【日月の歌語りⅣ】天地の譚詩

あかつき雨垂

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 その世界に降り立った瞬間、戦場のにおいで息が詰まった。 
 連合軍と光箭軍の戦いは激しさを増している。戦いの陰惨な痕跡が、渓谷の奥にまで続いていた。味方の防衛線は破れかけている。 
 死戦が繰り広げられている海岸の上では、また別の戦いが繰り広げられていた。 
 純白の竜──エダルトと戦うヴェルギルを見て、クヴァルドの心臓は入り交じった感情にねじれた。 
 彼が生きているという安堵は、あっという間に別のものに取って代わられる。わずかな傷しか負っていないエダルトに比べて、ヴェルギルは満身創痍だった。そしてクヴァルドを何より慄かせたのは、黒い霧を纏う彼の姿だ。 
 一瞬、彼が竜になってしまったかと思った。 
 だが、まだだ。 
 霧の中に長い尾や巨大な翼のような形を見て取ることはできるが、まだ変化してはいない。 
「シルリク──!」 
 はやく、彼の元へいかなければ。戦渦のただ中にある海岸から、二人が戦う断崖の上へと続く道を探さなくては。 
 狼に変化すれば、風のように駆けることができる。無防備な姿を晒すことになるとしても、いまは一刻も早く彼の傍に行くべきだ。 
 装束に施された魔法を解除するために留め具を外すと、縫い目が解けてはらりと落ちる。クヴァルドは駆け出しながら、狼へと姿を変えた。 
 斃れた兵たちと、まだ斃れていない兵たちの合間を縫う風のように、クヴァルドは駆けた。狼の感覚が、多くが死んだことを告げた。 
 ああ、ナグリ。それに、〈クラン〉の仲間たち。 
 涙を流さないはずの獣の目の奥に、熱く滲むものがある。 
 だが、立ち止まるわけにはいかない。 
 野生の山羊が使うようなわずかな足場をみつけて、クヴァルドはそこに飛び乗った。華奢な突起を崩しながら、振り向かずに上を目指す。何度か足を滑らせながらも、ようやく断崖の上へ辿り着いた。 
 そして、見た。 
 断崖の奥、ずっと遠くで、ヴェルギルがエダルトに止めを刺そうとしているのを。 
「待て」 
 声が出ない。狼の姿のままでは叫べない。クヴァルドは遠吠えをした。だが、戦場の音にかき消されて届かなかった。 
 クヴァルドは立ち止まり、再び人の姿へと戻った。魔法服が裸身を覆うのも待たず、駆け出した。 
「待ってくれ、シルリク、駄目だ!」 
 彼を殺したら、お前は──。 
 全身に傷を負い、まっすぐ立つことも出来ないヴェルギルは、傾いだ身体のままで剣を取った。そして、切っ先を深々と、息子の背中に埋めた。 
「シルリク!!」 
 遅かった。 
 希望が、絶たれてしまった。全てが終わった。 
 ──かに見えた。だが、エダルトの骸を見下ろすヴェルギルの背中は強ばったままだ。まるで今にも始まる別の戦いに身構えているように。 
「シルリク……?」 
 すると──まさにその通りのことが起こった。 
 燃え上がる炎のような血が空中に噴き出したかと思うと、無傷のエダルトが姿を現したのだ。 
「な……!?」 
 エダルトは飛び出した勢いのまま竜に変化し、ヴェルギルにつかみかかった。 
 初手を受け止めたヴェルギルの体が、崖の際まで押される。そうして、クヴァルドにもようやく、彼の顔が見えた。 
 彼の顔は黒く変じていた。最初は、血にまみれているせいかと思った。だがそうではない。いつかの新月の夜に見たのと同じだ。ヴェルギルはひととしての輪郭を失いつつあった。目は青白く燃え、渦を捲く黒い霧が体を覆い尽くしている。無数の牙が並ぶ口はかっと開かれ、そこから迸る叫びは──彼の声とは思えなかった。 
 一方エダルトの方は、そんな父親の姿を見て喜んでいるようだった。 
「その調子ですよ、父上!」 
