は鼻を鳴らした。「何も手ぇ出そうってわけじゃない。金の房飾りでもぶら下がってるなら話は別だが」 
 御者席からも、カハルの背中が怒りに強ばったのが見えた。 
「なにか、見られたくないものでも積んでるんじゃないだろうな」男の目が細まる。「北部叛乱軍レバルズに加担してるなら、人間だろうとそうじゃなかろうと、お前らは反逆者だ。この場で皆殺しだぞ」 
 空気が張り詰め、嫌な味に変わる。次に発せられる言葉によっては、この男の言葉が真実になってしまうかもしれない。 
 二人のために、何かしなきゃ。 
 迷った挙げ句、ハミシュは言った。 
粟粒熱ぞくりゅうねつかもしれない!」 
 カハルと男が同時にハミシュを見た。男は疑わしそうに目を細める。 
「なんだお前。エルカンじゃないな」 
「医者の見習いだ。これから、この商隊をホッグリムまで案内して、彼女を僕の師匠に診せに行く」 
「おい、本当か?」 
 男は、再びカハルに詰め寄った。凄みを利かせてはいるが、その顔には『面倒ごとはごめんだ』と書いてあった。 
「ああ」カハルは、妹の病状に心を痛める兄の仮面をかぶった。「昨日の夜から高熱が出て、飯もろくに食えなくなってる。何を食っても全部吐いちまうし、咳はひどいし……」 
「ホッグリムか……行き先はマイデンじゃないんだな?」 
「マイデン? 違うよ。戦争しに行くんじゃないんだ。あんなとこに用はない」 
 〈燈火の手ハンズ〉の男は鼻でフンと笑うと、手をこまねいたまましばらく考え込んだ。せめて、ひと目確認しておくくらいはしなければと思ったのだろう。男が幌の後部にある小窓から馬車の中を覗き込もうとした時、グレタが激しく咳き込んだ。まるで喉ごと吐き出そうとしているみたいな咳で、男はのけぞるように窓から離れた。 
「わかった。もういい。妹を馬車の外に出すなよ」 
 カハルは頷いた。「ああ、そうするよ」 
 男は首を振りながら、次の馬車へと向かっていった。 
 列が動き出したのは、それからしばらく経ってからだ。道沿いには何人もの男たちが並び、馬車の列に険悪な眼差しを向けていた。彼らの手の甲には燈火ランタンの刺青が施されていて、皆、それを見せつけるように手にした武器をちらつかせたりしていた。まるで、街道沿いで郎党を組む野犬の群れだ。 
 ようやく問題の関所を通り過ぎる段になると、ハミシュはひどく動揺した。 
 関所自体は、なんともお粗末な造りだ。道端の木を切り倒して組み合わせた、急ごしらえの衝立があるだけ。だが、その衝立には、ナドカのものと思われる生首がいくつも掲げてあった。変身の途中で殺されたのか、毛の生えそろっていない人狼の頭。鮮やかな青色の膚を苦悶に歪めたデーモンの顔も。ハミシュはできるだけ視線を下げ、哀れな犠牲者から目を逸らそうとした。だが、生首にたかる黒蠅の羽音は、耳鳴りのように意識に纏わり付いてきた。 
 恐れを──あるいは怒りを表に出しすぎたのではないかと、ハミシュは心配になった。仲間だと見抜かれたら?  
 いや。初めてあれを目にした者は、誰だって似たような反応を示しただろう。むしろ兵隊たちはそれを期待していたのか、ニヤニヤと笑みを浮かべてハミシュたちを見ていた。 
 関所を作るために切り倒された木の切り株に腰掛けて、幾人かの男たちが焚き火を囲んでいた。昼間から酒を飲み、上機嫌で歌っている。 
 
