【日月の歌語りⅣ】天地の譚詩

あかつき雨垂

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 ダイラ 旧アルバ ガラベギン城 
 
 だから、自分は間者には向いていないと言ったのに。 
 ミドゥンと面と向かって茶を飲むという状況におかれながら、キャッスリーはその日何度目かになる呪いを、遠くデンズウィックにいるマクヒューに向けて放った。 
 あの会合からしばらくの後、キャッスリーはミドゥンが指揮を執る〈大いなる功業クレサ・モール〉の軍と共にガラベギンへと向かった。ここは、アドリスから最も近いところにある砦だ。エドニーと同じように長らく顧みられることがなかった場所だが、先行していた数名の部下が片付け、雨風をしのげる程度に整えていた。 
 砦の中は──何というか、実にミドゥン的だった。というより、手に入るものを使ってなんとかするしかないという人生が、彼という人間を形作ってきたのかも知れない。部屋そのものの造りは立派でも、ここには必要最低限のものしかない。すなわち、古びた机、椅子、書棚。それから、無骨な日用品。 
 ミドゥンは、自ら淹れた茶をゴツゴツとした焼き物の杯に注ぐと、ひとつをキャッスリーに差し出し、もうひとつを自分の方へと引き寄せた。 
 彼は言った。 
「君は間者には向いていないな」 
 ほら見ろ。 
 キャッスリーは砂を噛む──いや、飲むような思いでお茶を啜った。妙な味がしたが、深くは考えないようにしようと思った。デンズウィックで飲んでいた茶は、吸血鬼に変異した後の味覚でもおいしく感じられた。だが、この辺境にそれと同じものがあるはずはない。おおかた乾燥した雑草か何かを煎じたのだろう。 
「君の同僚のトヒル君──いや、本当の名はトムソンだったな。彼が間者になるというなら、まだわかる。だが君は」彼は茶を啜り、意外にも茶目っ気のある笑顔を覗かせた。「いろんな意味で目立ちすぎる」 
「恐れ入ります」 
 キャッスリーはもぞもぞと口を動かした。こういうときにトムソンが居てくれたら。奴なら口八丁で相手を丸め込んで、上手く言い逃れることもできるだろう。だが、トムソンはミドゥンから与えられた任務で、南へと旅立ってしまった。 
「君は寡黙だな。吸血鬼は饒舌だと聞いたんだが」 
 ミドゥンは、歯に衣着せぬ物言いを続けた。 
「わ……わたしの舌は口の中ではなく、ペン先についていると、知り合いはそう申します」 
 すると、彼は声を上げて笑った。「確かに! 君の本業を考えれば、その通りだろう。残念ながら、わたしは君の作品を鑑賞する栄耀に浴したことはないのだが」 
 ミドゥンは、黒目がちな瞳をキャッスリーに向けた。 
「君が間者になった経緯に興味はある。しかし、重要なのはこれからのことだ」 
 来たぞ。 
 キャッスリーは思わず身構えた。 
「トムソン君は南で大いに活躍してくれている。彼が街の隅々に潜り込んで例の噂を吹聴してくれたおかげで、敵はマイデンに侵攻する準備を整えはじめた。そこで、君には別の任についてもらいたい」 
 どうして俺がこんな目に、と思いたくなるのをぐっと堪える。俺がこんな目に遭っている理由なんて分かりきっている。運命の血を──あの男の血を諦めるだけの潔さが欠けているせいだ。あいつは二流のクズかもしれないが、俺はそれ以下の軟弱者だ。 
 内省を噛みしめているキャッスリーをよそに、ミドゥンが言った。 
「ダイラの国務卿殿から、話は聞いている」 
「えっ!?」キャッスリーは思わず声を上げていた。「しかし、わたしは──」 
「国務卿の間者?」ミドゥンは面白がるように眉を持ち上げた。「そうだ。それも彼から教えてもらった。君がわたしの天幕に侵入した後、君の報告に目を通したマクヒューが親書を送って寄越したのだ」 
 嘘だろう。 
 それじゃ、いつ正体がばれるかと怯えながら過ごしたあの日々は全くの無駄だったってわけか? 
