【日月の歌語りⅣ】天地の譚詩

あかつき雨垂

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 ダイラ 旧アルバ領 マイデン 
 
「ハミシュ、起きてる?」 
 眠っていた。けれど、馬車の外から聞こえた囁きに目が覚めた。つい一瞬前まで自分を捕らえていた眠りは、突然の風に吹き散らされた砂のように消えた。 
 ハミシュは起き上がり、同じくらい小さな声で答えた。 
「グレタ? 何かあったの?」 
 夜の見張りを終えて眠りについたのは覚えていたから、当番を寝過ごしたわけではない。グレタは何も言わずに馬車の扉を少しだけ開けて、中を覗いた。夜通しの焚き火の明かりが、グレタの赤毛を際立たせる。不意に、夜の中に音と色とが戻ってきた。 
「ちょっとだけ、ここにいてもいい? お茶もってきたの」 
 彼女はさりげない様子でそう言った。けれど、いつもより頼りなげに見えるのはどういうわけだろう。 
「いいに決まってるじゃないか。間借りしてるのは僕なんだよ」 
 グレタは小さく笑った。「そうだった」 
 二人分の杯をもっている彼女のために扉を開けると、外の声がはっきりと聞こえてきた。そう遠くないところで言い争っているらしい、大人たちの声だ。 
「あんたは歳をくって弱腰になっちまってるんだよ、ノーラ!」 
「あんたは生まれた時から考え無しだから、弱腰と慎重さの違いもわからないんだ」 
 扉が閉まると、口論も遠ざかった。 
 ハミシュが気付いたことに、グレタも気付いたようだった。彼女はハミシュにお茶を手渡してから、もう一つの寝台に腰掛け、肩をすくめた。 
「最近、ずっとこう」 
 ハミシュはなんと言えばいいかわからなかった。いつになく口数の少ないグレタにどう接すればいいのかも、よくわからない。だから、彼女が少しでも自分の気持ちを吐き出せるよう、質問をした。 
「何の話をしてるんだろう」 
「同じ話を、何度も、何度も……」グレタは言った。「もっと叛乱軍レバルズに協力すべきだってひとと、叛乱軍が〈アラニ〉と手を組んでいるうちは近づくなというひとと、南部に移ってエルカンらしい暮らしを取り戻そうというひとがいる。母さんマーはいまのところ、誰の味方もしてない。でも……」 
 彼女はうつむき、ガウンの布地についた折り目を左手の指先で手繰った。 
「でも?」 
 グレタは小さくため息をついた。 
「カハルは、叛乱軍になりたがってるの」 
「カハルが?」 
「叛乱軍にエルカンが入るのは……そこまで珍しいことじゃないんだ。でも、母さんマーは駄目だって言ってて、カハルの味方をする人もいて……それでいつも喧嘩になる。たぶん、カハルはここで馬車を降りるつもりなんだと思う」 
「そんな……」 
 グレタはお茶に口をつけて、熱さに顔をしかめた。 
「覚悟はできてると思ってたんだけど」ぽつりと呟く。「カハルのことより、あたしは母さんの方が心配。ずっとカハルに跡を継がせる気でいたんだもん。それに……」 
 何を言いたいのか、ハミシュにもわかる気がした。 
「カハルが……あの人たちの仲間になるのは、怖い」 
 叛乱軍レバルズと〈アラニ〉たちの怒りの大きさを目の当たりにしてしまうと、そう思うのも無理はない。ハミシュは、彼らと対峙したグレタの勇敢さを知っている。けれど同時に、彼女の手が恐怖に震えていたのも知っている。 
「いつかカハルも、あんな目するようになるのかな。あたしの知らないところで」 
 彼女に、一体どんな言葉をかけてやれるだろう。そう思っていたとき、頭の中で声がした。 
『この商隊キャラバンは、カハルってやつより、お嬢ちゃんが率いた方がよく回るぜ』 
 ハミシュの背筋が凍った。 
 杯が手から滑り落ち、お茶が足下に零れた。グレタが慌てて立ち上がり、ハミシュに駆け寄る。その全てが、他人の身に起きていることのように感じる。全てに透明な膜が掛かって、自分には手出しできない──この感覚を知っている。 
 でも、そんなはずはない。今は黄昏じゃない。 
『お嬢ちゃんとの甘いひとときを邪魔して悪いんだけどさ、相棒。外を見てみな』 
 頭の中で響く声に抗う術はない。ハミシュはよろよろと立ち上がって、のぞき窓から馬車の外を覗いた。 
「ハミシュ? いったいどうしちゃったの──」 
 そして、見た。 
 無数の流星が、真夜中の空を横切ってゆく。それは、永遠にも思えるほど引き延ばされた時間の中で、弧を描き、地上をめがけて、今にも降り注ごうとしていた。 
 あれは、流星じゃない。 
 火矢だ。 
「敵襲だ!」 
 誰かが叫ぶ。その声を縫い止めるように、数え切れないほどの火矢がそこら中に突き刺さった。 
「逃げないと、早く!」 
 グレタが言い、ハミシュの手を引いた。転げるように馬車を出ると、そこには砦を目指す人たちの波ができはじめていた。 
「砦に避難するんだ!」ハミシュは言った。 
「でも、母さんマーたちを探さなきゃ──」 
「みんな砦に居る!」ハミシュは言った。「あそこ以外に、逃げるところなんかないはずだ、行こう!」 
 グレタは頷いて、それ以上迷わずに駆け出した。 
 
 戦闘に加わらない者は砦の中に迎え入れられた。 
 兵士の呼び声に導かれるままに砦を目指したハミシュとグレタは、ここでふたたび、商隊キャラバンの皆と合流することができた。だが、再会の喜びと安堵も、長くは続かなかった。 
 砦に避難している人は少なかった。この大きさの街に住む非戦闘民をすべて収容すれば、息苦しさを感じるほど混み合うはずなのに。 
 暗がりに腰を下ろして、外から漏れ聞こえる音に耳を澄ましていると、また、リコヴの声が頭の中に響いた。 
『生贄にされたな』 
 耳を傾けたくないのに、その言葉を無視するのは難しかった。 
 生贄……? 
