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エイル
王の居室は、南を向いている。
それは、沈む夕日と昇る朝日の両方を見るためだ。いま、暮れなずむ空の名残を僅かに残して、部屋の広縁から見える景色は紫紺の色に染まっていた。
クヴァルドは、遣い鷹によって届けられたフーヴァルからの報告書を、三度しっかりと読んでから、暖炉の火にくべた。
〈浪吼団〉は今度の航海で、アシュモールの南にある小国群を目指した。そこから、キディミア、バーラ、ナルバニアをめぐった。次に向かうマルディラを経て、カルタニアで新たな亡命希望者を募る予定だ。基本的には単独航海を行う〈浪吼団〉だが、亡命者を連れ帰る作戦では、引き連れていく船は多ければ多いほどいい。そのぶん発見される危険も増してしまうものの、今のところ、どの船も無事に帰還している。
止まり木で辛抱強く待っている遣い鷹に小さく切った肉を与える。十分に休んだらまた飛び立って、元の港へと帰って行くだろう。
満月を挟んだ七日ほどは、クヴァルドが王として為すべき仕事はない。五年前の戴冠に際して、そのような仕組みを作ったのだ。緊急性の低い嘆願や陳情はロドリックのもとで差し止められ、火急の用でなければ、ここまではあがってこない。
つまり、今夜から七日間は仕事に没頭できないということだ。
ロドリックが用意した報告書を確認し、承認が必要な書類に署名をする。
それ以上他にすべき仕事がなくなると、今日までに寄せられた嘆願書や、他国からの手紙を読む。どちらも議会や担当の臣下が吟味するまでは、王みずから目を通す必要のないものだったが、クヴァルドはそうした文書も隈なく読んだ。
夜の闇が迫り、クヴァルドをとりまく世界を、徐々に小さく狭めてゆく。
文字を目で追いながら、暖炉で温めていた薬缶の中身を杯に注ぐ。夜眠るため、典医に調合してもらった薬湯だ。常飲すれば人狼の身体に悪影響を与えるものが入っているが、眠りにつく前にこれを飲まなければ一睡もできないのだ。
とは言え、今夜はそれも期待できないかもしれない。
ただでさえ忌々しい夜の時間。空白を持て余す他に、為す術もない。
さらに忌々しいことに、もうすぐ満月がやってくる。
最後の文書を読み切ってしまうと、クヴァルドは深いため息をつきつつ寝台に腰を下ろした。満月を間近に控えた肉体は、かつて享受していたものを希求し続ける。それが失われ、二度と手に入ることはないと──まだ納得がいっていないのだ。
寝台の片側には、ヴェルギルが好んで着ていた長衣が拡げてある。すでに彼の匂いもほとんど消えてしまったその服を傍らにおいて眠り……この飢餓感をなんとかやり過ごすしかない。
クヴァルドはもう一度ため息をついて、寝台に横になった。
まるで、日が沈まぬ荒野を、たった一人でさまよい歩いているような気分だった。ゆくあてもなく、戻るべき家もなく、身体を休める木陰もない荒寥たる景色の中を、ただひたすらに歩いている。身体は重く、心は虚ろなままで。
俺は抜け殻になってしまった。王冠を戴き、王の振りをして、動いて喋る抜け殻だ。
「狼が伴侶をなくすのがどういうことか、わたしにはわかる」
葬儀の日に、ヒルダはそう言った。
葬儀は、新生エイルに初めて建立された月神の神殿で行われた。葬るべき遺体もないので、ただ巨大なかがり火だけが焚かれた。誰もが虚ろな表情をしていたという。クヴァルドは見ていない。その場にはいなかったから。
ダイラや大陸では、王は葬儀に列席しない。『死』を連想させる場に顔を出すべきではないというのが、その理由だ。エイルで同じ事をする必要はなかったけれど、クヴァルドは、慣習を理由に葬儀への出席を控えた。彼を葬る行為に加担することが、どうしてもできなかったのだ。
ほとんどもぬけの殻となった城で、クヴァルドはひとり、王座の間にいた。王座が据えられた壇上へ続く階段の途中に腰掛けて項垂れていた。
ヒルダは、そこにやって来たのだった。
「陛下」と、彼女は言った。
顔を上げたクヴァルドに、ヒルダは最も深い辞儀をした。
「やめてください、ヒルダ様」惨めに掠れた声で、クヴァルドは言った。「俺は……そんなものにはなれない」
「しかし、次の王はあなたであらせられる」
ヒルダはきっぱりと言った。それが純然たる事実であると、目の前に突きつけるように。
彼女は正しい。あの日以来ずっと迫り来る責任から目をそらし、逃げ続けてきたが、そろそろ潮時だと自分でもわかっていた。
〈クラン〉の首領と、一国の王になる男。かつての身分は逆転してしまった。それでも、いまはそのことを思い知らされたくなかった。
「どうか、今だけでもこれまで通りに話をしてください。お願いです」
彼女は夫を失い、視力を失い、故郷を失い、〈クラン〉は散り散りになった。それでも、ヒルダ・フィンガルは今までと変わらず、群れの長だ。クヴァルドにとっての寄る辺だった。
ヒルダは、そっと頷いた。
「狼が伴侶をなくすのがどういうことか、わたしにはわかる」彼女はクヴァルドの隣に腰を下ろした。「気休めは言わないよ。それは決して癒えはしない」
クヴァルドは、吸い込んだ息が胸を詰まらせる前に、ため息として吐き出した。
「そう……でしょうね」
「だが、じきに慰めになる。痛みを、ちゃんと覚えているということが」
クヴァルドはヒルダを見た。
「いまは、とてもそんな風には……」弱々しく呟き、俯く。
「少しは泣いたか?」
そう尋ねながら、彼女はすでに答えを知っているようだった。クヴァルドは首を横に振った。「いいえ」
「できるなら、少しは泣いた方がいい。悲しみを溜め込んでも役にはたたない」
それはわかっている。だが……
「それを己に許したら、二度と立ち上がれないような気がするのです」
ああ、とヒルダは言った。身に覚えがあるのだろう。彼女は、遠くを見つめるように顔を上げたまま、小さく微笑んでいた。
「彼が成せたかもしれないこと──成すべきだったことを考えると、自分のふがいなさに腸が煮えくり返る。そうだろう」
クヴァルドは俯いた。「ええ」
ヒルダは、遠くを見渡す目を、王座の間のさらに向こうへと向けた。
「何故、愛する者を守れなかったのだろう」ヒルダは、とても穏やかな声で言った。「何故、彼はわたしを置いて逝ってしまったのだろう。わたしは帰り来る場所として不足だったのかと悩むことさえあったよ。無様でも、醜くとも、生き残るために足掻いて、わたしの元へ帰ってきてくれたなら……どんなに良かったか」
「そうですね」瞬きをすると、目の奥が熱くなった。「俺も、そう思います」
「けれど……このごろわたしは考えるのだ、フィラン」
クヴァルドは顔を上げた。
「わたしは彼を守りたかった。だが同時に、彼もまたわたしを守りたかったのだと。そしておそらく、彼が守ろうとする力は、わたしのものよりほんの少しだけ強かったのだ。ほんの少しだけな。それは哀しいことではないのだ」彼女は、『氷のようだ』と評される顔貌に、小さな笑みを浮かべた。「残ったわたしがすべきことは……彼以上に、仲間たちを守り、率いていくことだ。夫婦になるとき、我らは互いに、そう誓い合った」
ヒルダは立ち上がり、クヴァルドの肩を叩いて、軽く揺さぶった。彼女の手は小さくほっそりとしていたけれど、見かけ以上の力が宿っていた。
「お前は彼に──この国に、何を誓った?」
クヴァルドは、言葉もなくヒルダを見上げた。彼女は言った。
「それを忘れるな」
忘れてはいない。一時たりとも。
だが、約束を果たしたからといって、胸の空虚が埋まるわけではなかった。ヒルダの言葉は何もかも正しい。痛みが癒えることは、決してない。
眠りは訪れない。やはり、効果てきめんの薬湯も満月には勝てない。
諦めて、寝台から起き上がる。残飯を漁る獣のように机の上を引っかき回して、クヴァルドは、大学の賢者たちがしたためた論文を見つけた。
〈ハルコン学会〉の賢者、ナターナエル・ケプケが記したものだ。たしか、これはまだ読んでいなかった。
〈ハルコン学会〉といえば、エイルの様々な場所で遺跡の発掘を行っている学会だ。太古の痕跡や碑文から当時の様子を推測するのを得意としている。
論文に寄れば、エイルの北方にあるイスラスという地で、草に埋もれた城趾が発見されたという。魔術師たちが、近く発掘調査を実施する予定だと書かれていた。
「エイルの北方、イスラス……」
北方にある城と言えば、ひとつしかない。ヴェルギルが人間だった頃の王城だ。
彼の痕跡が、新たに見出された?
