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幕間のお話2
152、アーサー陛下が手紙を書いてこなくてよかった
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――幼い頃。
母に。父に。兄に。使用人たちに。あるいは友人に「女の子のように可愛い」「お姫様のようだ」と言われるたびに、シューエン・アインベルグは思ったものだった。
(「ように」「ようだ」――それって、結局は僕が「そうじゃない」って言っている。「女の子じゃない」って言っている。「お姫様じゃない」って言っている。僕は、「そうじゃない」のでは)
王女フィロシュネーを見て、その思いは確信に変わった。
フィロシュネーは本物だった。彼女こそがお姫様なのだと、シューエンは感じた。
(僕は女の子ではない。僕はお姫様ではない。僕は、男子なのだ)
その感情は、シューエンにとって特別だった。
その感情をくれるから、フィロシュネーは特別だった。
シューエンがフィロシュネーを可愛いと言う姿を見て、家族は末っ子が恋をしたのだと言った。だけど、だけど――
(それって恋だったのだろうか?)
それが恋だったのかはさておき、シューエンは特別なフィロシュネーと結ばれようとした。その身分は侯爵家の令息だったので、やる気を出せば十分に王女との婚姻を狙える、と家族も鼻息を荒くしていたものだった。
王太子アーサーへと近づくシューエンの瞳には、打算しかなかった。
「俺に忠誠を誓うと申すのか」
「はい、アーサー殿下」
頭を垂れるシューエンに、槍を手にした青国王太子アーサーは気負うことなく「構わんぞ」と返事した。
(王太子アーサー殿下に取り入るのは楽だ。僕の役に立ってもらおう。むふふ)
……と、思ったのに。
「アーサー殿下……? 妹姫様にご挨拶なさらないのですか?」
アーサーはフィロシュネーと慎重に距離を取り、身を隠すようにしてじっとりねっとりと妹を遠くから見守ったりしていた。
「アーサー殿下? なぜお隠れに?」
「俺は今、鍛錬の後で汗臭い。妹に嫌われてしまう」
「浄化の魔法を使っていますし、殿下はこの上なく清潔であらせられるような。匂いなんてしませんよ」
シューエンが首をかしげる。何を言い訳しているのかと。
「アーサー殿下~?」
「静かにせよ」
「はあ」
「妹に挨拶するにしても、事前調査が必要であろう」
「はあ。汗臭いのが理由ではないということでございますね」
「本日の機嫌はどうか。今欲しいと思っているものや悩み事は何か。嫌がる話題は何か。何を言えば喜ぶか。調べなければならぬことは無限にあるのだ、いいな」
「は……め、めんど……」
アーサーはそう言って延々と妹姫を見守る。
毎回、部屋に妹の姿が消えるまでを見届け、「本日のシュネーは健やかであった」と満足する。
(この殿下……要するに妹姫に嫌われるのが怖くて、積極的に話しかけられないんだ……)
アーサーという王太子は表向きはおおらかで威風堂々としていて、深く考えずに槍ばかり振っている脳筋槍バカのようだったが、中身は繊細だった。繊細さを隠して外向けに自信満々な自分を演じるような青年だった。
* * *
(過去なんてもういいやって気持ちを切り替えればいいのに、僕はどうして振り返ってしまうのだろうな)
手に抱えた小さな陶器の壺を撫でながら、シューエンは苦笑した。
青国を離れたシューエンは、紅国のアルメイダ侯爵家に身を寄せている。今は、当主の趣味の部屋――いわゆる遊戯室にいた。
木のあたたかみを感じる四角い部屋の中央には、作り物の都市がある。
台座の上に広がる都市は、外側が緑の自然に包まれるようになっていて、石製の塀に三角屋根の家々が囲まれている。都市中央には川が流れていて、橋がかかっている。奥には大きくて立派な城もあった。
――アルメイダ侯爵の趣味であるディオラマである。
「あの女はなぜ、猫に変身してディオラマを荒らすのか」
「シモン様に構って欲しいんですよ、間違いございません」
黒髪のアルメイダ侯爵の愚痴に相槌を打つのは、獣人シェイドだ。
呪われているシェイドはゆっくりとその生命を蝕まれつつある。が、その尻尾ははち切れんばかりにぶんぶかと振られていた。
――「忠誠を誓った主君のそばにいるのが嬉しい」。
シェイドは先日、シューエンにその内心を教えてくれた。
しかし、シューエンにはいまいちそれが理解ができないのだった。
(主君のそばにいるからなんだというんだ。なんで嬉しいんだ? 死ぬのは怖いだろ)
