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1、贖罪のスピネル

57、君に好かれる人間になりたい

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 ハルシオンの心には、別々の情緒が渦巻いていた。

(オルーサ。なんて壮絶な人生……胸が締め付けられるようだ)
【おお、オルーサ。よく頑張ったね。パパは感動で胸が熱くなったよ。素晴らしい……!!】

 はなをすすり、涙をぬぐう。
 シュネーさんがハンカチを差し出してくれる。自分も瞳を揺らしながら――健気ぇ! 優しいぃ!
 
 この可愛い子は私を慕ってくれているのだ。なんて幸せなのだろう。
 あまり嫌われることはしないようにしないといけない! 

(私が悪かった。シュネーさんの言う通りだ。私は、なんてひどい父親なんだ……あと、アルやミランダにも謝らなきゃ。思えば私たちは、民や国のことをあまり気にかけていなかったな。反省しないといけないんだよ。これからは王族としての責務を立派に果たして、空国のためにあおへいいういいい?)
 
 思考が乱れる。上塗りされるように考えが変わる。
 
【いいや? 私は悪くない。オルーサが悪い子だからお仕置きしただけだ。おかげであの子も成長したではないか? 私のおかげで?】
 
 
 ――あ、だめだ。
「はぁっ……、シュネーさん、私は帰ります」
 ……頭がおかしい。私の。
 

 考えが止まらない。止められない。ぐるぐるまわる。
(そもそも私は、どうして未婚の姫君の寝所に押し入ってしまったのかな? そんなことしちゃ、だめだよ)
【でもだめじゃない。ここは私の国で、この娘は私がつくった私の人形ではないか。玩具箱に仕舞った玩具のようなものではないか~】

 シュネーさんが何か言っている。ちゃんと聞いてあげたいのに、夢の中に沈んでいるように感覚がおぼつかない。
 息をしているかどうかもわからなくなる。

【あれ? これは夢だったかな?】
(――いいや、現実だったと思うんだ)
  
 自分が今、何をしているかがあやふやだ。
 たぶん、窓から外に出ようとしている。
 
【なかなか興味深い時間だった】
(とても心が痛む過去だった)

 時刻は夜だ。月が二つそろって、綺麗にぽっかりと空に浮いている。

【私は人類の生みの親だ。神と呼ばれてもいい存在だ】
(ううん、私はただの、ひとりの青年)

 私がひとりなのに、二つの月はずっと高いところで仲睦まじそうにしている。それがいつもむかついたのを思い出す。

「んぅ、っ……く、ふ」
 頭がおかしくなりそうだ。

 
「ハルシオン様……」
 
 視線が感じられる。見られてる。ここには私以外の知的生命体がいる。……私がつくった。

 私がゼロから作ったんだ。
 私が生み出したんだ。私が神だ。全部、全部、私のものだ。

「カントループです」
 私の娘に微笑めば、娘は哀しそうに首を振るではないか?

「あなたは、十九歳の空国の王兄殿下、ハルシオン様です」 
 そっか? 私はハルシオンだ。ハルシオンでいいのだ。だって、シュネーさんがそう言うのだもの。えへ、あはは。やったぁ。
 
 シュネーさんは私をハルシオンと呼び、窓際へと寄る。
 小さな手が腫れ物に触れるように頬に感触をつたえる。可愛い指だ。食べちゃいたい。って、食べちゃダメだ。いけません!