叛乱軍レバルズの連中は、この砦を囮にして後ろから不意を突くつもりなんだ。上手い手だよな』 
 そんな。じゃあ、ここに居る人たちはどうなるんだよ──。 
『だから言ったろ、生贄だって』 
 それ以上聞きたくなくて、耳を塞いだ。でも、意味はない。声は頭の内側から響いているのだから。 
『住民のほとんどは、もうとっくに避難した後なのさ。お前も見ただろ? 城下は空き家ばかりだった。エルカンどもは、ずいぶん間が悪い時にここに来ちまったな。かわいそうに』 
 そんなこと、ちっとも思ってないくせに。 
『間が悪いってのは本当さ。お前に死んでもらっちゃ困るから、何とか手をうたんとなあ』 
 しらじらしい。 
 ハミシュは奥歯を食いしばった。 
 最初からわかってて、マイデンに来ようとしてたんだろ。 
 リコヴはただ、腹立たしいクククという笑いを残して、それ以上は何も言わなくなった。 
 不安に満ちた夜が過ぎ、明け方近くに、ほんの少しの間だけ静けさが戻ってきた。その後で、再び攻撃が始まった。 
 砦を攻めるのには、人手も時間もかかるものだ。攻め手は守り手の三倍の兵力を必要とするという。けれど、伝わってくる噂に希望の材料はなかった。敵は一万人近い兵を引き連れてきていて、おまけに大砲まで持っているらしい。 
 人びとは囁く。 
「こんな古い砦に、なんだってあんな大人数で攻めてくるんだろう、と」 
 すると、不安げな群衆の中から、ぽつりぽつりと噂話が出てきた。 
「ついこの間までオルネホの方にいたって奴が、埋蔵金の話をしてた。こっそりここに運び込まれたって」 
「埋蔵金って、オロッカの埋蔵金? まさか、今更になってあんな与太話を信じて来たってのか?」 
「ただの噂だって放ってはおけないんだろ。その金がありゃ、エイルの魔道具フアラヒだって買えるんだ」 
「金があればの話だろ……」 
 飛び交う噂の中に、明るい話題はひとつもない。 
 この砦を出て行こうとする者が引き留められることはなかったが、ほとんどの者は残った。城壁の外へ一歩出れば、そこに戦渦が広がっているのは明らかだからだ。 
 遠い喊声と轟き、そして、自分を取り囲む囁きに耳を傾けながら、朝が昼になり、昼が暮れていった。 
 その日の夜、ノーラ・マクラリーは一族を自分の周りに呼んだ。彼女は商隊の皆を見回した。 
「みんな、集まってるね」 
 ノーラの表情には決意が宿っていた。一族の長としての威信を、彼女は冠のようにその頭に戴いていた。 
「馬と馬車を置いて、今すぐここを出る」 
「そんな……!」 
 異論は上がらなかった。グレタのものを除いては。 
「この砦には抜け道がある。けれど、馬車と馬は通れない」ノーラはきっぱりと言った。「ここに残していくしかない」 
「でも……ここに居れば安全なんじゃないの?」 
 ノーラは唇を引き結んで、娘を見つめた。 
 彼女は口には出さなかったけれど、ハミシュには、ノーラの置かれている立場がわかった。 
 マクラリー商隊キャラバンは大所帯だ。ここでどのくらいのあいだ籠城することになるのか先が見えない以上、よそからやって来たエルカンの存在は、砦に備えられている水や食料を減らす厄介者でしかない。加えて、エルカンの中に間者がいるという噂もある。昨日からずっと、大広間に避難してきている人びとから、探るような視線を向けられていた。聞こえよがしな悪態も耳にした。緊張感と不安ですり切れた心は火花を散らしやすい。ここに留まれば、必ず衝突が起こる。 
 城壁の中が最も安全だ。ただし、それはこの砦の庇護下にある者のための安全だ。流れ者エルカンには……許されない。 
「命さえあれば、たてなおせる」カハルがノーラに加勢した。「俺たちの馬は戦闘向きじゃない。戦には加わらないし、敵もわざわざ危害を加えるようなことはしないさ」 
 グレタは怯え、ひどく動揺していたけれど、それ以上は抗わなかった。彼女はただ俯き、じっと黙り込んだ。 
「大丈夫だ、グレタ」カハルはいい、グレタの肩に手を置いた。「馬たちは、俺がちゃんと面倒を見る」 
 グレタは弾かれたように顔を上げた。「どういうこと? 一緒に行かないの?」 
 カハルはノーラと、ほんの一瞬だけ顔を見交わした。 