「もう、よせ!」咆哮のような、悲鳴のような声でヴェルギルが言う。「これ以上、お前を殺したくはない!」 
 エダルトは哄笑した。 
「ならば、父上が負ければいいだけでしょう!」 
 彼はヴェルギルの首に噛みついた。ヴェルギルは耳をつんざく叫びをあげて身を捩る。すると、黒霧の中から長い尾が現れた。嵐雲のように黒い尾は、霧によって作り出されたものではない。それは確かに鱗を、肉を、実体を持っていた。 
 ヴェルギルが、竜に堕ちようとしている。 
 クヴァルドは、それ以上なにも考えなかった。剣さえ携えていないことも忘れて、白い竜の前に身を躍らせた。 
「よせ!」 
 すると、エダルトは驚いたように翼をばたつかせ、後退した。土煙を上げながら着地すると、長い首を伸ばしてクヴァルドをしげしげと見た。 
「犬か!」彼は言った。「どうやって戻ってきた? ずっと遠くへ飛ばしてやったと思っていたのに」 
「この世界に呼ばれたのだ」クヴァルドは答えた。「お前を止めろ、と」 
 背中の後ろで、ヴェルギルが呻いた。「フィラン……いけない……」 
 だが、クヴァルドはそれを無視して、エダルトと向き合った。 
「わざわざ殺されにきたのか」エダルトはクスクスと笑った。「愚かな。だが、望みは叶えてやるぞ」 
「違う」クヴァルドは言った。「俺は……お前たちを救うために来た」 
 長い尾が鞭のようにしなり、クヴァルドの肩を打った。顔面から突っ伏すように倒れ、蹲る。肉が裂け、骨がたわむような痛みに、喘ぐことしか出来なかった。 
「気色の悪いことをほざくな!」嘲りを込めて、エダルトは唸った。「救うだと! 野良犬の分際で!」 
 かつての自分なら、その言葉ももっともだと思っただろう。ふたりの間に、自分などが立ち入る隙は無いと。だが、今は違う。二人を救えるのは自分しかいないと確信していた。 
 這いつくばる姿勢から何とか身を起こし、再び彼と対峙する。 
「お前の……父は、今にも竜になろうとしている」 
 エダルトは牙を剥きだして笑った。 
「喜ばしいことじゃないか!」 
「竜になれば──」クヴァルドは口ごもった。だが、意を決して言った。「そうなったら、俺は……彼を止める」 
 これも、エダルトは一笑に付した。「やってみるがいいさ! お前ごときに殺される父上ではない!」 
 拳を握って、クヴァルドは言った。 
「彼を生かしているのは俺の血だ」爪の先が掌に食い込み、皮膚を突き破る。「俺が死ねば、ヴェルギルも死ぬ」 
 エダルトは目を見開き、鎌首をもたげると、穢らわしいものを吐き捨てるように言った。 
「呪わしい血め……よくもそんなことを!」 
「エダルト、頼む。これ以上──」 
「僕の名を! 軽々しく呼ぶな!」 
 長い尾の、目にも留まらぬ一撃がクヴァルドの脇腹にめり込んだ。衝撃と共に骨が折れ、内臓がへしゃげた。断崖の縁のすれすれのところまで飛ばされたが、なんとか落ちずにすんだ。 
「それなら、貴様を先に殺せば良いだけのこと!」 
 目眩とともに吐き気がこみ上げ、空っぽの腹に残っていた胃液だけを吐いた。 
「丸腰で、鎧も着けずに来たか! なるほど、よほど死にたいらしい!」 
 ヴェルギルのうめき声が聞こえて、クヴァルドは顔を上げた。 
 背中を丸めて蹲るヴェルギルの背中で、黒い翼が震えた。さっきまで霧でできていたはずのものが──確かに、実体に変わっている。 
 これ以上、俺が苦しむ姿を見せられない。 
 クヴァルドは痛みを堪えて立ち上がると、何事もなかったかのようにエダルトの前に戻った。 
「やめてくれ……フィラン」ヴェルギルは尚も呻く。「わたしがやらなければ……わたしが……」 
 クヴァルドは彼に背を向け、再びエダルトに向き合った。 
「お前がそうなったのは、飲んだ血のせいだと、彼が言っていた」 
 エダルトは小さく首をかしげた。「父上が?」 
