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第六章 ブルーラグーンの資格
久しぶりの隠れ家(1)
しおりを挟む近隣某大国の政情不安を受けてにわかに忙しくなった直轄チームでは、休暇を切り上げて職場に顔を出していた班長の松永が、机に突っ伏したままの1等空尉を怒鳴りつけていた。
「終わったことをいつまでもぐだぐだ言ってんじゃない。とっとと頭切り替えて、次のミッションに集中しろ。それが出来んようじゃ、CS(空自の指揮幕僚課程)出ても、いい指揮官にはなれんぞ」
「……僕がCS入る見込みなんて、絶対ないっすから……」
指揮幕僚課程の選抜二次試験を終えて「直轄ジマ」に戻ってきた片桐は、松永のほうを見ようともせず、盛大なため息をついた。
二次で行われる口述試験は、複数の面接官が一人の受験者に集中砲火を浴びせる、いわゆる圧迫面接のスタイルを取る。いきなり命題を与えられ、短時間で精一杯にまとめた考えを述べ始めると、それらを片っ端から否定され、意表を突く質問で追及される。
受験者を心理的に追い込みながら、とっさの対応力や判断力を見るのが目的だが、初回受験者の大半は面食らって帰る羽目になるらしい。
「ああ、もう帰りたい」
「出てきて早々、何言ってやがる。余計なこと考えてないで、取りあえず働けっ。お前が留守の間、佐伯と鈴置がお前の仕事をカバーしてたんだぞ。某大国関連で次から次に調整案件は増えるし、愚痴ってる暇なんかないんだからな!」
松永の容赦ない言葉に、ようやく身体を起こした片桐は、先任の佐伯と美紗に「すいませんでした」としょぼくれた顔で詫びた。美紗は、気休めの言葉も思い浮かばず、困った顔で会釈だけを返した。
不運なことに、「直轄ジマ」のムードメーカーである宮崎と小坂は、朝から会議の連続でほとんど席にいなかった。
「日垣1佐に何て言われるかと思うと、もう恐ろしくて……」
片桐は、今にも泣き出しそうな顔で、ドアが閉まったままの第1部長室をちらりと見やると、また机に突っ伏した。
当の日垣は、試験の不出来を嘆く若い部下に声をかける時間もないほど忙しそうだった。某大国の事案絡みで、宮崎や小坂を連れてどこかに出ていることが多く、たまに第1部の個室にいる時も、地域担当部の幹部と頻繁に会合してばかりだった。
美紗を含む直轄チームの面々も連日夜遅くまで残業していたが、第1部長が彼らより早く帰宅する日はほとんどなかった。
美紗が「いつもの店」で日垣と会うことができたのは、九月も中旬に入りかけた週の金曜日の夜遅くだった。
「この二週間休みなしで、疲れただろう」
「あ、いえ……」
穏やかな眼差しに覗き込まれ、美紗は思わず下を向いた。
日垣とまともに言葉を交わすのは久しぶりだった。職場では、統合情報局第1部長と入省四年目の事務官の接点は、さほど多くはない。某大国の対応で情報局内が慌ただしくなってからは、お互いに相手の姿を見かける機会さえあまりなかった。
「さすがの『直轄ジマ』も静かになるほどだったからな」
そう言って笑う日垣は、八月下旬から続いていた激務にもさほどの疲れを見せてはいなかった。
「官邸報告も終えたし、某大国の件は当面、4部だけで対応することになりそうだ。小坂と宮崎も通常業務に戻れるだろうから、君も少しは楽になるんじゃないかな。今のうちに夏休みの残りを消化しておいたほうがいい」
「でも……」
美紗は、ますますうつむいて、口ごもった。
休みはいらない
日垣さんと一緒にいたいから……
「お待たせいたしました」
二人を囲む衝立の向こうから控えめな声が聞こえてきた。日垣がわずかに頷くと、渋みのある笑みを浮かべたマスターが歩み寄ってきた。
いつもの水割りと、深い青に染まる細身のカクテルグラスが、テーブルの上に置かれる。