「母さんと話した。俺は叛乱軍レバルズと、ここに残る」 
 グレタの目から、涙が零れた。「そんな、いやだよカハル……こんないきなり──」 
「しゃんとしろ、レタ」カハルは妹を抱き寄せ、ぎゅっと抱きしめた。「俺がずっと前から決めてたのは、お前が一番よくわかってるだろ。時が来た。これ以上ない時が来たんだ」 
 グレタは、兄のシャツにしがみついた。 
「いいか。お前は必ず生き延びて、マクラリー商隊キャラバンを継ぐんだ」彼は言った。「お前は強い。父さんと母さんの子だろ」 
 その言葉に、何かの魔法でも宿っていただろうか。 
 抱擁を解いたとき、グレタの目から溢れる涙はなかった。 
「馬鹿兄貴」グレタは言った。「次に会ったら、思い切り殴ってやる」 
 カハルは笑って、グレタの頭をくしゃくしゃと撫でた。「やれるもんなら、やってみな」 
 その時、ひときわ大きな音がした。空気まで揺るがす、巨大な鎚の一撃のような。ここから戦闘の様子を窺う術はない。にも拘わらず、みな固唾を呑んで城壁がある方角に目を向けた。 
 大きな音が、もう一度。今度は、避難しているものたちの口からはっきりと悲鳴が漏れた。 
「何の音?」小さな子供が尋ねている。 
「奴ら、大砲を持ってるんだ。あれは大砲の音だ」 
 やがて聞こえてきた喊声は、おそらく、味方ではなく敵のものだ。 
「外の壁が破られた」 
 誰かがつぶやき、恐怖が波のように、人びとの間に広がっていった。 
 それなら、ここまで攻め込まれるのも時間の問題だ。 
「行け」 
 カハルが言い、グレタを母親の方へと押し出した。 
海神の羅針盤がゴー・ベフェディ・アン・コンパスお前を導きますようにトゥ・ア・トゥロール・ゴー・サーバテ。じゃあな、グレタ、母さん。皆も達者で」 
海神マルドーホのご加護を」 
 ノーラはカハルの頬に手を当てた。許されたほんの短い時間で、彼らは互いに伝えられるだけの想いを伝えた。言葉ではなく、眼差しで。 
 そしてカハルは、ハミシュに言った。「グレタを、頼んだ」 
 ハミシュは頷いた。 
 カハルは微笑み頷き返すと、表の戦いに加わるべく、不安にどよめく人びとの間に消えてしまった。 
『あーあ。あいつもすぐに死んじまうな』 
 頭の中の声を無視して、ハミシュはエルカンたちの一団の後についていった。 
『この砦の連中が使い物にならないのは、お前だって知ってるはずだ』 
「うるさい」噛みしめた歯の奥で、唸る。 
『なあ、わかるだろ? 俺ならなんとかしてやれるんだ。今までだってやってきた。エイルでもアシュモールでもピトゥークでも──ま、お前はほとんど寝てたけどな』 
 ハミシュは、耳を掴んで思い切り塞いだ。だが、声は消えるどころか一層大きくなった。 
をここに呼び寄せれば、あんな有象無象ども、すぐに溺れ死ぬぜ』 
「うるさいって言ってるだろ……!」 
『だって、見たかよ。この砦を守ってる連中はさ、農家のあぶれ者に傭兵崩れ。どこの〈集会コヴン〉や〈氏族クラン〉でも上手くやれずに、〈アラニ〉に加わった半端物……案山子かかしほどの役にも立ちゃしない』 
 声は楽しげに笑った。 
『なあ、考えても見ろ。お前が皆を救えるんだぜ。憧れてるんだろ? そういうのにさ』 
「うるさい、うるさい、うるさい……!」地下へと続く階段を下りながら、呪文のように呟き続ける。 
『今ごろ、エミリアはみんなのために戦ってるだろうな。颯爽とさ。かっこいいよなあ……あんな風になりたいよなあ』 
 グレタは先頭近くにいた。母が掲げる松明の明かりを頼りに、目の見えない老イアンの手を取って、彼を導いている。その顔には、さっき泣いていた少女の面影はなかった。ただ断然たる使命感だけがあった。 
『うらやましいよなあ』 
 暗闇が語りかけてくる。 
『お前はいつだって状況をかき乱すばっかりで、真になにかの役に立ったことがない』 
 ああ。そうだ。お前のせいでな。 
『へえ? いいとも、俺のせいにすりゃいい。でも知ってるぜ。俺は知ってるよ、ハミシュ。どれだけ俺を疎ましがってみせても、お前は絶対に、俺に『出てけ』とは言わないんだ……自分ひとりじゃ何にもできないって知ってるもんな?』 
 松明の光が届かないよう顔を背け、ハミシュは目に滲むものを拭った。 