「ミョルモル島のグノムだ。お前はずっと、彼のところに通っていたんだろう」 
 すると、彼は目をしばたかせた。「彼に会ったのか」 
「ああ」クヴァルドは言った。「お前のことを話してくれた。お前は、血に宿った苦しみから目を背けることができないのだと言っていた」 
 エダルトは黙ってクヴァルドの話を聞いていたが、小馬鹿にしたようにせせら笑った。 
「そのせいで、僕が歪んだという話をしたのか? おそろしい〈災禍カル・ノグ〉になってしまったのは、僕が優しいからだと?」 
「彼は、お前が痛みに蝕まれたと言った」 
 エダルトは少しの間、その言葉を噛みしめた。 
「蝕まれた……か。たしかにそうだ」 
 巨大な竜の喉から発せられる言葉は、血なまぐさい匂いと熱い息に乗って、文字通りクヴァルドにぶつかってくる。彼は言った。 
「グノムは死んだのか?」 
 クヴァルドは頷いた。 
「自然に還ってしまった。ここで生まれようとしている、新しい神の影響だ」 
 エダルトは、徐々にこの会話を受け入れてきているようだった。彼はクヴァルドをじっと見つめた。 
「父上が竜になりかけているのも、そのせいか?」 
「それは──」クヴァルドは背中で大きくなりつつあるヴェルギルの気配を感じながら、言った。「お前を殺さなければならない悲しみのせいだ」 
 エダルトは、クヴァルドの心の奥底を探るように目を眇めた。 
「ふん、それだけか」 
「それだけ?」クヴァルドは湧き上がりかけた怒りを、拳の中で握りつぶした。「お前を傷つけることがどれほどの苦痛をもたらすのか……お前にも理解できたらいいのにと思う」 
 エダルトは目をぎらつかせた。「犬ごときに、諭してもらう必要などない」 
 クヴァルドはため息をついて続けた。 
「彼が月神ヘカと交わした誓いも影響している。それを……守り切れていないせいだ」 
 エダルトは長い首を伸ばして、クヴァルドに顔を近づけた。 
 エダルトは実に美しい竜だった。純白の鱗に覆われた神々しい姿。血に飢えた赤い目は、彼の心中を表すように貪婪と輝いている。 
「誓いとは──月神ヘカの子らを見守ること、というやつか?」 
「そうだ」 
 エダルトは小さく唸った。「でも、それはうまくいっているんだろう。お前はともかく、エイルの王は父上なのだから」 
 その言いように──こんな状況にもかかわらず、クヴァルドは笑った。 
「そうだな、俺はともかく」そして、クヴァルドはエダルトを見た。「だが、お前も月神ヘカの子だ」 
 エダルトは驚いたように頭を引き、瞬きをした。 
「僕を殺したから、父上は〈呪い〉に落ちかけていると言うのか?」 
 クヴァルドは頷いた。「ここに来て、誓いをさらに破っている。お前が蘇る度、彼はお前を倒し──呪いが進行している」 
 唸るように喉を鳴らしながら、エダルトは深い息をついた。「なるほど」 
 その口ぶりはなんとも人間くさく、クヴァルドは一瞬、自分が竜と会話をしているのだと忘れそうになった。 
「シルリクも言っていた。お前は優しい子だと」 
「そう言うだろうさ、父上なら」彼は、牙をむき出して吐き捨てた。「だが、優しいものが、いつだって割を食うんだ」 
「ああ、そうだな。そういう世の中だ」 
 クヴァルドは笑った。 
 彼の前で微笑む事が出来るだなんて、今まで思っても見なかった。 
 それでも……あまりに多くの命を奪い、自分とは決して相容れない存在であったとしても……彼はシルリクの子だった。彼の仕草や、振る舞いや、言葉の一つ一つに、それを感じる。 
 完膚なきまでに憎めたなら、少しは楽だった。だが、もう無理だ。彼と言葉を交わせて良かったとさえ思う。善かれ悪しかれ、それがクヴァルドの出した結論だった。 
「父上が苦しんでいるのはわかった。だが僕の苦しみはどうなる?」 
