完結【日月の歌語りⅢ】 蒼穹と八重波

あかつき雨垂

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「これはまた派手にやったなあ!」
 船医のフィッツウォーターは大きな声で笑った。
 診療室は、まだ惨状から回復していなかった。後始末に駆り出された掌帆手が海水で床を洗っているが、血を吸わせるために床に撒かれた砂がそこここに残っていたし、血の臭いも、薬の匂いも濃厚だった。それでも、生死の淵を彷徨っている者はいないようだ。ハンモックに寝かせられた患者たちは鼾を掻いて眠っていたり、ランタンの明かりを頼りに本を読んだりしていた。
 フィッツウォーターはゲラードの両手を看るや、作り付けの棚を開き、様々な薬草や根や液体が入った瓶を、ラベルも見ずに次々と取り出しては、小さな机の上に並べた。そして満足げに「ん!」と唸ると、助手を手招きした。
「ドーソン! ちょっときてくれ」
 ドーソンが、はいと返事をした。それまで看ていた患者に声をかけてから、こちらにやってくる。
 痩せて背の高いドーソンは理知的な顔をした若者だ。落ち着いた物腰に自信に満ちた態度で、助手とはいえ、船員たちからの信頼も厚い。
 珈琲カフワ色の肌の、至る所に施された刺青は剣を思わせる鋭い意匠だ。ジュワルカの文化をほとんど知らないゲラードだったが、どういうわけか、その刺青に刻まれた戦いへの希求を読み取ることができた。自分が有能であると理解したうえで、さらに高みを目指すための戦い。
「彼の手を治療するとして、この中で必要ないのはどれだ?」
 フィッツウォーターが机の上の薬瓶を示す。ドーソンはちらりと瓶を一瞥すると、言った。
「ヘンルーダ、イノンド……ミツマタの根」最後の一つを付け加えてから、ドーソンはフィッツウォーターをじろりと見た。「そういう冗談はやめた方がいいと思いますけど」
「さすがだ、ドーソン!」医師は膝を打ち、椅子から立ち上がった。「じゃ、あとは任せた。俺はちょっと横になる」
 フィッツウォーターが、三歩歩いた先にある寝棚ボンクに転がり込むように寝そべると、すぐさま寝息が聞こえてきた。
「先生に代わって、謝罪します」ドーソンは固い声で言い、先ほどまでフィッツウォーターが座っていた椅子に腰を下ろした。「本当はいい人なんだ。下世話な冗談が好きなだけで」
 ドーソンはゲラードの方を見ようとせずに、船医が机の上に並べた瓶を改めて吟味していった。
「気にしないで」ゲラードは礼儀正しく返した。「何を当てこすられたのかも理解できていない」
 すると、ドーソンは顔を上げて、ようやくゲラードの顔を見た。
「ミツマタの根は……勃起不全に効果がある」
 ゲラードは口を開けたまま、一瞬だけ固まった。咳払いをして、なんとか答えた。
「それは……ええと、そうだな。僕には必要ない」
 ドーソンは笑うでもなく、呆れるでもなく……ただ何の反応も示さずに、瓶に入った薬草や種や根を次々に乳鉢に移し、コツコツとすり潰しはじめた。
 思えば、この船で最初に目を覚ましたときから、ドーソンという青年はゲラードに素っ気なかった。
 気詰まりな沈黙をどうにか和らげたくて、適当な話題を探す。
 ブランドン・ドーソンというジュワルカ人らしからぬ名前の由来についても気にはなった。けれど、東方大陸の西側に暮らすジュワルカ人にとっては、他国の名前を名乗るに至った経緯を語ることが屈辱をもたらす場合もある。ジュワルカと国境を接するアルマラには、戦の敗者を奴隷として他国に売り渡す文化があるのだ。誰もが選んでここにいるとは限らない。だから、別の話題を見つけた。