『カハルもグレタも、エミリアも、みんな自分のすべきことがわかってる。そのために命をかけてる。でもお前には? 何もない。なぁんにもないんだよなぁ』 
 ああ、そうだ。 
 僕は……彼らが羨ましい。 
 ハミシュが立ち止まったことに、グレタが気付いた。 
「何してるの? 早く行こう」 
 ハミシュは顔を上げた。そしてグレタを追い越して、ノーラのところへ駆け寄った。 
 先頭を歩く彼女の頬には、乾いた涙のあとがある。それを見て、ハミシュにもわかった。彼女がどんな思いで息子を送り出したのか。 
「どうかしたのかい?」 
 と問う言葉を遮って、ハミシュは言った。 
「ノーラ、きっとおかしな話に聞こえるだろうけど、あなたがもっている海神マルドーホの宝を、僕に貸してくれませんか」 
「ええ?」ノーラは驚いてから、合点がいったというようにため息をついた。「ああ……レタが話したんだね?」 
「詳しい話をしている時間はないんです。でも、それがあれば砦を救えるかも知れない」 
 なるほどね、と彼女は言った。 
「確かに、不思議な力があると言い伝えられてはいる」歩みを止めることなく、ノーラは首を振った。「けれどね、あれは昔話みたいなものなんだよ。真に受けている者など、あたしらの中にさえいないんだ」 
「それでも、お願いします」ハミシュはノーラのすぐ横を歩きながら、なんとか食い下がった。「絶対にお返ししますから!」 
 するとノーラは立ち止まり、ハミシュをしっかりと見た。鷹のような眼差しだった。たじろぎそうになるのを堪えて、その目を見返す。 
 他のエルカンたちも足を止め、二人を取り囲んで、成り行きを見守った。 
「あたしはたったいま、息子を失った。馬車を、馬たちを、商売道具を失った。この上、一族に伝わる最後の誇りまで奪おうってのかい」 
「カハルは生きてる! 今ならまだ助けられるかもしれないんです!」 
 するとノーラは、何かに打たれたように目を見開いた。彼女はほんの一瞬、口をつぐんだままハミシュを見つめた。そして、たったいま目にした不可思議な出来事を疑うみたいに、目を細めた。 
「昔、同じようなことを言ったナドカが居たよ。人狼のくせにあたしに説教をして、吸血鬼のくせに娘の命を救おうとした」 
「あなたは、その二人を信じた」ハミシュは言った。「だから、グレタが生きて、ここにいる。そうでしょう?」 
母さんマー」グレタが、ノーラの隣に立った。「あたしからも、お願い」 
「レタ……」 
 グレタは、ハミシュを見た。 
「あたしは信じてるよ、ハミシュ。約束を守ってくれるって」 
 ハミシュは、彼女の目を見てしっかりとうなずいた。 
「それがあれば皆を救えると、あんたはそう思うんだね?」ノーラが言った。 
「はい」ハミシュは言った。 
「よせ、ノーラ」エルカンの中から、声があがる。「一族の家宝なんだぞ!」 
 ノーラはそれを制して、大きなため息をついた。 
「レタ。お前がわたしておやり。あたしは松明を持っていて手が離せないから」 
「はい」 
 グレタは母の首筋に手を伸ばすと、そこにかかっていた革紐をたぐり、彼女の首から外した。マルドーホの家宝は、いままでずっとノーラの首に提げられていたのだ。 
「ありがとうございます……!」 
 ノーラはひとつ、小さく頷いただけだった。「また会うことになるんだから、大仰な別れの言葉は必要ないだろう。そうだね?」 
「はい」ハミシュも頷き返した。「それじゃあ、また」 
「ああ、またね。ハミシュ」ノーラは、目尻に小さな笑いを浮かべた。そして、言った。「さあみんな、出口までもう少しだよ!」 
 ノーラが声をかけると、止まっていた列が再び動き出した。グレタは地下道の脇にハミシュをひっぱると、皆の邪魔にならないところで、首飾りをハミシュの手に握らせた。 
「これが、海神マルドーホがマクラリーにくださった宝」 
 それは、不思議な飾りだった。螺鈿で波の模様が施された木板と、それに挟まれた細長い金属片。 
「水に浮かべると、先端が必ず故郷イムラヴを指すの。北じゃなくてね」グレタは、ハミシュの手ごと、それを握った。「あなたに預ける」 
「絶対に、返すよ」 