「つまり」キャッスリーはごくりと唾を飲み込んだ。「マクヒューは自分の手駒を、あなたに売ったと?」 
 ミドゥンはからからと笑った。「まあ、そういう言い方もできなくはないな」 
 あの狐目野郎。キャッスリーは奥歯を噛みしめて、悪態を飲み込んだ。いままで、トムソンが貴族や権力を持つ者に対して抱く不信感──いや、彼の場合はすでに諦念の域に達している──については一歩引いた目で眺めていたが、いまは心の底から共感できる。お偉方どもを信用するなんて、間抜けにもほどがある。 
「トムソン君は、誰に命令を与えられようと意に介さぬ様子だった。前線に行くのでなければどんな仕事でもする、とね」 
「あいつは、そういう奴ですから」キャッスリーはずけずけと言ってから、あわてて口を閉じた。「つまり……たぶん、閣下の魅力に惚れ込んだということです」 
「いやいや、世辞は結構」ミドゥンはやんわりと首を振った。「マクヒューは、君たちを完全に手放したわけではないのだ。その証拠に、君に与える仕事はわたしの監視だ」 
「あなたを、監視……?」 
 ミドゥンは茶を飲み、頷いた。 
「先日の会議で決定した作戦は、マクヒューの提案に寄るところも大きい。女王から総督への支援はないと確信していなければ、あのような作戦は採用できない。そうだろう?」 
「ええ……確かに」キャッスリーは慎重に同意した。 
「マクヒューは、「奴ら、大砲を持ってるんだ。あれは大砲の音だ」が大敗を喫したあかつきには、彼を罷免して、新しくオロッカ家のものを総督に据えると言ってきた」 
 オロッカ家? 初代総督の血筋が、まだ残っていたのか。 
 驚きを浮かべたキャッスリーの顔を見て、ミドゥンは頷いた。 
「条件は──先にも言ったとおり──総督を打ち負かすこと。それから、わたしが抱えている捕虜の解放だ」 
「捕虜……」 
「総督軍に所属していた四人の諸侯の命がわが手中にある。それとあとひとり……君も、すでに会っていると思うが」 
 ミドゥンの目が、キラリと光った。 
 この野営地で会った人びとの顔を思い浮かべてみるが、ピンとくるものはなかった。そもそも、ここで囚人と話したことなんて──。 
 そこでようやく思い出した。その瞬間に、背筋が凍った。 
「まさか、あの箱の中身を解放するおつもりなんですか!?」 
 ミドゥンは頷いた。「いかにも」 
「で、ですが、あの中に入っているのは……化け物です。わたしだってナドカですが、あんな怖ろしいものには、生まれてこのかた出くわしたこともない」 
「その恐怖は正しい」ミドゥンは言った。「正直なところ、君が彼の誘惑に抗ったと聞いて驚いた。わたしが彼を預かるようになって何年か経つが、未だにあの箱を開けてしまいたい誘惑に負けそうになる」 
 なんともゾッとする話を、何でもないことのように語る。 
 キャッスリーはようやく、このダンカン・ミドゥンという男の非凡さに気付きはじめていた。 
「あの……箱は、いったいどういうものなんでしょう」 
「ふむ」とミドゥンは言った。「あれは、コナル・モルニから譲られたのだ」 
「〈アラニ〉の首領が、あれを……?」 
 ミドゥンは頷いた。 
「五年前の事件を覚えているだろう。ダイラの女王と、〈クラン〉の人狼と、エイルの王が狙われた」 
「もちろんです。〈アラニ〉の仕業だと聞いていますが」 
「いかにも。あれは、コナルの主人──マルヴィナ・ムーンヴェイルを討った者たちへの復讐だったのだ。暗殺は全て失敗に終わったが」 
「全て失敗した?」キャッスリーは言った。「しかし、エイルの王は──」 
