【日月の歌語りⅣ】天地の譚詩

あかつき雨垂

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 ダイラ 
 
 ハミシュは暗闇の中で目を覚ました。 
 いま、確かに、リコヴが笑った。 
 高笑いや、人を小馬鹿にしたような笑い方じゃない。もっと……どろっとした笑いだ。猟人かりうどが、仕掛けた罠へまんまと向かっていく獣に向けるような。 
 気付けば、身体にしっかりと巻き付けていたはずの毛布が足下で丸まっている。窓の外はすっかり暗くなっていて、少し離れて停まっている馬車のそばで焚かれている火明かりがうっすらと見える程度だった。 
 まだ、見張りの順番は回ってきていない。もう一度眠ってもいいのだが、なんとなく目が覚めてしまった。リコヴに身体を乗っ取られないようにするために、黄昏時に寝る習慣がついてしまったせいだ。 
 それでも、目を閉じたときと同じ場所で目覚めることができて、ホッとした。 
 ため息をついて寝台に腰掛ける。商隊が野営するときには、河原や道の脇に一列になって馬車を停める。ハミシュたちの馬車は、十台ほど連なった列の中央にあった。どこかから聞こえてくるエルカンの歌に耳を傾けながら、ハミシュは震える身体に毛布を巻き付けた。 
 また、夢を見ていた。 
 埋もれた宝物と、悲しい遠吠えにまつわる夢だった気がする。あるいは、思慕と焦燥と渇望が同じだけ混ざり合った、途方もない苦痛にまつわる夢。けれどハミシュが思い出そうとすればするほど、それは朧に遠のいていった。 
 結局、それ以上は眠れなかった。 
 
 旧アルバ領は砦の森とも言われる。 
 大昔から、この国には大きく三つの勢力があった。ベイルズ、アルバ、そしてダイラだ。二七〇年前、ダイラはまずアルバを、次にベイルズを手中に収めて、島の全土を統一した。 
「先に占領されたのはアルバの方だったけど、だからってアルバが弱いってわけじゃない」御者席で手綱を繰りながら、カハルは熱心に語った。「大昔からアルバを支配していた首長たちは、無駄な血を流さないためにあえて降伏したんだ。ベイルズのがよっぽど腰抜けだ。初めこそ喧嘩腰だったくせに、ちょっと痛い目に遭ったら手のひらを返してダイラの犬になったんだから」 
 ダイラの歴史──とりわけ、統一前の国同士の争いについては、ハミシュはほとんど何も知らなかった。その時代を実際に生きたものたちと暮らしていたせいで、意識さえしていなかったのだ。 
 カハルはアルバ──というより、北部叛乱軍レバルズの信奉者だった。彼はエルカンとしては、イムラヴへの思い入れがそれほど強くない。海の向こうにある祖先の地よりも、すぐそこで戦っている者たちに憧れを抱いているようだった。 
「あの極悪人のファーナムが総督になって、アルバは荒れはてた」カハルは暗い顔で言った。「奴らは畑を荒らし、家や粉ひき場に火をかけて、アルバ人が生きていく術を奪う。生活が苦しくなればなるほど、楯突く力もなくなるからね。俺は、焼け焦げた村をいくつも見てきたよ。木に吊されたアルバ人の死体も」 
 胸を締め付けるような沈黙が降りた。この国で苦しんでいたのはナドカだけではないのだと、ハミシュはようやく気付かされた。 
「知らなかった……」 
「無理ないさ」カハルは言った。「南じゃ、アルバ人アルバナは凶暴な野蛮人ってことになってるもんな」 
 ハミシュは頷かなかったけれど、その通りだった。街の至る所に貼られた、アルバの叛乱軍にまつわる記事には、彼らが無抵抗なダイラ市民を虐殺したとか、赤ん坊を煮て食っているとか、女子供を掴まえては異端の神への供物にしているなどともっともらしく書かれていた。 
