Digital Proxy Disorder

木村 忠司

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権田守のケース

fragment #4 ボトルネック

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 勝利の美酒は、すぐに泥水のような味に変わった。
 元秘書・A子の自殺から三日が過ぎていた。
 ネット上の祭りはすでに沈静化し、イナゴの大群のようなユーザーたちは、次の炎上案件(エサ)へと飛び去っていった。
 残されたのは、俺と、静まり返った六畳一間のアパートだけだった。

「……クソッ、どいつもこいつも」

 俺は苛立ちながら、F5キーを連打した。
 ガモンの新しい動画は上がっていない。SNSの通知も止まった。
 承認欲求という名の麻薬が切れた禁断症状で、指先が微かに震えている。

 部屋の空気は淀みきっていた。トイレに行く時間すら惜しんで使用したペットボトルが、部屋の隅に数本転がり、異臭を放っている。
 だが、今の俺を悩ませているのは、その臭いではなかった。

 ノイズだ。
 視界の端に、チラチラと映り込むノイズが酷くなっている。
 ふと壁を見ると、シミの形が人の顔に見える。A子の顔だ。天井を見上げると、隅の方に黒い影が張り付いている。
 それらは「バグ」として処理されていたはずだったが、今夜はやけに主張が激しい。

 ザザッ、ザザッ。
 耳鳴りのような電子音が脳内を駆け巡る。

「……重いな。回線が混んでんのか?」

 俺は眉間を揉んだ。
 自分の脳みそが疲れているとは考えない。あくまで「サーバー側の不具合」だと認識している。
 俺の処理能力に、世界が追いついていないのだ。

 その時、PCの画面上で、過去のガモンの切り抜き動画が自動再生された。

『いいですか! 行政は腐っている! 彼らは真実を隠蔽し、我々の声を無視し続けているんです! 電話一本かけるだけで、世界は変わるんですよ!』

 過去の言葉だが、俺には「今」語りかけられた指令のように響いた。
 そうだ。敵だ。敵がいるから、俺の回線はこんなに重いんだ。
 このイライラを、正当な怒りとしてぶつけられる相手が必要だった。

 俺はスマホを掴み、市役所の代表番号をプッシュした。
 深夜二時。当然、窓口は閉まっているが、宿直の職員が出るはずだ。
 数回のコールの後、眠たげな男の声がした。

『はい……市役所です。今の時間は業務時間外でして……』

 その気のない声を聞いた瞬間、俺の中でどす黒い活力が湧き上がった。

「おい! 業務時間外だあ? 俺は市民だぞ! 納税者だぞ!」

 俺はスピーカーフォンに向かって怒鳴り始めた。

「お前ら、A子の件で何か隠してるだろ! ガモンさんを嵌めた黒幕は市役所にもいるってネットで見たんだよ!」
『はあ……何のお話でしょうか。警察にご相談されては……』
「とぼけるな! これだから役人は! ロボットみたいにマニュアル通りのことしか言えねえのか!」

 俺は一方的に罵倒を続けた。
 相手が困惑すればするほど、自分が優位に立っている実感が湧く。
 だが、十分ほど過ぎた頃だった。
 異変が起きた。

『……ですから……その件につ……きまし……ては……』

 職員の声が、奇妙に反復し始めた。

『……その件……その件……その……その……』

 壊れたレコードのように、同じフレーズが繰り返される。

「あ? なんだ、電波が悪いのか?」

 俺がスマホを叩いた瞬間。

 キィィィィィィィィィン!!

