【日月の歌語りⅣ】天地の譚詩

あかつき雨垂

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 硲 
 
「エダルトを、殺すな」 
 その言葉が届いたかどうか。 
 自分の周りにあったはずの世界が溶け、激流となって自分の周りを流れて行った。滅茶苦茶に混ざり合った声や音が、頭の中に直接流れ込んでくる。クヴァルドは天地もわからなくなるほどの混乱に呑まれて叫んだが、その声は自分の耳にさえ届かなかった。 
 そして不意に、全てが途切れた。 
 音が消え、妙な浮遊感も、身体が組み替えられるような感覚もなくなった。目眩と吐き気だけがしつこく居座ったが、それも徐々に消えていった。 
 呻きながら、ゆっくりと身を起こす。 
 頭の中では、自分はまだあの戦場にいた。そうでなければ困ると思っていた、と言う方が正しい。彼の傍を離れてはならないのだから。 
 クヴァルドは素早く立ち上がって、剣を掲げようとした。だが、右手に握っていたはずの剣がない。ハッとして辺りを見回すと、そこはさっきまでいた戦場ではなかった。 
 クヴァルドは力なく悪態をついた。 
「ちくしょう……」 
 俺は、エダルトに吹き飛ばされた。その勢いのまま、また別の世界に飛ばされてしまったのだ。 
 ならば、ヴェルギルは今、たった独りでエダルトと対峙しているということだ。 
 冷や汗が、どっと滲む。恐怖と焦りが湧き上がり、再び目眩に襲われた。あの言葉は、ちゃんと届いたのか? 彼は理解できただろうか? もし、ヴェルギルがエダルトにとどめを刺してしまったら、彼は──。 
 おちつけ。とにかく、早く元の世界に戻らなくては。 
 クヴァルドは自分の嗅覚を頼りにしながらも、闇雲に辺りを歩き回った。 
 彼を守ると誓ったのに。エダルトに二度も良いようにされて、このざまだ。ちょっと蹴飛ばされたくらいで別の世界に飛んでしまうなんて、情けない。早く戻って、彼を助けなければ。 
 自分を責めても何の役にも立たないとわかってはいるが、考えずには居られなかった。 
 彼を失いたくない。 
 それ以上に、彼を竜になどさせたくない。 
 一度竜になったマタルは、再び人に戻った。だがそれは、曙神アシュタハ陽神デイナを喰らい、マタルとの契約を成就させたからこそ起こりえた結果だ。 
 もしエダルトに負ければ──ヴェルギルは死ぬ。そして、ヴェルギルがエダルトに勝てば、月神ヘカとの契約を反故にすることになり……彼は竜になる。 
 そうなる前に、新しい神の誕生を阻止して、ここを去らなければ。 
 そのためには、新しい神と古い神を繋ぐ赤い緒を全て断ち切ってしまうほかない。エダルトの妨害がなかったなら、ヴェルギルの力で月神ヘカの元まで辿り着くことが出来たかも知れないが……。 
 考え込みながら歩き続けているうちに、今いる場所が最初に訪れたのと同じ世界──大昔のエイルだということに気がついた。闇の中を落下していく最中に見たとおり、この硲の領域には何千、何万もの世界の欠片があるはずだ。こう何度も同じところに行き着いてしまう確率は、限りなく低い。 
 きっと、偶然ではないのだ。 
 俺には、ここでやるべき事がある。だから戻されたのだ。 
 だが……一体何を? 