「あんなの、ぜんぶ嘘っぱちだ。でも、南の連中はそれを信じてる」 
「うん」ハミシュは小さく頷いた。 
「そんなときに、叛乱軍レバルズが立ち上がったんだ。ミドゥン率いる〈大いなる功業クレサ・モール〉の旗の下、一丸となって反旗を翻した。彼らは最初の砦を倒して、よそ者サセナクどもの居城だったディナバラを占拠して、ヴズダバラと名前を変えた」 
 そしてカハルは、ディナバラの砦を初めとする鉄環要塞群アイアン・リングの話をしてくれた。叛乱勢力の拠点、エドニーを取り囲むように建てられた砦を喩えた言葉だ。アルバの叛乱は、この要塞群を打ち破るための戦いと言っても過言ではないという。 
陽神の砦デイナ・バラを、戦神の砦ヴズダ・バラへ……」ハミシュは言った。 
「でも、すぐ追い出されたんでしょ」グレタが冷ややかに水を差した。「戦神の砦ヴズダバラはまた、陽神の砦ディナバラに戻った」 
「負けてない。現にこうして、叛乱軍は勢力を増してる。ミドゥンがついてるんだから、ここからは全戦全勝も目じゃない。王都だって落とせる!」 
 話し好きのグレタにも、興味のない話題はいくつかある。裁縫と戦争の話が始まると、彼女は信じられないほど静かになって、気付くと眠っているのだ。 
「とにかく、最初の叛乱以来、アルバはダイラを苦しめ続けてきたんだ。鉄環要塞群アイアン・リングのいくつかは叛乱軍が手に入れた。マイデンなんかもそのひとつだ」 
 グレタがこれ見よがしに大きなあくびをした。 
「マイデンも?」 
 ハミシュが尋ねると、カハルは嬉しそうに頷いた。「ああ、そうだ。古くて立派な砦だよ」 
「マイデンについたら、お別れか」グレタが小さな声で言った。 
 そのことをすっかり忘れていた。不意に、胸に重石が乗せられたみたいな気分になる。 
「うん」ハミシュは俯いて……それから、言った。「でも、君たちが次の街に行くまでは、一緒にいられる」 
「ほんとに?」グレタの声が、少しだけ明るくなる。 
「僕も、マイデンから別の場所に出発するつもりなんだ。だから……道が分かれるところまでは」 
「嬉しい──と思うんじゃないかな……母さんマーとか、みんなも」グレタは馬車の仕切りののぞき窓から目を覗かせて、言った。「じゃあ、もう少しだけ一緒だね」 
「そうだね」 
 その会話を聞きながら、カハルが笑みを隠していたことに、ハミシュは気付かないふりをした。 
 
 マイデンに近づくほどに、空気が変わっていくのを感じられる気がした。針葉樹の森を縫うように続く道の向こうに、どっしりとした石の防壁が見えると、それまでのどかだった旅の雰囲気は何処かに消え去った。 
 カハルの言ったとおり、マイデンは砦の街だった。街区は石積みの外郭そとぐるわと壕とで囲まれていて、外からでは城下の様子を伺うことはできない。郭の上に配備された兵たちが、東西南北に油断の無い目を向けている。古く重々しい門構えの砦だけれど、丸太を組み合わせた跳ね橋はまだ新しく、切り倒されたばかりの木の色をしていた。 
 先頭をゆくノーラと門番は顔見知りのようだ。二、三の問答をしただけで跳ね橋が渡され、商隊は壁の向こうに招かれた。 
 比べる対象がヨトゥンヘルムやエリマス城では仕方のないことだけれど、一見すれば剛健な壁の内側は雑然としていた。遠くからだとあれほど立派に見えた外郭そとぐるわを通り過ぎしなによく見れば、ところどころ崩れかけているのを土で補強してあるのがわかった。土に埋め込まれた石には魔方陣が刻まれている。北部叛乱軍レバルズと手を組んだ〈アラニ〉の仕事だろう。 