 ここまで口にしてようやく、気付いた。 
「まさか……」 
 ミドゥンはキャッスリーの顔を見て、深く頷いた。 
「コナルは、あの箱の中に捕らえた者に対して並々ならぬ憎しみを抱いていた。彼のかつての主人を破滅に導き、彼女の成果を掠め取った張本ちょうほんだ、と」 
 そこまで言われたら、箱に囚われた捕虜の正体をほとんど明かしたようなものだ。しかしミドゥンもキャッスリーも、その名を口に出そうとはしなかった。 
「彼は……死んだのだと思っていました」 
「我々全員がそう思っていた」ミドゥンは言った。「だが実のところは、瀕死の重傷を負ったを、コナルが捕らえていたのだ」 
「何故生かしておいたんです? 〈アラニ〉を率いているほどです。さぞかし力のあるナドカなのでは?」 
「どれほど有能なナドカでも難しいだろうな。現に、がこれまでにくぐり抜けてきた死はひとつではない」ミドゥンは首を振った。「いわんや、只人ただびとをや──ということだ」 
 キャッスリーは耳を疑った。「只人ただびと?」 
 ミドゥンはゆっくりと頷いた。 
「コナルは人間だ、キャッスリー君。主人の遺志を継ぐという気力が、彼にナドカ以上の力を与えているようだが」 
「コナルが、人間!?」キャッスリーは目をしばたいた。「それは……初耳です」 
「わたしとて、本人からそう聞いたわけではない。だが、がそう言うのだ」 
 キャッスリーは、おもわず生唾を飲んだ。 
「重大な秘密です」 
「そうだ。コナルは自分の素性を秘密にしている。にとどめを刺していないという事実と一緒にな。を譲り渡したのはそのせいもあると、わたしは考えている。己の素性と無力を隠すために、箱は仲間から遠ざけておく必要があったのだろう」ミドゥンは茶を飲んで、続けた。「これが明るみに出れば、〈アラニ〉は間違いなく分裂する」 
「ええ、そうでしょう」キャッスリーは半ば呆然としながらつぶやき、彼に倣って茶を飲んだ。口に合わない味を意識する余裕もなかった。 
「あの箱についてだが」ミドゥンは言った。「当然、最初のうちは扱いに困った。だが、次第に彼と話をすることがどれだけ有益なのかわかってきたのだ」 
「有益……」 
 短い会話の記憶を手繰ってみても、キャッスリーが思い出せたのは恐怖だけだった。 
「無窮に等しい時を生きた者の知恵だ」ミドゥンの声には、賞賛がありありと表れていた。「いままでは彼の力よりも、その英知を必要としていた。だがこの局面に至り、マクヒューからの提案が舞い込んだ。なにか運命じみたものを感じずにはおれないのだ」 
 キャッスリーは眉をひそめた。「どういうことです?」 
「君の友人のおかげで、マイデンを餌に総督軍をアルバの奥地にまで誘い込むことに成功した。もうじき、敵はマイデンに攻撃を仕掛けるだろう。その隙に、我々はアドリス城を取り返し、連中の退路を塞いで孤立させる。この作戦は理解しているな」 
「はい」キャッスリーは頷いた。 
「アドリス城を落とせなければ、我らに待つのは破滅だ。故に、わたしはあの城で、を解放する」 
 キャッスリーは、ゴクリと唾を飲み込んだ。「解放すると、どうなるんです?」 
「コナルは、箱を開けたときに起こるであろうことを忠告してくれた。力を取り戻すために、は周囲にいる者、全ての命を奪うだろうと」 
 ミドゥンは、黒い雲が沸けば雨が降るだろうと言うのと同じような調子で言った。 
「すべての命を……ですか」 
「箱を開けさせないための脅しだろうが、あり得ないことではない」 
 キャッスリーは小さく頷いた。あり得ないことではないどころの話ではない。十中八九そうなる予感がする。 
