【日月の歌語りⅣ】天地の譚詩

あかつき雨垂

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 硲 忘却の果て 
 
 いただきに、もうすぐ手が届く。ハミシュは、力が抜けそうな四肢をなんとか動かして、次の手がかり、そして足がかりを探った。呻きながら身体を引き上げる。なめくじのような歩みだけれど、それでも少しずつ、上に向かっている。 
 そうしているうちに、また──こんどは二本、赤い緒が千切れた。 
 リコヴは喜んではいないようだった。瓦礫の山を着実に登っていくハミシュを邪魔するように、辺りを飛び回り、気が散るようなことを言おうとしている。 
「なあ、ちょっとは手を貸してくれたっていいだろ? 俺が助けなきゃ、お前はとっくの昔に死んでたんだぜ」 
「お前が僕を選ばなかったら、僕はエヴと一緒に居られた」 
 リコヴはチッチッと舌を鳴らした。 
「そいつはどうかな。山賊どもをけしかけたのは確かに俺だけど、もしあのままカルタニアについてたら、お前は殺されてた」 
「そんなことは──」 
 わからないじゃないかと言おうとしたハミシュに、リコヴはたたみかけた。 
「お前はさ、弟の付属品にすぎないんだ。ハミシュ。同じ枝に二つの果実が実ったらどうする? 片方を育てるために、もう片方をちょん切るんだ。お前は切られた方の林檎さ。それを俺が拾い上げてやったんだ」 
 言い返す言葉がない。ハミシュは黙って次の足場に足をかけた。 
「でも俺は優しいから、お前の見せ場も用意してやったんだよ。エヴラールだけが注目を浴びるわけじゃない。良いだろ? 聞きたいか? 聞きたいだろ?」 
 聞きたくない。 
「神の声を聞く少年の神話だよ。エイルの復活に力を貸し、アシュモールで女神を蘇らせた。でも、それは全部、俺たちみたいに邪悪な異端の神々を葬るための作戦だったんだ」 
 ちがう。それは僕じゃない。 
「お前がいなきゃ、新たな神がこの世に生まれることもなかった。聖なる戦を勝利に導く英雄だ!」リコヴは自分の言葉に陶酔するように目を細めた。「考えてもみろ、皆がお前の生き様に耳を傾けるんだぞ! 涙さえ流すかもな! 誰もが自分の子供にハミシュって名前をつけるだろうぜ!」 
「嫌だ!」 
 ハミシュは叫びながら、頂の縁を掴んだ。 
「なんで嫌なんだ! お前だって望んでたじゃないか? エミリアやクヴァルドみたいな救世主になるのが夢なんだろ?」 
「でも、それは僕じゃない」ハミシュは言った。「僕は英雄なんかじゃない!」 
「そうかよ! だがな、皆が求めてるのはなんだぜ」リコヴは言い、縁にかかったハミシュの手の上に立った。「皆が求めてる嘘を聞かせてやるんだよ。それだって大事なことだろ?」 
 視界が霞んできた。涙がにじみ、目の縁にたまってゆく。 
「嘘の何が悪い! 逃げてばっかりのお前の人生より、作り話の方がよっぽどさまになってるぜ。失敗続きの神話なんか、誰が聞きたがるんだよ!」 
 わかってる。 
 ハミシュは歯を食いしばった。 
 腕に力が入らない。限界は、とっくのとうに超えていた。このまま手を放したら、苦痛から解き放たれるだろう。誰も僕がここでしていることを知らない。これからも知ることはない。失敗したことだって誰にもわからない。世界が滅んでしまえば、僕のことを知っているひともいなくなる。 