 ハミシュがそう言うと、グレタは微笑んだ。 
「ハミシュに会ったとき、何かが起こる予感がしたんだ。こんなに大変なことだとは思わなかったけど」 
「ごめ──」それ以上言わせまいと、グレタの指が、唇に触れた。 
「あやまらないで」グレタの微笑みは、さっきよりも力強い。「きっとこれも、海神マルドーホのお導きだから。返すのにどれくらい時間がかかってもいい。でも必ず、あなたが返しに来て。生きてもう一度、あたしたちに会いに来て」 
 ハミシュは頷いた。「約束する」 
 グレタは、羅針盤を握ったハミシュの手を持ち上げて、唇を寄せると息を吹き込んだ。 
風と潮とがあなたを栄光へ導くようにゴー・マイア・アン・ガオス・アガス・アン・タオイド・トゥ・クン・グロイル」 
 そして、ハミシュの背中を思い切り叩いて、言った。 
「行って!」 
 ハミシュは頷き、駆け出した。グレタの最後の言葉が、ハミシュの背中を押した。 
「約束破ったら、お尻を蹴っ飛ばしにいくから!」 
 
 走る勢いのまま扉を押し開け、地下道を飛び出した。扉を守っていた兵士が驚いてハミシュを見る。 
「お前、何で戻ってきた!?」 
 それには答えず、制止の手をも振りきって、ハミシュは砦の外を目指した。だが、砦の門は固く閉ざされていて、出入りは出来ない。別の道を探すしかなかった。 
 外に出る扉は、いずれも兵士によって守られていた。けれど二階へと続く階段は、そう苦労せずに見つけることができた。ハミシュは猫から逃げる鼠のように階段を駆け上がった。 
『外だ、外だ、外へ出ろ』 
 歌うような節をつけて、頭の中の声がハミシュを急かす。 
 確か、二階には広縁バルコニーがあったはずだ。砦に入るとき、そこから紋章の旗がかかっているのを見たから、間違いない。 
 砦の通路には窓らしい窓がない代わりに、等間隔に配された矢狹間やはざまがある。弓兵の数が少ないせいで、ほとんどが空いていた。そのうちの一つに駆け寄り、外の様子を覗き込む暇はない。けれど、激しい戦闘が行われているのはわかった。それだけわかれば、充分だ。 
 広縁バルコニーへと続く扉をようやく見つけたハミシュは、把手にしがみつき、渾身の力で押し開けた。 
 黄昏の空の下、戦乱が広がっていた。 
 外郭はすでに崩されていた。土塊で補強されていた壁は単なる土砂の山となり、侵入者にやすやすと踏み越えられてしまっている。戦いは町中にまで入り込んできている。全てが炎に包まれて、あたりは昼よりも明るかった。 
 攻め入る敵はいずれも王冠ではなく、緑の雄牛の紋章を身に帯びている。きっと総督軍の紋章だろう。エミリアが言っていたとおり、ここに攻めてきているのは女王直属の兵士ではない。でも、だからといって何かの助けになるわけでもない。 
『あの魔女どもときたら。見ちゃいらんないぜ、まったく』 
 内郭の稜堡りょうほに配備された魔女たちが、ありったけの風と炎を起こして、敵を封じ込めようとしていた。だが、力が足りないのか、数が足りないのか、あるいはその両方か──炎の舌は敵の膝下を控えめに舐めるばかりで、次々と押し寄せる兵士たちに蹴散らされてしまっている。 
 敵は相変わらず隊列を保ったまま、内郭の前に迫ろうとしていた。城壁を守る兵たちは、よじ登って来る敵を退けようと奮闘していた。すでに弓矢は剣に持ち替えられている。胸壁に手を掛けようとする者が次々に上ってきて、一塊の波のようになっていた。防御に僅かな綻びでもあれば、敵はそこから雪崩をうって押し寄せてくるだろう。 
 一方、門の外側には巨大な破城鎚が引き出されていた。滑車をつけた木の枠から、金属で補強した丸太を吊したものだ。彼らは号令にあわせてそれを振るい、その度に、地響きのような衝撃が走った。 
 砦の最後の守りが突破されずにっているのは、壁の内側から必死に力を送り込んでいる、ひとりの魔女のおかげだった。 
「エミリア……!?」 
 彼女は固く閉ざされた城門の内側に立ち、両手を扉に押し当てていた。いまにも破られそうな扉を魔力で補強しているのだ。だが、閂にはすでに裂け目が生まれていて、ハミシュがみている前で二つに折れてしまいそうだった。 