「その……刺青、何か意味があるものなのかな」
 ドーソンはゲラードを見た。彼の寡黙な顔に浮かんだ微かな感情がゲラードへの興味なのか、怒りなのかを図るのは難しい。彼は乳鉢に視線を戻して、それから教えてくれた。
「これは、父から受け継いだ。父は戦士で、船乗りでもあった」コツコツという乳鉢の音が大きくなる。「フーヴァルは父のもとで船乗りの修行をした。ずっと昔に」
「そうなのか」ゲラードは感心した声を上げた。「なら、ずいぶん長い付き合いなんだね」
「ああ」
 ようやく、彼の顔に笑みの気配らしきものがよぎった。
 ドーソンは、別の容器に出来上がった粉末を入れると、そこにとろりとした脂をひと匙掬い入れた。容器の中でそれをかき混ぜてから、少量を手に取る。
 促されるままに出した両手に、彼はその軟膏をそっと塗り拡げてくれた。
「じきに薄皮が張りはじめる。でも、初めのうちはすぐにひび割れてしまうだろう。この軟膏を塗って、なるべく肌を乾燥させないように。早く直したいのなら、海水や力仕事は避けること」
 淡々とした診断を頭に叩き込む。
「しかし、力仕事や海水を避けるのは無理そうだ」
「免除してもらうよう、船長に頼めば良いのでは?」
 その言葉に棘を感じた。お前は、どうせ特別待遇を受けているんだろう、と。まるでこちらを試しているようだ。
「客室を使わせてもらっているだけでも、十分特別あつかいしてもらっているから」ゲラードは小さく肩をすくめた。「できれば、ただの荷物になりたくはないんだ」
「何いってんの、ガル!」
 病室の奥から、ヘインズの声が聞こえた。顔を向けると、彼女は診察室の一番奥のハンモックから、こちらを見ていた。その声にたたき起こされたらしい何人かが、不満げな声を上げる。
「あんたは荷物なんかじゃないよ、あたしが保証する!」
 ゲラードはおずおずと微笑んだ。「ありがとう。ミズ──クラウディ」
 ヘインズはケラケラと笑った。「ありがとうはこっちの台詞でしょうが」
「ヘインズ、病室では静かに」
 ドーソンは冷静に言って、そっとため息をついた。
「あなたは仲間を助けた。俺も、役に立っていると思う……ただの荷物よりはね」そして、施しを与えすぎたと思い直したかのように、また無表情に戻った。「では、他に用がなければこれで」
 
     †
 
 コルパス・イサスは、マルディラの南の海上にある岩礁地帯だ。カルタ語で『島々の骸コルパス・イサス』という名が示す通り、天の火に焼かれて砕け散った島の、焼け焦げた残骸のような岩礁が広い海域に散らばっている。波は荒く、気を抜けばあっという間に岩礁に乗り上げ、船底に穴があく。それを証明するように、周囲には数え切れないほど多くの船の残骸が点在していた。この海域を座礁せずに渡れる船乗りは、九海にその名を馳せたフーヴァル・ゴーラムと、その仲間のジャクィス・キャトル──そして、彼らを鍛えたホライゾン号の船長ローレンス・オチエン・ドーソンだけだ。だが、オチエンもジャクィスも、もういない。ホライゾン号の乗組員の中で、生き残っているのはフーヴァルだけだ。
 一行は浮球儀ふきゅうぎと海とを注意深く観察しながら進んだ。帆をすべて畳んで小舟に曳航えいこうさせる他に、この安全地帯に潜り込む方法はない。半日以上かけて進むことになるから、相当に神経と体力を使う。だが危険な海域を一度抜けてしまえば、コラゾン島と呼ばれる無人島に潜り込める。ここは安全に──かつ誰にも見とがめられずに──真水と食料を手に入れることができる隠れ家だった。