 手を放すだけでいい。そうすれば終わる。楽になれる。この苦痛から逃げられる。 
 そう、僕は今まで、逃げることしかしてこなかった。 
「わかってるよ。お前に言われなくたって!」 
 逃げてばかりいるのが嫌だった。誰かに求められるまま、求められたことをして、悪いのは全部リコヴのせい──そんな風に生きるのが、ずっと嫌で仕方なかった。 
「でも、これが僕なんだ」 
 ハミシュは呻き、渾身の力を込めてよじ登った。 
 縁に腕がかかる。もう少し。体をねじ曲げながら膝を持ち上げる。あと少しだ。 
 奥の方に、エヴラールの姿が見えた。無数の赤い緒と繋がった卵は、さっきよりもずっと大きくなっていた。でも同時に、わずかに黒ずんでもいた。まるで、壊死しかけているみたいに。 
 ああ、エヴ。 
 ハミシュは、弟が味わってきた苦しみを思った。 
 あんなに巨大な教会という組織の中で、重圧に押しつぶされそうになりながら、弟は藻掻いていた。たった一人で。ハミシュといつか再会するという望みだけを胸に抱えて。 
 英雄だとか、世界を救うとか、そんな人間にはなれない。僕はただ、エヴラールを救いたい。世界なんか、本当はどうだっていい。僕のための神話なんか、欲しくない。 
 自分に都合の良い嘘に逃げてばかりで、流されてばかりで、結局、世界は救えない。それでも──。 
「これが、僕なんだ!!」 
 叫びながら、体を引き上げる。 
 ようやく、頂に辿り着いた。涙が溢れていた。そこらじゅうが痛い。爪はいくつも失われ、小骨は折れ、筋も切れている。 
 それでも、ハミシュは立ち上がった。よろめきながら瓦礫の上を歩いて、弟に近づいていった。 
 目の前に立つリコヴは、もう笑っていなかった。 
「エヴを返せ」ハミシュは言った。「弟を自由にして、いますぐこれを終わらせろ」 
「嫌だね」リコヴの顔には、冗談の気配さえなかった。「こんなところまで来て、やりたいことがそれなのか? 弟を救う? どうせなら世界を救えよ! 俺を受け入れれば、それが叶うんだ!」 
 エヴラールを捕らえている卵の中身が、うっすらと透けて見えた。怖ろしく大きな塊が、薄い卵殻の内側で蠢いている。 
「手遅れだ。お前の弟は、とっくにドロドロに溶けてるさ」 
「弟を返してもらう」ハミシュはもう一度言った。「世界なんかどうだっていい。どうせ僕ひとりの手には負えない。でも、エヴラールは違う」 
 ハミシュは、足下におちていた棒を拾い上げた。黒く焼け焦げた、大昔の剣だ。 
 リコヴが目を細めた。 
「おいおい。そこは嘘でも世界を救いたいって言っておけよ、相棒」 
 ハミシュは首を振った。 
「嘘は、もうたくさんだ」 
 そして、卵の殻に剣をたたきつけた。 
 その瞬間、卵が白く光り、手にしていた剣は弾き飛ばされた。 
「無駄だよ。そんなもんじゃ止められない」リコヴが言う。 
 ハミシュはもう一度、足下を探った。今度持ち上げたのは、また別の棒だった。ずっしりと重い戦棍メイスのようなものだ。だが、今度も結果は同じだった。 
 槍に、剣に、大弩の矢。手に入る全てを使って、ハミシュは新しい神に挑んだ。 
 その様子を、いつしかリコヴは、黙って見つめていた。 