それならば──この目で見てみたい。
クヴァルドは窓の外に目をやった。
今夜から、実に七日もの空白がある。いつも通り、無為に持て余すつもりでいた七日間に、成すべき事ができたのではないだろうか?
月は満ちかけているが、狼の姿で夜通し駆ければ、満月までにたどり着ける。あちらで一晩休んで、また戻ってくる余裕は十分にある。
クヴァルドは立ち上がり、旅支度をはじめた。人を呼べばほんの一刻で準備が調うものの、昔から、遠出をするときの準備を人に任せるのは苦手だった。
狼の姿でも持ち運びやすいよう改良された鞄は、腰に巻く鞍袋のような形をしている。あまり多くは入れられないが、十分だ。防具も武器も、食料さえ必要ない。戦う時には半狼になればいいし、食料など、道中で兎でも狩れば事足りる。
とても久しぶりに、クヴァルドは己の欠乏を意識の外に置くことができた。遅かれ早かれ悲しみに追いつかれてしまうとしても、今だけは、期待のようなものを抱いていられた。
全ての支度が済むと、クヴァルドは簡単な置き手紙をしたためてから、狼に姿を変えた。
問題は、ここをどう出ていくかだ。満月が近づくこんな夜に単独で出かけようとすれば、きっと供の者をつけられてしまうだろう。何も言わずに出て行くのも難しい。若駒よりは小さいが小馬よりは大きな銅色の狼が歩き回るのを、見過ごしてもらうのはまず無理だ。
結局、クヴァルドは城の中を移動する手間を省いて、広縁から近くの屋根へ降り立った。そして、高所から高所へと飛び移りながら、見張りの目をかいくぐって、城壁の外へ抜け出した。
走るほどに、眠りを促すための薬湯が意識にかぶせていた薄い靄が剥がれてゆく。
城の外に足を伸ばすのは久しぶりだった。静まりかえった街を抜け、街道を進み、更に遠くへと駆ける。
あれは、彼と二人で尋ねた村。お忍びで訪れた王の姿に、みな驚いて目を白黒させていた。それからあれは、雨を避けようと逃げ込んだ大木。あの森を奥へとはいれば、ふたりして爪先を浸した小川がある。ひっそりと愛を交わした岩棚も。
街の明かりを後にして、村々に瞬く灯火を後にして、森のざわめきを後にして、風さえも置き去りにして、クヴァルドはひたすら駆けた。それでも、至る所に刻まれた思い出を振り切ることだけは、どうしてもできなかった。
自分でも、何を期待していたのかわからない。
想像も届かないほど遠い過去に、彼がここに居たという痕跡を、何か──どんなにちっぽけなものでもいいから、見つけられるはずだと思っていたのかもしれない。あるいは、月明かりが見せる幻を。とにかく、彼を少しでも感じられるのなら、何でも良かった。
けれど、三日に亘って走り抜き、たどり着いた先には何もなかった。
断崖と、草いきれと、石ころ。それだけだ。
黄昏の光の中で狼の皮を脱ぎ、人の姿を取り戻す。放蕩者を演じていた頃のヴェルギルが重宝していたのと同じ、〈ノーラント集会〉に作らせた魔法仕掛けの服が即座に裸身を覆い始める。だが、実際は服を着る必要さえなかった。ここには誰もいない。
エイルに足を踏み入れた少し後に、ヴェルギルと二人で、この近くを訪れたことがある。いまクヴァルドに見出せたのは、その時感じたのと同じ『全ては失われたのだ』という感慨だけだった。
遺跡の周りには、〈ハルコン学会〉の魔術師たちが立てたとおぼしき、粗朶を組んだ低い柵が張り巡らされていた。そこから中を覗いても、草生す地面に散在する石くれが見えるばかりだ。王侯の塚さえ崩れ果てたこの地から、彼らはいったいどうやって城趾を探り当てたのだろう。
どうでもいい。ここには、何もないのだから。
そうしているうちに満月が高く昇り、身体の中からじわじわと熱が這い上がってきた。以前は──彼と出会う前であったなら、手近な相手や道具を見つけ出して、自分を慰めることもできた、だがいま、慰めは意味を持たない。クヴァルドに残された手立てと言えば、じっと座して時が過ぎゆくのを待つか、肺が焼け焦げるまで山野を走り回ることぐらいだ。
だから、クヴァルドは走った。
海に向かって豁然とひらかれた断崖絶壁の平野を、狼となってひたすらに走った。岩がちな大地やささくれだった石の先で肉球が裂けても、爪が割れても止まらなかった。体力の限界が訪れるまで走って、走って、時折、思いの丈を空に放つように遠吠えをした。
獣の本能が、自分を取り巻く全ての命を察知した。兎の駆けた跡、それを追った狐の痕跡。木のうろに潜む栗鼠、木陰からこちらを見ている梟。海鳥は岸壁の巣に蹲り、小さな卵を温めている。野花は夜露に濡れた蕾の中で花弁を織り、木々は根で土を掘り進む。
息が詰まるほどの、生命のにおい。
この島は、この地はこんなに生命に溢れているのに、俺には何もない。
自分自身が故郷に選んだこの国の、全ての生命を預かる身でありながら、俺には何もない。
俺には何もない。たった独りで、空っぽだ。
クヴァルドは、遺跡からほど近い場所にある浜に向かった。そこで人間の姿に戻り、冷たい波に裸身を浸した。浜は、波に洗われて丸くなった小石で埋め尽くされていた。ゴツゴツとした波打ち際に寝そべっても、すこしも寛ぐことはできない。だが、それでよかった。
打ち寄せる波が火照った身体を冷やしてゆくほどに、また、なんとも言えない空しさが膨らんでくる。
「あと何年、これを続ければいい……?」
あと何年これを続ければ、俺の心は死んでくれるのだろうか。
この苦しみを抱え続けるくらいなら、いっそ、何も感じなくなってしまえた方がいい。
その時、背後で物音がした。
クヴァルドはすぐさま身体をおこし、身を捩りながら半狼へと姿を変えた。波を蹴り、石礫を蹴って、宙へ飛び出す。
こんなに近づかれるまで、なぜ気づけなかったのだろうかと考えた傍から、思い出した。眠るために飲んでいた茶には、確かに、感覚を鈍らせる効能があった。
飛びかかった勢いのまま、相手を地面に押さえつけて馬乗りになる。歯をむき出して唸ると、彼は恭順を示す「キャン」という声を上げ、耳を倒して、無防備な腹を晒した。
襲撃者──と思っていた者は、狼だった。正しくは、狼に姿を変えた人狼だ。
一体誰だと考えるまでもなかった。この匂いを、毎日のように嗅いでいるのだから。
「ルーマン?」クヴァルドは言った。
体勢を整えられるように後退ると、彼は素早く身を起こし、人間の姿になった。
砂色の髪に、薄青の目。若造と侮られないように生やしているようにしか見えない口ひげにも、覚えがある。やはり、そうだ。
かつてエリマス城の門衛をしていて、いまは近衛隊の一員となった、人狼のルーマンだった。
「お邪魔をしてしまい、申し訳ございません。陛下」
「こんなところで何をしている?」
尋ねると、彼は目を泳がせたが、逃げる素振りは見せなかった。城の門を潜る度に『閣下』と呼ぶのをやめてくれと再三頼み込んだときにも、彼はそんな顔をしたものだった。一見気弱そうに見えて、頑固な男なのだ。
「リオーダン卿に命じられて参りました。万一のためです」
ロドリックめ。
「余計なことを!」
秘密の外出がばれていたのかと思うと、ばつが悪くて語気が強まってしまう。ルーマンはおずおずと言った。
「どうか、リオーダン卿をお叱りにならないでください」
クヴァルドは目を眇めてルーマンを見た。「何故だ?」
さては、彼がロドリックに告げ口をしたののか?