 島には船を停泊させるのにちょうど良い入り江があり、鬱蒼と茂る森や、風雨をしのげる洞窟もある。洞窟の奥には真水が湧く泉まであって、島に生息する獣たちを十二分に養っている。
 この島は、溶岩の岩棚しかなかった不毛の無人島を、魔法の力によって作り変えたものだ。オチエンは──彼の言葉を借りれば──「自然をちょいとくすぐってやる」のに長けた魔法使いだった。その弟子であったジャクィスもまた有能な魔法使いだった。彼らは二人して植物を育み、土を作り、山を積み重ねることで、この地に水を呼んだ。コラゾン島はかつての仲間たちの遺産であり、フーヴァルにとっての宝だ。
 コラゾン島に来ると、フーヴァルはいつも、彼らのことばかりを思い出す。ホライゾン号の船乗りたちと過ごした日々が、遺跡のようにこの場所に散在しているせいだ。風雨に晒され、消えてゆくのを待つばかりの記憶が。
 投錨すると、すぐに積み荷を降ろす作業に取りかからせた。
 船艙に蓄えていた食料や予備の船材、他の船から巻き上げた金目のもの、さらには乗員の私物や調理室の鍋まで、残さず陸に降ろす。船艙でビルジに浸かって汚れた脚荷バラストを洗う作業もしなくてはならないが、今日のところは、魔の海域を抜けて島にたどり着き、積み荷を運び出すところまでで十分だ。
 明日から約十日、この島で船の修理を行い、食料と水を補給する。十日間のうちに、折れたマストの代わりとなる松材を、魔法使いたちが苗から育て上げる。同時に、炊船すいせんして船底にこびりついたフジツボを焼き、浸水を防ぐ目詰め材を詰め直し、防腐のためにタールを塗り込む。流された主檣帆メインスルには予備があるから、帆の心配はしなくていい。
 怪我人は出たものの、一人の死者も出さずに難局を脱し、まんまと隠れ家に逃げ込めた。上出来だ。
 作業が一段落ついた頃、棚引く雲の群れを金色に染め上げながら、黄昏がやってきた。雲間に瞬きはじめた星々が日中の暑さを忘れさせ、西の地平線から夜を招き入れる。日が暮れる頃には、砂浜にはいくつもの焚き火と、それを取り囲むひとの輪が出来上がっていた。
 弓を持って森に入れば、肥えた野良猪を難なく捕まえることができるし、釣り糸を垂らせばすぐに魚が食いつくが、狩りは明日からだ。今夜は、一番大きな焚き火につきっきりのエディが作る、塩漬け豚の煮込みと虫食いだらけの乾パンで空腹をしのぐ。不満げな顔はどこにもなかった。ヴァスタリアと美食の関係は、山羊の乳と羅針盤のそれに似ている──つまり、相容れない。だが、ヴァスタリアの台所に失望して祖国を捨てたエディの料理は、なんというか、神がかっていた。彼の生み出すものに文句をつける者はいない。もしいたとしたら、そいつは舌か頭のどちらかがおかしいのだ。長い船旅には腕のいい調理師が欠かせない。エディはマリシュナ号の宝だった。
 加えて、今夜は配給酒グロックの量をいつもより増やして、(いつも以上に)羽目を外してもいいと伝えた。みな思い思いの場所に陣取って、話したり、歌ったり、踊ったり、賭けをしたり、草陰にしけ込んだり、どうでも良いことで言い争ったりしている。
 穏やかな波の音と混ざり合うざわめきに耳を傾けながら、フーヴァルは、小さなランタンの灯りを頼りに航海日誌を仕上げた。ずっと慌ただしくて、書くことが溜まっていたのだ。ペン先からインクを拭って道具入れにおさめ、衣服箱シー・チェストにしまう。几帳面に航海日誌をつける習慣も、かつてはオチエンのものだった。
 宴に合流する頃には、ざわめきは乱痴気騒ぎに変わりはじめていた。浮球儀の手入れをしていたアーナヴもちょうど仕事を終えたところのようで、手についたインクを拭いながら、焚き火の輪に加わっていた。