 今となっては、彼女の素性など大した問題ではない。ほんの数日前に彼女を糾弾した男たちは、今は門の内側に集まって槍衾を形成しつつ、彼女の魔法をじっと見守っていた。 
『あの女、もうすぐ力尽きるぞ』頭の中の声がクククと笑った。『そこが狙い目だ。救い手として華々しく登場してやろうぜ』 
「うるさい!」 
 ハミシュは叫び、広縁バルコニーの淵に立った。下を見ないように注意しながら、長く垂れ下がった旗につかまって、伝い降りる。頼りなくぶら下がった体を吹き抜ける風は強く、きな臭さと血生臭さが入り交じったいくさのにおいがした。目がちくちくと痛み、肌がひりつく。 
『そーっと、そっとだ。もたもたしてると、あの魔女が死ぬけどな』 
 手の中に汗が滲むが、硬い布地はそれを吸い込むこともない。行き場を失った汗で手が湿る。分厚い旗の下にある微妙な足がかりを頼りに、時折手を滑らせながらも、ハミシュはどうにかして地面のすぐ近くまで降りた。旗にぶら下がったまま下を見ると、そこから地面までは、まだかなりの距離があるように見える。 
『無理しなくたっていいんだぜ。もういちどよじ登って、別の道をさがしゃ良い』 
 ハミシュは目を閉じ、恐怖と、頭の中の声を締め出そうとした。 
 そして旗の裾を掴んでいた手を放し、壁からずり落ちるように地面に着地した。足の裏がじーんと痺れたけれど、なんてことは無い。 
『こそ泥時代の経験が生きたな』 
 感心した声を無視して、ハミシュはエミリアの元へ走った。 
「エミリア!」 
 彼女は、気絶する寸前だった。 
 顔は蒼白で、髪にも、肌にも生気がない。いったいどれほどの訓練を積めば、こんなになるほど限界まで力を出し尽くすことができるのだろう。普通の魔女ならば、この状態に至るずっと前に気を失っているはずだ。 
「ハミシュ……ここで何を──」エミリアは掠れた声で言った。「危険です。いますぐ砦に戻りなさい!」 
「わかってる」 
 ハミシュは門を見上げた。 
 エミリアの魔法が、金色の網となって扉を包み込んでいる。だがその輝きは弱々しく、ところどころ綻びかけていた。 
「おい小僧! 魔女の邪魔をするな!」 
 兵士が進み出て、ハミシュの腕を掴む。が、ハミシュをつまみ出すことはおろか、一歩退かせることさえできなかった。ハミシュにはわかった。今の自分には、常人以上の力が宿っている。 
「な、なんだ、こいつ──」 
 ハミシュは彼を無視して、エミリアだけを見た。 
「エミリア、魔法を解いて。門をあけるんだ」 
「できません」 
 立っているのもやっとな状況だろうに、彼女はきっぱりと言った。 
「扉の向こうにいるのは女王の軍ではありません。総督の手の者たちです。彼らは容赦なくわたしたちを踏みにじるでしょう──」 
「だからだよ」ハミシュは言った。「大丈夫。これ以上は味方に犠牲は出ない」 
「貴様、何を言ってる! 気でも違ったのか!」 
 兵隊たちが口々に怒鳴る合間にも、破城鎚の轟きが響いていた。門は軋み、悲鳴を上げ、降伏を許される瞬間を今か今かと待っている。 
「大丈夫。僕らは勝てる」ハミシュはそう言い、男たちに顔を向けた。 
 すると、彼らは悲鳴を上げてのけぞった。 
「何だ、お前……!」 
 兵たちは、化け物をみるような目でハミシュを見た。 
 頭の中に、愉快そうな笑い声が響く。 
『ばあ!』 
 リコヴが訪れているとき、自分の目がどういう状態になるのかは話に聞いていた。瞼の中が、まるで黄昏の空のようになるというのだ。そんな見た目では、さぞかし人を怯えさせるだろうとは思っていた。けれど、実際にそうした反応に出くわすとすこしばかり可笑しい。 
 背後から聞こえた悲鳴に、エミリアもほんの一瞬、門から視線を剥がしてハミシュを見た。 
「その目は、一体──」 
 もうすぐ、この身体は再びリコヴのものになる。それでも、せめてこれくらいは──他ならぬ自分の友達を守るためにする事を、なにかひとつくらいは、自分でやり遂げたかった。 
「門から下がっていた方がいい」ハミシュは、兵たちに向けて言った。「あなたたちの仕事は、もっと後……波が引いてからだ」 
「波だと? 何をする気なんだ……」誰かが呟く。「お前、何者だ?」 
「何をするかは、見ていればわかります」 
 僕は何者か? 