 壁の内側には、張り詰めた空気が漂っていた。 
 鍛冶屋の鎚の音が無造作な音楽のように響き渡るなか、人びとはなにやら真剣な表情で話し合っていた。男も女も武器を身に帯びている。 
 中には兵士らしからぬ格好をしている者も居た。黒っぽい外套を着て、長い髪をまとめずにおろしている女たちや、地面に座り込んでふざけ合っている者たちだ。おそらく、彼らが〈アラニ〉だろう。〈アラニ〉に加わるナドカのうち、最も多いのは魔女や人狼だと、昔ヒルダに聞いたことがあった。 
「基本的に、その二つは群れて生きるものたちなのだ。ひとりひとりの力が弱いがゆえに、群れる。そして、規範から外れる者には厳しく接する。長に従わない者が居ると、群れの存続自体が危ぶまれてしまうからね」彼女は言った。「群れを逃れた者は、また別の群れに行き着く」 
 そうして、集会コヴン氏族クランを追われた者の終着点が〈アラニ〉なのだ。 
 とは言え、商隊の列に気付いたとたん、こちらを射るような眼差しを向けてくるのは、人間もナドカも同じだった。今までの道のりで村々の歓迎ぶりを見てきた後だからこそ、険悪な視線にたじろいでしまう。 
「アルバの人はエルカンと仲がいいんだと思ってた」ハミシュはぼそりと言った。 
「いつもなら、もっと歓迎してもらえる」カハルも小さな声で言った。「でもここのところ、嫌な噂が流れてるんだ。女王がエルカンの中に間者を潜ませてるって」 
 ハミシュはカハルを見た。「それで、僕のことを疑ったのか」 
「ああ。用心するに越したことはない」カハルは肩をすくめた。「君のことは、行き倒れを拾ったってことにする。ただし、三年前にね。急に仲間に加わったと説明するより警戒されないだろ。だから君は、昔からの仲間のように振る舞うんだ。いいね?」 
 ハミシュはうなずいた。彼らの仲間として振る舞うのは、それほど──いや、ちっとも難しくない。 
「ありがとう」 
 マイデンの砦は、小高い土塁の上にあった。砦を守る内郭うちぐるわの奥から、どっしりとした堅牢な姿を覗かせている。交差する戦斧の紋章が描かれた北部叛乱軍レバルズの旗が、厳めしい砦の外壁を飾っていた。 
「空き家ばかりだな」カハルが、道の奥に並ぶ民家を眺めて、小声で言った。 
 彼が言うとおり、砦以外の場所は閑散としていた。戦いの気配を察して、みな逃げ出してしまったのだろうか。 
 案内役の兵士がやってきて、一行を先導した。 
「さあ、あっちだ! 俺についてきてくれ」 
 彼は他の馬車にも聞こえるような大きな声で話した。 
「あんたがたには、北東の広場に逗留してもらう。音楽は無し、占いも無しだ。わかってるよな。もちろん、金の房飾りも無しだぞ。この大事なときに風紀が乱れちゃかなわん」 
 ノーラは何かを言い返した。 
「ああ、わかってるよ。あんたらのことは信用してる」 
 逗留地は、砦と城壁の隙間にある、日当たりの悪い一角だった。案内役はノーラに頷いてから、言った。 
「あまりふらふらと出歩くのは控えてくれ。間もなく隊長が来る。砦の南に囲いがあるから、馬はそこに放してやるといい」 
「ああ、そうさせてもらうよ」 
 ノーラが頷くと、男は砦へ戻っていった。 
 エルカンたちは見事な手綱さばきで車座になるように馬車を並べた。銘々は馬車の車輪に車止めをかませ、馬をくびきから解き放ってやった。鍛冶や金工を得意とする者は、すぐさま商売道具を馬車の外に運び出しはじめた。武具の繕いや衣服の売買を専門にしているものたちもそれに倣った。 
