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8、ダズンローズ、襲撃は初夜にあり

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 公爵家の人々がヴァイオリンに慣れてきた頃、婚姻の儀式は挙げられた。
 
 
 儀式は、独特だった。
 
「愛情、情熱、幸福、信頼」
 
 ――言葉と共に薔薇が増えていく。
 
「真実、希望、努力、永遠」

 ――神聖な儀式だ。
 
「感謝、尊敬、誠実、栄光」

 新夫が言葉と共に集めた1ダースの薔薇から新妻が一輪を抜き、新夫に返す。そして、誓いを告げる。互いに。
 これは、この地方特有の儀式だ。
 
 ヴェールが持ち上げられて、夫の美麗な顔が近づいてくる。ドキリとする暇もなかった。吐息が掠めたと思ったときには、唇が触れていた。
 触れたと思った瞬間、体温は離れて、白昼夢のように初めてのキスが済んでいた。
 
 
 ヴェールが戻されてから、早鐘のように心臓が騒ぎ出す。
 
 触れた。
 一瞬だった。
 
 触れた感覚が、生々しく唇に残っている。頬がすこし熱い。
 前回の人生では触れ合うことがなかった唇があっさりと接触した現実は、ディリートに新鮮な動揺をもたらした。

(口付けというのは、こんな感じなのね。……わ、悪い感じではなかったわ)
 
 実家で父と義母が交わす口付けを見たときは、もっと情熱的であったが。

(公爵様らしいわ。事務的というか、勤めを果たすって感じよね)
  
 自分たちは父と義母のようにはならないであろう。
 ディリートはそう思った。

 そして、ふと罪悪感を抱いたのだった。

 思えば、一度目の人生では自分のことしか考えていなかったが、夫となる男の立場になってみると、自分はどんな妻であったか。

(ああ、公爵様。あなたの妻は……一度あなたを裏切って、二度目はあなたを利用して仇敵に復讐することばかり考えている、どうしようもない女なのですが……)  

 ――もう、儀式は済んだ。

 自分たちは、再び夫婦となったのだ。
 
 
 * * *
 
 
 ディリートが行動を変えたからだろう。一度目の人生と今回とでは、いろいろと変化が生じている。
 
 前回は婚約提示期間を経たあと、形式的に教会から聖職者を呼びつけて婚姻関係に移行させる手続きを済ませて終わりだったのに、今回は客を招き、領民に葡萄酒やご馳走を振る舞っている。
 
「ゼクセンとランヴェール、両派閥の友好を!」
「過去にはいろいろとありましたが、これからは協調して参りましょう」
  
 二人を祝いに参列した賓客の中には、ゼクセン公爵もいる。ひとこと、ふたことの当たり障りのない挨拶を交わしたディリートは「やはりゼクセン公爵は自分に味方してくれそうだ」という手ごたえをつかんでいた。
 
 ちなみに、カッセル伯爵家には手紙が届かなかったらしい。ランヴェール公爵が天気の話をするような調子で何気なく教えてくれたのだ。
 
「そなたの父伯はご多忙を極めておられるようで、安寧秩序を保つ手が間に合っておらず、どうも所領周辺の治安がよろしくないみたいですね」
「そ、そう……でしたか」
「キャパシティというものがありますから、伯を安易に責めるわけにも参りますまい。ご負担がカッセル伯の管理能力を上回っているだけなのです。しかし、ご多忙すぎて、このままですと伯の心身の健康が心配です」
「まあ……代官を雇えばよいのかもしれませんわね」
 
 これから初夜にのぞむというのに、この夫は父の話に夢中だ。
 ディリートは葡萄酒で舌を潤しながら時間の経過を意識した。

 
 妙に気になるのだ。
 時間が刻一刻と過ぎていく感じが。
 妙に焦燥感を覚えるのだ。
 
 
「そなたの父カッセル伯は、私にとっても身内です。ゆえに、これからは我が公爵家がご負担を引き受け、お世話をいたしましょう。というわけで、代わりに土地を管理して差し上げようかと思います。フェーデにも勝ちましたし」
「は、はあ」
 何を言われているのか、よくわからない。
 