「その……今夜は満月ですので」
ルーマンの身体から、間違えようのない匂いが滲む。クヴァルドは、殴られたように身を強ばらせた。
「リオーダン卿は、わたしの想いをご存じで……それで、あなたの元へ行くようにとお命じになったのです。もしかしたら、お役に立てるのではないかと」ルーマンは目を閉じ、思い切ったように言った。「あなたをお慰めできるなら、わたしは──」
クヴァルドは、思わず顔を背けた。
ルーマンは、静かに言った。
「ずっと、見ておりました」
手の甲に、遠慮がちに、指先が触れる。
「お辛い気持ちを軽くして差し上げようですとか、そんな大それた願いはございません。ただ──」
指先が、触れた場所が熱い。満月の光が血を沸き立たせ、こめかみが疼くほど、全身が脈打っている。彼の顔を見ることができない。もし見てしまったら……一層、難しくなる。
ああ、そうだ。
彼との絆も、そんな提案から始まったのだ。
無数の思い出が胸に刺さり、クヴァルドの心は血を流した。もはや誰の餓えを満たすこともない血が、無為に溢れて、冷えてゆく。
「ただほんの一時、全てを忘れるためのお手伝いがしたいのです」
クヴァルドは目をきつく閉じ、ルーマンの手を握った。
そして、その手をゆっくりと、彼の方へ押し戻した。
「すまない」クヴァルドは、絞り出すように言った。「すまない」
敏感になった耳に響いてくる彼の鼓動が、ほんの一瞬高まり、また萎んでゆく。羞恥と屈辱の匂いが、つよく香った。だが、それもまたすぐに、海風に攫われて消えた。
「どうか、あやまらないでください」彼は言った。「差し出がましい真似を──」
「お前たちは、何も悪くない」首を振って、痛々しい言葉を遮る。「お前やロドリックにそこまで思い詰めさせてしまったこと……本当に申し訳なく思っている」
クヴァルドは、掠れた声で言った。それから居住まいを正して、ルーマンに向き合った。
「皆に心配をかけるのは、これで最後にする」
ルーマンは驚きに目を見開いたものの、慌てふためいてクヴァルドの言葉を退けるようなこともしなかった。彼は小さく微笑み、こう言った。
「それは……難しいかと存じます。御身を案ずる者にとっては」彼は立ち上がると、礼儀正しい辞儀をした。「ですが、陛下がそう仰るのでしたら。わたしはこれより帰参して、お帰りをお待ち申し上げます」
クヴァルドはゆっくりと頷いた。
「そうしてもらえると、ありがたい」そして、黒々とした海原と、どこまでも続く銀の波を見つめた。「もう少しだけ、ここで考え事がしたいのだ」
「かしこまりました」
ルーマンは辞儀をして、灰色の狼に姿を変えた。そして森に向かって駆けていくと、最後にクヴァルドをふり返ってから、暗がりの中に消えた。
クヴァルドはもう一度、遺跡に戻った。
今度は柵を乗り越え、ここを去る前にと、城趾へと立ち入った。
草と石しかないと思っていた。だがよくよく見れば、草原のなかにかつての石組みのようなものが見える。だとすれば、内陸に向かって突き出したこの場所は、城の入り口だろうか。
半分は捨て鉢になって、もう半分は純粋な好奇心から、クヴァルドは遺跡の痕跡を慎重に辿ってみた。
仔犬の好奇心にまつわるヴェルギルの冗談を思いだして、また少し、胸が痛んだ。
千年も前のものだから無理もないが、城はこぢんまりとしていた。今で言う砦ほどの規模だ。入り口を抜けるとすぐに、丸く平らな石が左右の等間隔に並んだ場所に出た。大きさから見て、この平石は柱の台座だろう。さらに奥へと進むと、他より少し高くなっている、石組みの壇があった。
その空間と対峙して、思わず、皮膚の下に隠したままの毛皮が逆立ちそうになる。
この造り。エリマスの城と同じだ。
もちろん、エリマスの城の方が何倍も広いけれど、構造はほとんど同じだった。
ということは、いま目の前にあるのは、王座があった場所なのだ。かつてはここに立派な柱が並び、王座の背後には壮麗な綴れ織りが広げられていたのだろう。だが千年を経たいま、失われた王座を飾るものは、見える限りを埋め尽くす夜の蒼黒ばかりだった。
気付くと、クヴァルドは膝を折っていた。そして黙然と座り込むと、遙か彼方で瞬く星々を、じっと見つめた。
どのくらいの間、そうして座っていただろう。朝が訪れ、空は次第にほの白く光り始めた。
すると、夜の間は見ることができなかった景色が、改めて目の前に迫ってきた。
荒々しくも美しい国土。
それは、朝霧の中でうっすらと青く、未だ眠っているように見えた。
なだらかな丘に優しく生い茂る緑は、じきに訪れる曙光に朝露を輝かせる時を待っている。
緑野を蜿々と流れてゆく川の面は、白み始めた空の色を映し、鏡でできた帯のように輝いていた。
通い路もない崖の麓に屹立している巨大な石柱は、『諾う巨人』と呼ばれている。海に傾いで立つその姿は、乳白色に渦を捲く緑海に頭を垂れているかのようだ。
この地は、悠久の時によって錬られた大地を、雨と風とが削り出したことでいまの形になった。そして未だ、次の数千年をかけて形を変えてゆく途上にある。
それから……朝の海と空の色。これをなんと喩えれば良いのか。
真昼の光の下では存在を許されない、あまりに儚い色彩が、溶けあい、混ざり合って、明け初めたばかりの風景を優しく彩っていた。白薔薇の白と羊雲の白とを隔て、射干玉の黒と宵闇の黒とを隔てる色というものが世に存在するとして、それはいま、この海と空との間から生まれ出でているのだ。
やわらかく淡く輝く雲と、産着のような海霧に包まれた海。微睡む息のように穏やかな海鳴りが、風に乗ってどこまでも吹き渡っていった。
美しい国だろう、と彼は言った。
その通りだと、何度も頷いてきた。だが今以上に、それをひしひしと感じた瞬間があっただろうか。風が撫で、雨が滴り形作ったこの森羅万象を、心から愛おしいと思ったのは初めてかも知れない。
ここでは、声を限りに遠吠えしても、誰の記憶にも留まることなく消えてしまう。怒りや哀しみを刻み込む碑があるわけでもない。すべては、瞬く間に流れ去るちっぽけな揺らぎでしかない。厳しく、無情で、そして……それこそが、この世のあるべき姿なのだ。
だからといって、どうすればいいのかわからない。
「辛いんだ。シルリク」
つらい。
この身をかきむしり、心臓を引きちぎって、海に投げ捨ててしまいたいほどに。
「お前が……」無窮に広がる世界のただ中で、クヴァルドは囁いた。
お前が、恋しい。
お前の声が、温度が、存在の全てが恋しい。二度と触れられないなんて、そんなことがあって良いはずがない。
そして、クヴァルドは泣いた。
ヴェルギルを失ってから初めて、涙を流して泣いた。それは喉から迸る慟哭ではなく、啾啾たる憂い泣きでもなかった。ただ肩をふるわせ、子供のように噎び泣いた。どうしようもなく涙が零れた。熱い雫が、冷え切った頬から首筋にまで伝い落ちる。押しとどめようともせず、手の甲で拭いさえしなかった。雨のような涙に濡れた頬を、風が静かに撫でていった。