 クヴァルドは再びイスラスの城を目指した。一歩歩くごとに、焦りは強まっていった。 
 本能は、ここで何かを探せと言っている。だが別の本能は、力尽くで世界に裂け目をつくって混沌を潜り抜け、ヴェルギルの元に戻れと叫んでいた。 
 焦燥感に、再び冷や汗が滲みそうになる。 
 ここでもたもたしている間に、彼にもしもの事があったら── 
 良くない想像ばかりが頭に浮かび、心臓の鼓動が痛いほど激しくなる。 
 ソーンヒルは言った。シルリクが呪いの獣に変化してしまったなら……その恐ろしさは、エダルトの比ではないだろう、と。 
 そうなる前に、止められるのは俺しかいない。 
 止めなければならない事態が訪れないことを、心の底から祈っていた。ふたりでエイルに帰るのだと、固めた決心は少しも揺らいでいない。 
 だが、もし──。 
「やっとみつけたぞ!」 
 子供の声に身構えるよりも早く、鋭い一撃が膝裏に叩き込まれた。 
 痛みはたいしたことはないが、当たり所が悪かった。油断していたクヴァルドはあえなく膝をつき、狼狽えつつも振り向いた。 
「何を──」 
 そして、さらに狼狽えた。 
「ずる賢いイムラヴ人イムラヴァめ! どこから忍び込んだ?」 
 キラキラと輝く薄青の瞳に、黒い癖毛。十歳になるかならないかという歳の少年が、クヴァルドに剣を突きつけていた。 
「あ……」 
 クヴァルドは言葉を失った。 
 失わずにいられるはずがない。この世界では、に自分の姿は見えないはずなのだ。おまけに、いま目の前にいるのは……。 
「シルリク──痛っ!」 
 少年は、クヴァルドの頭に思い切り剣をたたきつけた。訓練用に刃先を鈍らせたものでなかったら、髪の毛の半分を失っていたところだ。 
殿だ、イムラヴ人イムラヴァ!」 
 クヴァルドは頭を抱えた。 
 そして、笑い出したいような、叫び出したいような気持ちでなんとか口を開いた。 
「失礼しました……殿下」 
 シルリクは満足したように頷いた。 
「よし。それで、どこから入り込んだ?」 
 得意げなその表情。成長した彼も、全く同じ顔をする。クヴァルドのことをうまく丸め込んだり、誘惑に負けさせたときに。 
 不思議な懐かしさに、胸がいっぱいになる。 
 いつのまにか、シルリクが小首をかしげてクヴァルドの顔を覗き込んでいた。 
「ちゃんと聞いているのか? 早く答えろ」 
「申し訳ありません、殿下。俺も、どうやってここに来たのかわからないのです」 
「わからない? へえ……」 
 侵略者にしては間抜けすぎると判断したのだろうか。シルリクはほんの少し警戒を解いて、握っていた剣をおろした。 
「敵地に侵入しておいて道に迷ったのか? 武人の格好をしているくせに、つかには剣も刺さっていない。大馬鹿者バドゥナクめ」はっきりと言ってから、彼は何かを思い付いたように目を輝かせた。「こっちに来い!」 
「しかし──」 
 ここでこんなことをしている場合ではない。今ごろヴェルギルがどんな苦境に陥っているか、考えるだけで胃が反転しそうになるというのに。 
「来いったら! 父上に報告してもいいのか?」 
 だが、出口を見つける方法もわからない以上、彼に従うより他にない。 
「わかりました……」 
 クヴァルドは捕獲された巨人になったような気分で、小さなシルリクの後について歩いた。 
 彼が案内したのは、何のことはない、城の敷地の一角の見張り塔だ。海を見渡せる位置にあるものの、本来の用途を忘れて久しいようだ。ところどころ朽ちかけていて、補修が必要なのは一目瞭然だった。 
「秘密の場所なんだ。お前を匿ってやるぞ。その代わり、何でも言うことを聞くんだぞ」 
 シルリクは胸を張った。 
 見張り塔の中には、色々なものが運び込まれていた。敷き詰められた藁の上には家具に見立てられた木箱があり、貝殻や珍しい色の小石、壊れた木造の剣や盾、訓練用の弓矢──それに、把手のついた焼き串が並べられていた。城の料理人が、どこでなくしたのかと頭を捻っているかも知れない。 
 こんなに目立つ秘密の場所もないだろうに。クヴァルドは笑いたいのを堪えて頭を下げた。 
「御厚情、痛み入ります。殿下」 