 それは……自分でもよくわからない。 
 ハミシュはエミリアに手を貸し、兵たちのいる方へと背中を押した。 
「君も下がっていて。ここに居たら溺れてしまう」 
「溺れる……?」 
 エミリアは一瞬だけ迷ってから、ゆっくりと手を下ろした。 
「わかりました。あなたを、信じます」 
 扉の向こうで、敵のかけ声が高まってゆく。最期の一撃を加えるため、破城鎚が限界まで引き上げられようとしているのだ。 
 かけ声が止む。一瞬の静寂。そして号令が響く。来るべき一瞬を前に、空気が薄く、硬くなる。 
「もう終わりだ」と誰かが言った。 
 次の瞬間、怖ろしい音を立てて、巨大な丸太の先端が門を突き破っていた。 
 隙間をこじ開けて、兵士たちが侵入してくる。輝く剣を振りかざし、怖ろしげに喚きながら。 
 彼らは、ちっぽけなハミシュのことなど見ていない。砦を落とし、彼らが探し求める埋蔵金とやらを手に入れようと──あるいはただ勝利のために、全てを踏み越え、踏みにじって先へ進もうと逸っていた。 
 ハミシュは、海神マルドーホの羅針を握った右手を、高く掲げた。 
 そして、神を呼ぶための言葉を、高らかに詠った。頭の中の声が囁くとおりに。 
 
 「北海の綿津見わたつみよ、あまねく波を総べる者よ、我が元へ来たれ 
  汝を崇めし波間の民を故里ふるさとへと帰らせんがため!」 
  
 ハミシュは言った。 
 
 「者どもよ、見よ! いざや見よ! これぞ、北の海神マルドーホの神威しんいなり!」 
 
 最後の息を吐き出した瞬間、ハミシュの視界は黒一色に染まった。 
 気を失った。それとも、死んだ? 
 考えたそばから、違和感に気付く。 
 死んだわけない。それなら、こんな風に何かを考えることはできないはずだ。 
 そしてハミシュは、黒く塗りつぶされたと思った視界にが見えているのに気付いた。 
 よくよく目をこらすと、そこには無数の光があった。星空ではない。水底でもない。この世で目にするいかなるものとも、まるで違う何かを見ているのだと、なんとなく理解できた。 
 遠くに、近くに……渦を捲きながら、あるいは縦横無尽に宙を駆け巡りながら。群れて、あるいは独りぼっちで。螺旋と、重なり合う円と、稲妻と、それから色彩。色彩。爆発する色彩。滅茶苦茶で支離滅裂なものが、脳裏を埋め尽くす。 
 ひときわ眩い光が目の前に現れたと思うと、それは身体を丸めた赤子になり、再び燃える火の玉となって視界の果てまで飛び去った。何もない空間に草が芽吹き、瞬く間に大木へと成長して、朽ちていった。人間の形をしたものが獣を産み、獣は鳥となって、広大な暗黒の中を飛び回った。 
 そこは混沌の世界だった。 
 がなんなのか、ハミシュは理解した。そして、忘れた。余りに多くのが一度に訪れ、飲み込みきれないまま何処いずこかへ流れて行ってしまう。なんて勿体ない。けれど、全てを受け止めようとすれば、自分というちっぽけな存在は、耐えきれずに燃え尽きて、塵になってしまうだろう──それだけは、何よりも強くした。 
 次に瞬きをしたとき、その世界は消えていた。 
 かわりに、ハミシュの目の前には海があった。 
 青黒い水が辺りに満ち、潮の香りが立ちこめる。潮騒が喊声を飲み込み、強い海風が背後から吹き抜けていた。 
 これは、さっきいた混沌の世界ではないのだと理解するのに時間がかかった。 
 ──そう、これは現実だ。現実の戦場の、他ならぬハミシュの足下から、海が湧き出ているのだ。 
「な……何が起こっているんだ──」誰かが言った。「幻術か?」 
 そうではない。これは『海』だ。 
 イムラヴの民イムラヴァが救いを求めるとき、そこには海が現れる──。 
 リコヴがマクラリーの家宝を使って、この場所に海神マルドーホの力を呼び出したのだ。伝説の通りに。 
 波は夥しい飛沫を撒き散らしながら、高々と頭をもたげた。そして、ゆっくりと頽れていった。波濤が崩れる先には、門をこじ開けて入ってきた兵たちがいた。彼らはただ、その場に立ち尽くしていた。何が起こったのか理解できた者など、この場に一人としていなかっただろう。 
『景気よく行こうぜ!』 
 けたたましい笑い声と共に、波が、全てを飲み込んだ。 
 総督の軍には、抗う術などなかった。 
 ハミシュの足下から次々に湧き上がる『海』は、ひとつ波打つごとに全ての歩兵を、騎士を、兵器を、遠くへと押し流した。けたたましい剣戟の響きもなく、骨を震わす鬨の声もなく、轟く波音がすべてを──為す術なく流されてゆくものたちの悲鳴さえも──飲み込んだ。何人たりとも、その波に勝ち得なかった。 