 ゲラードの周りはひときわ盛り上がっていた。船から投げ出された男が九死に一生を得て、仲間の命まで救ったのだから、当然だろう。フーヴァルが近づいていくと、船乗りたちが気付いて、今日何度目かの乾杯を捧げた。
「勇猛にして、いと賢き我らが船長に!」
 ゲラードも乾杯をして、ほとんど手つかずの配給酒に唇の先をつけていた。焚き火の明かりに照らされて、心からくつろいで見える。上気した頬は酒のせいではなく、こういう……本物の宴に加わるのが初めてだからだろう。王宮で催されているのが、あんな辛気くさい仮装ごっこであることを考えれば、無理もない。
 話題はいつの間にか、アクシングをはたてうみに誘い込んだフーヴァルの機転と、人魚や海竜の恐ろしさへと移っていった。
 フーヴァルはゲラードの視線を捕まえると目線だけで促した。そして、盛り上がる仲間の輪から、二人してそっと抜け出した。
 背後では、舟歌シャンティーの大合唱が始まっていた。
 
  引けよウェイ ヘイ お前ら
    帆を上げろウェイ・ハー・アップ
  人魚の歌は天の調べ
  そして破滅の道標みちしるべ
   
  引けよウェイ ヘイ お前ら
    帆を上げろウェイ・ハー・アップ
  哀れなジョニーが聞いたとさ
  人魚の妙なる歌声を
   
  引けよウェイ ヘイ お前ら
    帆を上げろウェイ・ハー・アップ
  ひとたび人魚の虜になれば
  たちまち骸が海の底
 
 賑わいと火明かりとが届かないところまで、砂浜を歩く。風も波も穏やかだった。灼熱の太陽に炙られた肌を癒やすように、心地よい浦風うらかぜがそよいでいた。
 いったい何の話があるのかと、ゲラードが訝っている様子はなかった。たとえ自分の船室を持っていても、船の上では完全に人目につかない場所など存在しない。どちらかの部屋にどちらかが入れば、必ず誰かに、それを知られる。
 誰にも聞かれない場所で改めて話をする必要性を感じているのは、ゲラードも同じはずだ。
 入り江の端まできたところで、フーヴァルはゲラードを振り向いた。無遠慮に手首を掴んで持ち上げ、手のひらをじっと見る。痛々しい傷は相変わらずだが、軟膏を塗った手からは薬草の匂いがした。
「よし。ちゃんとドクのところに行ったな」
 ゲラードは頷いた。
「ドクは手が離せなかったようで──」
「酔ってたか?」
「ああ……なんというか、そのようだった」
「いつも通りだな」
 ゲラードはフフ、と笑った。
「ドーソン君に手当てしてもらったよ」そして、あの気弱な笑みを浮かべる。「彼には……どうも嫌われているようだ」
「あいつのことは、まあ……気にしなくていい」
 ゲラードが従わないのはわかっていたが、言った。
「君のお師匠のご子息なんだろう」彼は言った。「彼の目に、僕がどんな風に映るか……無理もないと思う。僕には、マリシュナに乗る資格はないんだから」
 夜の闇に沈んだ海辺では、寄せては返す波の音ばかりがやけに大きく聞こえる。深い寝息のようにゆったりとした潮騒が、沈黙を埋めた。
「ヘインズのこと、礼を言ってなかった」振り返り、真正面から彼と向き合う。「ありがとう」
 ゲラードは、闇の中でもわかるほど目を丸くして、二、三度瞬きをした。それから、おずおずと、口を開いた。
「僕の方こそ」彼は深く辞儀をし、それから言った。「またしても、助けてくれてありがとう、フーヴァル・ゴーラム。一生かかっても返しきれない恩だ」
 彼の身体に染みついているはずの王族クラレントの血がもっと濃かったなら、自分の命を助けた相手には、礼ではなく報償で報いようとしただろう。
 相場を考えれば、船一隻、あるいはもっとか?