 クヴァルドはエダルトをまっすぐに見つめ返した。「ならば、お前に殺された者たちの苦しみは?」 
 エダルトは目を細めた。 
「お前の苦しみを、心の底から理解してやることは、俺にはできない。お前を許すことも──受け入れることも」クヴァルドは言った。「だが、これ以上戦わないことはできる」 
「丸腰だものな。僕は今すぐにでもお前を殺せるんだぞ」 
 クヴァルドは肩をすくめた。「そうだな」 
「お前が死んだら、お前の負けだ」 
「だからといって、俺が間違っていることにはならない」クヴァルドは言った。「お前は俺たちより長くこの硲の世界に居て──見たはずだ。過去の断片を。シルリクがどれほど、お前を思っていたかを」 
 エダルトは唸った。だが、敵意はなかった。それは処理しきれない葛藤への苛立ちから発せられる唸りだった。 
「苦しみを他人に向けるか……それとも己の中に抱えるか」クヴァルドは言った。「お前と彼の違いはそこにある。どちらも苦痛をもたらす選択だ。だが、それが明暗を分けてしまった」 
 クヴァルドは、エダルトを見つめた。 
「選んだのはお前だ。そうだろう」 
 純白の竜は、じっとクヴァルドを見つめ返していた。頭から食ってやろうか、それとも、また世界の果てまで吹き飛ばしてやろうか迷っているように。 
「僕を守るために、が無辜の命をどれだけ奪ってきたか、わかっているのか」 
 クヴァルドは頷いた。「彼から聞いた」 
「彼には、僕が必要なんだ」彼は言った。「僕の存在があったから、彼は生きて来られた」 
 クヴァルドはヴェルギルを見た。 
 彼は変化に必死に抗いながら、止まない痙攣に苛まれ続けていた。彼は闇と混ざり合い、己と、己が変じようとしている異形のあわいで悶え苦しんでいる。 
「ああ、そのとおりだ」クヴァルドは言った。「だからこそ、彼の呪縛にはなるな」 
 エダルトはなにも言い返さず、クヴァルドの顔を見つめた。 
 その時、またしても地震が起こった。 
「大きい……!」 
 いままでの揺れとは比べものにならないほど激しい揺れだった。立っている事も出来ず、クヴァルドは地面に手を突いた。 
 エダルトは海の向こうへ頭を向けて、呟いた。 
海神マルドーホ……それに、剣神スヴァールクが死んだか」 
「神が、死んだ……!?」クヴァルドは言った。「新しい神に喰われてしまったのか──?」 
 エダルトはクヴァルドを見た。 
「その、新しい神とやらが生まれたらどうなる?」 
「わからない」クヴァルドは正直に言った。「天変地異と戦は──いままさに起こっている。その後に来るものがなんなのかは、誰にもわからない」 
「それなのに、阻止しようというのか?」馬鹿にしたような口調で、エダルトが言った。 
「この期に乗じてカルタニアが全てを支配しようとしているのは確かだ。新しい神に奉じるために、エイルは彼らの支配下に置かれる。ナドカは居場所を失ってしまう」 
「父上はどうなる」 
 クヴァルドは言った。 
「新しい神とカルタニアが勝った世界に、もし生きて帰ったなら──処刑されるだろう」そして、付け加えた。「カルタニアに逆らったものは──人間だろうとナドカだろうと、残らず殺される」 
「ならばなおさら、父上が竜になれば好都合じゃないか? 父上なら、教会など一捻りにできるほど強大な竜になるはずだ」 
 口にすべきかどうか、少し迷った後で、クヴァルドは言った。 
「彼が竜になるようなことがあれば、俺はそれを止める。彼を生かしている運命の血を──俺の血を絶てば……彼の命も絶たれる」 
「そんなことは許さない!」穢らわしいと言いたげに、彼は口元を歪めた。「なぜそんな真似をする? お前は父上を慕っているんだろうが」 
「ああ、愛している」クヴァルドは言った。「だからこそだ」 