シューエンは接着剤入りの陶器の小壺を抱えながらしみじみとした。
はけを手に接着剤でディオラマ修復をするのは、アルメイダ侯爵本人だ。
「橋が壊れると都市民が分断されるではないか。見ろ、この父親は橋の向こうに家があるのだぞ。家に帰れぬではないか」
「あっ、そういう設定がございましたか……父親を家に帰してあげては」
「そうしよう」
アルメイダ侯爵が都市民の人形をつまみあげて家に帰してあげるのを見て、シューエンは微妙な気分になった。
(なんか、この人のこういう一面は知りたくなかった気が……親しみが湧いてしまうじゃないか)
青国との友好路線に反対している、青国の敵ともいえる侯爵。
それくらいの認識だったのに、人間とは不思議なもので付き合ってみると相手のいろいろな面を知ってしまって、情が湧いてくるのである。
(僕、住ませていただいて、お手伝いなんかしちゃって、配下みたいになっちゃってるし……)
「そういえば、シューエンには手紙が届けられていたぞ」
「はっ」
思い出したように言ったアルメイダ侯爵が、使用人に命じて手紙を運ばせる。
「あ……」
トレイの上に並べて渡された手紙は、青国からだった。フィロシュネー姫やセリーナ、それに実家の父や母、兄からも。
「休憩して構わぬので、読むといい」
「ありがとうございます、侯爵閣下」
壁際の椅子に座って手紙を開くと、香り付けされた手紙からは懐かしい香りがした。もう季節外れになった実家のレルシェの花の香りや、フィロシュネーが十五歳の誕生日から愛用している香水の匂いだ。
(ああ、みんな優しいんだなぁ。わぁ、わぁ。僕を心配してくれている。僕が大好きなんだって。僕を気にしてくれている……)
父や兄たちからは暑苦しいながらも家族の情を感じさせる文面。母からは子供扱い全開のちょっと過保護で過干渉な手紙。
セリーナとフィロシュネーからは友人の温度感のメッセージ。
シューエンはあんな風に勝手な別れを申し出たのに、みんなは優しい。
手紙はどれもシューエンの喉をふわふわ、ゆるゆると低刺激に通過して、胸のあたりでもやもやと燻って、腹まで落ちてわだかまる。その甘ったるいような温いような感覚が、嬉しいような――でも、なんとなく気持ちが悪いような。具合が悪くなるような、複雑な感じだ。
「シモン様、屋根の修理ができました」
「ご苦労。シェイドも休憩して構わぬぞ」
視界の隅で獣人の尻尾が揺れている。忠犬といった雰囲気だ。
(そういえば、アーサー陛下はいかがお過ごしだろう)
アーサーは手紙を書かない。去っていった者に対しては、それきりだ。シューエンの側からも、元主君に何かを書こうとは思わなかった。
自分たちの関係は、思えばその程度の浅い主従関係だったのだ。
「……」
顔を上げると、シェイドと目が合う。眉間に皺を寄せていて、虫ケラでも見るような目だった。
「青国の連中って頭に花でも咲いているのか。決別した奴に手紙なんか送って気持ち悪い。お前もお前で喜んでニヤニヤしてるし」
小声でシェイドが悪意を吐く。
その視線と声が腹の底にわだかまっていた何かをスッと払拭した気がして、シューエンは眼を瞬かせた。
「僕もそう思います」
「は?」
何を言ってるんだ、という感情をありありと浮かべるシェイドの眼は、気遣いや優しさに満ちた手紙よりも心地よかった。
「僕、今ちょっと気持ち悪いなって思っていたのでございます」
自分が。優しい世界が。
シューエンはそう言って手紙の束をトレイに戻し、アルメイダ侯爵の手伝いを再開した。
(アーサー陛下が手紙を書いてこなくてよかった)
……と、そんなことを考えながら。
母に。父に。兄に。使用人たちに。あるいは友人に「女の子のように可愛い」「お姫様のようだ」と言われるたびに、シューエン・アインベルグは思ったものだった。
(「ように」「ようだ」――それって、結局は僕が「そうじゃない」って言っている。「女の子じゃない」って言っている。「お姫様じゃない」って言っている。僕は、「そうじゃない」のでは)
王女フィロシュネーを見て、その思いは確信に変わった。
フィロシュネーは本物だった。彼女こそがお姫様なのだと、シューエンは感じた。
(僕は女の子ではない。僕はお姫様ではない。僕は、男子なのだ)
その感情は、シューエンにとって特別だった。
その感情をくれるから、フィロシュネーは特別だった。
シューエンがフィロシュネーを可愛いと言う姿を見て、家族は末っ子が恋をしたのだと言った。だけど、だけど――
(それって恋だったのだろうか?)