 鼓膜をつんざくような、高周波のハウリング音が部屋中に響き渡った。

「ぐああっ!?」

 俺は耳を押さえてのたうち回った。脳髄を直接ミキサーで撹拌されるような不快感。
 そのノイズの奥から、先ほどの職員の声が聞こえてきた。
 しかし、それはもう人間の声ではなかった。
 完全に感情を削ぎ落とされた、合成音声のような無機質な響き。

『……エラー……通信速度が……低下しています……』
『……ユーザーの……ハードウェア性能が……要求スペックを……満たしていません……』

「な、なんだと……?」

 俺は荒い息でスマホを睨んだ。

『……肉体の……データ容量が……不足しており……送信……できません……』
『……パケット詰まりを……解消してください……』

 肉体? 容量不足?
 俺が何か言い返そうと口を開いた時だった。

 言葉が出なかった。
 喉の奥に、強烈な異物感があった。
 まるで、乾いた餅が食道に詰まっているような、あるいは巨大なムカデが這い上がってくるような感覚。

「……オ、オエッ……!」

 吐き気がこみ上げる。胃袋の中のものが逆流してくる。
 俺は床に四つん這いになり、えずいた。

「ゲェッ! ……ごフッ……!」

 口の中に、硬くて冷たいものが溢れ出した。
 俺は慌てて指を突っ込み、それを引きずり出した。
 それは、青い紐だった。
 いや、違う。
 プラスチックの被覆に覆われた、LANケーブルだ。

「……は……?」

 驚愕する間もなく、次から次へとケーブルが競り上がってくる。
 ズルズル、ズルズル。
 俺は涙目で、口から垂れ下がるケーブルを両手で引っ張った。
 終わりが見えない。
 胃の中に、いや、内臓のすべてがこのケーブルで出来ているかのように、無限に出てくる。
 コネクタ部分が喉の粘膜を擦り、血の味が広がる。

 だが、俺はそれを止めようとはしなかった。
 むしろ、引っ張り出すたびに、体が「軽くなる」のを感じていたからだ。
 物理的な圧迫感が消えていく。情報の通り道が開通していく快感。

(そうか……詰まっていたのは、これか)

 俺は妙に冷静な頭で理解した。

(俺の思考速度は光速を超えているのに、この旧式の肉体がボトルネックになっていたんだ。こいつが、俺の覚醒を邪魔していたんだ)

 数分、あるいは数時間。
 床一面にとぐろを巻く青いケーブルの山を前に、俺はようやく最後のコネクタを吐き出した。
 カラン、と乾いた音がして、金メッキの端子が床に落ちる。
 喉が焼けるように痛いが、呼吸は驚くほどスムーズだった。

「……ハァ……ハァ……すっきり、した……」

 俺は顔を上げた。
 世界が、変わっていた。

 薄汚れたアパートの壁紙が剥がれ落ち、その向こう側に、緑色の文字列が滝のように流れているのが見えた。
 散乱するゴミ袋は、ポリゴンの塊のようにカクカクとした輪郭を持ち、時折グリッチノイズを走らせている。

 そして、自分の手を見た。
 血と唾液にまみれたその手は、人間の皮膚の質感を持っていなかった。
 低い解像度のテクスチャが貼られた、マネキンのような手。
 指を動かすと、わずかに遅れて映像が追随する。

「……ラグい」

 俺は呟いた。
 自分の意識に対して、肉体の反応が遅れている。

「この体は……バグだらけだ」

 PCモニターの中のガモンが、静止画のまま、口だけを動かして笑いかけてきた。

『おめでとう権田さん。回線が開通しましたね』

 俺もまた、裂けた唇を歪めて笑い返した。

「ああ……わかったよ、ガモンさん」

 俺は自分の腹の贅肉を摘んだ。
 そこには痛みも、温もりも感じられなかった。ただの重たいデータブロックがあるだけだ。

「この着ぐるみ(肉体)が、俺を現実に縛り付けているノイズなんだな」

 俺の瞳孔が開く。
 その目にはもう、人間としての理性は一片も残っていなかった。
 あるのは、不要なファイルを削除しようとする、システム管理者としての冷徹な義務感だけだった。

「……アンインストール、しなきゃな」

 俺はよろめきながら立ち上がり、机の引き出しを開けた。
 中に入っていた事務用のカッターナイフを取り出す。
 刃をカチカチと押し出す音が、静寂な部屋に、秒読みのカウントダウンのように響き渡った。
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