 エダルトはゆっくりと首を巡らせて、ヴェルギルを見た。何本もの腕が黒い靄から突き出し、辺りの地面に爪痕をのこしている。そうしなければ、闇の中心に飲み込まれて、二度と還ってはこられないとでも言うように。 
 身の内で膨れ上がる〈呪い〉を押さえようと、彼はいま、必死で抗っていた。 
 クヴァルドは言った。 
「この世界に害を為すものになることを、彼が望むと思うか?」 
 エダルトは顔を背け、小さな声で言った。 
「こんな世界、滅べばせいせいする」 
「本心じゃないはずだ」 
 エダルトはキッとクヴァルドを睨んだ。「お前に何がわかる。父上を誑かせたからといって、僕のことまで理解できると思うな」 
「ああ、そうだな」クヴァルドは言った。「でも、わかることもある」 
「言ってみろ。僕の何がわかる? お前など、僕が見逃してやらなかったら死んでいた、ただの犬ころのくせに」 
「お前は殺戮を繰り返しながらも、何百年ものあいだ、あの島でグノムを守ってきた」そして、小さく肩をすくめた。「全てを理解できなくても……十分なこともあるんだ」 
「偉そうに!」 
 そう吐き捨てて、エダルトはふいと顔を背けた。 
「父上は、何故お前を信用した?」 
 エダルトの顔を見上げる。 
 彼は遠くを見たまま続けた。 
「お前に心変わりさせられて、父上は僕を倒そうと決めた。あんなに嫌がっていた王座につき、かと思えばお前に国を任せもした。お前は父上に信頼されている」 
「ああ……そうだな」クヴァルドは慎重に頷いた。「何故かはわからない。だが、お互い様だとは思う。俺も彼を信じたから」 
「お前の言うなりになって、息子を殺すだろうと?」 
「お前が彼の息子だということは知らなかった。なにか因縁があるのだろうとは思っていたが」クヴァルドは言った。「いずれにせよ……俺は信じた。これ以上犠牲が出るのを止めたいと願っているはずだと」 
 エダルトは鼻を鳴らした。 
「俺は、彼が良い王になると信じた。彼の心の中にある正しさを信じた」 
 エダルトは言った。「お前の言葉は、全部たわごとだ」 
「そう思うなら、好きにすればいい」 
 ふと、クヴァルドの胸の内に疑問がわいた。 
 エダルトは、彼の父を信じていたのだろうか、と。そして同時に、シルリクは息子のことを信じていたのだろうかとも思った。それは、不用意に取り扱えば壊れてしまいそうなほど繊細な疑問だった。クヴァルドが手を触れて良いものではない気がした。 
 その時エダルトが、何かに気付いたように頭を高く掲げた。 
 不思議に思って視線の先を追う。すると、海岸から、潮が怖ろしい勢いで引いていくのが見えた。波打ち際の地面が剥き出しになり、敵の船が見えない力によって沖へと引きずられてゆく。 
「何が起こっている……?」 
海嘯つなみだ」エダルトが言った。「さっきの地震のせいだろう」 
海嘯つなみ!?」 
 クヴァルドは断崖の縁に立ち、海の向こうに目をこらした。その背中に向かって、エダルトが言う。 
「この島は沈む。イムラヴも、エイルのほとんどの島も」彼はフフンと笑った。「残念だったな。必死で立て直した国も、たった一日で海の藻屑だ」 
「止める方法はないのか……!?」 
 エダルトはクヴァルドを見下ろした。鬱陶しがっているのを隠そうともしていない。 
「誰に助けを求めている、莫迦ばかめ! お前には矜持というものがないのか?」 
「今はそんなことを言っている場合じゃない!」 
 彼は忌々しげに牙を剥きだし、鬱陶しそうに舌を出した。その顔を見て、クヴァルドはハッとする。 
「方法があるのか? 知っているんだな?」 
 エダルトはクヴァルドを見た。 
「教えてやると思うか? この僕が、他ならぬお前なんぞに!」 
 彼の目には、感情というものがなかった。尽きることのない飢餓だけを讃えた目。だが、彼が求めているのは何なのだろう。血か? 