いっそ、すべてを忘れてしまえたら。
あの日、お前のにおいを追って、ゴドフリーの狩猟小屋に足を踏み入れなければ。お前の冗談に耳を傾け、お前の軽口に揺さぶられ、お前の苦悩を感じ……お前を愛さなかったなら、こんな苦しみは知らずに済んだ。それでも……。
それでも、後悔することだけは、どうしてもできない。
お前のことを、俺は死ぬまで胸に抱いて生きる。
そうするしかない。どれほど辛くとも。
そうするしか、ないのだ。
いつしか涙は止まり、あとには凪いだ悲しみだけが残った。
クヴァルドは、ずいぶん長いこと、そうして海を見つめていた。やがて日が高く昇ると、ようやく立ち上がり、城に戻る決心をした。
その時──何かが目に留まった。
城の遺跡の中に、何か、光るものがある。陽の光を浴びて、それは鈍く輝いていた。
さっきは気づきもしなかったことを不思議に思いながらも、クヴァルドはゆっくりと、輝きの源へと近づいた。まるで、黄金でできた球根の芽のようだ。半ば土に埋もれていたものを注意深く掘り出して、土を払ってみる。
「これは……」
見事な細工が施された腕輪だった。模様を見るに、とても古いもののように思える。それなのに、宝物庫からたったいま取り出されたみたいに、少しの瑕疵も見当たらない。
表面の意匠を眺めてみる。幅広の表面は、古代のエイル人が良く好んだ三叉の渦巻き模様で彩られていた。指先に不自然な凹凸を感じたので、何かと思ってひっくり返してみると、裏側にミミズがのたくったような古代文字が刻まれていた。クヴァルドにはエイルの古代文字を読むことはできないが、子供の字だと察しがついた。持ち主の名前か、それとも──。
クヴァルドは我知らず、小さな笑みを浮かべた。
この宝物は、〈ハルコン学会〉の魔術師たちの手に委ねた方がいいだろう。
そして、腕輪をもとあった場所に戻そうとした。
だが、躊躇った。
何故か、手放すのが惜しい。
墓場泥棒のような真似はするなと、理性が心にすがりついて叫ぶ。しかし──この荒涼とした場所に腕輪を置いて立ち去るほうが、窃盗よりももっと責めを負うべきことのような気がした。
少しの間迷った挙げ句、クヴァルドは、その腕輪を小物入れにおさめた。自分で身につけるには細すぎて、手の先が入らない。それでも、自分のものにしたかった。
なんとも不思議だ。
世間のものたちからならず者と言われるエルカンとして生活していた時でさえ、盗みを働いたことなどなかったのに。いま、この腕輪を懐に入れて、罪悪感を抱くどころか……全てが正しい場所におさまったかのような安心感さえ覚えている。もしかしたら、俺はこの腕輪に呼ばれてここまで来たのではないかとさえ思った。
そんなものは自分の行いを正当化するための方便だとわかってはいたが、衝動に抗うより、方便を信じる方がずっと容易かった。
「許せ、シルリク」
最後にそう呟いて、クヴァルドは帰途についた。
三日後、クヴァルドは城に帰ると、七日間の最後の夜をひたすら眠りに費やした。眠るための薬は、もう必要なかった。
そして、短い夢を見た。
いつもは彼の長衣を広げてある寝台の傍らに、本物のヴェルギルが横たわっていた。彼は微笑を浮かべていた。彼の仔犬を見つめるときの、あの笑顔を。
「ああ……」
また、涙があふれた。夢の中だというのに、クヴァルドは、眼を溺れさせる涙の熱まで克明に感じることができた。
手を伸ばして、彼の手を取る。冷たいのに、不思議と心が安らぐ彼の手が、それに応えて握り返してくる。
「いつか……俺はお前に、もう休めと言ってやりたかった」クヴァルドは言った。「エイルは大丈夫だ。だから、もう休んでいいんだと」
それを告げるのは──別れは、もっとずっと先のことだと思っていたのだ。時間はたくさんあるはずだ、と。
言うべき言葉は嗚咽に飲まれてしまったけれど、彼にはちゃんと届いていた。
「ああ、わかっている」彼は、この上なく優しい声で言った。「君には、あまりに多くを背負わせてしまった」
頭を振って、ヴェルギルの手を引き寄せ、縋るように額を押しつけた。
何だって背負うから、俺の元に返ってきてくれと言いたかった。だが夢の中でさえ、そんな言葉を口に出すべきではないとわかっていた。
言えば必ず、否定しなければならなくなるから。
「我々には、まだやるべきことがある」
その言葉に、顔を上げた。
「我々……?」震える声で、そっと尋ねる。
彼はにっこりと微笑み、クヴァルドの手に、もう一つの手を重ねた。
「そう、我々だ」ヴェルギルは力強く言った。「だからフィラン、迷わず、振り返ることなく進むがいい」
振り返ることなく、進め。
あまりにも真に迫った夢の終わりは、唐突だった。
気づけば、部屋には朝日が差し込んでいた。無防備に開け放たれた窓から、エイルには珍しい晴天が覗いていた。
その日、クヴァルドは侍従に命じて、前王の死後ずっと手つかずになっていた、彼の持ち物を城の倉庫にしまわせた。
その夜クヴァルドは、ヴェルギルの長衣を手にしたまま、暖炉の炎を見つめていた。鼻を近づけなくてもわかる。そこにはまだ、彼の匂いが残っている。ほんの僅かだが、縋り付くにはそれで十分だった。
この国に満ちる幸せを、彼と一緒に見たかった。次の王となる後継を二人で育て、安堵のうちに眠りにつくような──そんな最後を迎えさせてやりたかった。
「わかったよ、シルリク」燃えさかる炎を見つめたまま、クヴァルドは言った。「もう、振り返るのはやめだ」
そして、手にしていた長衣を炎の中に焼べた。
エイル
王の居室は、南を向いている。
それは、沈む夕日と昇る朝日の両方を見るためだ。いま、暮れなずむ空の名残を僅かに残して、部屋の広縁から見える景色は紫紺の色に染まっていた。
クヴァルドは、遣い鷹によって届けられたフーヴァルからの報告書を、三度しっかりと読んでから、暖炉の火にくべた。
〈浪吼団〉は今度の航海で、アシュモールの南にある小国群を目指した。そこから、キディミア、バーラ、ナルバニアをめぐった。次に向かうマルディラを経て、カルタニアで新たな亡命希望者を募る予定だ。基本的には単独航海を行う〈浪吼団〉だが、亡命者を連れ帰る作戦では、引き連れていく船は多ければ多いほどいい。そのぶん発見される危険も増してしまうものの、今のところ、どの船も無事に帰還している。
止まり木で辛抱強く待っている遣い鷹に小さく切った肉を与える。十分に休んだらまた飛び立って、元の港へと帰って行くだろう。
満月を挟んだ七日ほどは、クヴァルドが王として為すべき仕事はない。五年前の戴冠に際して、そのような仕組みを作ったのだ。緊急性の低い嘆願や陳情はロドリックのもとで差し止められ、火急の用でなければ、ここまではあがってこない。
つまり、今夜から七日間は仕事に没頭できないということだ。
ロドリックが用意した報告書を確認し、承認が必要な書類に署名をする。