 『人狼ウルフハマは 血まみれにしてやれ 
  狼皮剥いで 外套マントに仕立てろ 
   
  魔法使いウィザード魔女ウィッチは尻を蹴飛ばせ 
  さんざ鞭打ちゃ言うことを聞く 
   
  魔術師メイジ泣かすにゃ 屋敷を燃やせ 
  書物ほんは 焚き火にうってつけ 
   
  鬼人デーモンどもは 変装上手 
  よくよく探せ 角、鉤爪つめ、尻尾 
   
  妖精シーは腰抜け おまけに気狂い 
  森に閉じ込め火を放て 
   
  吸血鬼コルプ・ギャラハは手強い相手 
  討ち取りゃ英雄 ただ酒三昧よ』 
 
 彼らの姿が見えなくなると、グレタは言った。「あいつら、大っ嫌い」 
「ああ」 
 カハルも言った。そして、衝撃から立ち直れていないハミシュの方を、元気づけるように叩いた。 
「大丈夫か?」 
「う、うん」 
 大丈夫ではなかったけれど、頷いた。「あんなにひどいものを見たのは初めてだ」 
「ああ。あいつらのやり方は……ここのところ、どんどん過激になってる」 
 その声には同情が籠もっていた。もしカハルがハミシュの素性に疑いを抱いていたとしても、いまは信じてくれているようだった。 
「ちょっと前、このすぐ近くの〈集会コヴン〉が奴らに襲われたらしい。銀の剣で足首を切られて、なぶり殺しにされてたそうだ」カハルは言った。「エルカンだってナドカを好いちゃいないけど、そんなことはしない。そんな非道ひどいことは」 
 重石のような沈黙のあと、グレタが言った。 
「あたしね、小さい頃、吸血鬼と人狼に助けてもらったことがあるの」 
「吸血鬼と、人狼? めずらしい組み合わせだね」ハミシュは言った。 
「そう?」グレタは首をかしげた。「でも、エイルの王様もそうだったんでしょう? あたしてっきり、吸血鬼と人狼は仲が良いのかと思ってた」 
「どうかな。普通は仲が悪いって言われるけど」ハミシュは考え込んだ。「名前は聞かなかった?」 
 グレタは首を振った。「きいた気がするんだけど、よく覚えてないの。あの時は、とにかく大変で……」 
 それからグレタは、吸血鬼と人狼と知り合いになった経緯や、その後に魔狼に襲われたことを話してくれた。脚にひどい怪我を負って死にかけたところを、吸血鬼の手当で一命を取り留めたのだ、と。 
「もう一度、お礼が言いたいの。あの時はほとんど気を失ってたから」グレタはため息をついた。 
「きっと、いつか言えるよ」 
 ハミシュの言葉に感謝するように、グレタは微笑んだ。「そうだといいな」 
北部叛乱軍レバルズも、〈燈火の手ハンズ〉の連中のことを追い出そうとしてる。けど……」カハルの言い方には、彼らを擁護するような響きがあった。「いたちごっこで、きりがないんだ。女王は見て見ぬ振りを決め込んでるし」 
 彼は、馬車を引く馬たちの様子に気を配るのと同じ真剣な眼差しで、ハミシュの方を向いた。 
「もう、君を巻き込んだようなものだから」彼は意を決するように、小さくため息をついた。「マイデンに着く前に、言っておく。マクラリーは、叛乱軍に武器を運んでるんだ」 
 ハミシュはハッとした。 
「じゃあ、さっきあの連中に嘘をついたのは──」 
 カハルは頷いた。「ああ。武器はこの馬車にも積んである。行き先がマイデンだと言えば、奴らはすぐ勘づいただろうから……こういうときには、偽の行き先を教えるように示し合わせてるんだ」 
「そうだったのか……」 
「母さんは迷ってるけどね」とグレタ。 
「ああ。叛乱軍レバルズのことは信頼してるけど、〈アラニ〉と手を組んだのは心配だな」カハルは言った。「母さんも、いまは前ほどナドカを嫌ってない。でも、あの〈アラニ〉って連中は……危険だよ」 
