紅き龍棲の玉座

五月雨輝

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天が遣わした魂

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 皇帝イジャスラフの旅団と、マクシムらの軍団がアンラードに帰還してから一週間。

 その日の深夜、宰相宮のマクシムの私室に、いつも通り侍女に変装した皇后ナターシアが訪れていた。

 ナターシアとマクシムの二人は、冴えない顔色で、燭台を中央に据えた紫檀の円卓を囲んでいた。
 卓の上には、葡萄酒の入った壺があり、二人が持つ夜光杯には、紫色の液体が鈍く光っていた。

「ご安心ください。私にはまだ策がございます。決定的にして最後の秘策が」

 と、マクシムは自信に満ちた口調で言った。
 対して、ナターシアは浮かない顔のまま何も答えなかった。
 マクシムは、勘が鋭い。何かを感じ取った。

「気が進みませぬか?」

 マクシムが訊くと、ナターシアはふうっと溜息をついて、夜光杯を置いた。

「もういいわ」
「もういい?」
「ええ。陛下が直々にあの子の罪を不問にしてしまった以上、もうどうにもならないわ」

 "あの子"と言う言葉を使ったところに、ナターシアに弱気が出て来たのか。あるいは、一時はリューシスを実の子同然に可愛がっていた頃の気持ちが戻って来て揺れているのか。

 マクシムは、葡萄酒を一口飲んでから注意するように言った。

「しかし、今回の神がかり的な戦振りからもわかるように、リューシス殿下はやはり恐ろしいお方です。あのお方が生きている限り、決して安心はできませぬぞ」
「そうね。戦に関しては恐ろしいわ。でもあの子は、これ以上はもう反抗しない、アンラードに戻るつもりはなく、第一皇子と言う身分もいらない、ルード・シェン山にずっといると言ったんでしょう。それなら、もう十分だわ。バルタザールの皇位継承は揺るがない。もうこれ以上、あの子を追い詰めなくてもよいでしょう」

 と言って、ナターシアは立ち上がると、マクシムを見下ろした。

「それと、私たちももう終わりにしましょう」
「関係を終わらせると?」

 マクシムは表情を変えずに言った。

「ええ。流石に、最近では何となく感付いて来ている者が出始めて来ているわ。これ以上は、私にとっても、あなたにとっても、危険でしょう。もう、終わるべきよ」
「…………」

 マクシムは、無言で夜光杯の葡萄酒を一口飲んだ。
 ナターシアは、頭巾を被ると、扉へと歩いて行った。
 その背へ、マクシムが冷やかな声を浴びせた。

「良いのですか? 私は、貴方様の隠している秘密を知っておりますぞ」

 ナターシアは、ぴくりと背を震わせ、足を止めた。
 だが、振り返らぬままに答えた。

「何のことかしら?」
「ご自身が一番ご存知でしょう」

 マクシムは冷笑した。
 ナターシアはゆっくりと振り返ったが、その顔は冷静であった。

「脅すつもり? それを世間に暴露すると言うのかしら?」
「すると言ったらどうなさいますか?」
「いいわよ。してごらんなさい。でも、それをしたらどうなるかしらね。あなたの地位も危うくなるんじゃなくて?」

 ナターシアもまた冷やかに笑いながら答えた。
 そして、皇后は扉を開けて、マクシムの部屋を出て行った。

 マクシムは、夜光杯の葡萄酒を一気に煽ってから、苛立たしげに溜息をついた。


 宰相宮を出たナターシアは、こっそりと自室に戻ると、寝間着に着替えてから、天蓋のついたベッドの上に座り、何か考えていた。
 と、そこへ、外から慌ただしい足音が聞こえて来たかと思うと、すぐに侍女の声が聞こえた。

「皇后様、起きていらっしゃいますか?」
「ええ。どうしたの?」

 ナターシアが返答すると、侍女は狼狽したような声で答えた。

「陛下の御容態が急変しまして……」

 ナターシアは顔色を変えて立ち上がった。

「すぐに行くわ」

 そして、ナターシアは寝間着の上に紫色の絹の羽織を掛けて、イジャスラフの寝室へと小走りに急いだ。

 イジャスラフの寝室では、すでに侍医のリョウエン・フーランと、一人の助手がいて、ベッドの上で寝ているイジャスラフを診ていた。
 イジャスラフは、ベッドの上で穏やかな寝息を立てていた。
 リョウエンらは、入って来たナターシアに気付くと、立ち上がって一礼した。

「陛下は? 大丈夫なの?」

 ナターシアはベッドの方まで歩いて行きながら、青い顔で訊いた。

「先程、急に苦しまれて、咳も酷くなりましてな……しかし、頓服薬をお飲みいただいたら、すぐに治まりまして、今ようやく寝付いたところです」

 リョウエンが答えると、ナターシアは安堵の吐息をついた。

「そう。なら良かったわ。原因は?」
「心の臓も脈も問題ございませんでしたので、恐らく今回のルード・シェン山行きの疲れが一気に出ただけでしょう。心配はいりませぬ」
「それなら安心ね」