 いや、そうではない。もっと別のものだ。幼い頃から、彼を苦しめてきた飢渇きかつの源は。 
 クヴァルドは断言した。 
「ああ、そう思う」そして、彼に向かって一歩踏み出した。「俺はお前を信じる。お前の心を」 
 エダルトは、静かにクヴァルドを見下ろしていた。それから、ほんの一瞬ヴェルギルを見て──また、クヴァルドを見た。 
「お前のことが嫌いだったよ、犬。はじめて会った瞬間からな」 
 クヴァルドは拳を握った。 
「エギル・トールグソンがお前を逃がした時、後を追うべきか迷った。お前を捕まえてとどめを刺すなど造作もない。だが、何かが僕を止めた。今となっては、最悪の過ちだった……まさか、お前のようなやつに父上を奪われるとは」 
「俺は奪ってない」クヴァルドは言った。「彼は最初から……最後の瞬間まで、お前の父親だ」 
 エダルトはフンと鼻を鳴らした。 
「ああ、わかったよ。使い古された慰めなど聞きたくない」エダルトはうんざりと唸った。「だが確かに……父上も、そろそろ子離れをしていい頃だ」 
 寂しげな響きを、クヴァルドは聞いた。あるいは、そう思いたかっただけなのかも知れないが。 
 エダルトは空を仰ぎ見た。そこには、赤い緒に戒められたヘカが浮かんでいる。 
「我々はみな……遅かれ早かれ、それに向き合わなくてはならない」 
 その言葉に、言葉以上の意味がある気がした。 
 クヴァルドの不思議そうな顔を見て、エダルトは小さく笑った。 
「お前はここぞと言うときに、父上を口実に頼みこむような真似はしなかったな。そこは認めてやる」 
 彼はそう言うと、大きく身震いをした。すると、竜の巨体が瞬く間に白い霧となって散じ……なかから、ひとの姿をしたエダルトが現れた。彼はヴェルギルの元へあるいてゆくと、黒い靄の中に蹲る父親の前で跪いた。 
「父上」 
 ヴェルギルは呻きながら、息子に向かって手を伸ばした。 
「エダ……ルト……」 
 エダルトは、ほんの僅かに身を強ばらせた。打たれることを恐れる子どものように。 
 ヴェルギルは、無数の腕で彼を引き寄せ、しっかと抱きしめた。 
「エダルト……」 
 ひととしての輪郭を失いつつあるヴェルギルの体と声は、この世のものとも思われない異形の様相だった。だが、エダルトは目を閉じ、微かな笑みを浮かべて、父親を抱擁し返した。 
「これからが大変ですよ、父上」エダルトは揶揄うように言った。 
 抱擁を解き、立ち上がる。 
 ヴェルギルを包み込んでいた黒い霧が、ほんの僅かに晴れる。 
「エダルト……?」 
 彼は笑ってみせた。それは屈託のない、純粋な微笑みだった。 
「何を……するつもりだ?」 
「良いことを」エダルトは言った。「良いことをするんです。久しぶりにね」 
 その口ぶりに、悪意を読み取ることだって出来たのかも知れない。きっと、かつてのヴェルギルだったらそうしていただろう。息子が〈災禍カル・ノグ〉として振る舞っていた頃であったなら。 
 だが、ヴェルギルは彼を疑わなかった。 
「二度と、させたくなかった」ヴェルギルの頬に、涙が伝った。「お前に犠牲を強いるようなことは、もう二度と」 
 エダルトは僅かに肩をすくめた。 
「優しいものが、いつだって割を食う。でも、父上はそれを変えようとしているんでしょう」彼は小さくため息をついた。「なら、そう悲しむべきでもない」 
 彼は二歩、三歩と後ずさり、戯れるようにその場でくるりと回った。 
「もし僕がこの硲の領域を出て、もう一度──いや」そして、彼は首を振った。「どうか忘れて」 
 語られなかった言葉の先を問うよりも早く、彼は純白の翼を羽ばたかせて、空へと舞い上がった。 
 エダルトは一度だけ振り向き、言った。 
「やっと、僕を信じてくれましたね。父上」 