 カハルも馬たちの軛を解き、グレタに手綱を渡した。 
「俺は母さんの傍にいるから」カハルは言った。「馬を放しに行くついでに、ちゃんとした場所かどうか見てきてくれ。イアン伯父さんにも報告しておけよ」 
「わかってる」グレタは、強ばった背中を解すように背筋を伸ばした。 
 それから、ハミシュを見て言った。「ねえ、一緒に行かない? こっそり色々見て回ろうよ」 
「いいね」 
 ハミシュは二頭の馬のうち、一頭の手綱を引き受けて歩き出した。 
 
 馬囲いには、すでにエルカンの馬と、砦の馬とが混在していた。二種類の違いは一目瞭然だ。エルカンの馬と比べると、砦の馬は二回りも小さい。 
「あれはマルディ・コーサー。小柄で、扱いやすくて、勇敢。軽やかに走るのに揺れは少ないから、馬上弓にも向いてる。森で戦うなら、あれ以上の子たちはいないんじゃないかな」グレタは言った。「あたしたちが育てるのは、ロヒアンって種類の馬。農耕用のアブリッジよりももっと大きくて丈夫なの。滅多な事じゃ驚かないし、普通の馬の四倍は力がある。それに、全ての馬の中で一番優しい」 
 エルカンは馬をこよなく愛すると言うが、グレタの話しぶりからは、あらゆる馬への愛情が感じられた。 
 ハミシュとグレタは囲いに馬を放して、外へ出た。 
 二頭の馬は、しばしの別れを惜しむように代わる代わる鼻先を押しつけてきた。彼らを柵越しに優しく撫でて、グレタは言った。 
「ちょっと狭いけど……ロヒアンは気性が穏やかだから、喧嘩にはならない。アルバの人たちだって馬の扱いはわかってるはず……ダイラ人よりはね」 
「すごい」ハミシュはしみじみと言った。「馬のことは何でも知ってるんだね」 
 グレタは一瞬ぽかんとした表情を浮かべた。それから、頬を赤く染めて笑った。 
「まあね。あたし、じきに蹄鉄の馬車に乗るから」 
「蹄鉄の馬車?」 
馬喰ばくろが乗る馬車。あそこに、椅子に座ってるしわくちゃのおじいちゃんがいるでしょ? あれがイアン伯父さん。あたしの師匠。もうほとんど目が見えないんだけど、いま馬車を引いてる馬のほとんどは、あの人が育てたんだ」 
「じゃあ、君も馬喰になるの?」 
 グレタはにっこりと笑って頷いた。「いつかはね。あたしもイアン伯父さんみたいな馬喰になりたいの。まだ修行中だけど」 
 そのイアン伯父さんの元へ、馬たちの様子を報告しに行こうとした時だった。砦の中庭から、どよめきが起こった。 
 すでに緊張感でいっぱいになっていた城壁内の空気がさらに張り詰め、ハミシュたちの周りで作業をしていた者たちも、互いに顔を見交わしている。 
「何があったんだろう」 
 言い終わらないうちに、グレタがハミシュの手を取った。「行こう!」 
 
 人の壁の向こうから聞こえたのは、若い女のひとの声だった。 
「ですから、わたしは申し上げております! いますぐ武装を解き、家にお帰りなさい!」 
 野太い声が彼女に答えて言った。 
「お前は魔女だろう。なのに何で俺たちの邪魔をしようとする?」 
「魔女、だからこそです」 
 ハミシュとグレタは、群がる兵士たちの隙間からなんとか潜り込み、騒ぎの中心にあるものを見た。 
 そこでは、小柄な魔女と、筋骨隆々とした男の兵士とが向かい合って立っていた。魔女の身長は、兵士の鳩尾の辺りまでしかない。 
「わたしは魔女だからこそ、同胞が愚かな選択に身を委ねるのを、ただ黙ってみていることができないのです」 
 ハミシュの記憶を呼び起こしたのは、彼女の凜とした横顔ではなかった。腰のあたりまで伸ばされた、ほとんど白に近い金髪だった。 
