カクテルの紡ぐ恋歌(うた)

弦巻耀

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第六章 ブルーラグーンの資格

飛び立つ蝶

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 美紗がようやく吉谷綾子と面と向かって話ができたのは、その日の昼休みも終わろうかという頃だった。
 食事を終えて戻ってきたらしい吉谷を、美紗は第1部の部屋の入り口で捕まえた。

「異動のお話、もう決まってしまったんですか?」
「美紗ちゃん、ずいぶん『耳』がいいのね。まだ公になってない話なのに。誰から聞いたの? メグさん?」

 親しい後輩の名前を挙げた吉谷は、いつも通りの朗らかな顔をしていた。涼しげなアイボリー色のスーツが、人目を引く容姿によく似あっている。

「いえ、日垣1佐が……」
「あら、あの人、意外とおしゃべりなのね。私には『まだ喋るな』って言ってたくせに」
「断れなかったんですか?」

 美紗は眉根を寄せて、自分より十五センチほど背の高い相手の顔を見上げた。艶やかな大きな目が、不思議そうに見つめ返す。

「断る? なんで?」
「やり方が一方的だって聞いて……」

 吉谷は、周囲をちらりと見回すと、美紗を促して廊下に出た。少し歩き、人気ひとけの少ない建物の端のほうに移動した。

「さすが、1部長のおひざ元にいると詳しいのね。もしかして、日垣1佐と今の空幕副長の関係も知ってる?」

 美紗は唇を硬く引き結んで頷いた。
 上官の人間関係に巻き込まれた格好の吉谷は、選択の余地なく人事異動を受け入れたのか。それとも、日垣貴仁のために、敢えて空幕行きを選んだのか……。

「まあ、あの副長のことは、それなりに噂は聞くわね。我儘で強引らしいし。そういう人、たまにいるけど、はっきり分かりやすい分、私はあまり苦手じゃないかな。レセプションで話した時も、噂ほど悪い印象じゃなかったし。空幕くうばくにも知り合いは多いから、大丈夫よ」

 吉谷はいたずらっぽく笑った。そして、美紗のほうに顔を寄せ、声を低めた。

「それに、いつかは語学系の職に戻りたいなと思ってたしね。そういう関係の所に定時上がり前提で受け入れてもらえるなんて、好条件もいいところよ」
「前にいらした8部で、そういう配慮はしてもらえないものなんですか? 全く違うところに行くより、その方がやりやすいんじゃ……」

 美紗の遠慮がちな意見に、吉谷は肩をすくめてため息をついた。

「本音言うと、そうね。でも、専門官は緊急時に対応できないと存在価値が半減しちゃうし、そもそもポストがなかなか空かないのよ」

 地域担当部の専門官ポストには、自衛官と事務官が共に配置されているが、両者の人数枠は明確に分けられている。
 全国転勤が前提の自衛官のポストは数年おきに入れ替わるのが普通だが、事務官枠のほうはそうではない。語学系の職員として採用された事務官のうち情報局に配置された者は、一度も異動することなく各々の専門性を高め、やがて専門官のポストに就くのが通例だった。
 吉谷のように家庭の事情で別のキャリアを選択する人間も若干はいたが、専門官となった事務官の多くは、せっかく掴んだポストを手放そうとはしない。幹部自衛官とキャリア官僚が主役の防衛省内で、統合情報局の「専門官」には、それなりの処遇とステータスが与えられていたからである。


「近々に専門官ポストを増員するような話は全然聞かないし、事務官で専門官を希望する人は情報局外にもたくさんいるから、このまま待ってても、私が古巣に戻れる可能性はかなり低いのよね」

 そう言う吉谷の目は、しかし、活き活きと輝いていた。

「それよりは、一度空幕に行って将官連中に名前を売るほうが得策だと思って。大きな声じゃ言えないけど、幕の部長クラス以上にコネができれば、次の異動の時にかなり無理を聞いてもらえるのよ。空幕で四、五年働いて、子供がそれなりに大きくなった頃にでも、彼らのごり押しで統合情報局ここの専門官ポストにねじ込んでもらえれば、そのほうがかえって早道、ってわけ」
「そうですか……」

 美紗は赤面した顔を見られないように、慌てて下を向いた。日垣貴仁を軸にして物事を解釈していた自分が、ひどく愚か者に思えた。情報局の「主」と言われた彼女は、どこまでもレベルが違う。

 華麗な蝶が、あの人の元から飛び去って行く。
 その後には、飛び方を知らない哀れな蝶が、残される。


「美紗ちゃん」

 凛とした声が、美紗の名を呼んだ。

「専門官のポスト争い、結構熾烈だよ。美紗ちゃんも、5部あたりからお誘いが来たら、逃さずチャンスを掴んでね」
「いえ、私なんて、とても……」
「そういうの、あなたの良くないとこ。やれること全部やって、もしチャンスが来たらそれを遠慮なく活かす。それでいいじゃない。学歴も経歴も、関係ないでしょ」

 珍しく手厳しい言葉を口にした吉谷は、それでも、にこやかな笑顔を浮かべていた。緩くウェーブのかかった髪が、その表情をいっそう柔らかくしている。

「仕事でも何でも、自分のことだけ考えてやれる時期はあまりないんだから。つまんないことで遠慮したり物怖じしたりしてたら、もったいなくない?」

 美紗は、手を握りしめ、無言で頷いた。

 吉谷綾子は、どこまでも美紗の理想を体現する女性だった。未来の航空幕僚長と評される日垣貴仁の隣が似合っていた、完璧な存在。嫉妬の対象でもあった彼女は、それでも、フロアにその姿を見せるだけで、不思議な安心感を与えてくれた。
 その彼女が、いなくなってしまう……。

「別に、異動って言ったってさ、同じ建物の十三階から十六階に変わるだけだよ。何かあったら、内線一本ですぐこっちに来るから。今までみたいにランチしに行ったりしようよ」

 吉谷は、手に持っていたポーチからハンカチを取り出すと、うつむいたままの美紗に差し出した。

「そういえば、初めて話した時も、私、美紗ちゃんにハンカチ貸したよね。あれからもう一年近くなるけど、美紗ちゃん、ずいぶん堂々としてきたわよ。もっと自信持って」

 スラリとした美人顔が陽気に笑うと、無機質だった白い廊下に、きらびやかな蝶が舞っているかのような華やかさが広がった。


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