 そして彼は飛び、更に飛び、ずっと遠くまで飛んでいった。クヴァルドはヴェルギルと寄り添って、それを見つめた。 
 やがて彼の姿が見えなくなり、大きな月の隣に輝く星ほどの大きさになったとき、断崖の下にある戦場で、角笛が鳴り響いた。 
「退却だ!」兵たちが次々に叫ぶ。「海嘯が来るぞ! 高いところに逃げろ!!」 
 海を見る。彼らの言うとおり、聳え立つ岸壁のような波がこちらに向かってくるのがはっきりと見えた。さっきまで岸に集まっていたはずの光箭軍の船は、海岸線の遙か遠くにまで流されていた。あの船を巻き込んだ波が押し寄せたら──全員、命を失う。 
 クヴァルドはヴェルギルを抱きしめ、ヴェルギルも、震える手でそれを抱きしめた。 
 その時だった。月が動いたのは。 
 初めは気のせいかと思った。だが、足下に落ちる影が尋常ではない速度で移ろい、伸びてゆくのを見て、気のせいなどではないと思い直した。見上げると、さっきまで頭の真上にいたヘカが、ゆっくりと傾いでいた。それはみるみるうちに大きくなり、ついには空のほとんどを埋め尽くすほどになった。 
 クヴァルドとヴェルギルは、月の裏側に白く尾を引く流星を見た。 
「エダルト……」 
 ヴェルギルの頬を、涙が伝っていた。 
 体の中をかき混ぜられているかのような不快感に襲われながら、クヴァルドはヘカを──そして、海を見た。 
 潮の満ち引きを司る月──月神ヘカが、海嘯を押しとどめようとしている。 
「シルリク」クヴァルドは喘ぎながらも、なんとか言った。「ヘカが……エダルトが、俺たちを助けてくれた……」 
「ああ」ヴェルギルは頷いた。彼の頬は濡れていた。「ああ……」 
 目の前に迫り来る海嘯は、徐々に勢いを失っていった。だが、まだ高い。全ての波を一つに総べたような大波の、一列に並んだ波頭が、今にもこの島に届こうとしていた。 
「まだ……十分ではない」ヴェルギルが言った。 
 彼は呻きながら立ち上がった。 
「シルリク──」 
 ヴェルギルの顔を見上げたクヴァルドには、彼の考えていることがわかった。クヴァルドも彼の隣に立ち、肩を貸した。 
「フィラン」 
「俺も連れて行け。少しは力になれる」クヴァルドは言った。「俺の血にかけて、お前を守ると誓った。最期の時まで傍にいると。その誓いを、今度こそ破らせるな」 
 ヴェルギルは何も言わずに頷き、黒い翼を拡げた。穴だらけで痛々しい。だが、まだ飛べる。ヴェルギルはクヴァルドを抱いたまま、崖の縁から飛び立った。 
「あそこだ!」 
 剥き出しになった砂浜を指さす。そこには、横転した光箭軍の船が打ち棄てられていた。 
 二人して降り立つと、濡れた砂に爪先が沈んだ。 
 周囲には、兵士の亡骸や、引く波に置き去りにされた魚や海藻がそこここに散らばっていた。 
 遠くの岸に、クヴァルドは彼女の姿を見た。 
 ヒルダ・フィンガルと彼女の〈クラン〉は、退却する兵たちの殿となって、追いすがる光箭軍の兵と戦っている。 
 その時、確かに、ヒルダと目が合った。見えないはずの目で、彼女はまっすぐにクヴァルドを見た。ヒルダは笑った。高らかに、清々しく。 
 そして言った。 
「ここが、我らの終焉の地だ!」と。 
 いくつもの遠吠えがおこる。雄々しく、そして凜々しく。それは別れの遠吠えだった。 
 その時、クヴァルドの背後から、ひとつの遠吠えが聞こえた。 
「あ……」 
 クヴァルドは覚えていた。その声を、その響きを。 
「よくやった、フィラン!」 
 快活な声が、頭の中に響く。彼はいつもそう言って、クヴァルドに誇りを与えてくれた。 
 聳え立つ波の中から、無数の狼たちが飛び出してくる。兄弟同然のグンナール、そしてローナン。死んでしまった仲間たち。その筆頭に、彼が居た。 
 エギル。 