 けれどゲラードには、王族にしては珍しく、恩義にモノで報いようとする習慣がないらしかった。
 海賊としての自分は、当てが外れたと悪態をついている。だが、それよりもさらに深いところにある別の部分は、ゲラードの素朴さに救われていた。
「それで」フーヴァルは、感傷的な雰囲気を吹き飛ばすように手を打ち、腹帯ベルトに差しておいた酒瓶を取り出した。「お尋ね者になった気分はどうだ、王子様?」
 コルクを咥えて抜いてからその辺に吐き出して、瓶の口を向ける。
「僕はいい」
 ゲラードが酒に弱いのは知っていたが、それでも少しくらいは頼りたい気分のはずだ。
 それに酔っておけば、後々言い訳が必要になったときに役に立つ。酒はどんな弁護士よりも有能だ。
「いいから、ちょっとだけ付き合えよ」
 躊躇いながらも、ゲラードはようやく受け取って、控えめに一口飲んだ。そして、ため息をついて、砂浜に腰を下ろした。
「自分でも意外だった。あんなに打ちのめされるとは」
 彼は小さく笑って、もう一度瓶を呷ってから、フーヴァルに返した。
「堪えたのはどっちだ? 兄貴が死んだことか、妹に疑われてることか」
 ゲラードは少しだけ考え込んで、言った。「後者かな」
 意外だった。
 エレノアは、良くも悪くも、人々の噂にのぼらない王女だ。母親に似て美人で、芝居好きということくらいしか知られていない、影の薄い姫。だが当然ながら、ゲラードにとっては兄妹の中で最も年が近い妹なのだ。
「僕らは……なんというか、他の兄たちとは少し違っていてね」
 膝を抱えて夜の海を見つめるゲラードの横顔に、幼さと成熟とを見る。
 人間の一生は短い。長く生きるナドカの目には、人間は幼いまま死んでゆく種族のように映る。ゲラードも確かに──多くの部分で──幼い。けれど、そればかりではない。恵まれているはずの王子が常に抱えているらしい達観は、時に彼を、歳経たいきもののように見せた。
「俺は、慰めるために身体を貸すほどお人好しじゃねえぜ」
 フーヴァルが言うと、ゲラードははじけるように笑った。ひとしきり笑ったあとで、また、あの諦めたような表情を浮かべる。
「わかっているよ。君の情けに縋るような真似はしない」
「ま、話くらいは聞いてやってもいい」
 瓶に口をつけて、グビリと飲む。ゲラードに手渡すと、彼はしばらくの間それを見つめてから、思いきりよく呷った。




      14
 
 幼い頃、ゲラードはよく迷子になった。
 壮健だった時のハロルド王は、一年の三分の一を巡幸に費やした。国中を巡り、臣民の忠誠をあらためるための巡幸は、同時に、王家の威光を国の隅々にまで知らしめるための戦略でもあった。そのために、豪華絢爛な装飾が施された馬車に乗り、輝く鎧に身を包んだ騎士や、上等の仕着せを着た召使いたちを大勢従えて、〈王の道〉と呼ばれる街道をゆっくりと歩くのだ。街道沿いの村や町の人々が、王の姿をひと目見ようと道沿いに並び、行列の行く手に花を撒いたり、生まれたばかりの子供に祝福を願ったりしていた。
 滞在先は、大抵が行く先々の地方にある貴族の館だった。狩りにうってつけの森を所有している家が多かったのは、王が無類の狩猟好きだったからだろう。ゲラードは父や兄たちの狩りについてはいかなかった。幼すぎるから、というのが表向きの理由だが、本当は違った。
 ゲラードが森に入ると、必ずと言っていいほど迷子になるのだ。
 家来たちが血眼で探しても見つからず、かと思えば、翌日の朝には何事もなかったかのように、屋敷の井戸の傍や、厨房の竈の傍で眠っていたりする。
 そうした奇行には、いつも決まった理由付けがなされていた。もちろん、表向きには誰もそんなことを口にしないけれど。
 曰く──
「第四王子のゲラードは妖精シー取り替え子チェンジリングだ、とね」
 フーヴァルは面白がるように片眉を上げた。無理もない。
 生まれた子供が病弱で、生きる見込みがないとき、母親はその子供を妖精に預ける。その代わに、妖精もまた彼らの子供を人間に託す──と言われている。取り替え子チェンジリングは、不倫のすえにできた子供が父親に似ていないことを誤魔化すための常套句でもある。
「本当に、そうなのか?」