 すると、シルリクは不思議そうに首をかしげた。「イムラヴ人イムラヴァのくせに、礼儀正しいな」 
 どこから訂正すればいいのやら。そもそも、訂正する必要もあるのだろうか? しかし、彼の命を奪ったビョルンがイムラヴと通じていたことを考えると──警戒を解かせるのも良くない気がした。 
「俺はイムラヴ人イムラヴァではありません。彼らの血を引いていますが、別の民です」 
 シルリクは眉を上げた。「本当か? どこからきたのだ? 名前は?」 
「ええと……ダラニアをご存じですか」 
 たしか、この時代にはもうそのように呼ばれていたはずだ。案の定、シルリクは顔をしかめた。 
「当たり前だ。小大陸だろう」 
「わたしはその島の生まれです。名を──」一瞬躊躇ってから、言った。「フィラン、と申します」 
「フィラン? フィーランか」 
 シルリクは呟くと、クヴァルドの顔を遠慮なく覗き込んだ。 
 産毛の生えた滑らかな肌や、つやつやとした黒い癖毛。そして、はっとする程美しい青い瞳。彼にもこんなに純真で無垢な時代があったのかと思うと、胸がかき乱された。 
 抱きしめたいが、それは許されないだろう。 
「お前をわたしの家来にしたいと言ったら、父上は反対するだろうか」 
「それは……どうでしょう」 
 クヴァルドの意向を尋ねない辺り、いかにも王族らしい。 
「ですが、わたしはもう、仕える主を持っていますので」 
 シルリクは打ちのめされたような顔をした。「誰だ?」 
 あなたに──と言う代わりに、こう言った。 
「エイルにです。殿下」 
「エイルに仕えているのか? ならば、お前は父上の臣下か。初めて見る顔だ」 
 いえ、とクヴァルドは言った。 
 真実を話してもいいかもしれない。子供はこうした話を柔軟に受け入れるものだし、何より、彼は頭がいい。 
 クヴァルドは悩んだ末、こう言うことにした。 
「俺はこの国の守人をしているのです。秘密の守人です」 
 そう付け加えると、シルリクの顔がぱっと明るくなった。 
「秘密の守人?」それから、警戒するような表情になった。「ならどうして、わたしにその秘密を打ち明けた?」 
 クヴァルドは思わず舌を巻きそうになった。やっぱり、この子は頭がいい。 
「それは……」 
 対して、自分は相変わらず嘘をつくのが下手だ。それをこんな形で思い知らされることになろうとは。 
 ええい、ままよ。 
「わたしはあなたにとっての……なんと言いますか、運命の相手です」 
 シルリクは身を乗り出し、クヴァルドの膝に小さな手をついた。 
「運命? 何の運命だ」 
 クヴァルドはシルリクの目を見た。 
 こんなに幼い頃から、自分の国を守ることに情熱を傾けている。美しく利発で、きれいな心を持っている。彼がこれから味わう苦難と、千年に亘る孤独を思うと、引きちぎられるように胸が痛んだ。 
 ずっと傍にいて、彼が望むことをなんでもしてやれたらいいのに。それが無理なら、約束だけでも。よすがだけでも手渡したい。 
「あなたを、お守りします」クヴァルドは言った。「そういう運命です。あなたを守り、あなたにこの身を捧げます。ただし今ではない。もっとずっと先の話です」 
 シルリクは目を輝かせてクヴァルドを見た。 
「すごい」彼は言った。「まるで吟遊詩人が語る物語みたいだ。お前は嵐神ユルンの使いか?」 
 ヴェルギルがあのもったいぶった言い回しを習得するのは、きっとずっと後になってからのことなのだろう。クヴァルドはまたしても、ほろ苦い笑みを浮かべた。 
「いいえ。ですがそのように約束されているのです、殿下」 
 ふと思い出し、腰に帯びた小物入れの中に手を入れた。思った通り、まだそこに入っている。クヴァルドは目当てのものを掴んで、取り出した。 
 こことは別のイスラスで見つけた、金の腕輪。 
 久々に見るせいだろうか。腕輪は、拾ったときとは何かが違う気がした。だが、深くは考えなかった。 
 この場所で拾ったものを、同じ場所に返すのだ──それが正しいことだと、クヴァルドは思った。 
「これを差し上げます。約束の印に」そう言って、腕輪を彼の手に乗せた。「俺の血にかけて、あなたをお守りすると誓います」 
「わあ」 