それ以上他にすべき仕事がなくなると、今日までに寄せられた嘆願書や、他国からの手紙を読む。どちらも議会や担当の臣下が吟味するまでは、王みずから目を通す必要のないものだったが、クヴァルドはそうした文書も隈なく読んだ。
夜の闇が迫り、クヴァルドをとりまく世界を、徐々に小さく狭めてゆく。
文字を目で追いながら、暖炉で温めていた薬缶の中身を杯に注ぐ。夜眠るため、典医に調合してもらった薬湯だ。常飲すれば人狼の身体に悪影響を与えるものが入っているが、眠りにつく前にこれを飲まなければ一睡もできないのだ。
とは言え、今夜はそれも期待できないかもしれない。
ただでさえ忌々しい夜の時間。空白を持て余す他に、為す術もない。
さらに忌々しいことに、もうすぐ満月がやってくる。
最後の文書を読み切ってしまうと、クヴァルドは深いため息をつきつつ寝台に腰を下ろした。満月を間近に控えた肉体は、かつて享受していたものを希求し続ける。それが失われ、二度と手に入ることはないと──まだ納得がいっていないのだ。
寝台の片側には、ヴェルギルが好んで着ていた長衣が拡げてある。すでに彼の匂いもほとんど消えてしまったその服を傍らにおいて眠り……この飢餓感をなんとかやり過ごすしかない。
クヴァルドはもう一度ため息をついて、寝台に横になった。
まるで、日が沈まぬ荒野を、たった一人でさまよい歩いているような気分だった。ゆくあてもなく、戻るべき家もなく、身体を休める木陰もない荒寥たる景色の中を、ただひたすらに歩いている。身体は重く、心は虚ろなままで。
俺は抜け殻になってしまった。王冠を戴き、王の振りをして、動いて喋る抜け殻だ。
「狼が伴侶をなくすのがどういうことか、わたしにはわかる」
葬儀の日に、ヒルダはそう言った。
葬儀は、新生エイルに初めて建立された月神の神殿で行われた。葬るべき遺体もないので、ただ巨大なかがり火だけが焚かれた。誰もが虚ろな表情をしていたという。クヴァルドは見ていない。その場にはいなかったから。
ダイラや大陸では、王は葬儀に列席しない。『死』を連想させる場に顔を出すべきではないというのが、その理由だ。エイルで同じ事をする必要はなかったけれど、クヴァルドは、慣習を理由に葬儀への出席を控えた。彼を葬る行為に加担することが、どうしてもできなかったのだ。
ほとんどもぬけの殻となった城で、クヴァルドはひとり、王座の間にいた。王座が据えられた壇上へ続く階段の途中に腰掛けて項垂れていた。
ヒルダは、そこにやって来たのだった。
「陛下」と、彼女は言った。
顔を上げたクヴァルドに、ヒルダは最も深い辞儀をした。
「やめてください、ヒルダ様」惨めに掠れた声で、クヴァルドは言った。「俺は……そんなものにはなれない」
「しかし、次の王はあなたであらせられる」
ヒルダはきっぱりと言った。それが純然たる事実であると、目の前に突きつけるように。
彼女は正しい。あの日以来ずっと迫り来る責任から目をそらし、逃げ続けてきたが、そろそろ潮時だと自分でもわかっていた。
〈クラン〉の首領と、一国の王になる男。かつての身分は逆転してしまった。それでも、いまはそのことを思い知らされたくなかった。
「どうか、今だけでもこれまで通りに話をしてください。お願いです」
彼女は夫を失い、視力を失い、故郷を失い、〈クラン〉は散り散りになった。それでも、ヒルダ・フィンガルは今までと変わらず、群れの長だ。クヴァルドにとっての寄る辺だった。
ヒルダは、そっと頷いた。
「狼が伴侶をなくすのがどういうことか、わたしにはわかる」彼女はクヴァルドの隣に腰を下ろした。「気休めは言わないよ。それは決して癒えはしない」
クヴァルドは、吸い込んだ息が胸を詰まらせる前に、ため息として吐き出した。
「そう……でしょうね」
「だが、じきに慰めになる。痛みを、ちゃんと覚えているということが」
クヴァルドはヒルダを見た。
「いまは、とてもそんな風には……」弱々しく呟き、俯く。
「少しは泣いたか?」
そう尋ねながら、彼女はすでに答えを知っているようだった。クヴァルドは首を横に振った。「いいえ」
「できるなら、少しは泣いた方がいい。悲しみを溜め込んでも役にはたたない」
それはわかっている。だが……
「それを己に許したら、二度と立ち上がれないような気がするのです」
ああ、とヒルダは言った。身に覚えがあるのだろう。彼女は、遠くを見つめるように顔を上げたまま、小さく微笑んでいた。
「彼が成せたかもしれないこと──成すべきだったことを考えると、自分のふがいなさに腸が煮えくり返る。そうだろう」
クヴァルドは俯いた。「ええ」
ヒルダは、遠くを見渡す目を、王座の間のさらに向こうへと向けた。
「何故、愛する者を守れなかったのだろう」ヒルダは、とても穏やかな声で言った。「何故、彼はわたしを置いて逝ってしまったのだろう。わたしは帰り来る場所として不足だったのかと悩むことさえあったよ。無様でも、醜くとも、生き残るために足掻いて、わたしの元へ帰ってきてくれたなら……どんなに良かったか」
「そうですね」瞬きをすると、目の奥が熱くなった。「俺も、そう思います」
「けれど……このごろわたしは考えるのだ、フィラン」
クヴァルドは顔を上げた。
「わたしは彼を守りたかった。だが同時に、彼もまたわたしを守りたかったのだと。そしておそらく、彼が守ろうとする力は、わたしのものよりほんの少しだけ強かったのだ。ほんの少しだけな。それは哀しいことではないのだ」彼女は、『氷のようだ』と評される顔貌に、小さな笑みを浮かべた。「残ったわたしがすべきことは……彼以上に、仲間たちを守り、率いていくことだ。夫婦になるとき、我らは互いに、そう誓い合った」
ヒルダは立ち上がり、クヴァルドの肩を叩いて、軽く揺さぶった。彼女の手は小さくほっそりとしていたけれど、見かけ以上の力が宿っていた。
「お前は彼に──この国に、何を誓った?」
クヴァルドは、言葉もなくヒルダを見上げた。彼女は言った。
「それを忘れるな」
忘れてはいない。一時たりとも。
だが、約束を果たしたからといって、胸の空虚が埋まるわけではなかった。ヒルダの言葉は何もかも正しい。痛みが癒えることは、決してない。
眠りは訪れない。やはり、効果てきめんの薬湯も満月には勝てない。
諦めて、寝台から起き上がる。残飯を漁る獣のように机の上を引っかき回して、クヴァルドは、大学の賢者たちがしたためた論文を見つけた。
〈ハルコン学会〉の賢者、ナターナエル・ケプケが記したものだ。たしか、これはまだ読んでいなかった。
〈ハルコン学会〉といえば、エイルの様々な場所で遺跡の発掘を行っている学会だ。太古の痕跡や碑文から当時の様子を推測するのを得意としている。
論文に寄れば、エイルの北方にあるイスラスという地で、草に埋もれた城趾が発見されたという。魔術師たちが、近く発掘調査を実施する予定だと書かれていた。
「エイルの北方、イスラス……」
北方にある城と言えば、ひとつしかない。ヴェルギルが人間だった頃の王城だ。
彼の痕跡が、新たに見出された?