それが恋だったのかはさておき、シューエンは特別なフィロシュネーと結ばれようとした。その身分は侯爵家の令息だったので、やる気を出せば十分に王女との婚姻を狙える、と家族も鼻息を荒くしていたものだった。
王太子アーサーへと近づくシューエンの瞳には、打算しかなかった。
「俺に忠誠を誓うと申すのか」
「はい、アーサー殿下」
頭を垂れるシューエンに、槍を手にした青国王太子アーサーは気負うことなく「構わんぞ」と返事した。
(王太子アーサー殿下に取り入るのは楽だ。僕の役に立ってもらおう。むふふ)
……と、思ったのに。
「アーサー殿下……? 妹姫様にご挨拶なさらないのですか?」
アーサーはフィロシュネーと慎重に距離を取り、身を隠すようにしてじっとりねっとりと妹を遠くから見守ったりしていた。
「アーサー殿下? なぜお隠れに?」
「俺は今、鍛錬の後で汗臭い。妹に嫌われてしまう」
「浄化の魔法を使っていますし、殿下はこの上なく清潔であらせられるような。匂いなんてしませんよ」
シューエンが首をかしげる。何を言い訳しているのかと。
「アーサー殿下~?」
「静かにせよ」
「はあ」
「妹に挨拶するにしても、事前調査が必要であろう」
「はあ。汗臭いのが理由ではないということでございますね」
「本日の機嫌はどうか。今欲しいと思っているものや悩み事は何か。嫌がる話題は何か。何を言えば喜ぶか。調べなければならぬことは無限にあるのだ、いいな」
「は……め、めんど……」
アーサーはそう言って延々と妹姫を見守る。
毎回、部屋に妹の姿が消えるまでを見届け、「本日のシュネーは健やかであった」と満足する。
(この殿下……要するに妹姫に嫌われるのが怖くて、積極的に話しかけられないんだ……)
アーサーという王太子は表向きはおおらかで威風堂々としていて、深く考えずに槍ばかり振っている脳筋槍バカのようだったが、中身は繊細だった。繊細さを隠して外向けに自信満々な自分を演じるような青年だった。
* * *
(過去なんてもういいやって気持ちを切り替えればいいのに、僕はどうして振り返ってしまうのだろうな)
手に抱えた小さな陶器の壺を撫でながら、シューエンは苦笑した。
青国を離れたシューエンは、紅国のアルメイダ侯爵家に身を寄せている。今は、当主の趣味の部屋――いわゆる遊戯室にいた。
木のあたたかみを感じる四角い部屋の中央には、作り物の都市がある。
台座の上に広がる都市は、外側が緑の自然に包まれるようになっていて、石製の塀に三角屋根の家々が囲まれている。都市中央には川が流れていて、橋がかかっている。奥には大きくて立派な城もあった。
――アルメイダ侯爵の趣味であるディオラマである。
「あの女はなぜ、猫に変身してディオラマを荒らすのか」
「シモン様に構って欲しいんですよ、間違いございません」
黒髪のアルメイダ侯爵の愚痴に相槌を打つのは、獣人シェイドだ。
呪われているシェイドはゆっくりとその生命を蝕まれつつある。が、その尻尾ははち切れんばかりにぶんぶかと振られていた。
――「忠誠を誓った主君のそばにいるのが嬉しい」。
シェイドは先日、シューエンにその内心を教えてくれた。
しかし、シューエンにはいまいちそれが理解ができないのだった。
(主君のそばにいるからなんだというんだ。なんで嬉しいんだ? 死ぬのは怖いだろ)
シューエンは接着剤入りの陶器の小壺を抱えながらしみじみとした。
はけを手に接着剤でディオラマ修復をするのは、アルメイダ侯爵本人だ。