「僕が取り替え子チェンジリングかって? いいや。だが不義の子だ」ゲラードはさらりと言った。「僕の中に、王の血は流れていない」
 フーヴァルはほんの一瞬、驚きに固まった。だがすぐに気を取り直し、感心したように口笛を吹いた。
「エメライン王妃を見直しちまったぜ。たいしたもんだ。いやまったく」
「どうも」ゲラードは笑った。「僕の本当の父は、ハロルド王が巡幸の途中で立ち寄った、小さな領地のあるじだったらしい。母とその騎士は惹かれ合い……僕が生まれた」
「あのハロルドがそれに気付かなかったとはな」
「気付いていたさ。だが、認めなかった」
 父は誇り高い人間だった。自らの兄を──良い王になるだろうと皆から期待されていたエリク王を排除して王座を奪ったからこそ、周囲の者を一人残らず納得させる必要があったのだろう。エリクよりハロルドの方が優れた王だ、と。
「体面を気にしたんだ。不義のかどで王妃の首を切るのは、妻を寝取られたと世間に喧伝するようなものだからね。ハロルドには、それが耐えられなかったんだろう」
 ゲラードは、父と母が同じ空間に居合わせたときの、あのなんともいえない空気の味を思い出して、わずかに顔をしかめた。
「だが、エレノアが生まれた」フーヴァルが指摘した。
「そう。エレノアは生まれた。しかも、今度は間違いなくハロルドの子だった」
 エレノアが誕生したときの王宮は明るかった。四人の男児のあとに生まれた姫の存在は、厳格な城の雰囲気を一気に華やがせた。どの部屋にも生花の香りが溢れ、毎日のように、美しい布地やレース、リボンに宝石が運び込まれた。まるで、昨日まで素っ気ない兵舎だった場所に、一夜にして花畑が出現したような有様だった。
「母はちっとも幸せそうではなかった」当時の様子を思いおこすと、また、嫌な味が舌の上に広がる。「エレノアは聡い子で、六つになる頃にはそれに気付いた」
?」
 残酷な言葉を口にする前に感じる喉の強ばりを、飲み下した酒で無理に解す。
「自分が、母を不幸にしていると」ゲラードはため息をついた。「僕も同じだ。僕の存在こそが、母の罪の証拠で……僕が生かされているということが、つまり……それ自体が、父が母に与えた罰だったんだ。ある意味では、エレノアもそうだった。僕は母の罪の証し。エレノアは、母の償いの証しなんだ」
 初めて真実を知った日──世界がひっくり返った。まるで、いままでずっと、自分一人だけが天井に足をつけ、逆さまの世界を生きていたことにようやく気付いたみたいだった。それは、エレノアも同じだった。
「そういうわけで、僕とエレノアは幼い頃から、なにかとふたりだけで過ごすことが多かった。そのせいできっと……」言葉を探して、心の中を手探りする。「きっと、彼女も僕を信頼していると思っていたんだ。特別な絆があるはずだ、とね」
 愚かな思い違いをしていたせいで湧き上がる羞恥を、ため息と共に身体から追い払おうとする。だが、それは相変わらず、腹の底にわだかまっていた。
「僕が兄を殺すはずがないのは、エレノアが誰よりもよくわかっていると思っていた。たとえ継承権第一位になっても、僕には王になる資格はないんだ……立派な服を着てはいても……僕は単なる、田舎の小領主のせがれだから」
 酒が回って、頭がクラクラする。見かねたフーヴァルが、ゲラードの手から酒瓶を奪った。
「その、お前の本当の親父がどうなったか、調べたのか?」
「もちろん調べたさ。とは言え、王宮には何の手がかりもなかった。当時のことを知っていて、今も生きている者は当然、ハロルドとも繋がっていたから、慎重にならざるを得なかった。わかったのは名前だけ──ハルヴェイ・モーズリー卿」
 その名前から、彼の小さな領地と、王がそこを宿泊地とした日付を割り出すことができた。そして、母と彼とが恋に落ち、過ちに至るまでの早さも。
 だが、そこまでだった。
「ようやく道が開けたのは……三年前。ほら、審問官をデンズウィックから逃げ出す手助けをしただろう? あの時助けたサムウェル君のおかげなんだ」
 記憶を辿ったフーヴァルが、ああと呟いた。「あいつか? あの──」
 嘔吐を表す手振りから、サムウェルが船艙にもたらした些細な被害のことを根に持っているのだと気付く。