見覚えのある、青と紺の合間のような色。
その警告めいた美しさに、美紗は「あ」と小さく声を漏らした。
「奥様代理」として日垣貴仁と共にレセプションに向かう吉谷綾子を見送った日に見た、イルミネーションの青い海。あの時と同じ色が、広がり、押し寄せ、胸の中でさざめく。
心の中で想うだけ、決して伝えずに想うだけ
貴女にそれができるのか
藍色の目をしたバーテンダーの声が、青の世界にこだまする。
『貴女自身、何を望まなければ、最後までお二人の時間を大切にできるのか、もうすでに、ご存じなのでしょう』
一面に広がる青い光が乱れ飛び、心揺れる者を締め付ける。
「頼んだのは、マティーニじゃなかった?」
低く落ち着いた声が、青一色の幻想をかき消した。
美紗がはっと日垣のほうに顔を向けた時、目の前のカクテルグラスに筋張った手が伸びるのが目に入った。
「これは失礼いたしました。すぐにマティーニをお持ちいたします」
オールバックの髪が店の灯りの下で上品な銀灰色に照らされている。それを見上げながら、美紗はマスターの申し出を断った。
「このままで、いいです。ブルーラグーンも、……好きですから」
「そうですか。恐れ入ります」
マスターは、申し訳なさそうに眉を寄せ、静かに頭を下げた。そして再び、青と紺の合間のような色のカクテルグラスを、そっと美紗の正面に置き直した。
「この色、鈴置さんの『イメージ』だったんでしたね」
「あの時のバーテンダーさん、今日いらしてるんですか?」
「以前お世話になった、うちの新人ですか。今日は入っていないんですよ。ただ、この間、鈴置さんのイメージでカクテルを作らせていただいたと、彼から聞いていたものですから」
当人の顔を見たら急にその話が頭に浮かんでオーダーを勘違いした、というようなことを言って、マスターはまた頭を下げ、しきりと恐縮しながら去っていった。
「何の話?」
日垣は、いつもの店にいる時にだけ見せる和やかな笑みを浮かべながら、いたずらっぽい目を美紗に向けた。
「この前、一人でここに来た時に、お店の方にこのカクテルを、作っていただいて……」
声が尻すぼみになるのと同時に、美紗の体も小さく縮こまった。
青い礁湖というには深すぎる色合いに作られた特別なブルーラグーン。それを初めて飲んだ時のことは、日垣には知られたくなかった。「より濃い青のほうが似合う」と言った藍色の目のバーテンダーに、「ずっと年上の彼と一緒にいたい」と胸の内を話してしまったなどとは、とても言えない。
「これが、君のイメージ?」
日垣は、海の中のような色をしたカクテルグラスを、覗き込むように見つめた。
透き通る深い青が、テーブルの隅に置かれたキャンドルホルダーからこぼれる光を受けて、グラスの中で神秘的なグラデーションを作っている。
「綺麗な、色だね」
静かな低い声が、美紗の頬をわずかに染めた。その言葉は青色のカクテルに向けられたものだと分かっているのに、強いアルコールを飲んだ時のように、胸の中がじわりと熱くなる。
大きな手が、水割りのグラスを取り、軽く掲げて「乾杯」のジェスチャーをした。美紗もカクテルグラスの華奢な脚を持つ。それを目の高さまで上げると、深い青色と、その向こう側にある薄い琥珀色が、落ち着きのあるコントラストを作った。
『貴女のお相手が、疑う余地なく信頼に値するお人だとお思いなら……』
記憶の中の藍色の瞳が囁く。柑橘系の香りと共に、心地よい酸味と苦味がにじむように広がり、青と紺の間のような色が、体の中に入っていく。
『……その方の価値観に、ご自身を委ねてみてはいかがですか』
藍色の目のバーテンダーの優しい笑みが、何度も脳裏をよぎる――。
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