「シュネーさん、今夜は突然、失礼しました。お詫びは後日改めて……婚約前の乙女の寝所に夜這いするなんて、私はとんでもないことをしてしまいました」

 ふわふわしてる。ぐるぐるしてる。わかんない。でも、私はシュネーさんにマトモっぽい自分を装いたい。

「うんうん、シュネーさん、そうですよね。私は人間で、ただの平凡な十九歳……」
「あ、あんまり平凡ではないかと思いますが、はい」

 シュネーさんは、柔軟だ。ピュアだ。オルーサがそう育てたのだ。
 いろんなことを真面目に考えている。可愛い。
 
「私がこんなだから、周り中を困らせてしまうのですよね。あはは、自覚してるんですぅ……よくない、と」

 可愛い君と、二人だけでお話してる。
 
 それってなんだか、特別だ。
 それってなんだか、胸が熱くなる。

 君の瞳に私が映っていて、私の瞳に君が映っている。
 頭のおかしな私を辛抱強く見つめて、話を聞いてくれるんだ。

「私は第一王子として、教育をほどこされたのでした」
 
 そういえば、私にも父がいた。私には特別な記憶のない、ただの子供の時代もあった。
 
 王族は国家の象徴であり、民衆の尊敬を受けている。
 強い権力を持つ人々は、分別と責任を持つべきだ。
 
 選民意識や特権階級意識に溺れることなかれ。
 使命感や義務感を強く持つように。

 ――父、先代空王は『次の王になるのは自分だと思って励むのだぞ』とハルシオンにささやいて、大きくて頼もしい手で息子の手を握り、空国の民に笑顔を向けていた。
 
 自分たちの利益や幸福を犠牲にしてでも、国家や民衆のために尽力するように。
 誰が見ても公正である、と評されるような判断をくだすように。
 
 私利私欲ではなく、国家の利益や民衆の利益を考慮するように。
 慈悲深い心を持ち、民に優しくあれ。
 王族は誠実であり、信頼できる存在でなければならない。

【先代空王は、いい子だ】
(先代空王は、よい父だ)

「私と弟は、王族として失格ですね」
 
 ――自分はハルシオンなのだ。

 言い聞かせるようにしながら、月から目をそむける。
 視線の先の少女はとても真剣に話を聞いてくれていた。そんな心が好ましい。

「シュネーさんは、お嫁にいってしまうのですか?」

「ふぇっ!? お、お嫁っ!?」

 ああ、声がきこえた。はっきりと。

 ――君の声がききたかったんだ。

「あの英雄のことが、好き……?」

 自分はどうだろう。
 カントループは父として愛情を注いでいた。娘が嫁ぐのは仕方ない、幸せになってくれるならいいのだと思った。

 ……ハルシオンは?

 私がハルシオンなら、父ではない。
 婚約しようと思っていたんだ。一時期は。
 
 まだ誰にも踏み荒らされていない、真新しく降り積もった雪を思わせる、その心根。
 すこし目を離した隙に、誰かに枝ごと手折られてしまいそうな、まだ咲かぬつぼみに似た柔らかな魂。
 怖がらずに私に触れてくれて、おそれずにハルシオンと呼んでくれるお姫様。
 こんなに不安定で、頭のおかしな私にも優しくしてくれる女の子……、
 
 ――ただの、遠い親戚の、年下の少女。
  
 触れられた頬が、熱い。

 心が蕩けてしまいそうだ。
 元からいつも、ふわふわ、ふにゃふにゃで、とろっとろだけど。

「はぁっ……――ふ、……ふーっ……」

 吐息が熱い。いけない。気持ち悪いって思われてしまう。息をするのをやめよう。
 大きな目で、じっと見つめる顔が可愛い。あどけない。
 
 無防備なんだ。
 この子、すっごく隙だらけなんだ。
 
 あの英雄を出し抜いて唇を奪ったら。
 このまま一線を越えてしまったら――、

 頬にあてられた手に自分の手を添えて、上から覆うように握る。
 顔を寄せて、吐息が触れ合う距離になっても、この子は。

(もう、私のことをパパだと思っちゃっている? かわいそうなハルシオンだと思っている? ぜんぜん、異性だと意識されてなぁい……)

 いやいや、そんな状態で奪っちゃ、だめでしょ。
 いけません、いけません――、

「っ……、シュネー、さん」

 小動物めいた気配で、目の前の少女が小さく頷く。真剣だ。
 ああ、可愛いや。もっと喋って。いや、喋ってるのかもしれないけど。私の認識している現実がふやふやしていて、わからないんだぁ……。

「きいて……」

 だから、私はただ、伝えよう。

 
「私は、ハルシオンは……シュネーさんのことが、好きです」

 
 月が二つで寄り添っていても、こうして二人でいれば、気にならない。
 ひとりじゃないって、こんな感覚なんだ。
 これがずっと足りなくて、切なくて、寂しくて、夢みてた。

 
「君のことが、好きです。十九歳のハルシオンとして、パパじゃなくて、お兄さんでもなくて、ただの男として……君に恋したい」
 
 
 握った手を口元に寄せてキスをひとつ落としたら、君が赤くなって――意識してくれた。

 ――嬉しい。 
 それだけで、幸せを感じてしまう。

「まだお嫁には、いかないで」

 君が私に恋をしていないのは、わかっている。
 前世からずっと別の男に売約済なのも、知っている。
 
 ――けれど、もう少しだけ。

「もう少しだけ、夢をみさせて」

「君に好かれる、マトモな人間になりたい。神様じゃなくて、普通の青年として君と寄り添っていたい」

  
 柔らかく夜のふちを彷徨う声に、彼女のこたえがあったのかどうかすらも分からない。
 私の壊れた心は、こんな重要なことも――わからなくなってしまったのだ。
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