 ナターシアは、イジャスラフの顔を覗き込んだ。顔色は良くないが、穏やかな寝息を立てていた。

「もう大丈夫かと思いますが、念の為に私の助手を一晩、ここに置いておきましょう」

 リョウエンはそう言ったが、ナターシアは少し考えてから言った。

「いえ、それはいいわ。今晩は私が付き添いましょう」
「え? しかし、それでは皇后様のお身体も参ってしまいますぞ」
「いいえ。リョウエン、あなたたちも今回のルード・シェン山行きで疲れが溜まっているでしょう。何かあった時にはあなたたちが頼りなのです。今晩は私に任せて、あなたたちもまずはゆっくり休んで疲れを取りなさい。私なら一晩ぐらいは大丈夫です。それに、私は陛下の妻ですから」

 ナターシアは美しい微笑みを見せた。

「そうですか。では、お言葉に甘えさせていただきます。薬は置いていきますので」

 そして、リョウエンと助手は部屋を退出して行った。
 イジャスラフの寝室には、イジャスラフとナターシアの二人だけとなった。
 ナターシアは、しばしイジャスラフの寝顔を見つめると、天蓋の幕を払って中に入った。
 そして、そっとベッドの中に入り、イジャスラフの隣に横たわった。
 すると、イジャスラフが急に咳き込んだ。

「大丈夫ですか?」

 ナターシアは、慌ててイジャスラフの胸のあたりを優しく擦った。
 イジャスラフは、咳き込んでいてもまだ眠りの中にあるのであろう。目を閉じたまま、うなされるような声を上げた。

「陛下、しっかり」
「大丈夫だ……うむ……そのまま……予の側にいてくれ……」

 イジャスラフは目を閉じたまま、朦朧とした様子で答えた。

「ええ。今晩は、私が側におりますよ。ご安心ください」

 ナターシアは微笑み、優しく囁いた。
 だが、次にイジャスラフが目を閉じたまま呟いた言葉。

「うむ、リュディナ……」

 その瞬間、ナターシアの顔が白く凍り付いた。
 ナターシアは何も言えず、呆然としていた。
 だが、やがてその瞳が急速に色を失って行き、悪の女神のような表情となった。



 罪の償いとして、リューシスにはローヤン帝国東部、ドーファン県の県城での一般職勤めが課された。

「まあ、半年間、ちょっと頑張って来るか」

 リューシスは、覚悟を決めて命を受けた。
 だが、アンラードから来た使者は、続けて驚きの言葉を告げた。

「皇帝陛下は、リューシスパール殿下に、勤めは一週間だけで良い、と申されました」
「何? 半年のはずじゃなかったのか?」
「詳しくは聞いておりませぬが、陛下の一存です。一週間だけ、ドーファンで勤めをしたら、その後はすぐにルード・シェン山に戻って開発を急ぐように、とのことです」
「なるほどな」

 イジャスラフは、アンラードに戻ってからすぐに、政務に復帰することを宣言した。
 そして同時に、思ったのであった。この激動の大乱世に、稀有な軍事的才能を持つリューシスを、ドーファンに半年間も置いておくことの時間の無駄さを。
 しかも、証拠は出てこないが、リューシスは無実なのである。
 ならば、リューシスにはルード・シェン山の開発を急がせ、また将帥として戦場に行ってもらう方が良い。
 そしてイジャスラフは、難色を示したマクシムを抑え込んで、この決定を強行した。
 これは、膨張させてしまったマクシムの権力を削る決意の表れでもあった。

 こうして、リューシスはたった一週間だけドーファンに赴任し、退屈な職務を終えた後、すぐにルード・シェン山に戻った。
 
 そして、リューシスには身も心も平穏な日々が訪れることとなった。
 信頼できる仲間たちと共に、目標に向かって力を尽くすことができる、穏やかで充実した毎日。
 恐らく十数年ぶりの、心から安心して楽しく暮らせる時間を享受できることになったのだった。

 だが――

 天は、時代は、ローヤンの神々は、この欠点の多いおかしな天才を放っておかなかった。
 この男は、天がローヤン帝国を救わせる為だけに、地上へ遣わした魂なのかも知れなかった。

 およそ半年後、リューシスを突然の悲劇が襲うことになる。

 そしてリューシスは、今度は自ら、再び戦乱の渦へと向かって行くのであった。


 紅き龍棲の玉座、前編了――



 ※すぐに後編始まりますよ! 引き続き宜しくお願いいたします!
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