 僕は、彼女を知ってる。 
「あれは……」 
 もう何年前になるのだろう。 
 アシュモールの砂漠からダイラへと帰る途中──リコヴの憑依のせいで長いこと気を失っていたハミシュは、船の中で目を覚ました。診療室のハンモックにゆられ、身体を乗っ取られた後にやってくるひどい頭痛に苦しんでいた。航海の間、診療室の寝棚には見覚えのない少女が眠っていた。まるで、陶器で出来た人形のように儚げな少女だった。自分の状況を理解するのを後回しにしたい気分だったハミシュは、一向に目覚める気配のない彼女を心配することで気を紛らわせていたのだ。 
「あのひとを知ってるの?」グレタが小さな声で言った。 
 ハミシュは小さく頷いた。 
 彼女は、貴族の娘でありながら魔女として覚醒してしまった。貴族の家に魔女が生まれるのはとんでもない不名誉だとされていたから、その事実はひた隠しにされていたという。彼女は醜聞を避けようとした姉の策略にはまり、教会の狂った学者の実験台にされた。結果、ナドカでありながら、魔力を無効化する貴金の力を持つことになった。教会に操られるままクヴァルドたちの敵となったけれど、戦いの末、救い出された。 
 後日、彼女は貴族の地位と役職とを返上した父と一緒に、モートンへと移ったと──そう、クヴァルドに教えてもらった。 
 けれど──ああ、あれももう、九年も前のことなんだ。 
 あの時に比べれば、彼女はずいぶんと立ち直ったようだ。 
 だが、この状況は一体何なのだろう? 殴り合いの喧嘩がいつ始まってもおかしくないほど張り詰めた空気が漂っているというのに、彼女はあいかわらず毅然とした態度で兵士と対峙している。 
 彼女は高らかに言った。 
「いまは、王に対して叛乱を起こしている場合ではありません。大陸の国々がこのダイラに戦を仕掛けようとしているときに、同じダイラ人同士が争って何とします!」 
 途端に、観衆からは燃えるような怒号があがった。 
 グレタはあきれ果てたように「あーあ、なんもわかっちゃいないんだから……」と呟いた。 
「同じダイラ人だってよ!」男は嘲るように言うと、もう一度、今度は仲間に向かって言った。「同じダイラ人だってよ、聞いたか、おい!」 
 響めきが、それに答える。 
「同じダイラ人なら、なんでアルバに課せられた税だけこんなに重い?」男は言った。「同じダイラ人なら、なぜ連中は俺たちを未開人あつかいする? なぜ奴らは、同じダイラ人の家畜を盗み、村を焼き、女どもを犯し、息子たちを殺す? 同じダイラ人の誇りを、武器を、歌を、踊りを奪っておきながら、なんで平気でいられる? 奴らが俺たちの法を尊重したか? 俺たちの信仰を守ったか? 俺たちから奪う以外のことを、何かしたのか? いいや、お嬢ちゃん。俺たちはあいつらと『同じダイラ人』なんかじゃない。ダイラの連中は大陸から渡ってきたフェルジの末裔だ。この島にもともと住んでた俺たちのケツを蹴り上げ、こんな隅っこの、不毛の地に追いやった張本人だ。よそ者サセナクだ!」 
 男の一声一声に、賛同の声が起こる。腕っ節の強そうな男だが、それだけではなさそうだ。彼には群衆の怒りを掻き立てて、場を支配する力があった。 
「大陸がダイラを狙ってる? そいつは結構。お忙しい女王様は、未開人の問題になど関わっている暇はないだろう。だからこそ、いま行動を起こさなくてどうする!」男は叫んだ。「この島からよそ者サセナクの王を追い出せ!」 
 騒動の中心にいる小柄な魔女は、いまにも崩れ落ちてきそうな大波に対峙している人のようだった。彼女はめげずに言った。 