 ミドゥンは言った。 
「部下の命は危険に晒せない。彼らには城を包囲させ、わたしが箱を開ける」 
「しかし、それでは──!」 
 ミドゥンは、軍人らしいこざっぱりとした笑みを浮かべた。 
「わたしには、彼を預かる者としての責任がある。あの箱を開けるのはわたしだ。そして、彼がわたしの命をも望むのなら……」小さく肩をすくめる。「その時は、その時だ。だが、成し遂げたかどうかを見届けるものが必要なのだ。君は吸血鬼だから、血を失うことはないだろう。君には、我が軍の者とマクヒューとに、事の顛末を報告してもらいたい」 
 キャッスリーは唖然として、ミドゥンを見つめた。 
「化け物がこの世に蘇るのを見届けろと仰るんですか? あなたが死んでしまったら叛乱軍レバルズはどうなるんです」 
「化け物と言うが、君も吸血鬼ではないのか?」 
 キャッスリーはぶるぶると頭を振った。「別ものです!」そう言ってから、付け加えた。「確かに、わたしも吸血鬼ですが……彼の恐ろしさは、わたしなんかとは比べものになりません」 
 ミドゥンは、それには異を唱えなかった。 
「君が叛乱軍われわれの行く末を案じるのも、いささか意外だな」 
 図星をつかれて、今度は言葉を失った。 
 彼の言うとおり、ほんの少し前までは、叛乱軍レバルズの趨勢になど興味はなかった。彼らの動向に注意を向けていたのも、ただ家に帰りたい一心でのことだったのだ。 
 だが、ミドゥンという人物を知ってしまった今となっては、無関心を装うのは無理だ。 
「わたしは……確かに間者に向いていません」キャッスリーは言った。「見知ったひとには肩入れせずにはおれないのです。あなた方も含めて」 
「ありがとう」ミドゥンは小さく笑った。「だが、心配には及ばない。〈赤き手ラーヴ・ジェラク〉のマクガウアン、〈亡霊サーラ〉のシンクレア、〈フーラの砦アル・フーラ〉のケネディ。有能な指揮官は他にも居る」 
「ですが、あなたほどじゃない」 
 キャッスリーの言葉に、ミドゥンは意表を突かれたように眉を上げた。キャッスリー自身も驚いていた。彼の戦いぶりをこの目で見たわけでもないのに、これほど心酔しているのが不思議だった。 
「であるとすれば、彼の貢献がそれ程大きかったのだ」彼は言った。「さもなくば、我が〈大いなる功業クレサ・モール〉はあれほど多くの勝利を手に入れられなかっただろう。彼にはとても感謝している。だからこそ、もう解放してやらねば。〈大いなる功業クレサ・モール〉のことは、弟に任せるつもりだ」 
「国務卿が約束を守るという保証はないんですよ」 
「それはもっともだ」ミドゥンは頷いた。「だが、我々はあの総督を廃さねばならない。そのためには、こうするより他に道はない」 
「何故、そこまで?」キャッスリーは言った。「に操られているのではありませんか?」 
「そう……かもしれないな」ミドゥンは笑った。「彼は君のことをひどく脅かしたようだが……長く共に過ごせばわかるはずだ。彼に心惹かれずにいるのは難しい」 
 ミドゥンが浮かべた表情を、不意に差し込んだ斜陽のまぶしさが覆い隠した。それは秘すべき感情だったのだろう。きっと、忘れた方がいい──誰の目にも触れさせること無く消えるべき想いなのだろう。春の雲が気まぐれに降らせる雪のように。 
 キャッスリーは、今見たものを胸の内に畳んだ。 
「わかりました。わたしでよければ、きちんと見届けます」 
 どのみち……『こうするより他に道はない』のだ。 
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