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3、俺に寝室はまだ早い

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 ウィスベル・ハートクライン伯爵は、飼っている亀に餌をあげながら妻のことを考えていた。ちなみに亀の名前は『かぴばらくん』だ。
 
「旦那様と同じ屋敷で呼吸をしているだけで私は幸せです!」
 
 妻レジィナは、最初に思っていた人物像とぜんぜん違う、好人物だった。

 アルキメデス商会から契約が持ちかけられたときには、人を騙したり陥れたりする悪女なのかと思っていた。
 だが、調べてみると契約結婚の件は最初の契約書には確かに「見返りは笑顔でいい」という文言が書かれていた様子で、彼女の父がそれを「待て待て」と取り上げて直したらしい。
 
 結婚してから放置された彼女は機嫌を悪くすることなく、楽しそうに夫人としての仕事に没頭している。仕事ぶりは誠実で良心的で、成果も見事。使用人からの評判もいい。優秀だ。

「旦那様。奥様が庭にいらっしゃいます」
「もうそんな時間か」
 
 ウィスベルは執務の手を止め、窓に寄った。
 
 毎日同じ時間に執務室の窓から妻を見るのが、最近の日課となりつつある。
 
 本日の妻は、庭に咲くオレンジと薄黄色のマリーゴールドの前でしゃがみこみ、蝶々を指にとめている。頬に泥がついているが、汚れを気にせずニコニコしている姿は、明るく善良な印象が強い。

「レジィナさんは今日も元気そうだな」
 
 妻はいつ見ても溌剌としている。
 表情豊かで、使用人に笑いかける姿は太陽のようだった。もしかすると太陽の化身かもしれない。

 あの働きものの手を取り、一緒に庭を歩いたらどんな気分がするだろうか。
 今から降りて行って声をかけてみたらどうだろうか。
 
 ……もうこれ、片想いではないか。ふう……。

「しゅきだ……」
「旦那様、お気を確かに」
 
「俺は今何か言ったか?」
「は、いえ、何も聞いておりません」
 
「そうか、よかった。クールな俺のイメージが崩れるところだった」
「もう崩れてます」
 
「何か言ったか?」
「いえ」
 
 遠くから見ているだけじゃなくて、普通に「今日から仲良くしたい」と言えばいいのでは?
 
 いつもそんなことを考えて、躊躇している。
 そうしているうちに、時間が過ぎていく。

 人生は、川の流れに似ているな。
 どんぶらこっこ、どんぶらこっこだ。
 アー……今日も流されていく……。溺れてしまいそうだ……。あっぷ、うっぷ。

「旦那様、奥様はとても良い方です! 黄金のお菓子もくれました!」
「いや待て。俺も『良い人物かも』と思っているし、なんなら片想いみたいになっているが、黄金のお菓子とは?」
 
「旦那様、奥様が物陰に隠れて旦那様ウォッチングのお時間です。気づかないフリをしてください」
「レジィナさんはなぜ隠れるんだ……声をかけてはいけないのか?」
「旦那様も隠れて見ていらしたじゃないですか。お互い様ですよ」
 
 俺たちは毎日、お互い隠れて伴侶ウォッチングをしている。
 ――この歪んだ夫婦関係をどう矯正したものか。あのバレバレなのに隠せていると思い込んでる姿が可愛いのだが、近づいていって抱きしめてはいけないだろうか。

(俺が悪いんだ。よく調査しないで思い込みで冷たくしてしまった。そして、謝るタイミングを逃し続けている……)

「旦那様、奥様は寝室に移動なさいました」
「そうか」
  
 自分はなんて意気地なしなのだろう。
 さっさと夫婦の寝室に行って「今まで悪かった。君を誤解していたよ」と言えばいい。
 
 しかし、いざ夫婦の寝室の扉を開けようとすると、葛藤が生まれる。

 彼女は自分が来ないことに慣れて、一人の寝室を安心して満喫しているだろう。
 無防備な薄着でいるだろう――想像しそうになって慌てて自分の頬を叩く。
 
 けだものめ、妄想で彼女を汚すな。
 でも、妻のネグリジェ姿、見てみたい。俺は夫だぞ。
 
 いやいや、衝動のままにこの扉を越えていくのはダメだ。夫婦がむつみ合うためには、順番がある。
 
 まず、目を合わせる。
 次に、挨拶をする。
 次は名前を呼び合おう。
 そして……手を握る。
 
 しかし、夫婦仲を進展させるには、問題がある。
 俺は「愛すことはない(キリッ)」と言ってしまったのだ――あれはとんでもない失敗だった……。
 
(いいや。このままではいかん。今日こそは! ……明日の昼、昼食を一緒に摂るのはどうだろう。あっ、そっちの方が健全だな)

 ――俺に寝室はまだ早い。まずは目を合わせるところからだ。
 
 ぐっと拳を握って意思を固めたウィスベルは、自分の部屋に戻った。
 そして、獲物を捕らえられなかった腹ペコの獅子のごとく背中を丸め、孤独に寝た。手には人形を抱いている。
 人形は、最近自分でつくった「レジィナさん人形」だ。「我ながらだいぶ拗らせている」と自覚している。でも、人形は力作で、お気に入りだ。

「すやすや、レジィナさん。……手を握ってもいいですか……むにゃ」
  
 健やかな夢をみた翌朝、ウィスベルのもとにお知らせが届けられた。
 
 なんと、妻が知人貴族の招待状を受け、パーティに参加するというのだ。
 しかも自分に同行を頼むことなく、「行ってきますね!」と連絡だけしてフットワーク軽くひとりで出かけてしまったという。

「待っ……、エスコートはどうするんだ」
「当家の騎士がいたします」
 
「騎士っ? 我が家の? 親しいのか?」
「奥様が日々修練場に差し入れをくださいますので、当家の騎士たちは皆、奥様の信奉者です」
 
「あれっ、それは不穏だな。全員惚れてたりしないか?」
「若い騎士が主君の妻に恋をするのはよくあることで……」

 家令はなんとなく楽しそうだ。これ、揶揄からかわれていないか?
 
 言っている内容が本当か冗談かわからないが、「いいんですか? にやにや。取られちゃいますよ? にやにや」と言われている気分だ!

「……急いで支度してレジィナさんの後を追うぞ!」

 クワッと宣言すると、家令は優雅に一礼して妻のドレスの色を教えてくれた。妻は美しいので、着飾った姿を早く見てみたい。
 「自分が見ていない特別な姿を他の男が見ている」と思うと、嫉妬でどうにかなってしまいそうだ。
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