それならば──この目で見てみたい。
クヴァルドは窓の外に目をやった。
今夜から、実に七日もの空白がある。いつも通り、無為に持て余すつもりでいた七日間に、成すべき事ができたのではないだろうか?
月は満ちかけているが、狼の姿で夜通し駆ければ、満月までにたどり着ける。あちらで一晩休んで、また戻ってくる余裕は十分にある。
クヴァルドは立ち上がり、旅支度をはじめた。人を呼べばほんの一刻で準備が調うものの、昔から、遠出をするときの準備を人に任せるのは苦手だった。
狼の姿でも持ち運びやすいよう改良された鞄は、腰に巻く鞍袋のような形をしている。あまり多くは入れられないが、十分だ。防具も武器も、食料さえ必要ない。戦う時には半狼になればいいし、食料など、道中で兎でも狩れば事足りる。
とても久しぶりに、クヴァルドは己の欠乏を意識の外に置くことができた。遅かれ早かれ悲しみに追いつかれてしまうとしても、今だけは、期待のようなものを抱いていられた。
全ての支度が済むと、クヴァルドは簡単な置き手紙をしたためてから、狼に姿を変えた。
問題は、ここをどう出ていくかだ。満月が近づくこんな夜に単独で出かけようとすれば、きっと供の者をつけられてしまうだろう。何も言わずに出て行くのも難しい。若駒よりは小さいが小馬よりは大きな銅色の狼が歩き回るのを、見過ごしてもらうのはまず無理だ。
結局、クヴァルドは城の中を移動する手間を省いて、広縁から近くの屋根へ降り立った。そして、高所から高所へと飛び移りながら、見張りの目をかいくぐって、城壁の外へ抜け出した。
走るほどに、眠りを促すための薬湯が意識にかぶせていた薄い靄が剥がれてゆく。
城の外に足を伸ばすのは久しぶりだった。静まりかえった街を抜け、街道を進み、更に遠くへと駆ける。
あれは、彼と二人で尋ねた村。お忍びで訪れた王の姿に、みな驚いて目を白黒させていた。それからあれは、雨を避けようと逃げ込んだ大木。あの森を奥へとはいれば、ふたりして爪先を浸した小川がある。ひっそりと愛を交わした岩棚も。
街の明かりを後にして、村々に瞬く灯火を後にして、森のざわめきを後にして、風さえも置き去りにして、クヴァルドはひたすら駆けた。それでも、至る所に刻まれた思い出を振り切ることだけは、どうしてもできなかった。
自分でも、何を期待していたのかわからない。
想像も届かないほど遠い過去に、彼がここに居たという痕跡を、何か──どんなにちっぽけなものでもいいから、見つけられるはずだと思っていたのかもしれない。あるいは、月明かりが見せる幻を。とにかく、彼を少しでも感じられるのなら、何でも良かった。
けれど、三日に亘って走り抜き、たどり着いた先には何もなかった。
断崖と、草いきれと、石ころ。それだけだ。
黄昏の光の中で狼の皮を脱ぎ、人の姿を取り戻す。放蕩者を演じていた頃のヴェルギルが重宝していたのと同じ、〈ノーラント集会〉に作らせた魔法仕掛けの服が即座に裸身を覆い始める。だが、実際は服を着る必要さえなかった。ここには誰もいない。
エイルに足を踏み入れた少し後に、ヴェルギルと二人で、この近くを訪れたことがある。いまクヴァルドに見出せたのは、その時感じたのと同じ『全ては失われたのだ』という感慨だけだった。
遺跡の周りには、〈ハルコン学会〉の魔術師たちが立てたとおぼしき、粗朶を組んだ低い柵が張り巡らされていた。そこから中を覗いても、草生す地面に散在する石くれが見えるばかりだ。王侯の塚さえ崩れ果てたこの地から、彼らはいったいどうやって城趾を探り当てたのだろう。
どうでもいい。ここには、何もないのだから。
そうしているうちに満月が高く昇り、身体の中からじわじわと熱が這い上がってきた。以前は──彼と出会う前であったなら、手近な相手や道具を見つけ出して、自分を慰めることもできた、だがいま、慰めは意味を持たない。クヴァルドに残された手立てと言えば、じっと座して時が過ぎゆくのを待つか、肺が焼け焦げるまで山野を走り回ることぐらいだ。
だから、クヴァルドは走った。
海に向かって豁然とひらかれた断崖絶壁の平野を、狼となってひたすらに走った。岩がちな大地やささくれだった石の先で肉球が裂けても、爪が割れても止まらなかった。体力の限界が訪れるまで走って、走って、時折、思いの丈を空に放つように遠吠えをした。
獣の本能が、自分を取り巻く全ての命を察知した。兎の駆けた跡、それを追った狐の痕跡。木のうろに潜む栗鼠、木陰からこちらを見ている梟。海鳥は岸壁の巣に蹲り、小さな卵を温めている。野花は夜露に濡れた蕾の中で花弁を織り、木々は根で土を掘り進む。
息が詰まるほどの、生命のにおい。
この島は、この地はこんなに生命に溢れているのに、俺には何もない。
自分自身が故郷に選んだこの国の、全ての生命を預かる身でありながら、俺には何もない。
俺には何もない。たった独りで、空っぽだ。
クヴァルドは、遺跡からほど近い場所にある浜に向かった。そこで人間の姿に戻り、冷たい波に裸身を浸した。浜は、波に洗われて丸くなった小石で埋め尽くされていた。ゴツゴツとした波打ち際に寝そべっても、すこしも寛ぐことはできない。だが、それでよかった。
打ち寄せる波が火照った身体を冷やしてゆくほどに、また、なんとも言えない空しさが膨らんでくる。
「あと何年、これを続ければいい……?」
あと何年これを続ければ、俺の心は死んでくれるのだろうか。
この苦しみを抱え続けるくらいなら、いっそ、何も感じなくなってしまえた方がいい。
その時、背後で物音がした。
クヴァルドはすぐさま身体をおこし、身を捩りながら半狼へと姿を変えた。波を蹴り、石礫を蹴って、宙へ飛び出す。
こんなに近づかれるまで、なぜ気づけなかったのだろうかと考えた傍から、思い出した。眠るために飲んでいた茶には、確かに、感覚を鈍らせる効能があった。
飛びかかった勢いのまま、相手を地面に押さえつけて馬乗りになる。歯をむき出して唸ると、彼は恭順を示す「キャン」という声を上げ、耳を倒して、無防備な腹を晒した。
襲撃者──と思っていた者は、狼だった。正しくは、狼に姿を変えた人狼だ。
一体誰だと考えるまでもなかった。この匂いを、毎日のように嗅いでいるのだから。
「ルーマン?」クヴァルドは言った。
体勢を整えられるように後退ると、彼は素早く身を起こし、人間の姿になった。
砂色の髪に、薄青の目。若造と侮られないように生やしているようにしか見えない口ひげにも、覚えがある。やはり、そうだ。
かつてエリマス城の門衛をしていて、いまは近衛隊の一員となった、人狼のルーマンだった。
「お邪魔をしてしまい、申し訳ございません。陛下」
「こんなところで何をしている?」
尋ねると、彼は目を泳がせたが、逃げる素振りは見せなかった。城の門を潜る度に『閣下』と呼ぶのをやめてくれと再三頼み込んだときにも、彼はそんな顔をしたものだった。一見気弱そうに見えて、頑固な男なのだ。
「リオーダン卿に命じられて参りました。万一のためです」
ロドリックめ。
「余計なことを!」
秘密の外出がばれていたのかと思うと、ばつが悪くて語気が強まってしまう。ルーマンはおずおずと言った。
「どうか、リオーダン卿をお叱りにならないでください」
クヴァルドは目を眇めてルーマンを見た。「何故だ?」
さては、彼がロドリックに告げ口をしたののか?