 話題が〈アラニ〉に及んで、ハミシュの背中に緊張の棘が刺さる。最初の養い親のマルヴィナは、〈アラニ〉を操っていた張本人だったのだ。 
「危険って、彼らがやったことのせい? また同じことをするかもしれないから?」 
 女王、〈クラン〉、そしてエイルの王を狙った一連の爆破事件は〈アラニ〉の仕業だ。 
「それもある」カハルは言った。「いいかい。叛乱軍の目的ははっきりしてるんだ。彼らは、ダイラによる北部への圧政をやめさせるために戦ってる。でも、〈アラニ〉は……」 
「〈アラニ〉が何を欲しがってるのか、よくわからない」グレタが言った。「ただ怒りたいだけなんじゃないかって、母さんマーたちは言ってる。あの爆発にしたって、やりたかったのは復讐なんでしょう? あの三人が、マルヴィナってひとの敵だったから」 
「ナドカの地位の向上ってのが、彼らの最初の目的だったはずだ」カハルが言った。「爆発事件以来、連中はどんどん手がつけられなくなってる。暴動を扇動したり、聖堂を壊したり……〈燈火の手ハンズ〉との抗争も大規模になっているしね」 
 かつて──マルヴィナが生きていた頃の〈アラニ〉は、エイルへの帰還を目標にしていた。けれど、シルリク王の戴冠によって蘇ったエイルは、〈アラニ〉の受け入れを拒否した。ヴェルギルが新しい国に彼らを迎え入れることに慎重だったのも無理はないと思う。それまで〈アラニ〉は、ダイラ国内の治安を揺るがすような企てをしては、教会や審問庁に追われていたのだから。 
 結果、彼らは行き場を失い──持て余した怒りを、文字通り爆発させた。 
 リコヴに身体を乗っ取られて放浪するような生活を送ってはいても──いや、だからこそ、国内の情勢が、日に日にきな臭くなっているのは感じていた。だがいままで、その渦中に身を置いたことはなかった。 
「まあ、叛乱軍レバルズは誰と組んだって大丈夫さ。なんと言っても、グレンヴァーの牡鹿が率いてるんだから」カハルは言った。 
「グレンヴァーの牡鹿?」 
「〈大いなる功業クレサ・モール〉って軍団の頭領だよ。本当の名前は、ダンカン・ミドゥン。この五年、彼が指揮を執った戦いはすべて勝利をおさめてる」 
 グレタがうんざりとした声を出した。「その辺で止めないと、マイデンまでずっと彼の話を聞くことになるよ」 
 カハルは妹を無視したものの、改まった顔で咳払いをした。 
「ハミシュ、君は単なる客人だ。だから、降りたくなったらいつでも降りてくれていい」カハルの目は真剣だった。「君を巻き込むつもりはなかった」 
「でも、秘密を話してくれたじゃないか。誰かに告げ口するかもしれないよ」 
「そうか?」カハルは笑った。「秘密を話したのは、それが道義にかなっていると思ったからだ。あの場で嘘が露呈したら、俺たちはみんな殺されていた。もちろん、君もね」 
 今さらながら、大それた事をしたのだと思い知って、少しだけ身震いする。 
「気付いていなかったかも知れないけど、君はさっき、命をかけて僕らを守ってくれたんだ。連中はエルカンを信用しない。でも……赤毛に緑目じゃない、君の言葉なら信じる」カハルはまた、ハミシュの方をチラリと見た。「ありがとう」 
「そんな……」 
 不意に、胸の奥が痺れたような感覚がした。嬉しい。そして、たぶん、少しばかり誇らしくもある。 
 そんな風にお礼を言われるのは、これが初めてのことなのだ。誰かの命を救った。役に立った。 
 リコヴではなく、この僕が! 
「どういたしまして」 
 ハミシュは、小さな声で言った。 
 そしてもう一度、胸の奥で喜びを噛みしめた。 
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