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 エイル イニスクラウ/硲 
 
「隊伍を乱すな! 固まれ! 壁を作るんだ!」 
 奔流のような光箭軍の勢いを、〈クラン〉とアルバの連合軍が押しとどめようとしている。泥と血。耳を聾する足音と剣戟の響き。そして怒号と悲鳴が、戦場を覆っていた。 
 矢の雨が降り注げば、何人もの兵が頽れる。兵たちが掲げる盾には、数え切れないほどの矢が突き刺さっていた。 
 断崖の上から放たれる天の矛スローデが海上の船を木っ端微塵にすれば、今度は海上から飛んでくる火の玉が、陸を転がりながら敵も味方ももろともに押しつぶしていった。 
 戦闘が始まって一刻もたたぬうちに、海岸線は死んだ兵士で埋め尽くされた。いたるところに、身体の一部が散らばっている。生きている兵士たちがそれを踏みにじって、仲間──あるいは敵の亡骸を血まみれの汚泥の中に沈めつつ突き進んだ。 
 それは混沌そのものの様相だった。 
 千年の時の中で、いくつもの戦を見てきた。後の世で美談として語られた戦もあれば、忌まわしい記憶として封じられた戦もある。ヴェルギル自身が忘れてしまったものも無数にあるはずだ。だが確かに言えることは──いままで目にしてきたどんな戦より、この戦いは凄惨だった。 
 傍らで、クヴァルドは空を見上げていた。 
月神ヘカが……」 
 頭上にのし掛かる巨大な月は、腐敗した果実のように黒く濁っている。滅びの時が近づいているのだ。 
「良い眺めですねえ、父上!」 
 戦場に満ちる混沌を味わうかのような笑みを浮かべて、純白の竜──エダルトが立ち上がる。 
 ヴェルギルは彼と目を合わせた。罪悪感が身を焼きそうになる。だが、堪えた。 
「またしても、お前と戦わなければならないのか」 
 エダルトは笑った。 
「ええ、そうですよ」 
 そして、巨大な翼を広げて舞い上がると、目にも留まらぬ速さで飛んできた。 
 狙いはわたし──ではない。 
 エダルトが、けたたましい笑い声をあげる。 
「今度は、邪魔者抜きでね!」 
「フィラン!」 
 手を伸ばそうとした。だが、間に合わなかった。 
 巨大な鉤爪に突き飛ばされたクヴァルドが、怖ろしい勢いで後ろざまに吹き飛ぶ。彼はヴェルギルを見ていた。ヴェルギルに手を伸ばし、何か言おうとしていた。だが、それが何なのかを知る前に、空中に現れた裂け目に飲み込まれて消えてしまった。 
「フィラン……!」 
 呆然と立ち尽くすヴェルギルを突き刺すような、甲高い哄笑が響き渡る。 
 ヴェルギルは振り返り、叫んだ。 
「彼に何をした!」 
「せっかくの親子の再会ですよ。あんな奴にいて欲しくないな」エダルトは、白い翼をゆっくりとはためかせて、地面に降り立った。「きっと死んではいませんよ。時空のはざまで、無様に藻掻いているでしょうけれど」 
 ヴェルギルは歯がみして、エダルトと向き合った。 
「父上が悪いんです。彼を巻き込んだんですからね。死ぬまで僕と二人でいることだってできたのに、そうはしなかった」 
 ああ、そうだ。 
「あなたは身の丈に合わぬ願い事に僕を引き入れ、それが全ての発端になった。僕がこんなおかしな存在になったのも、消えない声に苦しめられたのも、全部あなたが悪いんだ」 
 エダルトの声が釘のように深々と、頭を、胸を貫く。ヴェルギルは彼の苦しみを感じた。優しかったはずの息子を、ここまで歪めてしまったもののことを考えた。 
「お前の……言うとおりだ」 
 グノムの言葉を思い出す。 
 あの子は他人の血だけではなく、その血に染みついた痛みをも抱え込んでしもうた。ただびとならば見て見ぬ振りをし、なかったことにしてしまうような痛みをな。それが彼につきまとい、やがて蝕んでしまったが。 
 この硲の世界に至っても、彼を蝕むものが癒やされることはなかったのだ。 
 ならば……。 
 ヴェルギルは、力の戒めを解いた。 
 ならば、今度こそ。 
 黒い霧が、海から吹き付ける風に棚引く。自分の中から溢れ出る力を縒り、編み合わせて身に纏う。 
 昔から、霧を扱うのに長けていたのはエダルトの方だった。彼は、自分の力を解放し、どこまでも広げてゆくことに躊躇いがなかった。ヴェルギルは、それを恐れた。力を突き詰めたとき、自分が何に成り果てるのか──そこから目をそらし続けてきたせいだ。 
 だが、もう恐れるまい。 
 霧が形を持ちはじめる。それは皮膚となり、鱗となり、尾となり、そして翼になった。 
「この混乱を──お前の苦しみを生み出したのは、わたしだ」 
 ならば、今度こそお前を葬り去る。存在の全てを賭けて。 
 ヴェルギルは、巨大な黒い翼を広げた。長い首をもたげ、息子と同じ姿になって、彼と向き合った。 
 エダルトは、驚いたように目を見開いた。 
「父上……」 
「お前の言うとおり、せっかくの親子の再会だ」 
 黒霧からなる竜のうつし身を纏い、ヴェルギルは言った。 
「ならばお前も、今度は『声』などに頼らず、お前自身の力で父に挑んでくるがいい!」 
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