「その……今夜は満月ですので」
ルーマンの身体から、間違えようのない匂いが滲む。クヴァルドは、殴られたように身を強ばらせた。
「リオーダン卿は、わたしの想いをご存じで……それで、あなたの元へ行くようにとお命じになったのです。もしかしたら、お役に立てるのではないかと」ルーマンは目を閉じ、思い切ったように言った。「あなたをお慰めできるなら、わたしは──」
クヴァルドは、思わず顔を背けた。
ルーマンは、静かに言った。
「ずっと、見ておりました」
手の甲に、遠慮がちに、指先が触れる。
「お辛い気持ちを軽くして差し上げようですとか、そんな大それた願いはございません。ただ──」
指先が、触れた場所が熱い。満月の光が血を沸き立たせ、こめかみが疼くほど、全身が脈打っている。彼の顔を見ることができない。もし見てしまったら……一層、難しくなる。
ああ、そうだ。
彼との絆も、そんな提案から始まったのだ。
無数の思い出が胸に刺さり、クヴァルドの心は血を流した。もはや誰の餓えを満たすこともない血が、無為に溢れて、冷えてゆく。
「ただほんの一時、全てを忘れるためのお手伝いがしたいのです」
クヴァルドは目をきつく閉じ、ルーマンの手を握った。
そして、その手をゆっくりと、彼の方へ押し戻した。
「すまない」クヴァルドは、絞り出すように言った。「すまない」
敏感になった耳に響いてくる彼の鼓動が、ほんの一瞬高まり、また萎んでゆく。羞恥と屈辱の匂いが、つよく香った。だが、それもまたすぐに、海風に攫われて消えた。
「どうか、あやまらないでください」彼は言った。「差し出がましい真似を──」
「お前たちは、何も悪くない」首を振って、痛々しい言葉を遮る。「お前やロドリックにそこまで思い詰めさせてしまったこと……本当に申し訳なく思っている」
クヴァルドは、掠れた声で言った。それから居住まいを正して、ルーマンに向き合った。
「皆に心配をかけるのは、これで最後にする」
ルーマンは驚きに目を見開いたものの、慌てふためいてクヴァルドの言葉を退けるようなこともしなかった。彼は小さく微笑み、こう言った。
「それは……難しいかと存じます。御身を案ずる者にとっては」彼は立ち上がると、礼儀正しい辞儀をした。「ですが、陛下がそう仰るのでしたら。わたしはこれより帰参して、お帰りをお待ち申し上げます」
クヴァルドはゆっくりと頷いた。
「そうしてもらえると、ありがたい」そして、黒々とした海原と、どこまでも続く銀の波を見つめた。「もう少しだけ、ここで考え事がしたいのだ」
「かしこまりました」
ルーマンは辞儀をして、灰色の狼に姿を変えた。そして森に向かって駆けていくと、最後にクヴァルドをふり返ってから、暗がりの中に消えた。
クヴァルドはもう一度、遺跡に戻った。
今度は柵を乗り越え、ここを去る前にと、城趾へと立ち入った。
草と石しかないと思っていた。だがよくよく見れば、草原のなかにかつての石組みのようなものが見える。だとすれば、内陸に向かって突き出したこの場所は、城の入り口だろうか。
半分は捨て鉢になって、もう半分は純粋な好奇心から、クヴァルドは遺跡の痕跡を慎重に辿ってみた。
仔犬の好奇心にまつわるヴェルギルの冗談を思いだして、また少し、胸が痛んだ。
千年も前のものだから無理もないが、城はこぢんまりとしていた。今で言う砦ほどの規模だ。入り口を抜けるとすぐに、丸く平らな石が左右の等間隔に並んだ場所に出た。大きさから見て、この平石は柱の台座だろう。さらに奥へと進むと、他より少し高くなっている、石組みの壇があった。
その空間と対峙して、思わず、皮膚の下に隠したままの毛皮が逆立ちそうになる。
この造り。エリマスの城と同じだ。
もちろん、エリマスの城の方が何倍も広いけれど、構造はほとんど同じだった。
ということは、いま目の前にあるのは、王座があった場所なのだ。かつてはここに立派な柱が並び、王座の背後には壮麗な綴れ織りが広げられていたのだろう。だが千年を経たいま、失われた王座を飾るものは、見える限りを埋め尽くす夜の蒼黒ばかりだった。
気付くと、クヴァルドは膝を折っていた。そして黙然と座り込むと、遙か彼方で瞬く星々を、じっと見つめた。
どのくらいの間、そうして座っていただろう。朝が訪れ、空は次第にほの白く光り始めた。
すると、夜の間は見ることができなかった景色が、改めて目の前に迫ってきた。
荒々しくも美しい国土。
それは、朝霧の中でうっすらと青く、未だ眠っているように見えた。
なだらかな丘に優しく生い茂る緑は、じきに訪れる曙光に朝露を輝かせる時を待っている。
緑野を蜿々と流れてゆく川の面は、白み始めた空の色を映し、鏡でできた帯のように輝いていた。
通い路もない崖の麓に屹立している巨大な石柱は、『諾う巨人』と呼ばれている。海に傾いで立つその姿は、乳白色に渦を捲く緑海に頭を垂れているかのようだ。
この地は、悠久の時によって錬られた大地を、雨と風とが削り出したことでいまの形になった。そして未だ、次の数千年をかけて形を変えてゆく途上にある。
それから……朝の海と空の色。これをなんと喩えれば良いのか。
真昼の光の下では存在を許されない、あまりに儚い色彩が、溶けあい、混ざり合って、明け初めたばかりの風景を優しく彩っていた。白薔薇の白と羊雲の白とを隔て、射干玉の黒と宵闇の黒とを隔てる色というものが世に存在するとして、それはいま、この海と空との間から生まれ出でているのだ。
やわらかく淡く輝く雲と、産着のような海霧に包まれた海。微睡む息のように穏やかな海鳴りが、風に乗ってどこまでも吹き渡っていった。
美しい国だろう、と彼は言った。
その通りだと、何度も頷いてきた。だが今以上に、それをひしひしと感じた瞬間があっただろうか。風が撫で、雨が滴り形作ったこの森羅万象を、心から愛おしいと思ったのは初めてかも知れない。
ここでは、声を限りに遠吠えしても、誰の記憶にも留まることなく消えてしまう。怒りや哀しみを刻み込む碑があるわけでもない。すべては、瞬く間に流れ去るちっぽけな揺らぎでしかない。厳しく、無情で、そして……それこそが、この世のあるべき姿なのだ。
だからといって、どうすればいいのかわからない。
「辛いんだ。シルリク」
つらい。
この身をかきむしり、心臓を引きちぎって、海に投げ捨ててしまいたいほどに。