「王を追い出して、それで全てが解決するわけではないのはおわかりでしょう! この国が焦土と化してもいいというのですか!」 
「焦土だろうが何だろうが、俺たちが立て直してやるさ。ダイラ人よりずっと上手にな。ここは俺たちの島だ。俺たちの!」 
 その時、騒ぎを眺めていた〈アラニ〉の人狼が声を上げた。 
「お前! なんで王の味方をする?」 
 彼女は、話しかけてきた人狼に顔を向けた。 
「九年前の大禍殃マグナ・マルムのきっかけとなった魔女の名をご存じですか?」 
 人狼が眉を顰めた。 
「あの、アシュモールの魔女のことか?」 
 小さく首を振る。「そのかたではありません。もうひとりの──教会に捕まり、力を歪められた魔女のことです」 
 〈アラニ〉たちが、不安げなささやきを交わし始める。ひとりが言った。 
「嘘だろう……まさか、お前が?」 
 彼女はこくりと頷いた。 
「わたしはエミリア・ホーウッド。教会の申し子として、一度は彼らの元で闘いました。今は枷から解き放たれ、己の意志に従って行動しています」 
「それならなおさら、王に味方するなんて筋が通らないじゃないか!」 
「エレノア女王は、この国を古き鎖から解き放とうとしておられます。皆さんもご存じでしょう? 彼女は教会の腐敗をそぎ落とされるべく奔走なさっています。そのために破門され、ベイルズを敵に回し、大陸から疎まれておられる」 
 決して声を荒らげないのに、エミリアの声は不思議と、よく通った。まるで、この世で最も澄んだ鉱物でできた鈴の音色のようだ。 
「彼女の戦いは、あなた方のための戦いでもあるのです。確かに、過去の王たちはあなた方から奪う一方だったかも知れません。ですが──」 
「これ以上、魔女の言葉に耳を傾けるな!」 
 誰かが横から口を挟んだ。それに釣られて、また別の声が続く。 
「そうだ! こいつは女王の間者だ!」 
「いいえ、違います! わたしはわたしの意思で──」 
「吊せ!」 
 誰かが言った。その一言は、どんな言葉よりも、どんな魔法よりも速やかに、その場の空気を一変させた。 
「吊して、首を切って、大事な女王様のところに送りつけてやれ!」 
 同意の声が口々にあがる。 
 怒れる人びとが、急に一つの目標を得てしまった。彼らのぎらついた目は、ひとり立ち尽くすエミリアにひたと据えられた。彼らの意思が──怒りが一つに溶け合い、とぐろを巻いた蛇のように彼女を取り巻く。鎌首をもたげて、今にも食らいつこうと舌なめずりをしている。 
 その時、まったく唐突に、グレタが輪の中心に飛び出した。 
「ああラヴィーシャ! こんなとこにいたの!」 
 彼女はエミリアに抱きつくと、言った。「また騒ぎを起こして、勘弁してよ! あたしが母さんマーに怒られるんだから!」 
 エミリアは、突然のことに目を白黒させている。グレタは、加勢を求めるようにハミシュを見た。 
 ハミシュは慌てて輪の中に入り、グレタがしたのと同じように、エミリアの肩を抱いた。 
「心配したんだよ! もう! その辺の肥だめに落ちたんじゃないかって──怪我はない? 平気?」 
 このとき、グレタがしたことを見た者は、ハミシュの他には誰もいなかっただろう。彼女は右手を大げさに振り回してエミリアのあちこちに触れながら、左手で彼女の手首にこっそり何かを巻き付けたのだ。 
「おい、小娘。こりゃ一体なんの茶番だ?」 
「ごめんねおじさん。ラヴィーシャはあたしの姉なの」 
「そいつがエルカン? でも、その髪の色は──」 
 グレタはわざとらしくため息をついた。「エルカンだって、ダイラ人のお相手をすることもある。そりゃ当然、そういうことだってあるよ。わかるでしょ?」 