 シルリクはいい、あらゆる角度から眺めてみてから、自分の手に嵌めた。まだ細い手首からは簡単に落ちてしまうけれど、彼は気にしていないようだった。 
 その時、さっき感じた違和感の正体に気がついた。 
 そうだ。腕輪の内側に刻まれていた文字が消えている。だが、何故だろう。 
 クヴァルドの困惑をよそに、シルリクは腕輪を嵌めた腕を掲げて見せた。 
「お前の血にかけて?」彼は言った。「お前の血にかけて……か。珍しい言い回しだな。気に入った」 
「それは、何よりです」 
 好奇心の火花が、再びシルリクの瞳の中ではぜた。 
「お前の血に、何か不思議な力があるのか?」 
 クヴァルドは、思わず笑っていた。「いつかわかります。いつかね」 
「嘘だ」シルリクはむすっと顔をしかめた。「大人は、守る気がない約束をするときにそう言う」 
 クヴァルドは微笑んだ。「確かにそうかも知れません。ですが、信じていただかなくては」 
 シルリクはまだ納得がいっていないようだった。眉をしかめて考え込んでいたが、不意に何かを閃いた。 
「そうだ!」 
 彼はぶかぶかの腕輪を外し、近くにあった焼き串を手にすると、腕輪の内側に何かを刻みはじめた。 
 クヴァルドは呼吸を忘れそうになった。 
 あの文字。クヴァルドが腕輪を拾ったときに見た、ミミズののたくったような古代文字。それがいままさに、この場所で、刻まれていった。 
「フィーラン──我が、運命、の──血」彼はそう口に出しながら、一文字ずつ、彫り込んでいった。「これが証文だ。忘れたふりをしたら、これを突きつけてやるぞ。フィーラン」 
 稲妻に打たれたような衝撃と共に、クヴァルドは全てを理解した。 
 ああ、これなのだ、と。 
 ここから、全てが始まったのだ。だから俺は、ここに来なければならなかったのだ。因縁の輪を閉じ、またここから始めるために。 
 クヴァルドはシルリクの頬に手を当てた。 
 温かく、柔らかい。 
 その感触を胸にしまい込んで、クヴァルドは言った。 
「忘れないで」 
 だが、彼は忘れてしまう。めまぐるしい成長の日々、そして無数の悲劇と、永劫にも近い孤独の中で、彼はこの約束を忘れる。腕輪は奪われ、記憶も失われる。 
 それでもいい。 
 運命が繋がっているのだから──いつかまた、必ず会える。 
 そして、約束は果たされるのだ。 
「シルリク殿下!」 
 遠くから、彼を呼ぶ声がする。 
「シルリク殿下! 剣の稽古の時間ですぞ!」 
 シルリクがあまりにも情感の籠もったため息をつくので、クヴァルドは笑った。 
「さあ、お行きなさい」 
 彼は大儀そうに身をおこすと、クヴァルドを見下ろした。「稽古が終わっても、まだここにいるか?」 
 クヴァルドは首を振った。「いいえ。そろそろおいとましなくては」 
「でも、いつかまた会える。そうだな?」 
 真剣な眼差しに射貫かれて、ほんの一瞬、呼吸を忘れる。 
 クヴァルドは、ゆっくりと頷いた。 
「ええ。必ず」 
 千年の時の果てに待っているのは、決して望ましい出会い方ではない。それでも、後に続く日々が、彼の苦難や孤独をあながうだろう。 
「フィーラン」シルリクは、クヴァルドの肩に手を置いて言った。「では、そのときにまた」 
「どうかお達者で──シルリク」 
 彼は今度は、「殿下をつけろ」とは言わなかった。にっこりと微笑むと、自分を呼ぶ声に向かって走って行った。 
 小さな背中が、浜の向こうに消えてゆく。彼の姿が見えなくなるまで、クヴァルドは目で追いかけ続けた。 
 その時、大きな地震が起こった。 
 この世界が揺れているのか、それともクヴァルドだけが揺れているのかはわからない。激しい振動は空気までも揺るがし、何かが唸るような地鳴りが響いた。 
「これは──」 
 振動は、やがて捻れとなり、空間を歪め……亀裂ができた。揺らめく薄い膜の裂け目のようなものが、シルリクの隠れ家の真ん中に浮かんでいる。それは口を開けて、飛び込めと促すように彼を待っていた。 
 クヴァルドは、少しも迷わずそこに飛び込んだ。 
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