「お前が……」無窮に広がる世界のただ中で、クヴァルドは囁いた。
お前が、恋しい。
お前の声が、温度が、存在の全てが恋しい。二度と触れられないなんて、そんなことがあって良いはずがない。
そして、クヴァルドは泣いた。
ヴェルギルを失ってから初めて、涙を流して泣いた。それは喉から迸る慟哭ではなく、啾啾たる憂い泣きでもなかった。ただ肩をふるわせ、子供のように噎び泣いた。どうしようもなく涙が零れた。熱い雫が、冷え切った頬から首筋にまで伝い落ちる。押しとどめようともせず、手の甲で拭いさえしなかった。雨のような涙に濡れた頬を、風が静かに撫でていった。
いっそ、すべてを忘れてしまえたら。
あの日、お前のにおいを追って、ゴドフリーの狩猟小屋に足を踏み入れなければ。お前の冗談に耳を傾け、お前の軽口に揺さぶられ、お前の苦悩を感じ……お前を愛さなかったなら、こんな苦しみは知らずに済んだ。それでも……。
それでも、後悔することだけは、どうしてもできない。
お前のことを、俺は死ぬまで胸に抱いて生きる。
そうするしかない。どれほど辛くとも。
そうするしか、ないのだ。
いつしか涙は止まり、あとには凪いだ悲しみだけが残った。
クヴァルドは、ずいぶん長いこと、そうして海を見つめていた。やがて日が高く昇ると、ようやく立ち上がり、城に戻る決心をした。
その時──何かが目に留まった。
城の遺跡の中に、何か、光るものがある。陽の光を浴びて、それは鈍く輝いていた。
さっきは気づきもしなかったことを不思議に思いながらも、クヴァルドはゆっくりと、輝きの源へと近づいた。まるで、黄金でできた球根の芽のようだ。半ば土に埋もれていたものを注意深く掘り出して、土を払ってみる。
「これは……」
見事な細工が施された腕輪だった。模様を見るに、とても古いもののように思える。それなのに、宝物庫からたったいま取り出されたみたいに、少しの瑕疵も見当たらない。
表面の意匠を眺めてみる。幅広の表面は、古代のエイル人が良く好んだ三叉の渦巻き模様で彩られていた。指先に不自然な凹凸を感じたので、何かと思ってひっくり返してみると、裏側にミミズがのたくったような古代文字が刻まれていた。クヴァルドにはエイルの古代文字を読むことはできないが、子供の字だと察しがついた。持ち主の名前か、それとも──。
クヴァルドは我知らず、小さな笑みを浮かべた。
この宝物は、〈ハルコン学会〉の魔術師たちの手に委ねた方がいいだろう。
そして、腕輪をもとあった場所に戻そうとした。
だが、躊躇った。
何故か、手放すのが惜しい。
墓場泥棒のような真似はするなと、理性が心にすがりついて叫ぶ。しかし──この荒涼とした場所に腕輪を置いて立ち去るほうが、窃盗よりももっと責めを負うべきことのような気がした。
少しの間迷った挙げ句、クヴァルドは、その腕輪を小物入れにおさめた。自分で身につけるには細すぎて、手の先が入らない。それでも、自分のものにしたかった。
なんとも不思議だ。
世間のものたちからならず者と言われるエルカンとして生活していた時でさえ、盗みを働いたことなどなかったのに。いま、この腕輪を懐に入れて、罪悪感を抱くどころか……全てが正しい場所におさまったかのような安心感さえ覚えている。もしかしたら、俺はこの腕輪に呼ばれてここまで来たのではないかとさえ思った。
そんなものは自分の行いを正当化するための方便だとわかってはいたが、衝動に抗うより、方便を信じる方がずっと容易かった。
「許せ、シルリク」
最後にそう呟いて、クヴァルドは帰途についた。
三日後、クヴァルドは城に帰ると、七日間の最後の夜をひたすら眠りに費やした。眠るための薬は、もう必要なかった。
そして、短い夢を見た。
いつもは彼の長衣を広げてある寝台の傍らに、本物のヴェルギルが横たわっていた。彼は微笑を浮かべていた。彼の仔犬を見つめるときの、あの笑顔を。
「ああ……」
また、涙があふれた。夢の中だというのに、クヴァルドは、眼を溺れさせる涙の熱まで克明に感じることができた。
手を伸ばして、彼の手を取る。冷たいのに、不思議と心が安らぐ彼の手が、それに応えて握り返してくる。
「いつか……俺はお前に、もう休めと言ってやりたかった」クヴァルドは言った。「エイルは大丈夫だ。だから、もう休んでいいんだと」
それを告げるのは──別れは、もっとずっと先のことだと思っていたのだ。時間はたくさんあるはずだ、と。
言うべき言葉は嗚咽に飲まれてしまったけれど、彼にはちゃんと届いていた。
「ああ、わかっている」彼は、この上なく優しい声で言った。「君には、あまりに多くを背負わせてしまった」
頭を振って、ヴェルギルの手を引き寄せ、縋るように額を押しつけた。
何だって背負うから、俺の元に返ってきてくれと言いたかった。だが夢の中でさえ、そんな言葉を口に出すべきではないとわかっていた。
言えば必ず、否定しなければならなくなるから。
「我々には、まだやるべきことがある」
その言葉に、顔を上げた。
「我々……?」震える声で、そっと尋ねる。
彼はにっこりと微笑み、クヴァルドの手に、もう一つの手を重ねた。
「そう、我々だ」ヴェルギルは力強く言った。「だからフィラン、迷わず、振り返ることなく進むがいい」
振り返ることなく、進め。
あまりにも真に迫った夢の終わりは、唐突だった。
気づけば、部屋には朝日が差し込んでいた。無防備に開け放たれた窓から、エイルには珍しい晴天が覗いていた。
その日、クヴァルドは侍従に命じて、前王の死後ずっと手つかずになっていた、彼の持ち物を城の倉庫にしまわせた。
その夜クヴァルドは、ヴェルギルの長衣を手にしたまま、暖炉の炎を見つめていた。鼻を近づけなくてもわかる。そこにはまだ、彼の匂いが残っている。ほんの僅かだが、縋り付くにはそれで十分だった。
この国に満ちる幸せを、彼と一緒に見たかった。次の王となる後継を二人で育て、安堵のうちに眠りにつくような──そんな最後を迎えさせてやりたかった。
「わかったよ、シルリク」燃えさかる炎を見つめたまま、クヴァルドは言った。「もう、振り返るのはやめだ」
そして、手にしていた長衣を炎の中に焼べた。
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