「そう。ひどい船酔いの」ゲラードはふっと微笑んだ。「彼の一族は代々、デンズウィックの刑吏だ。あのあと……偶然再会することがあって──尋ねてみた」
 彼と再会したのは、ビアトリス・ホーウッドの処刑の時だった。
 彼も、そしてゲラードも、最期まで見届けるためにあの場所にいたのだ。
「サムウェル家には職務の詳細を記した日誌が残されていてね。その中に、ようやく父を見つけた」
「じゃあ、処刑されたのは間違いないのか」
 ゲラードは頷いた。「けれど、処刑台を用意して大々的に行われたわけじゃなかった。ハロルドはここでも外聞を気にした」
 フーヴァルはゲラードの方に身を乗り出した。ゲラードは秘密を打ち明けるように、声を潜めた。
「彼を島流しにしたんだ」
 目を丸くするフーヴァルを見て、ゲラードは声を上げて笑った。「徹底していると思わないか? あのハロルド王が、妻を寝取った男をこっそり島流しにしていたなんて──誰が想像するだろう」
 ゲラードはため息をついた。
「島の名前はバリェーナ島というらしい。だが、どうやらでたらめじゃないかと思うんだ。どの地図にも、そんな名前の島はなかった。君は知っている?」
 フーヴァルは少しの間考え込んだものの、首を振った。「いや、知らねえな」
 やっぱり、とゲラードは頷いた。「きっと、船の上から突き落とされたんだろう。海に出ることさえなかったかもしれない。わざわざ船に乗らなくても、人気のないところでいくらでも片をつけることができるんだから」
「島の名前なんてもんは国によって変わるんだぜ。なんなら、船乗りによっても違うくらいだ」
 ゲラードは、抱えた片膝に頬を乗せ、首をかしげたままフーヴァルを見つめた。
「慰めはしないんじゃなかった?」
 フーヴァルはムッとした。「慰めじゃねえ、事実だ」
 どちらにせよ、ありがたい。
 けれど、どちらにせよ──
「探すことは、もう諦めている」
 フーヴァルが、残りわずかになった酒瓶をゲラードに差し出した。けれど、首を振って断った。
「僕の人生は……牢獄なんだ」膝に顎を乗せ、黒い海と、その上に広がる無数の星を見つめる。「装わなくてはならない王子という役割と、決して王になることはないという事実が鎖となって、僕をあの空っぽの城に縛り続けてきた」
 ゲラードはもう一度、傍らのフーヴァルを見つめた。
 慎み深い星明かりが、彼の面差しの厳しい部分を隠してくれているのだろうか。その表情はいつになく優しく見えた。
「僕がナドカに憧れたのは……自分ではない何かになりたかったからだ」
 ゆっくりと、静かに。懺悔をするように、ゲラードは言った。
「いまなら、あれがどれだけ無責任な憧憬だったか、よくわかる」
 すると、フーヴァルはハッと声を上げて笑った。
「昔の間抜けっぽいお前も悪くなかったぜ。可愛げがあって」
 ゲラードもフフ、と笑った。「今は間抜けじゃない?」
「間抜けだ」フーヴァルはきっぱりと言い切った。「だが、前ほどじゃない」
 目と目があう。
 笑みを湛えた彼の視線が、ゲラードの目から、唇に落ちる。それから首筋、胸元──さらに下にまで。
 そういうやり方で伝えられた望みを読み取る方法を、ゲラードに教え込んだのは他ならぬ彼だ。
 呼吸が荒くなり、脈が速くなる。フーヴァルの癖毛の滑らかな手触りと、そこに染みこんだ潮の香りを思い出す。大胆にはだけたシャツから覗く、日に焼けた胸。彼の航跡が、刺青となって刻み込まれた肌。触れたときの熱さや、滴る汗の味まで。
 膝を抱えた姿勢が、急に窮屈になったように感じる。
「いまなら、船には誰もいないぜ」フーヴァルが言った。
 誘いを掛ける、その低い声を聞くだけで、胸の中にありとあらゆる感情が殺到する。悦びと恐れ。誇りと羞恥。喜びと悲しみ。彼を望んだ瞬間から、それらは常に切り離すことができないものだった。
「慰めるために身体は貸さない、だろ?」
 すると、フーヴァルは笑いながら立ち上がり、ゲラードを見下ろした。
「ああ、そうだ」そして、ゲラードの腕を引いて立たせると、臆面もなく言った。「だが、気晴らしなら話は別だ」
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