(とりあえず例の薬は隠しておいたので、毒を警戒されることはないけれど。私は何かを忘れてる気がするわ。思い出したい……)

 一度目の人生の初夜は、すでに二人の関係が冷え冷えとしていた。
 しかし、冷え切っていても初夜ともなれば義務を果たすのではないかとディリートはエマと一緒に緊張していたのだ。
 
(そうよ。あのときは、すでに関係が冷え切っていて、初夜も何もなかった。薬もさっさと取り上げられて、私は「お父様が薬をくださったのに」と恨み節を繰り返しながら、エマと一緒に「公爵はきっと私に酷いことをするわ、あんなことやこんなことをされてしまうわ」「お嬢様、お気を確かに。冷酷とは噂されていますが、……ああっ、おかわいそうに」と震えながら抱き合って……)

 ディリートは過去の自分を思い出し、恥じらいで頬を染めた。冷静になると、過去の自分の取り乱した記憶というのは恥ずかしいものだ。
 
「……そろそろ休みましょうか?」

 頬を染めて恥じらう花嫁をどう解釈したのかはわからないが、ランヴェール公爵はディリートの手を取り、指輪をはめた指にキスをした。許しを乞うように上目に妻を見る瞳は、相変わらず熱を宿さぬ冷えた宝石のよう。しかし、今はどことなく普段と違う男の色香を感じさせる気もする。
  
 ――この夫は今回、どうも初夜の務めを果たす気があるらしい。
 
 薄紗の夜着姿にて寝台に並んで腰かけるディリートは、そんな気配を感じ取って緊張していた。こんなに薄着で異性と近い距離にいること自体が、初めてだった。

「ええ……公爵様」 
 
 心臓の音が早鐘のよう。自分がどんな顔をしているか想像すると、恥ずかしい。きっとみっともない表情に違いない。

 チラリと様子を見ると、ディリートの肩に手を置く公爵は、やはり無表情である。声もいつもと変わらず、のんびりゆったりとしている。なにかいろいろと語りかけてくるが、ディリートは話が半分も耳に入らなくなっていた。
 
「ディリート」
 
 髪が撫でられて、ぴくりと肩が震える。
 
 夫は髪が美しいとか、エミュール皇子が何か言っていたとか話している。
 
 名前を呼ぶとか呼ばないとか言っている。
 そうですね公爵様、名前は親しくなったら呼ぶものですわね。
 
 寝台に仰向けに押し倒される。頬が撫でられ、ドキドキする。手のひらが熱い。
 
 顔が近づいてくる。花の香りがする。ああ、呆れるほど美しい顔。天気の話が出た。なぜ天気の話? 今日は晴れてよかったですね、そうですね――、頷いて、ディリートはここで過去の事件を思い出した。

 
 夜。公爵がいない寝台で。
 窓の外がカッと明るく光った、――――そんな過去の記憶を。
 

「あっ……!!」
「!?」
 
 ディリートがただならぬ声をあげると、公爵は腫れ物に触れてしまったように大袈裟に手を引き、体を離した。
 
「公爵様。今夜、これから、エミュール皇子殿下が暗殺未遂に遭われます」
「は……?」

 すっかり忘れていたのだ。
 
 夫が来なかった初夜、エミュール皇子が襲われたのだ。
 ディリートは窓の外で炎が煌々と夜闇を照らすのを、部屋の中から見たのだ。
 
 初夜の勤めをほったらかしにした一度目の夫はエミュール皇子のもとを訪ねていて、賊と炎の魔法をぶつけ合い、返り討ちにできたのだとか。それにより皇子は守れたが、自慢の庭や邸宅の一部は燃えてしまったのだとか。
 この夜は、そんな事件があったのだ。

(あら? それって、今回のエミュール皇子殿下は大丈夫なのかしら?)

 ディリートはギクリとした。
 
 ……夫は今、ここにいるのだ。
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