 そう言うと、グレタはエミリアとハミシュから見えないように小さく首を振って、口元だけで「これ以上言わせないでよね」と言った。 
 群衆の間に満ちていた怒りが、少しずつ、混乱に取って代わってゆく。 
「それなら、いまその娘が喚いてたことはなんだ?」 
 グレタは悲しそうな表情をしてみせた。そして、エミリアが着ていたガウンの、長い袖をめくって見せた。するとそこには、さっきグレタがこっそりと嵌めた、緑色の腕飾りがあった。 
 それは『聖なる者』の印だ。『聖なる者』とは、幼少期、あるいは生まれる前に神の手に触れられたことが原因で、時に突飛な言動をする者のことをいう。彼らをとがめ立てれば天罰が下ると信じられてきた。 
 途端に、群衆の中から理解の声が漏れる。 
「ね? わかるでしょ」グレタは肩をすくめた。「一度聞いたことは何でも真似しちゃうの。さっきのは、オルネホで演説してた魔女の台詞。一字一句おんなじ。それが特技なの」 
「じゃ、その子は魔女でも何でもないのかい」〈アラニ〉が言った。 
「オタマジャクシが蛙の子供だってのと同じくらい、間違いなく人間だよ」 
 群衆のうちの何人かは、まだどうも納得できないという顔をしていた。だが、この娘を『吊す』という共通の目的を果たすだけの熱情は、とっくに失われていた。 
 エミリアと言い争っていた男は、足下に唾を吐いて言った。 
「じゃあ、さっさと行け」そして、凄みを利かせた顔で付け加えた。「つぎに騒ぎを起こしたら、即刻出て行ってもらうからな」 
「もちろんだよ。ほんと、悪かったね。面倒かけちゃってさ」グレタは茶目っ気たっぷりに笑って見せた。「もし気が向いたら、マクラリー一家の店を見に来て。マチェットフォードからはるばる運んできた、おもしろい酒もあるんだから」 
「まけてくれるんだろうな?」男の顔には、微かな笑みが浮かんでいた。 
 グレタは片目をつぶってみせた。「それは、あんたの頑張り次第じゃない?」 
 
「まったく、何考えてるんだか!」 
 グレタは、有無を言わさずエミリアを引っ張って歩いた。地響きがしそうなほどの剣幕に、エミリアも抵抗せずに彼女に従っている。だがハミシュには、グレタの手が小刻みに震えているのが見えた。 
 商隊の停留地まで彼女を連れてくると、グレタは焚き火のそばにエミリアを座らせた。それから、腰を下ろすなり自分を抱きかかえ、額が膝につくほど体を折って、長いため息をついた。 
 そして、ガバッと身を起こして、満面の笑みで、エミリアとハミシュの顔を見た。 
「ああ、怖かった!」 
「あの……ご迷惑を掛けてごめんなさい」エミリアは恥じ入るようにうつむいた。「あなたがたを巻き込むつもりはなかったのに」 
「やだ、謝らないで」グレタはそう言って、頼もしい母親とそっくりの表情をしてみせた。「謝るくらいなら、あたしの話術を褒め称えてよ」 
「ほんと、すごかった」ハミシュは心から言った。「拍手したいくらいだったよ!」 
 グレタは歓声に応えるように、座ったままで優雅なお辞儀をした。 
「エルカンの名に恥じない活躍ができたよね」グレタは、さっきよりも大きな笑みを浮かべた。「それにしても、どうしてあんな無茶な真似したの? あなたは魔女? 本物? さっきの話も、全部本当ってこと?」 
 グレタの質問攻めに、エミリアは目をぱちくりさせてから、おずおずと頷いた。「ええ、そうなの。わたしは魔女よ」 
 グレタの瞳が一層輝いた。「うわあ。魔女に会ったのは初めて!」 
「どうして、あんなことをしたんですか」 