 其処此処で燃えていた炎はぶすぶすと音を立ててあっけなく消え、あとには幾筋もの煙の帯が残るばかりとなった。 
 波の勢いは、やがて衰えていった。無尽蔵に溢れ出るかと思われた海は、最後に少しばかりのさざ波を起こすと、汚れた淀みに変わってしまった。 
 今や敵は外郭の端にまでおいやられ、水を吸って重くなった身体を何とかおこし、泥濘ぬかるみの中で体勢を立て直そうとしている。騎士たちの馬は恐慌に陥り、手近な脱出口を見つけるやいなや逃げ出してしまっていた。砦にむけられていた大砲は横転し、砲弾は散り散りに転がり、種火も死に絶えている。 
 マイデンの叛乱軍レバルズたちは、雷に打たれたように動かず、この光景を見つめていた。 
 やがてひとりの男が、小さな声で口にした。 
海神マルドーホだ」その声は、歓喜に震えていた。「海神マルドーホが、俺たちを守って下さった」 
 彼の言葉が、沈黙の呪縛を破った。兵たちは口々に海神マルドーホの名を呼び、神をたたえるために盾を打ち鳴らし、地面を踏みならした。 
 その音は、波濤の砕ける音のように茫茫と、戦場に響き渡った。 
海神マルドーホよ、我らの勝利をご嘉納かのうあれ!」叛乱軍の隊長とおぼしき男が馬上で叫び、崩れ去った門の向こうに剣の切っ先を向けた。「追撃だ! 打って出るぞ! 追撃!」 
 進軍の命令を載せて、角笛と陣太鼓が鳴り響く。兵士たちは吶喊とっかんの声をあげながら、意気軒昂と門を出て行った。 
 彼らは口々に海神マルドーホの名を叫んで、立ち向かい、あるいは逃げ惑う敵を追った。彼らの横顔には、ついさっきまで立ちこめていた恐怖の、ほんの僅かな影さえも残っていなかった。 
 ハミシュは立ち尽くしたまま、目の前の光景を呆然と眺めていた。そのうちに世界がぐらぐらと回り出し、泥濘に膝をついて、激しく嘔吐した。 
 再び、あの混沌の世界が脳裏に浮かぶ。 
 暗闇の中、今度はさっきよりも多くのものを見た。 
 逆巻く波を作りながら海を歩いて行く、巨大な男の姿を見た。彼の周りに付き従う白波は、まるで何百もの白馬の群れだ。いかづちを纏ってうねる暗雲が、厳めしい父のような顔で地上を見下ろしている。彼が降らせる雨の下、無数の剣でできた身体を持つ者が、身体から火花を散らしながら踊り狂っていた。別の場所では、戦斧を掲げた血まみれの乙女たちの周りを、烏の大群が飛び回っている。大きな棍棒を引きずりながら巨人トロールが歩けば、大地はあくびをしながら身じろぐ。土の中から緑が湧き出し、獣たちが溢れ出た。 
 彼らの中心には、さっき目にした赤子がいた。ぎゅっと丸まったその影は、まるで卵のように見えた。卵には大きな白い鳩が寄り添い、甲斐甲斐しく温めている。数え切れないほどの異形とその赤子とは、赤く脈打つ臍の緒で繋がっていた。鳩がクルクルと喉を鳴らすと赤子が笑い、いくつかの異形が灰となって朽ちた。そして、膨らんだ腹に月を抱く女性にょしょうが、不思議な笑みを湛えてハミシュを見つめた。 
「ハミシュ!」 
 瞬きをすると、混沌の光景は再びどこかへ消え去った。 
 エミリアが傍に膝をついて、ハミシュの肩に触れていた。その手は冷たく、震えている。 
「あなたにも魔法が使えたなんて」エミリアは言った。「それも、あんなに強力な……」 
「魔法じゃない」 
 ハミシュは言い、口の中に残った嫌な味を吐き出した。そして、顔中を覆う涙と鼻水を拭いた。 
「あれは、魔法じゃない……」 
「ならば、なんなの?」エミリアの声には、微かな恐怖が表れていた。 
「あれは……」 
 ハミシュは、再び滲んでくる涙を乱暴に拭った。目を閉じると、暗黒の混沌の記憶が蘇る。怖ろしいのに、覗かずにはいられない、魅惑の闇。 
 僕は馬鹿だ。あいつの言うことになんか、耳を貸しちゃいけなかったのに。 
「罠だ」よろよろと立ち上がる。 
「罠……?」 
「エミリア、もし君がまた、グレタに会うことがあったら……」 
 ハミシュは背中を丸めた。もう二度と、背筋を伸ばして歩ける気がしなかった。 
「ごめんって、伝えて」 
 そして、ハミシュはマイデンの砦を出た。 
「ハミシュ!」 
 エミリアの制止の声が聞こえた。だが、振り返りはしなかった。 
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