「橋が壊れると都市民が分断されるではないか。見ろ、この父親は橋の向こうに家があるのだぞ。家に帰れぬではないか」
「あっ、そういう設定がございましたか……父親を家に帰してあげては」
「そうしよう」
アルメイダ侯爵が都市民の人形をつまみあげて家に帰してあげるのを見て、シューエンは微妙な気分になった。
(なんか、この人のこういう一面は知りたくなかった気が……親しみが湧いてしまうじゃないか)
青国との友好路線に反対している、青国の敵ともいえる侯爵。
それくらいの認識だったのに、人間とは不思議なもので付き合ってみると相手のいろいろな面を知ってしまって、情が湧いてくるのである。
(僕、住ませていただいて、お手伝いなんかしちゃって、配下みたいになっちゃってるし……)
「そういえば、シューエンには手紙が届けられていたぞ」
「はっ」
思い出したように言ったアルメイダ侯爵が、使用人に命じて手紙を運ばせる。
「あ……」
トレイの上に並べて渡された手紙は、青国からだった。フィロシュネー姫やセリーナ、それに実家の父や母、兄からも。
「休憩して構わぬので、読むといい」
「ありがとうございます、侯爵閣下」
壁際の椅子に座って手紙を開くと、香り付けされた手紙からは懐かしい香りがした。もう季節外れになった実家のレルシェの花の香りや、フィロシュネーが十五歳の誕生日から愛用している香水の匂いだ。
(ああ、みんな優しいんだなぁ。わぁ、わぁ。僕を心配してくれている。僕が大好きなんだって。僕を気にしてくれている……)
父や兄たちからは暑苦しいながらも家族の情を感じさせる文面。母からは子供扱い全開のちょっと過保護で過干渉な手紙。
セリーナとフィロシュネーからは友人の温度感のメッセージ。
シューエンはあんな風に勝手な別れを申し出たのに、みんなは優しい。
手紙はどれもシューエンの喉をふわふわ、ゆるゆると低刺激に通過して、胸のあたりでもやもやと燻って、腹まで落ちてわだかまる。その甘ったるいような温いような感覚が、嬉しいような――でも、なんとなく気持ちが悪いような。具合が悪くなるような、複雑な感じだ。
「シモン様、屋根の修理ができました」
「ご苦労。シェイドも休憩して構わぬぞ」
視界の隅で獣人の尻尾が揺れている。忠犬といった雰囲気だ。
(そういえば、アーサー陛下はいかがお過ごしだろう)
アーサーは手紙を書かない。去っていった者に対しては、それきりだ。シューエンの側からも、元主君に何かを書こうとは思わなかった。
自分たちの関係は、思えばその程度の浅い主従関係だったのだ。
「……」
顔を上げると、シェイドと目が合う。眉間に皺を寄せていて、虫ケラでも見るような目だった。
「青国の連中って頭に花でも咲いているのか。決別した奴に手紙なんか送って気持ち悪い。お前もお前で喜んでニヤニヤしてるし」
小声でシェイドが悪意を吐く。
その視線と声が腹の底にわだかまっていた何かをスッと払拭した気がして、シューエンは眼を瞬かせた。
「僕もそう思います」
「は?」
何を言ってるんだ、という感情をありありと浮かべるシェイドの眼は、気遣いや優しさに満ちた手紙よりも心地よかった。
「僕、今ちょっと気持ち悪いなって思っていたのでございます」
自分が。優しい世界が。
シューエンはそう言って手紙の束をトレイに戻し、アルメイダ侯爵の手伝いを再開した。
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