 鋳造したばかりの銀のような毛皮を燦めかせて、大きな狼が駆けてゆく。彼は、身体に纏わり付く欠片のようなものを振り払いながら岸を目指した。それは、色あせて破れた蝶の羽根だった。  
 そして、彼らは戦った。自らを燃やし尽くす業火のように激しく。 
 彼らの最後の遠吠えを、クヴァルドは聞いた。寄り添う啼声ていせいは、ヒルダとエギルの再会を意味していた。彼らの最後の遠吠えが、長く、長く響いた。 
『お前の群れを守り抜けよ』と。 
「ヒルダ様……エギル……」 
「すまない、フィラン」 
 傍らで、ヴェルギルは言った。消え入るような声。クヴァルドは、彼を強く抱きしめた。 
「あやまることはない」クヴァルドは囁いた。「最後の瞬間まで、皆の──お前の隣に立つことが出来て光栄だ」 
 ヴェルギルも、クヴァルドを抱きしめ返した。そして、拡げた翼をさらに拡げて、黒い霧の壁で海岸を包み込んだ。 
 ここで、波を食い止める。たとえ僅かな時しか稼げなかったとしても、一人でも多く助かるのなら、それでいい。 
 近づく大波の足音に砂が震え、横転した船がきしみ始める。押し寄せる波に先駆けて、最初に風がやって来た。 
「来るぞ」クヴァルドが言った。 
 彼の身体を、一層強く抱きしめる。 
 次の瞬間、衝撃が来た。 
「ぐ、う……!!」 
 そうするしかないとわかっていたのに、本当に踏みとどまれたのが信じられなかった。気が抜けそうになる心を叱咤して、歯が顎の奥で砕けるほど強く食いしばる。千年に亘って培われてきた己の力の全てを賭けるヴェルギルに比べて、彼にしがみついているだけの自分はなんてちっぽけなのだろうと思う。だが、彼の抱擁を感じ、彼を抱擁する腕に返ってくる手応えを感じると、そんなことはどうでもよくなる。 
 ここで、二人で、守る。 
 それだけを考えていればいい。力が尽きる瞬間まで。 
 波は何度も、何度も押し寄せてきた。 
 その度に、二人が築いたつつみが岸に向かって押し戻される。足は腿の中程まで砂に埋まっている。次の波が来たら、身体が二つに折れ、千切れて押し流されるだろうとクヴァルドは思った。 
 二人の頭上では、穹窿きゅうりゅうにのし掛かるような月が崩れようとしていた。白い満月が、風に吹かれる粉雪のように、輝きながら溶けてゆく。 
月神ヘカが……死んでゆく……」 
 クヴァルドは呆然と呟いた。 
 悠然たる満月から、半月、そしてか細い三日月へと。彼女を満たす光がこぼれ落ちるように、流れ去ってゆく。それが、母なる月神ヘカの終焉だった。 
 彼女は身を挺して彼女の子供たちを守り、消えていった。 
「フィラン……」 
 呻き声ともつかない声で、ヴェルギルが言う。それ以上聞かなくてもわかった。月神ヘカの死と共に、ヴェルギルの体を覆っていた黒い霧が溶け始めたのだ。 
「ああ、わかっている」 
 クヴァルドは言い、ヴェルギルを抱きしめた。 
 せき止められた波は、二人の背後にのし掛かり、全てを押し流す時を待ちわびている。これ以上は、留めておけない。だが、浜に兵たちの姿はない。時間は十分稼いだ。 
 もう、大丈夫だ。 
「最後まで一緒だ、シルリク」 
「ありがとう……フィラン」 
 彼は、小さな声で言った。そして、もう一度。 
「ありがとう」 
 ふたつのありがとうの間に、彼が口にしようとして、諦めたものがあるのはわかっていた。きっとあまりにも大きすぎて、ありふれた言葉では言い表せないのだ。 
 だから、クヴァルドは無言で、彼を抱きしめた。 
 その時、断崖の向こうから角笛が聞こえた。 
 味方の角笛だ。 
 歓声が響き、何度も何度も、角笛が鳴り渡る。 
 それは勝利を告げる角笛だった。 
 クヴァルドは微笑んだ。ヴェルギルも。 
 そして、二人は最後の波に呑まれた。 
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