 エミリアは間違いなく、ハミシュのことを覚えていない。無理もない。あのとき彼女はずっと、生死の境をさまよっていたのだから。だからハミシュは、彼女とは初対面であるように振る舞うことにした。 
 ハミシュの言葉に、グレタも頷いた。 
「アルバであんなことしてたら、三日と生きていられないよ。昔ならともかく、今は駄目。みんな殺気立ってるんだから」グレタはそう言いながら、手際よくお茶の準備を始めた。「女王の味方をするなんて驚いちゃった。魔女なのに! あたし、ナドカはみんな王様のことが嫌いなんだと思ってた」 
 エミリアは考え込むように、首をかしげて手元を見つめた。 
「味方というほどのものでもないのだけれど。実は彼女のことを、少しだけ存じ上げているの」 
「ほんとに──うわ! やっちゃった!」グレタの手元が狂って、お茶の葉が地面にばらまかれた。 
 ハミシュはおずおずと尋ねた。「それってつまり、君は本当に女王の間者……?」 
「まさか!」エミリアは驚いた顔をした。「いいえ、そうじゃなくて……実は一度、戴冠なさる前の陛下にお目通りが叶う機会があって……というより、陛下が私を訪ねてきてくださったの」 
「訪ねてきた? どうして?」 
 エミリアは膝の上で両手を緩く組んで、視線を宙に向けた。まるで、そのときの様子を目の前に描き出しているかのように。 
「あの方は、私を陥れようとした者を──私の姉を、侍女としてお側に置いていたの」エミリアの目にかすかな苦しみがよぎったけれど、すぐに消えた。「姉のしたことが原因で、私は一度死にかけた。彼女は、抜け殻のようになった私をおとなってくださった。そして、姉さんの企みを止められなくて申し訳ないと、頭を下げてくださったの。もはや貴族の身分さえないわたしに」 
 エミリアは深いため息をついた。 
「わたしは辛い体験をした。けど、それにはちゃんと意味があったのだと、そのとき初めて思うことができた。女王陛下がなさったように……私も正しいことを行いたいと思ったの」エミリアは微笑んだ。「それからずっと、ある〈集会コヴン〉のお世話になって魔法の訓練を続けていたのだけれど……去年のはじめに父が亡くなったので、お世話になっていた家をおいとまして、こうして各地を巡る旅に出たのよ。最初はベイルズ、そして今度はアルバ。女王には恩義を感じているけれど、間者ではないわ。ただ……色々見てきたから、少しは状況がわかっているというだけなの」 
「よかった」グレタはエミリアにお茶を手渡した。「まあ、間者だなんて最初から疑ってなかったけどね」 
 エミリアは礼を言って、お茶を飲んだ。それから、湯気が微かに揺らめくくらいの小さな声で、言った。 
「誰かに自分の人生を揺るがされるのは、もう十分」そして、お茶を一口飲んで、今度は少し大きな声で言った。「いまはこの国の内側で争っている場合ではないと、わたしは心から信じているわ。だから、それに賛成してくれる人が見つかるまでは、同じ事を続けるつもり」 
「でも、危険だよ!」グレタは言った。 
「ええ。わたしの師匠もそう言った。けれど、そうすべきだって思うの。魔女の勘かしら」 
 そして、エミリアは微笑んだ。 
 その微笑みの強さに、ハミシュは俯くことしかできなかった。 
 誰かに自分の人生を揺るがされるのは、もう十分。 
 同じ事を感じているはずなのに、僕はまだ、自分の脚で歩いていない。 
 ハミシュは、それが恥ずかしくて仕方が無かった。 
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